Debris circus

Debris circus

頭の中に散らばっていた破片(debris)を改めて文章に書き起こし、オリジナルブログ小説としてサーカスの舞台に上げていきます。読みにくいものもありますが、お暇な時にパラパラとめくる感じででも読んでいただけたら嬉しいです……

 

物書きエスのきまぐれプロット(14)

stella white12 月刊Stella10月号 参加作品

「へえ!もう3年も続けてるんだ」コハクは感心したように言った。
「へへ、10月1日で4年目に突入だよ」エスは少し自慢げに答え、マグカップにコーヒーを注いでコハクに手渡した。大きめのマグカップには、ちょっと有名な猫のイラストがプリントされている。
「ありがとう」コハクはカップを受け取ると、そのまま口を付けた。
 エスは自分のカップにもコーヒーを半分ほど注ぐと、砂糖とミルクを入れてから口を付けた。
「でも飽きっぽいエスがよく3年も続いたね。誉めてあげる」コハクは少し横柄な口調で言った。
「書いてみて小説ってとても刺激的だってわかったからね。もう少しは続けられるかなぁ」エスは下から見上げるスタンスだ。
「書いていて楽しいの?」
「そうだね。コハクと一緒にバルセロナまで行っちゃったりしてね。作っていく過程は苦しい事が多いけど、出来上がってくるとわくわくするよ。感想を書いてくれる人もいたりして、それがまた嬉しいんだなぁ」
「そう、それは良かった。でも苦しいからって、あまり押し入れに籠らないようにしてね。いちいち面倒だから」コハクは突き放すように言う。
「いつもお付き合いいただいてありがとうございます」エスは真面目くさって答えた。
「で、私が呼ばれたのはその3周年の企画か何かのため?」
「さすがコハク、理解が早い」
「またそれ?茶化すのはいいからさっさと出しなさいよ」
 エスはパソコンをスリープから復帰させた。コハクはカップを持ったままパソコンの前へ移動する。
「これなんだけど、読んでみてくれる?」エスはファイルを開いた。
 画面を覗いてすぐにコハクが訊いた。「ダブルスリップスイッチって?」
「あ、これ?鉄道の分岐装置のことなんだけど、面倒くさいからあとでウィキで調べて」
「なにそれ。まぁいいわ。この横にあるファイルはまたイタリア語?」
「そう、この作品は3周年記念なんだけど、マリアの企画の参加作品でもあるんだ。[お題で遊べる? 2014]って言うんだけど、タイトルに地名が入っていることが条件なんだ」
「それで三宮が入ってるのね」
「さすがコハク、理解が早い」
 コハクは何か言おうとしたがエスが言葉を被せた。
「それにこの物語は舞台が三宮でないと成立しないの。ウチの感性ではね」
「また断片なの?」
「さあ……ちょっとした実験だから」エスは答えをはぐらかす。
 コハクは諦めてテキストを目で追い始めた。


三宮D.S.S(ダブルスリップスイッチ)

 車窓には工場や住宅が立ち並んだ風景が流れていく。
 阪神淡路大震災の被害からの復興で随分とこぎれいな建物が増えたが、ごちゃごちゃと込み入った町並みは相変わらずだ。
 姫路行の直通特急は高架から地表に降りて掘割の中を進み、岩屋を通過すると地下に入り込んだ。窓の外は真っ暗になった。

 ゆるり(緩)はこの電車の沿線にある女子大学に通っている。入学を機に高校時代は短かった髪を少しだけ伸ばして、少し色合いが明るくなるように染めた。妹と同室の生活を抜け出したくて、センタープール前駅近くにある叔母が経営する喫茶店の2階のワンルームを格安で貸してもらった。そして少しでも自立したくて、空いた時間には叔母の店でアルバイトもさせてもらっている。来年になればゼミや就活で忙しくなるのだろうが、今はまだ自由の身だ。
「ゆるりちゃん、これをあげるから見に行っておいでよ」数日前カウンターでネルに慎重にお湯を注いでいた ゆるり に叔母が声をかけてきた。
「お客さんが一緒に行こうゆうて誘ってくれはってんけど、わたしらこんなん全然興味あらへんから」と紙切れを差し出す。
 ゆるり は怪訝な顔をしてその紙切れを受け取ると表を向けた。それは神戸市立博物館で開催されている[なんたら……の少女]とかいう超有名な絵画が目玉の展覧会のチケットだった。
「ウチもこんなん、全然興味ないし」ゆるり は当惑気味に答えた。
「そんなことゆわんと、せっかくもろたのにもったいないやん。若者は感性を磨かなあかん。な!そうやろ……」延々と続く説得に ゆるり は耐えられなかった。
 それで今日は朝から三宮へ向かっているのだ。

 地下を走る電車の窓が少しの間明るくなった。電車は春日野道を通過している。三宮に到着する旨のアナウンスが流れ始めた。
 ロングシートに腰掛けてタブレットを覗き込んでいた ゆるり は、画面をホームポジションに戻してポケットの中へしまった。



 岡本を出た電車が六甲山麓を駆け上がると、立ち並ぶマンションの間に青い海が見え始める。秋の空気は澄みきっていて、大阪湾の向こうの山々にまでクッキリとピントが合う。悠太は吊り手にぶら下がりながらのんびりと車窓を眺めていた。
 新開地行きの特急は坂を上りきると徐々にスピードを落とし、御影のエスカーブへと侵入した。

 悠太は逆瀬川の山手にある自宅から、電車で10分ほどの所にある大学へ通っている。自宅から通うよりも、どこかアパートでも借りて1人暮らしがしたかったのだが、合格した大学がすぐそこだったし、いざそうなるとわざわざアパートを借りて1人暮らしを始めるよりも、上げ膳据え膳の住み慣れた自分の家から通う方がずっと気楽に思えたのだ。
「兄貴、どこ行くの?」階段を降りて玄関に向かう悠太に妹の真澄が声をかけてきた。
「ちょっと三宮まで出てくる」
「デートォ?」真澄が顔を覗き込んでくる。
「からかうなよ。絵を見てくるんや」
「あぁ、今だったらマウリッツハイス?」
「そう」悠太はうるさそうに答える。
「1人でぇ?」真澄はまた顔を覗き込んでくる。
「うるさいな!悪いか!」
「ええけど。でもたまには兄貴にそんな気配を感じてみたいなあ。ま、精々頑張って!」真澄は手を振りながら背中を向けると階段を上っていった。
 悠太はやれやれという顔で靴を履くと玄関を出た。
 というわけで今日は朝から三宮へ向かっているのだ。

 JRと平行して高架の上を走りながら電車は春日野道を通過していく。三宮に到着する旨のアナウンスが流れ始めた。
 悠太は速度を落として三ノ宮駅に侵入するJRの新快速を眺めながら、電車が駅に着くのを待っていた。



 電車はホームに停車しドアを開いた。地下にあるこの駅は天井の緩やかなアーチが昭和の雰囲気を醸し出していて、ゆるり のお気に入りだ。もっとも彼女は平成の生まれなので、昭和の雰囲気など全く知らないのだが。
 ゆるり はそっと上を見上げてから元町方向にホームを歩いて階段を上がり、改札を抜けて“さんちか”と呼ばれる地下街に出た。ショーウィンドウに目をやりながらパン屋の前を通り抜け、店内を覗きながらメインストリートを浜側に向かって下り(本当に坂道になっているのだ)、スイーツの店の角で少し立ち止まってから右に折れてサンプラザの地下へ抜け、そしてエスカレーターで地上に出た。
 ゆるり は帰りにはどこでランチをして、どこでショッピングをして帰ろうかなどと思案しながら、センター街を西に歩いてから左折し、京町筋を浜側に向かって歩きだした。



 悠太は電車を降りてホームに立つと駅を覆っている鉄骨のアーチを見上げた。 彼は昭和初期に完成したこのリベット留めの天井が気に入っていて、ここに来るたびにそうしてしまうのだった。
 少しの間立ち止まって人が減るのを待ってから、悠太は新開地方向にホームを歩きエスカレーターを下り改札を出た。行燈風の照明の下をエスカレーターで下ると、JRのガード下の商店街へと入り、そのままガードを浜側へ抜けた。そして横断歩道を渡ってプラザの間を通り、センター街から京町筋交差点へ出た。悠太は帰りにセンター街の大型書店で文庫本でも物色しようなどと考えながら、京町筋を浜側に向かって歩きだした。



