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Debris circus

Debris circus

頭の中に散らばっていた破片(debris)を改めて文章に書き起こし、オリジナルブログ小説としてサーカスの舞台に上げていきます。読みにくいものもありますが、お暇な時にパラパラとめくる感じででも読んでいただけたら嬉しいです……

 

白火盗 第四話

scriviamo!

 時刻は明け六つ、朝はまだ始まったばかりだ。秋は盛りを向かえ、空は青く高く、からりとした爽やかな風があたりを覆っている。
 その爽やかな風の中、一人の女が奉行所の裏玄関をくぐった。
 町娘姿で、歳は十七・八といったところだろうか。白い肌、涼やかな目元、利発そうな眼、すっきりと通った鼻筋、それにきちんと閉じられた唇は、彼女をかなりの美人に押し上げている。ただ、その唇の少し上がった口角だけは凛々しさを通り越し、かえって艶めかしさを感じさせるのだが、多くの人はそれすらもいい女の条件に加えてしまうのだろう。
 裏玄関は、この中で働いている女中たちなども出入りする場所ではあるが、外部の者が気安く入れる場所ではない。そのわりに女は気楽な様子で進んでいく。
 奉行所は役宅なので奉行は妻子とともに奉行所の建物内の奥に暮らしている。女はその奥向きの奉行の私邸の方へ入っていった。
 女が玄関で来訪を告げ、現れた女中に挨拶をすると、女中は別段不審な顔もせず慣れた様子で女の先に立って廊下を進み始めた。女はすぐ後ろに付き従ったが、そこから先は終始無言だった。いくつもの廊下の角を折れた先、襖の前で女中が足を止めた。
 二人はその前できちんと正座をすると、女中が襖の向こうに声をかけた。
「お連れ致しました」
「入りなさい」男の声が応えて言った。威厳のある年配の男の声だった。
 女中は襖を少し開けると後ろに下がり、女が進み出た。そして両手をついて頭を下げると「おはようございます」と挨拶をした。
「おはよう」広い座敷の向こう側、縁側に立って庭を眺めていた老人が、女に顔を向けながらそう応えた。
「ご機嫌麗しゅう。御前様」
「そうかしこまらずともよい新之助、中へ入りなさい」
 女は座敷の中に入り、座敷の隅で正座になると咎めるように言った。「この格好の時は“おしん”でございますよ。御前様」
「そうであったな」老人はそう言いながら女の顔をしげしげと眺めた。「そなたは確か二十五であったろう?だがその姿であればとてもその歳には見えぬ。どうみてもどこからみてもどこぞの裕福な商家の、しかも世間知らずのお嬢様だ」
「うぶな娘に見えましょう?男から見ればどうとでもなりそうな・・・」
「そう見えるな」
「ある程度お年を召したお方には、この姿が使える場面も多いのですよ。今朝のように・・・」おしんは微笑んだ。
「そうであろうな。いや確かに使えそうだ」老人は照れくさそうに首の後ろを掻いた。
「では新之助ではなく、そのおしんに尋ねよう。その後変わりはないか?」女中が襖を閉じて退がるのを待って老人が尋ねた。
「この通り息災にしております」おしんと呼ばれた女は軽く胸元を叩いた。
「お前のことを聞いておるのではない。お前が息災なのは見れば分かる」
「わたしのことは案じてくださらないのですね」うつむき加減の顔から利発そうな眼が老人の様子を窺う。
「そう突っかかるな。命を掛けるよう命じた者をいちいち案じておってはこの身がもたんのでな」
「もぉ!御前様ったら」おしんはあきれ顔をしたが、老人の申し訳ない然とした顔を見て噴き出した。そしてそれを隠すように顔を伏せ、再び顔を上げた時には神妙な顔を取り戻していた。あたりは静まりかえっている。この屋敷に人は大勢い居るはずだが、人払いは済んでいるようだ。
「播州屋の件でございますが・・・」おしんはゆっくりと喋り始めた。
 播州屋は開府から暖簾のつながる商家で、高い品質の商品と手堅く筋の良い商売で取引先や顧客からも高い評価を受けている蝋燭問屋だ。