 電車の中で調べたところでは市立博物館はこの京町筋を浜側に暫く下ったところにあるはずだ。ゆるり は目的地の位置をもう一度確認することにしてポケットのタブレットを取り出した。爽やかな秋の空気の中を気持ちよく歩いていて、博物館を通り過ぎてしまったような気がしてきたのだ。



 悠太は京町筋を浜側に向かって歩きながら、同じ方向に歩く人を気にしていた。結構な人数の人が歩いている。『みんな展覧会に行くんかなあ。さすがに人気あんなぁ』歩いている人は今日が平日ということもあるのだろう、年配の女性が多かったが悠太はその中に若い女性の後ろ姿を見つけていた。短めの髪とやや派手目の色使いの身なりは、秋の街には少し不似合なように思えたが、背筋を伸ばしたリズミカルな歩調にはとても好感が持てた。
 彼女は少し立ち止まるとポケットから携帯端末を取り出した。
 その時、ポケットから何かがヒラリと落ちた。



 ゆるり は歩きながらタブレットを操作した。地図を開き、現在地を表示させると博物館はもう少し先だった。
 その時、呼び出し音が鳴り始めた。表示を確認すると叔母からだ。『おばちゃん?なんの用事やろ?』ゆるり は端末を耳に当てた。



 悠太は少し急ぎ足になってヒラリと落ちた物に近づいた。彼女は携帯端末を操作しながら先を進んでいく。悠太はそれをそっと拾った。
 展覧会のチケットだった。



「はい」ゆるり は電話に出た。
「ちゃんと行ってる?」叔母の声が聞こえる。
「え?なんで?」
「ゆるりちゃん、ほんまに展覧会行ったんかなおもて、確認の電話」
「ちゃんと向かってるって。疑り深いなぁ」
「せやかて、わたしやったら絶対他行ってるもん」
「おばちゃんとは違います。証拠にちゃんとパンフ持って帰るから待っとって、じゃぁね」ゆるり は強制的に通話を終えた。



 悠太は追いかけて声をかけようとしたが、彼女は続けて電話に出ているようだ。
 彼女も博物館に向かっているんだろう、悠太はそう解釈してそのままの速度で彼女を追った。



 ゆるり は博物館の入口に到着した。
 チケット売り場にはもう相当な人数が並んでいる。
『前売りがあってよかった』ゆるり はポケットに手を突っ込んだ。
『あれ?』ゆるり の手に触れるのはタブレットだけだ。
 慌ててタブレットを取り出してポケットの中を確認する。



 雄太は博物館の入口に到着した。
 彼女は入口の前でポケットをゴソゴソやっている。
 雄太は自分のチケットをポケットの中に確認すると、さっき拾ったチケットを手に持った。



『しまったぁ。さっき落としたんやろか?』ゆるり が慌てて歩いてきた京町筋を振り返ると、すぐ後ろには青年が立っている。顔にはまったく見覚えがない。
 ゆるり は、まじまじと青年の顔を見つめた。
「あの、さっきこれ、落としましたよ」青年はそんな ゆるり に、まるで幼児に接するようにゆっくりと微笑むとチケットを差し出した。
 ゆるり は小さく頭を下げ、チケットを受け取った。
 驚いてまごまごしているうちに、青年は入口を入っていく。
 ゆるり も慌てて入口を入った。

2014.10.01
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「Debris circus」は3周年を迎えました。

 2014年10月1日、当ブログ「Debris circus」は3周年を迎えました。4年目に突入です。
 地味~に小説をUPしていくことがメインのブログですが、今後ともよろしくお願いいたします。

ということで3周年の記念作品を書きました。この作品は夕さんのところの[お題で遊べる? 2014]企画の参加作品でもあります。
よろしかったら下のリンクからどうぞ。

[物書きエスのきまぐれプロット(14)]

山西 左記(先&サキ)
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 小雪の混じる冷たい風の中、フェリーはナイウェルマの港を出港した。対岸にある大陸の都市トゥグルまでトゥンギル海峡(イルマ名:アサト海峡)を横切るのに約1時間の船旅だ。
 ヨウコは客室へは向かわず車両甲板に積まれたSUVの中に居た。後部座席に深めに腰かけ、タブレットを忙しく操作している。他に10台ほどの車やトラックが積み込まれていたが、乗っていた者はエンジンを止めた車内の寒さに耐えきれず、みんな客室に上がっている。ナギノの姿も見当たらない。
 かれこれ20分ほどたったころナギノが大きな紙容器を2つ持って戻ってきた。
「寒いでしょう?ほら、これ……」ナギノは手に持っていた2つの紙容器を並べて後部座席に差し出した。
「ありがとう」ヨウコはそのうちの1つを受け取ると、冷え切った両方の手のひらでそれを包み込み「あったかい」と言った。蓋を開けると香ばしい匂いと湯気が立ち上る。ナギノが口を付けてスープをすするのをチラリとみてから、ヨウコはそっと口を付けた。
「うん、美味しい」
「この辺で昔から食べられている貝と山羊の乳で作った具だくさんのスープですよ」ナギノはプラスチックのスプーンを渡しながら説明を加えた。そして「ヨウコが飲んでくれたということは信用してもらったということかな?」と笑った。
「このスープについては大丈夫と判断しただけのことよ」ヨウコはスープに息を吹きかけてからゆっくりと味わい、スプーンで貝の身をすくって口に入れた。
「何か新しい展開はありましたか?」ナギノが訊いた。
「誘拐した組織から要求が出たわ」ヨウコは何気ない様子で答えた。
「どこの組織ですか?目的は?」ナギノは顔を上げた。
「テロリストを利することは行わない。要求は一切飲まない……ということらしくて、だから発表しないって。イルマ・ベクレラ両政府は口をそろえてそう言ってるわ」
「それはまた……仲のいいことで」ナギノは口元を緩めた。そして続けた「で、人質については?」
「人質の安全については万全を期すそうよ」ヨウコの答えはそっけない。
「万全ですか?ということは今のところ人質の安全は確保されているということかな?」ナギノは一瞬ヨウコの顔を確認した。
「私の見立てでは人質は安全よ。対応さえ誤らなければテロ組織が人質に手を出すことは無いわ」
「根拠は?」
「情報ソースは非公開よ。部長からは教えるよう要求されたけどね。誰が教えてやるもんですか」
「それで、部長からは何と?」ナギノは尋ねた。
「公式の発表とはだいぶ違う情報が来ているわ」
「気になりますね」
「犯行声明という形を取ってはいるんだけど、声明はイルマとベクレラ政府に対してだけ出された物で、マスコミやNETには何も出ていない。そして両政府はテロ組織の声明や要求に関しては一切反応しないという方針だけを発表したの。だから声明の内容や要求については、限られた政府関係者しか知ることはできないわ。それに主張や要求を表に出さないのはテロ組織の意向でもあるようね」
「テロ組織が自分の主張や要求をマスコミやNETに出さない。そんなことって考えにくいですね」
「テロ組織の方から政府が要求を飲みやすい環境を整えている、という可能性もあるわ」
「政府が要求に屈してもわからないようにですか?」ナギノの顔に皮肉を込めた笑いが浮かぶ。
「そう、政府が要求を飲んでも誰も気がつかない、あるいは気づいても無視を決め込む、それに近いことが起こっているのかも」
「要求は何ですか?」
「もう見当は付いているんだけど、はっきりしたら教えてあげるわ」ヨウコはナギノを見つめ意味深な笑みを作った。
 ナギノがたじろぐのを見てからヨウコは言葉を継いだ。「イルマ政府・ベクレラ政府そして要求してきた組織の間で色々と話し合われたんでしょうね。そしてパイオニア号の失敗で一気に動いたのかも、超法規的措置ってやつかしら?」
「あのグロイカのパイオニア号ですら失敗したんでしょう?彼等の実績は相当なもんだと聞いています。他に彼等と同等かそれを上回る実績を持っているのは、マザー2チームだけじゃないですか。両政府ともWR2潜水艇のパイロットが必要で、そのためには要求を呑むことも吝かではない。それに要求を飲んでもそれが表沙汰になりにくい。ならばやってみる価値はある。そう判断したということですか。ま、たとえそうだとしても、私は与えられた指示を粛々とこなしていく、それだけなんですけどね」
「あの狸部長、私に新しい指示は何も出していないのよ。私はマザー2の爆破事件の調査に動いているということになっているわ」
「狸ですか?確かに」ナギノは紙容器にスプーンをグイと突っ込んだ。
「でも安心なさい。そんなにハードな仕事にはならないでしょうから」ヨウコはスープを口に運びながら言った。
「そう願いたいですね」ナギノもスプーンを忙しく動かした。
 フェリーは順調にトゥグル港を目指して進んでいた。
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シスカ45話をUPします。

ヨウコは臨時の相棒ナギノと共に大陸へ渡ります。
今回は、車を10台ほど積載できる小型のオンボロフェリーでの展開で、フェリーに積まれたSUVの中での会話がメインになります。
少々退屈でしょうが短い船旅(本文中では大陸の都市トゥグルまで1時間程度)の一部分、お付き合いただければ嬉しいです。

我慢して読んでいただければ、事件の内幕らしきものが徐々に見えてくるかもしれません。

今回はそんなところです。
そして次回はシスカの登場です。

よろしければこちらから……。

シスカ45話

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 窓ガラスの向こうには極寒の世界が拡がっている。(いったいマイナス何度なんだろう)シスカは窓辺に両肘を付いて二重ガラスの向こうを眺めながら考えていた。
 向かいに拡がる森林が見えているのはほんの一時のことで、すぐに強い風に細かい雪が舞い上げられて視界を奪われる。そしてその白い空気の塊に翻弄される小さな小屋は軋むような音を立てる。シスカは不安になって天井を見上げた。
「シスカ!×××?」からかうように幼い声が聞こえ、その声の主ルラが背中に抱きついてくる。シスカはルラが何を言ったのかわからなかったが、小さく笑ってルラの柔らかい金髪に手を伸ばした。
 ルラはさらに何か言ってからケラケラと笑いながらシスカの手を離れ、母親のもとへと駆け去った。
 部屋の隅には大きなまきストーブがあってその前ではルラの母親、ニナが布を広げて細かい作業をしている。ニナの話によると、それは胸や裾等の位置に細かい模様の入った伝統的な上着で、この模様をきれいに入れられることが一人前の女性の条件だということだった。ニナはルラにその作業を見せたり、時には手伝わせたりしながら細かく針先を布に差し込んでいく。しばらくして根を詰める部分を通過してから「シスカ。ルラは“怖いの?”って訊いたのよ」ニナは流暢なイルマ語で言った。
「え、そう……とても怖いな。ルラ、シスカ、×××」シスカは自分の胸に手を当てながらルラに向かってゆっくりと言った。
 ルラは頷くとまたシスカの後ろにやってきて、優しく喋りながらシスカの背中に手を当てた。
「この子、大丈夫だよって言ってるのよ」ニナは微笑みながら通訳してくれた。
『ありがとう』シスカは覚えたての言葉を使ってルラに礼を言った。
『どういたしまして』彼女はシスカにもわかるようにゆっくりと話すとニナのもとへ戻った。そしてニナの耳元に口を近づけると何事かを囁いた。
 それをじっと聞いていたニナは大笑いした。シスカは不思議に思いながら、ルラはキョトンとした顔でニナを見つめている。
「ごめんなさい。笑ったりして」ニナは笑いを何とか納めるとシスカに謝った。続けてルラにも頭をそっと撫でながら謝った。
「だって、この子、シスカは冬の精霊なのになぜ怖がるのって聞いたのよ。あなたの格好は、私たちの古い言い伝えにある冬の精霊の化身と同じなの」
「僕が冬の精霊?」シスカは不思議そうな顔をした。
「真っ白な髪と氷のようなブルーの瞳、そしてブリザードを操って私たちの命を奪いに来る……そう言われているわ。だから冬の精霊がブリザードを怖がるのはおかしいと思ったのね」
「そんな。僕は冬の精霊じゃないってちゃんとルラに言ってください」
「大丈夫よ。ルラはあなたを冬の精霊だと思っているわけじゃないわ。ただブリザードを操る冬の精霊と同じ格好をしたあなたが、ブリザードを怖がっているのが可笑しいのよ」ニナはそう言ってからルラに説明を始めた。

 シスカがこの小屋で目覚めたとき、最初に見えたのはこの小屋の天井だった。そして次が覗き込んでくるこの小屋の主のひげ面、次がニナの心配そうな顔、その次がおずおずと覗き込んでくるルラの顔、そして最後が窓の外のブリザードだった。それ以来この小屋は白い空気の塊に翻弄され続けている。シスカはここへ来てからずっとこの窓の外を眺めて過ごしていた。一刻も早くみんなのところに戻りたかったのだ。
 シスカはここがどこなのか、いつここを出てみんなのところに帰ることができるのか何度も質問を繰り返していたが、この小屋の主から返ってくる答えはいつも同じだった。「ここがどこか説明しても君にとって意味がない。そしていつ帰れるかは神様だけがご存じだ……今外へ出たら2時間で死んでしまうぞ」
 この小屋の主カズィムはこの辺境の小屋に、妻のニナと一人娘のルラと住んで、狩りを生業にしている。冬の間は天候が荒れることが多いので、カズィムも家族と一緒に小屋の中で過す時間が多い。だが、いま彼はこの小屋に居ない。昨日一旦ブリザードが弱まった隙をついて車で出かけて行ったのだ。シスカが見ている限りここは乾燥していて、雪は降るがたくさん積もることは無い。そのため自動車で走ることは十分に可能だった。車を使う上で怖いのは、積雪よりも地面に薄く積もった雪が強い風で舞い上がる地吹雪、ブリザードだと思われた。
(いつ神様がここを出てもいいと言ってくれるのだろう)シスカは神を信じてはいなかったが、この厳しい自然環境はシスカを自然とそういう気持ちにさせた。

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シスカ46話をUPします。

暫くぶりのシスカの登場です。
シスカがどうしているのか、どうしていたのか今回出てきます。
平和ですね。今のところ……。

よろしければこちらから……。

シスカ46話

この回は今週水曜日位のUPを予定していたのですが、少し事情が変わりまして今日UPしてしまいます。
というのは、予定に無かった新作の発表をする事になったからです。
八少女夕さんの50000HIT記念企画への参加作品が書き上がっています。今校正と推敲をかけていますが、そうですねUPは近々ということで。
お題に実際のまたは架空の地名が入っていれば、あとはなんでもいいというルールなのですが、変わり者のサキがどんな作品を夕さんのために書いたのか、お楽しみに!
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ニライカナイ