「ふむ・・・」
「ご禁制の阿片に手を染めている証拠はいまだ手に入りません」
「お前にしては手間取っておると思っておったのだ」老人は顔のしわを深くした。
「面目次第もございません」おしんの声音が低くなった。
「その播州屋にだが、お前はどうやって入り込んでおるのだ?その格好のままで入り込んでおるわけではないのだろう?」
「はい、もちろんでございます」おしんは声音を戻して言った。「播州屋は小売りをせず、長年にわたる上顧客だけを相手に商売しています。それゆえ商いの量のわりに店構えは小さく、奉公人も少ないのです」
「ふむ・・・」
「奉公人の出入りも少ないので、奉公人同士の繋がりも濃く、縁も所縁も無い者が簡単に入り込めるところではございません」
「なるほど・・・」
「わたしは通いの飯炊き女として台所に入り込んでいます。男衆として入り込めばもっと深く食い込めるのでしょうが、まったくその余地がありませんでしたので、これが精一杯でございました」おしんは残念そうに俯いたが、声は満更でもなさそうだ。はなから男衆として入り込むつもりは無かったのかもしれない。
「お前が飯炊き女・・・」老人は興味深そうにおしんを見た。
「こんな感じでございますよ」おしんが顔を上げる。
 涼やかな目元や利発そうな眼は姿を消していた。いかにも真面目な正直者の、それでいて少々鈍そうな、命じられたままにこまめに働きそうな飯炊き女の顔がそこにあった。着ているものとはそぐわないが、それなりの着物に着替えればこんな女が台所にいても少しもおかしくはない。余計な詮索などせず、真面目に勤めそうだ。
「ほほう・・・」老人は感嘆の声を上げた。「まこと、うまく化けるものだな」
「・・・でございましょう?」そう言うおしんの顔はもう元に戻り、利発そうな眼で老人の様子を見上げている。「御前様はそんなわたしに目を付けられたのではありませんか?」少し上がった口角が挑発的だ。
「まあ、そうではあるのだが、それだけではないのだぞ」
「あら?他にまだなにかありましたか?」おしんは嬉しそうに訊いた。
「ま・・・よいではないか。そんなことより播州屋の続きを聞こう」老人はまた首の後ろを掻きながら話題を変えた。
「はい」おしんは神妙な顔に戻ると続けた。「台所には首尾よく入り込んだものの、これといった情報は漏れてまいりませんでした。奉公人の結束は思った以上に固く、通いの飯炊き女などに店の中の情報を何かしらの形で漏らすなどということは全くありませんでした」
「ふむ・・・」
「わたしはただの臨時雇いのお手伝いのような立場ですから、奉公人たちは必要な用事だけを言いつけ、無駄話などは一切しませんでした。奉公人たちの間には厳しい掟があって、それを裏切ればきつい罰を受ける・・・そんな様子でございました。毎日接する台所の女中たちでさえそうでしたから、わたしはそれ以上どこへ食い込むことも出来ず、唯々毎日飯を炊くだけだったのでございます」
「たとえは悪いが、奉公人たちはまるで盗賊のように掟で固く繋がっているのだな。で・・・?お前のことだ、単にそんな言い訳だけをつらつらと言い立てに来たわけではあるまい?」今度は老人が下から覗き込む。
「順々にお話しいたしますから、そんなに急かさないでくださいませ」おしんは少し間を入れた。お茶でも欲しそうに襖の方に目をやったが、この場ではそんな気の利いたものが出ることはない。
「そんなこき使われるだけの退屈な日々に動きがあったのは、夏の盛りのことでございました」おしんは続ける。
「というと?」
「勝手口に岡っ引きが訪ねて来たのでございます。大番頭の定吉を訪ねて来たのですが、そこから一番奥の座敷に上がり込み、主人の庄兵衛も一緒に三人で何やら長いこと話し込んでいる様子でございました」
「岡っ引きが?名前は何という?」
「平三と・・・」
「平三か・・・」老人には心当たりがありそうだった。
「白目の多い疑り深そうな小さな目、人を小ばかにしたように歪んだ唇、嫌味を含んだかすれた声」思い出しているのかおしんは首をすくめた。「どれを取っても平三は人には好かれそうには見えませんでした。ですから、うんと愛想良く接してみることにいたしました」
「お前に愛想よくされたら平三はさぞ驚いたであろうな?」
「最初は不愛想でつっけんどんに扱われたのですが、何回も通ううちに少しずつ馴染んで、しまいには上手く乗ってまいりました」おしんはいかにもひょうきん者という顔をした。
「その顔にやられたか?」老人は薄笑いを浮かべた。
「はい、昨日のことでございます。なかなかしぶとかったのですが・・・」おしんも薄笑いで答える。「幸いその時は台所にはわたし一人でしたので、これは誰にも言っちゃぁいけないよという断り付きでようやく聞き出すことができました。それはなかなか興味深い話でございました」おしんはじらすように言葉を止める。
「どのような話かな?」老人は先を促した。
「それはこの播州屋に盗人が入ったという話でございました」
「盗人?いつのことだ?播州屋からはそんな届は出ておらぬが?」
「はい、夏の始めのことで、播州屋はその事を伏せているようなのです」
「平三もグルということか?」
「今でも届が出ていないのならそういうことになりましょう。播州屋主人の庄兵衛が懇意にしていた平三に秘密裏に調べるよう依頼したようなのです」
「ふむ、もう少し詳しく聞かせてくれ」老人は身を乗り出した。
「短い時間でのことですから詳しくは訊けなかったのですが、どうも千両箱がいくつか無くなっているようなのです」
「千両箱が・・・しかしあそこの蔵の錠前は最新式でめったなことでは破れないと聞いておるぞ。主人の庄兵衛もおおいに自慢しておったようだし・・・。おしん、播州屋に押し込み強盗が入った様子はないのか?」押し込み強盗ならどんな錠前でも壊してしまえば開けることができる。また脅して開けさせることもできるだろう。老人はその可能性を訊いているのだ。
「錠前は無傷できちんとかかっていたそうですし、平三から聞いた話からも押し込みの線はないと思います」
「錠前は無傷か、うむ・・・ということは、どうやったのかわからぬが、誰かがその最新式の錠前を無傷で開けて、しかも誰にも気づかれずに千両箱を持ち出したということになる」
「そうでございますね。盗人ながらたいした腕前だと思います」
「何者であでろうな?」
「わかりません。ただ・・・」
「ただ?」
「平三の話では、千両箱の一つの中に絡み合った二匹の百足が描かれた真っ赤な木の札が入っていたということでございます」
「百足か・・・」老人は顎に手を当てて思案気に顔を上に向けていたが「でかしたぞおしん、なかなか興味深い話であった」と、おしんの方へ顔を戻した。
「ありがとうございます」おしんは両手をついて頭を下げた。
「たしかに播州屋は評判の良い商家だ。だが聞こえてくる様々な情報をつなぎ合わせれば、それは世間一般から見える表側の顔だ。裏ではあくどい商売を手広く行い、ご禁制の阿片にまで手を染めておるらしい。播州屋はそんな悪事で得た膨大な富を代々に渡って金蔵に溜め込んでおるのだ」
「・・・」おしんは静かに頷いた。
「のお、おしん」
「はい」
「盗賊は死罪だ。だが、そんなところから鮮やかに盗み出し、播州屋をうろたえさせたその手腕、褒めてやっても良いような気がするな」
「御前様・・・」
「ははは・・・冗談だ。冗談。だがその金蔵、中を改めてみたい気はしないか?おしん」
「はい、大判小判はもちろんですが、さぞかし大切な書付なども入っているかもしれませんね」
「うむ・・・」老人は考えにふける。
 二人の間に暫しの沈黙が流れる。
「增井新之助!」突然老人は目を見開き、声を強くして呼びかけた。
「御前様、おしんでございます」奉行はわざと自分の本名を呼んでいる。新之助はそう思った。
「おお、そうであった。ではおしん」
「はい、御前様」
「飯炊きや雑用でさぞ忙しかろうが、今の仕事に加えてその百足とやら、調べてみてはくれぬか」
「かしこまりました」おしんは両手をきっちりと畳について、深々と頭を下げた。