 ウチはいつもの時間に電車をおりると、大勢の人に紛れてエスカレーターを下り中央改札を出た。そしてそのまま人の流れに乗って足早に2階層を下り、地下鉄の駅に向かう。ウチはその地下鉄で1つ目の駅近にあるオンボロビルの小さな薬問屋に勤めていて、今は出勤の途中なんだ。
 小説やドラマでは主人公は高層のオフィスビルにある商社かなんかに勤めているものなんだけど、そうは問屋が卸さない。ウチが問屋に勤めているだけにね!
 そしてこういうシーンで主人公以外の人々は、無個性に只黙々と歩く灰色の群像として描かれることが多いんだけど、ウチはそれもちょっと違っているように思う。
 音楽を聴きながら歩いている奴もいるし、隣の同僚?と噂話に余念のないOL風、時計を見ながら駆けていくスーツ姿の男性、笑い声で盛り上がる女子高生、スマホで忙しいフリーター風、携帯で話しながら邪魔な中年男性、様々な人々がそれぞれの個性で自分の目的に向かって進んでいる。ウチはそういうふうに感じるんだ。
 おっと!今も後ろからぶつかってきた奴がいる。ほらね!少しも無個性な灰色の群像なんかじゃ無い。
『どいつだ?』ウチは衝撃の主を睨みつけた。後ろからだけど……。
 そいつは女性だった。今の時期には暑いんじゃないかと思える薄汚れた深緑の作業用ジャンバーとジーンズ姿で、見方によってはホームレスにも見えるんだけど、肩の所まである黒髪、あまり高くない背丈、そしてなんとなくその所作から、ウチはそいつが女性だと判断したんだ。
 何の挨拶も無しに、まったく何も起こらなかったかのように、それこそ灰色の影のように進んでいく彼女に腹を立てて、ウチはスピードを上げた。
 だって、無性に腹が立つ事ってあるじゃない。
 彼女は地下街に並んだ画材屋や銀行の前を進み、ウチが乗ろうとしている地下鉄の改札口を入っていった。あれ?ICカードを持ってるんだ。ホームレスというわけでもないらしい。ウチもそのままIC定期をピッとやって改札を入った。階段を降りて南行きのホームに着くと周りを見渡して彼女の姿を探す。
 居た。ホームの後ろの壁を背に立っている。
 ウチは彼女の顔を見てやろうと思って近づいた。
 彼女は後姿から受ける印象とは全然違っていて、ギョッとするくらい端正な顔をしている。豊かな黒髪と小麦色の肌、形の良い小さめの口、大きな目、そしてそこにはまり込んだ大きな黒い瞳で思い詰めたようにこちらを、ウチの方をじっと見つめてくる。若い女だ。少女と呼んでもいいくらいだ。
 その時、辺りが暗くなった。『どうしたんだろう?貧血?なったことないのに』ウチは不安な気持ちになって歩みを止めた。

「大丈夫だよ。何もしない。落ち着いて……」気がついた時、ウチはこう言葉を発しながら立っていた。ウチは今の状況に極めて自然に、そして冷静に対応している自分に驚きながら「大丈夫だよ。落ち着いて……」ともう一度繰り返した。
 ウチの前には対爆スーツに身を固めた機動隊員が2人、透明な対爆シールドを構えている。後ろには同じ装備に身を固めたもっと大勢の機動隊員が控えているはずだが、後ろを振り返る余裕は無い。
 シールドの向こうには壁を背にあの子が立っている。薄汚れた深緑の作業用ジャンバーとジーンズのあの子だ。
「そのまま、ゆっくり両手を頭の上に組みなさい」ウチは相手を警戒させないように落ち着いた声で言った。
 大きな黒い瞳が思い詰めたようにこちらを、ウチの方をじっと見つめてくる。全身が細かく震えているのが分かる。
 彼女は壁に当てていた両手を体の前方に持ってきて、それからゆっくりと上げ始めた。
 記憶が流れ込んでくる。『なぜウチはここに居るんだろう?』そう考えている自分の意識とは全く別のところで、ウチは事態を把握し始めていた。
 彼女は人間爆弾だ。自分たちのテリトリーの窮状を訴えるために、この大都市の最も混雑する地下鉄駅のホームで自爆しようとしている。
 この都市でもニューテリトリーの住民は極端な貧困に喘いでいて、そこでは1日を100円以下で暮らす者が70%以上を占めているのだ。彼等の訴えは国や府には届かず、時としてこういう形で表面に現れてくる。しかし税収が不足する昨今、行政は有権者の生活を守るのに精一杯で、とても彼等にまで手が回らない。治安の良さを世界に誇ったこの国もグローバル化の波に飲み込まれ、治安レベルまでグローバル化するありさまだった。
 季節外れの彼女の深緑の作業用ジャンバーの下には、大量の爆弾が巻き付けられているのだろう。彼女は爆発に大勢の乗客を巻き込むためにここに居たのだが、信管が上手く作動しなかったようだ。マゴマゴするうちに不信感を抱いた公安官に声をかけられてパニックに陥り『自爆する』と口走ってホームの壁に張り付いたのだ。ホームの乗客はなんとか避難を完了し、ホームに差し掛かっていた電車も次の駅までそのまま走行させた。あとは彼女をなんとか保護する事ができれば……。
「そう……ゆっくりと」ウチは笑みすら浮かべて声をかけ続ける。
 彼女は頭の上に両手を浮かせた。何も持っていない。
 きっと携帯で信号を受けて作動する信管が、何らかの不具合で作動しなかったのだ。
 となると手動の信管があるはずだ。彼女にそれを操作されないようにしなければ、ウチは彼女の手の動きに注意しながらゆっくりとシールドの前に出た。
 ふっと彼女の瞳の光が静止し、頬の筋肉に力が入る様子が目に入った。
「エッ?」ウチは伏せようとホームに体を投げ出した。
 次の瞬間視界は真っ白になり、激しい衝撃が来た。
 そして世界は暗転した。

「大丈夫ですか?」男性の声が聞こえる。
『あれ?どうしたんだろう?』少しずつ意識が流れ込んでくる。
 あまりにも現実とかけ離れた体験はウチの神経を相当蝕んだらしい、激い思考の混乱と頭痛の中、どういう訳かどこかのドラマのような出会いを想像しながら、ウチはゆっくりと目を開けた。
『なんや、オッチャンやんか』ウチは思わず関西弁で突っ込んだ。
「貧血のようですね。救急車を呼びましたからそのまま横になっていてください」駅員の制服をまとった彼は(オッチャンだが)ウチの顔を覗き込む、ウチはちいさく頷きながら『貧血なんかなったことないんだけど』そう考える。少しずつ混乱は収束し、精神は正常を取り戻し始める。
 ウチはあの子の立っていた壁の方へ目をやった。
 そこには只いつもの壁だけがあって、その前を人々が思い思いに通り過ぎて行く。横たわっているウチに関心を示して、こちらの様子を伺っていく人もいるが、大半は無関心を装いそのまま通り過ぎる。
『あ、会社、遅刻だ』
 何が起こったのかウチには分らないまま、大都会の日常は再び流れ始めた。

2014.10.13
夕さん50000HITおめでとう。
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八少女夕さんのブログ50000HIT記念企画への参加作品できました~。

八少女夕さんはご自分のブログ「scribo ergo sum」が50000HITを向かえたのを記念して、お題に実際の、または架空の地名が入っていれば、あとはなんでもいいというルールで、作品タイトルのリクエストを受け付けておられます。
--50000Hitの御礼とリクエストについて--
けれども、この企画がちょっとユニークなのは、リクエストをした方も、夕さんに出したお題と同じタイトルで何かを書いて自分のブログで発表しなければならないということです。
お題を出してから自分の作品をUPするまでの期限は無いのですが、いつかはちゃんと発表しなければなりません。
夕さんの事ですから、かなり短い時間で書き上げてこられそうです。
そこでサキは一計を案じました。先に書いてしまえ!ということでコメントで参加表明だけをして地名を含むタイトルを考え、イソイソと書き始めたのです。
そして書き上がりましたのでここにUPさせていただきます。

改めまして、夕さん50000HITおめでとうございます。

以下ネタバレもありそうなので、できれば下のリンクから先に作品をどうぞ。
お題のタイトルは「ニライカナイ」です。

「ニライカナイ」

ニライカナイ、ウィキによると“遥か遠い東の海の彼方、または海の底、地の底にあるとされる異界”とされています。
主人公は、サキの書く作品ではよくあるのですが女性です。
小さな薬問屋に勤めるごく普通のOLのはずです。
ヒロインの一人称でお話しは進みますから名前は出てきません。
自分の事を“ウチ”と表現しますが喋っているのは関西弁ではありません。
1カ所だけ関西弁がありますが、これは混乱した彼女が下手なくせにわざわざ使っています。
舞台の都市はいったいどこなのか?読者の方におまかせにしました。もちろんモデルはありますが、気がつく方がいらっしゃるでしょうか?
共演の人物も女性ですが、彼女にも名前は与えられていません。
それに外観以外、彼女については全く何もわかりません。
この2人は2つの世界をまたいで行動し、ヒロインは不思議な体験をします。
わかりにくい構成になってしまったとは思いますが、もうこのままにします。
あの子の大きな黒な瞳は何を訴えたかったのでしょう?いや、絶望の中、ただ命じられたことを素直に実行しようとしただけなのかもしれません。
携帯で信号を受けて作動する信管だなんて、誰かが純粋な心を持つ彼女を利用したのでしょう。
悲しいことです。
最近の世の中、サキは重い物ばかりを感じています。
そういう空気がこんな作品を書かせたのですが、せっかくのお祝いなのに、やっぱりサキは空気が読めませんね。
書いてから気がつくありさまです。
すみません。