2024.02.26
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テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

白火盗 第五話

scriviamo!

「指物師の文吉さんはどちらか、ご存じありませんか?」容姿を見極めようと返事が遅れる千之助に、女はもう一度繰り返した。
「文吉ならもう半月も前に家移りしたぞ」千之助はようよう返事を返した。
「家移り?半月前に?」女は不安気に尋ねた。
「そうだ。急な話だったんだが・・・。文吉に大事な用でもあるのか?」
「急?文吉はどんな様子でしたか?」千之助の質問を無視して女は訊いた。
 千之助は文吉が消えた時の様子をかいつまんで話したが、話が岡っ引きの平三の部分まで来ると女は「岡っ引き?」と後ろを振った。そして丹念に店の路地を見回して誰もいないことを確かめると、そのまま土間に入り込んで障子を閉めた。
「何かまずいことでもあるのか?」
「・・・・・・」千之助の質問は女に無視された。
 今日はこの季節にしては過ごしやすい小春日和だった。だがさすがに日没が近づくと気温が下がり始め、それにつれてあたりも暗くなってゆく。千之助は部屋へ上がって行灯に火を入れた。
 薄明かりの中、千之助は女の方を振り返った。「とにかく文吉は半月前に消えてしまった。田舎へ帰って身を固めるという話だったが、田舎がどこかも聞いていない。まったくの行方知れずだ」
「行方知れず・・・」女は繰り返した。
「それでお前はどうする?」
「岡っ引きの名前はなんと?」やはり千之助の質問は無視される。
「平三といったかな」
「平三・・・」心当たりがあるのか女は顔を上げた。
「そうだ。今思い出したんだが、その時奴に木札を見せられた。たしか、真っ赤に塗られた薄い木の札で、真っ黒な百足が描かれていた・・・」
「・・・・・・」女は思案気に顎に指を当てる。
「その札になにか心当たりでもあるのか?」
「・・・・・・」四度、千之助の質問は無視された。女は顎に指を当てたままじっとしている。
 秋の日は釣瓶落としだ。行燈の灯りを残してあたりはさらに暗さを増してゆく。
「暗くなってしまったな。お前はどこまで帰るんだ?なんなら送っていこうか?」どうしたものかと迷いながら千之助は言った。
「ここに宿を借ります」女は独り言のように呟いた。
「それはまずい。私は独り身だ。独り身の男だ。そんなところに若い女を泊めるわけには・・・」千之助の言葉が止まった。女が顔の向きを変え、瞳がちょうど行燈の灯りが差し込む位置に入ったのだ。それは赤くはなかった。行燈の灯りを反射する女の瞳はごく普通の黒っぽい色だ。いや、じっと見つめると少し薄めの茶色のようにも見える。
 赤くない・・・千之助は言葉を続けることができなくなった。
 女は視線を外すと背中の笠と風呂敷包を下ろしほっかむりを取った。中から真っ白な髪がふわりと広がる。真っ直ぐなおかっぱの髪は行燈の光を反射して一本一本が銀糸のように輝いた。
 見つめる千之助を無視して女は背中を向け、上がり框に腰を下ろして草鞋を脱いだ。千之助は草鞋を脱ぐ女の手先を凝視する。
 それは遠目には本物の手のように見える。だがよく見ると明らかに作り物だった。指の関節の一つ一つに可動接手の造作が見え、それがまるで妖術で操られてでもいるかのように滑らかに動いて草鞋の紐を解いていく。足もまた明らかに作り物だ。指や足首などの関節にやはり可動接手が見えている。女は草鞋を脱ぎ終え部屋に上がった。そのまましっかりとした足取りで部屋を横切り、壁際まで行くと優雅にひざを曲げ正座姿になった。その動きは生身の手足となんら遜色はない。千之助は声をかけるのも忘れてその一部始終に見とれていた。
 女は部屋の隅に落ち着くとそのまま動かなくなった。
 女は黙って座っている。作り物の足だから正座を長く続けても痺れることはないのだろう。どうでもいいようなことばかりが頭に浮かんでくるが、このままではらちが明かない。千之助は女を追い帰すことは諦めた。
「名は何という?」とりあえず千之助は訊いてみた。
「ヒトリ」女は短く答える。
「そうか、やはりヒトリというのがお前の名なのか」
 ヒトリと名乗った女は小さく頷いてから続けた。「お侍様のお名前は?」
「私の名は增井千之助という」つい声がきつくなっていたような気がして千之助は声を和らげた。「このとおりしがない浪人だ」
「マスイ・センノスケ様・・・」ヒトリは千之助の名を小な声で繰り返してから気を取り直したように尋ねた。「では、マスイ様」
「なんだ?」
「マスイ様はさっきあたしの手をじっと見ておられましたね」
「そうだったか?」動揺を悟られないように千之助は答える。
「確かに見ておられました。でも・・・」ヒトリは両手を広げて千之助の前に差し出した。ヒトリの両手の関節はすべて可動接手で繋がれていて、まるでからくり人形のようだ。「・・・これについてなにもお尋ねが無い」
「いやそれは・・・気が付かなかったな・・・」千之助の動揺は言葉に出る。
「マスイ様はあたしについて文吉からどこまで聞いておられるのですか?」言い訳は無視してヒトリは問い詰める。
 ヒトリの勢いに千之助は観念した。「文吉から聞いているのは・・・」少し間をおいて頭の中を整理すると千之助は答えた。「お前が生まれつき手足を欠いていたこと。触らずに物を動かす能力を持っていたこと。文吉が手足をこしらえてお前に与えたこと、そしてお前がその能力を生かしてそれを上手に操ったこと・・・それくらいだ」
 ヒトリは小さく溜息をついた。「文吉はみんな話したんですね。どうしてでしょう」
 千之助はその時の様子を思い出しながら言った。「お前が物の怪のように思われたまんまじゃ寝覚めが悪いと言ってな」
「物の怪?」ヒトリが視線を合わせた時、瞳が一瞬赤く輝いたような気がした。「以前マスイ様にお会いした時、あたしは手足を見せていないはずです。なのになぜあたしがマスイ様に物の怪のように思われるのでしょう」
 瞳が赤く見えたのは幻覚だったのだろうか?今見えている瞳はごく普通の黒っぽいものだ。「いや・・・」千之助は答えに窮した。
「あたしが手足の付け替えをしているのを見ておられたのですね」
「いや・・・その・・・」
「そのあたりの隙間から覗いてですか?」ヒトリは仕切りの壁を指さした。
「う・・・」千之助は既視感を覚えながらやはり言葉に窮する。
「見たのですね」ヒトリは断定した。
「すまぬ」千之助はただ深く頭を下げた。