夕さん、変わり者のサキはこんな変化球を投げてしまいました。
どのように打ち返されますか?
とっても楽しみにしています。

あ?「ニライカナイ」は地名ですよね?いまさら反則って言われても困るんですけど……

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 夜が明けて暫く経つが、気温が上がる気配は無い。GPSの指し示す位置を目指してダートに踏み込んでもう16時間が経過している。ヨウコは丘の稜線上にSUVを止めさせると、窓を少し開け双眼鏡をかざした。ヨウコの吐き出す息は一気に白くなった。
 幾つか向こうの丘の上には大きな建物がポツンと建っている。公共事業の予算獲得の意味づけのような形で、無計画に建設された保養施設の建物だが採算が合わず、今では無人のまま放棄されているはずだ。ヨウコは注意深くその建物を観察するとナギノの方を向いた。
「いいみたいね」
「え!するといよいよ我々が突入というわけですか?」ナギノは間髪を入れずに答えた。
「まさか」ヨウコはナギノの意見を一笑に付した。
「じゃぁ。どうするんですか?」
「部長に連絡を入れるのよ。あとはベクレラ陸軍特殊部隊の仕事になる」ヨウコは窓を閉じた。
「特殊部隊……ですか?そりゃまた大ごとだな」
「そう大ごとなの。ここ数日、ネラブ半島の動きは速かったでしょう?」
「ネラヴェラですか?そうですね。大統領令の失効があってから選挙管理委員会の発足、議員と知事の同日選挙日程発表、立候補受け付けと矢継ぎ早に動きがありましたからね。しかしほとんどメディアの報道はありませんねぇ。情報を確認するのにも一苦労ですよ」ナギノはため息をついた。
「テロリストのねらい通りなのかもしれないわね。西域にとっては東の果てベクレラのちいさな地域の自治権が認められただけの内政問題だし、東域にとっては遙かな西の果ての話だし、私も最近まで知らなかったんだから。それに経緯をほじくり返すと後ろめたい国や報道機関も多いのよ。大戦前の微妙な時期、裏で動いたり無視を決め込んだ国や報道機関はたくさんあったからね。ベクレラでは報道管制が効いてるし、ほとんど報道はないわ。ましてや今回の誘拐テロと絡める報道なんて、それこそ皆無ね。誰もテロリストの要求とネラブ半島の自治回復を関連付けないし、たとえ関連付ける者がいても彼らはだんまりを決め込んでしまう」
「やれやれ……。とても今の時代とは思えませんね」
「あら、あなたの口からそんな発言があるとは驚きだわ」
「私も一時はジャーナリストとして鳴らしましたからね。今じゃしがない便利屋ですけど」ナギノは口を歪めた。
「とにかく今回の誘拐テロとの関連性を薄めるために、ベクレラ陸軍特殊部隊の行動が必要なのよ。テロリストの要求なんか突っぱねて、人質を実力で奪還したっていう実績がね。だから私たちの情報でも伝え方によってはベクレラは飛び付いて来るって訳」ヨウコは笑顔を向けた。
「恥も外聞もないですね」
「ふふ」ヨウコは嘲るように笑うと続けた「いま観察したところではあそこにはもう人質しかいないわ。もう少し接近して確認してから部長には連絡を入れましょう。特殊部隊としては何とも気の抜けた任務になるんでしょうけど、精々派手にやってもらうわ。ナギノ、車を出して!」
 ナギノはますます呆れた顔になって両手を肩の上で拡げた。

 *

 アツコはベッドの上で目を覚した。
 何時だろう?時計は取り上げられたままだ。周りはもう充分に明るくなっているので、夜が明けてから暫くは経っているのだろう。そもそも今日が何日かすら分らなくなっている。
 妙に静かだ。いや、今までが騒がしかったわけではない。これまでも人の声が聞こえたことはなく、食事が提供される際にワゴンを押して来る者以外、人を見ることはなかった。だが、昨日眠るまでは四六時中人の気配を感じ取ることができた。自分を見張る人間の気配をだ。
 しかし今は窓の外を流れる空気の気配は感じ取れても、昨日までの張り詰めた緊張感が感じ取れない。アツコはベッドの上にそっと身を起こして周りの気配に神経を集中した。やはり何も感じない。彼女は今度はゆっくりと起き上がりベッドから足を降ろした。
 拘束されてからは夜も普段着のまま眠るようにしていた。愛用のパジャマも、テーブルの上に置かれた自分のバッグの中に入ってはいたが、とてもそれを着てくつろぐ気にはなれなかったのだ。
 息が白い。昨日まで効いていた暖房も停止しているのだろう。寒気が肌を刺す。アツコはブーツを履き、テーブルに近づくと放り出してあった防寒着を急いで着込んだ。

 最初ドアに近づこうとしたアツコは振り返って窓に近づいた。一瞬雲間から漏れ出た太陽光線に、何かがキラリと反射したのだ。そして窓の外、幾つも連なる丘の方をじっと眺めると遙か彼方、丘の稜線に1台の自動車がポツンと止まっているのが見える。それだけのことだったが、いままで窓から見える風景に人工物が見えたことはなかった。そのことに彼女は妙な安心感を憶え、体をドアの方へ向けた。そしてゆっくりとドアに近づいた。
 ドアの前で一旦立ち止まり耳を澄ます。気配がないのを確認するとアツコはドアノブにそっと手をかけ、ゆっくりとノブを回す。カチリ、ラッチの外れる音がした。昨日まで開かなかったドアは内に向けて開き、彼女は廊下側にそっと顔を出した。
 廊下の両側には客室のドアがずらりと並んでいる。照明は消えていて、ところどころに灯る非常灯の光だけで、真鍮色のドアノブの列がぼんやりと浮かび上がっている。アツコは廊下へ足を踏み出した。
 エレベーターの前を通るが、もちろん動いている様子は無い。アツコはそのまま非常口へと向かった。非常口の扉を開けると中は階段室だったが、非常灯だけは灯っているので中は明るかった。アツコはもう一度気配が無いことを確認すると階段を降りて行った。
 フロントにもそこに続く広いロビーにも人影は無かった。照明は非常用の物を残してすべて消えている。暖房も止まっているので吐き出す息が白くなって登っていく。アツコはフロントのカウンターの中に入り込み、その奥に有る従業員用のドアを開け中を覗き込んだ。
「シマ」
 突然背後から声をかけられ、アツコは飛び上がるほど驚いた。一瞬間を置いて反射的に振り返る。
 そこには見覚えのある顔があった。
「艇長……」アツコは惚けたような声を出した。
「無事だったんだな。良かった」キリュウの声は安心のせいか震えている。
「艇長!」アツコは今度ははっきりとそういうとキリュウの胸に飛び込んだ。
 キリュウは棒のように突っ立っていたが、やがて遠慮がちにアツコの肩に手を回した。

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シスカ47話をUPします。

42話でコバヤシ、46話でシスカが今どうしているかを書いてきましたが、今回は残る2人の人質の様子が分かってきます。
ヨウコもナギノと共に登場します。
少しずつ事態は動きを見せますがまだ解決までは程遠い感じですね。
よろしければ下のリンクからどうぞ。

シスカ47話

ここのところ、シスカのUPにつれての校正と推敲を“先”とやり取りしながら行っていますが、並行して新しい作品も書いています。
また変な物語ですが上手く仕上がったら近日中に発表する予定です。
読みきりですが、何しろ特に変わった物を集めた「太陽風症候群」のシリーズなので自分で読んでいても変な作品だと思います。
ですから仕上がらない可能性も残っています。
仕上がらなかったらスルーということで、よろしくお願いしますね。
一応、お楽しみに!と言っておきます。

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 *

 昼食の客が出て行ってしまうと19番は夕食の時間まで休憩に入る。
 いつものように一通りの片づけを終わらせるとサエは厨房に声をかけた。
「かあさん、休憩にしたら」
 厨房を覗きこむがシユはいない。
「サエ!ちょっと!ちょっと!!」奥の部屋から聞こえる声に、サエはあわてて奥の部屋へ駆け込んだ。
「どうしたの?」
 シユはテレビを指さしてボリュームを上げた。画面では記者がレポートを読み上げている。
「……2人はトゥグルの病院に収容されましたが、共に外傷は無く元気だと言うことです。繰り返します。先ほどベクレラ政府報道官は、ベクレラ軍特殊部隊が人質2人、キリュウ・シュウサクさん、そしてシマ・アツコさんを救出したと発表しました。2人はトゥグルの病院に収容されましたが、共に外傷は無く元気だと言うことです」
 サエの顔は驚きと喜び、そして不安をないまぜにしたような顔になった。
「報道官は引き続き残り2人の人質の解放に向けて全力を上げると述べました。今回2人の人質の救出に成功したベクレラは残る2人、コバヤシ・レンさんとキタハラ・シスカさんの解放にも自信を見せており、報道官は質疑の中で『間もなく問題は解決すると確信している』とコメントしました。この発言で、近々残り二人の人質の解放も有るのではないか、との見方も広がっている一方、人質全員の解放が一気に行われなかったこと自体を心配する声も聞かれます。以上ベクレラ外務省報道センターからお伝えしました」
「ありがとうございました。続いて外交省からの報告です」
 画面は切り替わり、記者が喋り始めた。
「……よかった」サエはようやくそう言うとホウと息を吐いた。「アツコは無事だったんだ」
「外交省でも確認したみたいだから間違いなさそうだね」シユは画面を見ながら言った。
「でもシスカについては何も情報が無いのかしら?」サエが不安げに言葉を繋ぐ。
「心配だけど、待つしか無いのかね?」
「そうだね……」サエは今回の救出が2人だけに終わり、シスカとコバヤシが残されたことに大きな不安を感じていたが、今はそれを口に出さないようにしようと思った。アツコの無事は飛び上がるほど嬉しかったが、シスカの無事を確認するまでは素直に喜ぶ気にはなれなかった。それは救出されたアツコにとっても同じだろうとサエは思った。

 *

 バン!!!
 コントロールルームのドアが勢いよく開いた。
「みんな!ニュースを見たか?」クラモチの声がコントロールツームに響き渡る。全員がクラモチの方を振り返ったが誰からも発言は無い。
「ええ!見ましたよ」イシダが代表して静かに答えた。
「2人の体調次第だが、作業再開の準備を急いでくれ」
「リーダー」イシダはクラモチの顔を見た。「すでに準備は万端ですよ。だいたいそうしておけって指示したのは、リーダーじゃないですか」
「そうか。さすが俺だな。ちゃんと指示していたか」クラモチはニヤリとした。充分にわかってはいたが、確認しておきたかったのだ。
「はい、いつでも出発できます」イシダが答え、コントロールルームの全員がクラモチを見つめて指示を待っている。
「ふむ。後は待つだけだな」クラモチは少しの間思案してから「今からDシフトにする。少し鋭気を養ってくれ。そして奴らの合流が決まり次第、すぐに出発だ」
「オオ~!」全員が雄たけびをあげ、Dシフトの当直を残してドヤドヤと部屋から出て行った。シフトから外れた者は自室で自由に過ごすのだ。本来なら上陸許可のあるEシフトを選択したかったのだが、拘束された4人全員の無事が確認されたわけでもない上、この後の作業のことを考えると完全に開放してしまうことはできなかった。もっとも、ここオルガでは上陸しても行動は制限され、どこへも行けないのだが。
 クラモチは思いをめぐらせながら、この制限を無視したヨウコの行動を思い出していた。(ヨウコ、2人の解放はお前の仕業か?ただ者じゃぁ無いとは思っていたが、お前はいったい何者だ……)
「リーダー、全部署のシフト変更終わりました」物思いにふけっていたクラモチにイシダが報告した。
 クラモチは一瞬で現実に戻ると「ご苦労。コバヤシが居ない分お前に負担がかかるが、よろしく頼むぞ」そう言ってイシダの肩をポンと叩いた。
「はい。でも心配ですね。コバヤシはもちろんですが、俺はシスカの方も心配です。あまり詳しくは聞かせてもらってないですが、シスカは精神的に問題を抱えているんですよね。この異常な状況が悪い方向へ働かなければいいんですけどね……」
「そうだな。潜水艇の乗組員が先に解放されるってことは、油漏れを止めてもいいというサインなんだろうが、そのサポートをする人間をまだ返してもらえないってのも、こっちとしては甚だ迷惑なことだな」クラモチはわざわざこういう言い方をした。
 わかっていますよ。イシダはそういう目をしてクラモチを見上げた。

 *

 AW289は巡航を続けている。
 隣のコ・パイロット席は空席だ。キタハラはチラリとその席に目をやってから前方に視線を戻した。間もなく目的地のトゥグルだ。後ろの席では船医のワタナベが黙って座っている。1人で操縦しているキタハラに配慮してか、今日はいつものようなたちの悪い冗談も飛ばさない。
 キタハラはグロー語でベクレラの管制官に呼びかけ、指定のヘリポートに接近していく。トゥグルも始めてのヘリポートなので計器飛行と有視界飛行を組み合わせ、管制官の誘導で慎重に進入していく。いつもならコ・パイロット席のシスカが位置確認や交信を担当して適切な指示をくれるのだが、今日は自分1人で全ての作業をこなさなければならない。キタハラはシスカの能力の高さを嫌と言うほど思い知った。やがて前方にトゥグルの町並みが拡がり始め、その外れに大きな建物が見えてきた。
「あれが病院だな」キタハラは確認するように呟くと、機首をそちらへ向けた。
 建物の前は大きな広場になっていて、その中央にヘリポートのマークが描かれている。AW289はいつものように右側から回り込み、少しの間ホバリングするとスムーズに着陸した。ローターが回転を落としキタハラがサイドの窓を開けると、誘導員が駆け寄ってきた。
『ドクターはあの車で病棟に向かってくれ。うちのドクターが引き継ぎをしたいそうだ』誘導員はワンボックスカーを指差した。
『わかった』ワタナベはヘリコプターを降りると車に乗りこみ病棟へ向かった。
 誘導員はその様子を確認してからキタハラに向かって『給油するから一旦エンジンを止めてくれ』と言った。
『了解』キタハラは片手を挙げて応えるとエンジンを止めた。静寂が訪れ、やがてトラックの接近する音が聞こえ始めた。小さなタンクローリーだ。これで航空燃料を入れてやろうと言うのだろう。
 キリュウとアツコをトゥグルの病院まで迎えに行くというプランはキタハラから提案した。ただ、AW289の航続距離は長い方だが、さすがにトゥグルまでの往復はきつい。正規の航空燃料の給油を条件に付けてのことだった。
「それだけの長距離、1人で大丈夫なのか?」クラモチはシスカの不在を心配したが「一刻も早く迎えに行ってやりたいんだ」キタハラがそう言うと、それ以上は反対しなかった。それどころかクラモチは通訳のヨウコを欠いた状態で、オルガノ州政府と掛け合い、飛行許可を取ってくれた。そして「こういう時にヨウコが居てくれるとよかったんだが」と言いながら船医のワタナベを同行させてくれた。さらに2人の健康状態に問題が無いという情報が入ると、ただちに事故現場のオルガⅢに向けて出港したのだ。
 給油用のホースが接続され、給油量などの打ち合わせが終わるとタンクローリーのエンジンの唸りが大きくなった。給油が始まったのだ。
 キタハラは作業員に近づくと『いくらになる?』と訊いた。
 作業員は暫く意味を計りかねていたが、キタハラが油の値段を訊いているのだと理解すると『サービスしときますよ。一番高いのを奢ってやれって空港長から言われてますから』と答えた。
『それはごちそうさん』キタハラは作業員の肩をポンと叩いた。