 夜は更けている。そろそろ八つの鐘が聞こえる頃合いだ。
 ヒトリは部屋の隅で寝息を立てて眠っている。何処からだかは知らないが、ここまで歩いてきた疲れもあったのだろう。軽く食事を済ませ、寝着を与えて新之助の布団をあてがうとすぐに眠ってしまった。
 新之助は寝る場所を失ったので、ちょうど良い機会だと溜まっていた写本の仕事に取り掛かった。徹夜の仕事ははかどるが次の日に重い疲れが残るような気がして好きではない。だが、横で眠るヒトリから気を逸らせるためにはそれが最適な作業に思われた。実際、写本に集中するとすべての邪念は頭の中から消え去った。文字を追う作業は単純で、写し取る一文字一文字はただの生きる糧にすぎない。だが千之助にとって得るものが無いわけではない。孤独に集中して行うその作業は(写す本の内容が高尚な場合は特に)新之助を孤高の世界へと誘うこともあった。
 今夜も新之助はその孤高の世界に入り込んでいたのだが、そろそろ集中力の限界がきたようだ。新之助は改めて眠るヒトリの方へ目を向けた。
 彼女は顎の上まで掛け布団をきっちり引っ張り上げて眠っている。かろうじて見えている小さめの口は横一文に弾き結ばれ、薄い唇と合わせて勝気な印象だ。すぐ上では小ぶりな鼻が遠慮がちに上を向いている。ほっそりとした頬は薄汚れているが、きれいに洗えば弾力のある真っ白な肌が現れるのだろう。目は閉じられているが、目覚めれば大きな瞳が開くはずだ。色は別にして・・・。その上には前髪に隠された小さな額、そしてその上にはまるで子供のようにオカッパに揃えられた銀糸のように輝く真っ直ぐな髪。千之助が髪をそっと掻き上げると形の良い耳が現れた。恐る恐るそれに触れると彼女の寝息が乱れる。千之助は慌てて手を戻し、ヒトリとの距離を空けた。
「・・・・・・」千之助は思わず呟いた。声にはならなかったが、それはこの時代の男にしてはかなり特異な感想だった。