 給油を終えたタンクローリーが戻って行ってから、病院の玄関前にさっきのワンボックスカーが横付けになった。キタハラは視界の隅の出来事に気が付くと、じっとその車を見つめた。
 車は静かに動き始め、ヘリポートに向かって来た。そしてAW289の傍に停車するとスライドドアが開いてワタナベが下りてくる。続いてキリュウ、そしてアツコだ。
「よう!元気そうで何よりだ」キタハラが右手を挙げて2人に声をかける。
「すみません。遠いところまで」キリュウが礼を言った。
「どうなんだ?先生」キタハラはワタナベに質問した。
「2人とも体調に問題は無い。このままマザー2へ向かっても大丈夫だろう」ワタナベが答えた。
「私は問題ありません」キリュウはアツコの方を気遣う様子で言った。
「アツコは大丈夫か?」キタハラはアツコに声をかけた。
 アツコはキリュウの後ろに立っていたが一歩キタハラの方へ踏み出して「先に助かってごめんなさい」と遠慮がちに小さな声で言った。
 キタハラは黙っていたが、小さく何度か頷くと両手を少し広げた。
 アツコは一瞬迷ってキタハラの顔を見上げたが、そのままゆっくりとハグをした。
「謝る必要は無い。無事でよかった」キタハラはアツコの耳元でそう言うと背中をそっと支えた。
「ごめんなさい」アツコはもう一度繰り返したが、キタハラはそれには答えず。「さあ、行こうか。みんなが待ってるぞ」と声をかけた。
「はい」アツコは頷いた。
「マザー2はオルガⅢに到着した頃だ。いきなり作戦開始になるかもしれんが覚悟しといてくれ」キタハラがそう告げると「わかりました」2人は同時に了解した。
 全員が乗り込むとエンジンがスタートした。。ローターのスピードがどんどん速くなり、誘導員と作業員は安全な距離を取って手を振った。キタハラも軽く手を振る。エンジン音はさらに大きくなり機体は上昇を始め、ヘリポートはどんどん小さくなっていった。

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シスカ48話をUPします。

クラモチ登場です。一応キリュウやアツコの体調のことは考慮しているようですが、イケイケドンドンの人ですから待っていることはできないんでしょうね。
キタハラの配慮もあって思ったより早く作戦は再起動します。
キタハラはナオミを亡くした時に味わったか喪失感を再び味わうことが怖いのか、一刻も早くキリュウやアツコだけでも連れて帰ろうとしているようです。
そんな気持ちを知ってか知らずか、アツコの気持ちは揺れています。
シスカはそういう面は鈍感ですから、そんな事とは夢にも思ってませんが……。

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シスカ48話

前回予告した「太陽風症候群」シリーズの新作、ようやく書きあがっています。
現在校正と推敲作業を進めいていますのでしばらくお待ちいただければUPできると思います。
前にも書きましたが、このシリーズは左記の作品の中でも変わった物が多いのです(あ、みんな変な作品ですけれども、特に)。
サキ好みでない設定もあって、これは完成しないかもしれないと思っていましたが、なんとか耐えて結末まで持って行けました。やれやれデス。
そして、これはStella 11月号掲載作品でもあります。

近日公開です。お楽しみに!
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EEL

Stella/s 月刊ステルラ11月号投稿作品


 この国で最大の国際空港・・・この国で最大ということは世界最大ということになる・・・はいつもの朝のラッシュを迎えている。
 世界各地から長時間の飛行を終えて到着する飛行機で、滑走路やスポットはいっぱいだ。
 ひっきりなしに到着した彼女達は大急ぎで乗客を降ろすと、旅の疲れを癒す間もなく出発の準備を整え、昼前にはまた慌ただしく飛び立っていく。
 巨大な鳥が翼を広げたようなターミナルビルの42番スポット。利用するには少し不便な一番端のこのスポットにも、総2階建ての超大型旅客機が翼を休めている。
 この機体も例にもれず昼前には折り返すべく作業に余念がなく、芋虫に群がる蟻のように、機体の回りには何台もの作業車が群れている。接続されたボーディングブリッジからは次々と乗客が降りてくるが、500人ほどの乗客全員が機体から出るのには、やはりそれ相応の時間を必要とする。
 その巨大な機内の2階と1階を繋ぐ階段に並ぶ乗客の中に、1人の女が立っていた。ほっそりとして小柄な彼女は、肩の上でカットした明るい金色の髪を指先でクルクルと捻りながら、大きな鳶色の瞳を不安でいっぱいにして立っている。
 階段の下では1階の乗客と2階の乗客との合流で渋滞が発生していて、2階最後尾のエコノミー席に押し込まれていた彼女は、そこで暫くの間待たされていたのだ。
 彼女を管理する組織では彼女を表す記号として、彼女達の言葉で“ウナギ”を意味する単語が使われる。もちろんそれは本当の名前ではなかったが、本当の名前はこの国に一般の旅行者として入国するときに使用するため、万が一の情報漏れを警戒して通常は使用されることは無かった。彼女が不審な点を持たない一般人であることは何よりも大切なことだったのだ。
 ウナギはようやく機内からボーディングブリッジへ出ると、慣れない様子でロビーまで歩き、ロビーに出たところで一旦立ち止まって辺りを見回した。そして、手元の紙に目をやってから、また人の流れ乗って入国審査場へ向かって歩き始めた。

 ***

 ウナギは貧しい国のダウンタウンに育った。父は早くに亡くなり、母が身を粉にして働いて育ててくれたが、いつまでも苦労をかけたくなくて、義務教育もそこそこに小さな工場に就職した。給料は安かったがどうにか食べていくことはできた。何年かはそんなギリギリの生活が続いたが、それなりにウナギは幸せだった。しかしそれもいつまでも続かなかった。工場が倒産し彼女は路頭に迷うことになったのだ。
 そんな時ウナギは仕事を探しに来ていた職業紹介所でその男と出会った。
「いい仕事があるんだが」男はウナギを見かけると声をかけてきた。
「紹介所の人?」ウナギは男の格好をじっと見つめながら訊いた。男は細いストライプの入ったグレーのスーツを着込み、濃いサングラスをかけていて、いかにも怪しげだった。
「いや、個人的に人を探しているんだ。たまたま来てみたらあんたが居たから声をかけたんだが、もしよかったらウチで働いてみないか?」男はそう言った。
 しかし、ウナギはこれまでにもその男の姿を何度か見かけていたし、時にはそっと観察されていたような気もしていたので、多分自分に当たりをつけていたんだろうと想像した。
「どんな仕事?」ウナギは警戒しながら質問したが、その時はもう大概の仕事を受けてしまう心づもりになっていた。たとえ自分を売ることになっても……。
 もう1ヶ月ほどまともな食事はしていなかったし、一昨日からは水しか飲んでいない。いよいよゴミ箱をあさるか、自分を売る生活が目前に迫っていた。
「そんなに警戒しなくていい」男は軽く笑った。
「介護の仕事だ。余命幾何もない男の世話をしてもらいたいんだ。職場はとある島の入り江に浮かぶ豪華クルーザーの中だ。期間はその男が死ぬまで、多分そんなに長くない。ただしオプションが付いている」男は報酬額を口にした。それは前渡し金と成功報酬で構成されていて、前受金だけでもウナギが10年くらいは楽に暮らせる額だった。当然ながら成功報酬はそれより多かった。苦労をかけた母にも、楽をさせてやれそうだ。
「オプションって?」心を揺り動かされながらウナギは訊いた。
「その男の故郷に亡くなったことの報告に行ってもらうことだ。それも1人でだ。地球の裏側になるから費用は掛かるが、それも全部こっち持ちだ。報告の手紙もこっちで用意する。相手にそれを手渡してもらえばいい。最期の様子なんかを色々と質問をされるだろうが、正直に答えてもらっていい。ただその報告の時期だが、こっちの都合がつくまで向こうで待ってもらうことになる。アパートを手配するから自力で生活してくれ。まぁ、いろんな民族がいるから何とかなる。どうだ?いい条件だろう?」男はウナギの顔を覗きこんだ。
 ウナギは質問しようとしたが男に遮られた。
「おっと、ここからは一切の質問は受け付けない。言われたことをそのまま素直に実行するんだ。それが条件だ。1つでも拒否すれば契約は解消だ」
 介護するのが男性だということはわかったが、なんとも宙をつかむような話だ。でもウナギは質問が受け付けられないことを理解したのでそのまま黙っていた。
「まず、パスポートを取ってもらう。正規のやつをな。多分あんたなら問題なく取れるはずだ。どうだ?手続きを始めるか?その費用ももちろんこっち持ちだが、始めちまったらこの仕事を受けてくれたと解釈する。もう逃げられねえぞ」凄みを効かせて男が言った。
 ウナギは暫く逡巡してから始めは小さく、続いて大きく頷いた。
 前受金を受け取ったら、とりあえずの生活資金を残して母の元へ送ってしまおう……ウナギは漠然とそう考えていた。そうしておいた方が良いような予感がしていたのだ。