 千之助が目覚めた時、日はすでに高く上り、部屋は明るくなっていた。あの後、ヒトリを意識から追い出すために写本の仕事に戻ったのだが、いつのまにか寝落ちしたようだ。
 目の前には写本途中の紙が広げられていて、そこには寝落ちする時にできたであろう大きな墨の汚れが居座っている。おまけにすぐ横にはよだれのシミまでが我が物顔で並んでいる。仕事は紙一枚分無駄になったようだ。
 千之助はゆっくりと紙の上から顔を上げた。背中には掛け布団が掛けられている。ヒトリが掛けてくれたのだろう。
「ヒトリ・・・?」部屋の隅に目をやると、そこにはきちんとたたまれた敷き布団が置かれている。千之助は慌てて立ち上がり、そばに寄った。そこに置いてあった着物と風呂敷包、笠が無くなっている。土間を覗くと草鞋も無い。どうやら朝早く出て行ったようだ。千之助はホッとすると同時に残念さがないまぜになった気分を味わった。
 布団の上には貸してやった寝着がきちんと畳んで置かれている。
 千之助は思わず寝着を取り上げてそれを抱きしめた。そしてそのままそれに顔をうずめた。
 陽だまりの匂いがした。

2024.01.26
2024.01.30 細かい表現の見直し(ストーリーに変化はありません)
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テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

「scriviamo! 2024」参加作品発表です。

scriviamo!

今夜発表するのは「白火盗」という江戸の架空の町を舞台とした時代小説の第5話です。
この作品は八少女夕さんの企画「scriviamo! 2024」の参加作品とさせていただきましたが、それを意図して書かれた作品ではありません。
しかも第4話を発表するところを1話飛ばして第5話の発表です。
本来「scriviamo! 」用には単独で読める掌編を予定していて、「白火盗」第4話・第5話を書き上げてから取り掛かる予定だったんです。
ところが「白火盗」第4話の設定に手間取って創作は遅々として進まず、先に第5話を書き上げたものの、4話は停滞したまま。このペースで行ったら掌編を書いている時間は無いぞ!となったのです。
1話から3話までを読んでくださった方が第4話を飛ばして読まれても、物語の流れとしては問題ありませんが、初見の方が単独で読んでいただいても繋がりが見えないかも・・・。
気分屋で怠けもののサキがいけないのです。お許しください。

「scriviamo! 2024」参加作品 白火盗 第五話はこちら
白火盗を最初から読みたい方はこちら
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プロフィール
こんにちは!サーカスへようこそ! 二人の左紀、サキと先が共同でブログを作っています。

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Author:山西 左紀
「山西 左紀について知りたい方はこちら」
プロフィール画像について(“みまさか”さんに特別にお願いして使用許可をいただいた「ミクダヨーさん」です。)

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アスタリスクのパイロット、アルマク。キルケさんに書いていただいたイラストです。
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左からシスカ、サヤカ(コトリ)、サエ。ユズキさんにイラストを描いていただきました~。掌編「1006(ラグランジア)」の1シーンです。
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