 職場はその男が言っていた通り、どこか知らない島の入り江に停泊したクルーザーだった。虚偽があったとすれば、それはクルーザーがお世辞にも豪華とは言えなかったことぐらいだ。
 降り注ぐ太陽やその位置、そして穏やかな気候からは、クルーザーが比較的緯度の低い場所に停泊していることが知れたが、そんなことがウナギに分かるはずも無かった。
 ただここへ来るまでに国境を陸路で超えたし、今居るクルーザーとは別のクルーザーで長い時間航海したので、ずいぶん遠いところまで来たのだということはさすがのウナギにも理解できていた。
 クルーザーを横付けにしてウナギを乗船させると、男はキッチンやトイレの使い方、介護用品の在処などを簡単に説明してから「要介護人はこの部屋の中だ。しっかり面倒を見てやってくれ」と言った。
「それから、ほれ!」男は携帯電話を放ってよこした。
 ウナギが怪訝そうな顔をして見つめると「その、なんだ、依頼した仕事が終わったら、それで連絡をくれ。拾いに来てやる。その通話ボタンを押せば繋がるようになっているからな。そうだ、その赤いのだ。言っておくが他には使えないからな。なにか問題が起った時も、それで連絡をくれ。出来るだけは対応する。以上だ」それだけ言うと男はウナギを1人残して逃げるように帰って行った。
 ウナギは心細げに去ってゆくクルーザーを見つめていたが、やがて諦めて自分が置かれた環境の観察を始めた。
 クルーザーは入り江に泊まっていて200メートルほど泳げば岸にたどり着けた。しかし島は岩場と緑に覆われている他には何も無く、無人島のように思えた。それに何よりもウナギは泳ぎを知らなかった。
 操舵室にも入ってみたが、キーが無いと何も出来ないようだったので諦めた。
 あちこちを見聞してから、最後にウナギは例の部屋のドアを開けた。

 ベッドに横たわっていたのは若い男だった。やせ衰えた老人を想像していたウナギにとってそれは予想外だった。自分より年上に見えるが、見かけよりもっと若いのかもしれない。ひょっとすると同い年位かも……ウナギはそんなことを考えながら、ベッドに横たわる彼に寄り添っていた。
 彼は衰弱してベッドに横たわっているのでは無かった。彼の中身は赤ん坊そのものだったのだ。
 1人で放っておくと機嫌のいい時は寝息を立てて眠っている。だが何か気に障ることがあると目を覚まして泣きわめく、排泄の様子を確かめて排泄だった場合はおむつを交換する。
 それでおとなしくならなかったら、用意されている流動食を温めてスプーンで一口ずつ与える。おなかが空いたのが原因だった場合は、それでおとなしくなって食事に専念する。そしてお腹がいっぱいになればそのまま眠る。
 それでもなかった場合はなかなか泣き止まないので、ウナギはどうすればいいのかわからず途方に暮れた。何度かそれを繰り返すうちに添い寝をすればおとなしくなることを発見し、ウナギはそうするようになった。
 だがまだ問題は解決しなかった。今度は彼はウナギの乳房をまさぐり始めたのだ。ウナギは驚いたが、彼の気の済むようにさせることにした。そうさせている方がおとなしかったからだ。

 2週間が過ぎた。彼は今ウナギの乳首をくわえてチューチューと音を立てている。彼は日に日に弱っていった。動作も緩慢になり、立てる声も弱々しくなった。
 しかしウナギは彼はただ単に弱っているのではなく、生まれた瞬間まで時間を遡っているのではないかと考え始めていた。ここにやって来たときはまだ彼に意思のようなものを感じることができていたが、今は微かに本能のようなものを感じるだけになっていたからだ。
 ひょっとして、と思いついて乳首をくわえさせてみると効果はてきめんだった。無心に吸い付き、そして安心して眠るようになった。
 ウナギは乳首を吸われて首筋の後ろにしびれのような感覚を覚え、乳首は硬くなった。さらに不思議なことにこの見知らぬ男に愛情の様なものまで感じ始めていた。
 ウナギはゆっくりと男の頭を抱きしめた。彼がこのまま時間を遡りこの世に誕生した瞬間に到達したとき、彼がどうなるのかは自明の理だった。
 貧しさから何度も人が行くのを見てきたウナギにとって、そのこと自体はそんなに大きな出来事とは感じない。ただ彼が行ってしまう事に対しては微妙な心の揺れを感じていた。
 そしてオプションの仕事が始まるまでにそんなに時間が無い事も予感していた。

 ***

 ウナギにとって全てが初めての体験で驚きの連続だった。
 この国を訪れるのはもちろん初めてだったが、この仕事を受けるまでは国外に出たことすらなかった。飛行機に乗ることでさえ生まれて初めての経験だったのだ。
 この国の言葉は最もグローバルに通用する言葉だったが、ウナギにとっては部分的に理解できる単語を除き、ほとんどすべては理解不能だった。
 もちろんそれについても充分に配慮されていて、ウナギの手に握られている紙は、彼女の読める言葉で書かれたマニュアルだった。そのマニュアル通りに行動すれば、スムーズに入国できるはずだ。
 入国審査場は入国審査を待つ人々でいっぱいだった。
 手順書には列に並ぶよう指示されていたので、ウナギは大事そうに抱えたバッグからパスポートと記入済みの入国カードなどを取り出しその列に並んだ。

 列はなかなか進まない。ウナギは不安な気持ちで列に並んでいた。
 ズラリと並んだブースの中にはそれぞれに係官が1人ずつ入っていて、列に並んでいる人々を1人ずつ呼びつけて睨みつけている。何を見ているんだろう?
 ウナギは一見優しそうに見えた女性の係官の列に並んでいたが、それは失敗だったかもしれないと思い始めていた。
 女性の係官の目つきはパスポートを取り上げると一瞬で冷たいものに変わった。パスポートをパラパラとめくり、何かにかざしてモニターを覗き込んだり、少し言葉を交わしたりしている。ウナギには分らない言葉を話しているようだ。不安な気持ちはますます強くなる。
 暫くするとパスポートをテーブルに拡げ、ポンとスタンプを押しグイとそれを突き返す。ドキリ!ウナギは首をすくめた。
 ブースの前に立っていた男はようやくパスポートを受け取ると、何か軽く言葉を発して向こう側に消えていった。
 ウナギの前に並んでいた大きな男がブースの係官の所へと進み出た。
 女性の係官はやはり同じように冷たい目つきでパスポートを取り上げるとパラパラとページをめくり何かにかざす。ウナギは背筋が冷たくなった。係官の目つきがさらに厳しくなったのだ。前に立った男の顔をもう一度見てモニターを確認する。そしてカタカタとキーボードを叩き始めた。
 男は少し落ち着かない様子でそこに立っている。係官が何かを話しかけた。男はそれに答える。そしてそれを何度か繰り返すうちに、男の声と身振りは大きくなった。やがて横手から男の係官が2人現れた。男はまだ大声で何かを訴えていたが、やがて2人の係官に促されて横手に消えていった。ウナギは自分が連れて行かれるような気分になってそれを見つめていた。
 女性の係官が顔を上げてウナギの方を見た。
「来なさい」といわれているような気がして、ウナギはおずおずと彼女の前に進み出た。
 そっとパスポートと入国カードを差し出す。係官はそれを受け取るとページを開いた。暫くウナギの顔とパスポートを見比べる。そしてキーボードを叩き始めた。カメラだろうか、丸いレンズがこちらを向いている。
 ウナギは今にも男の係官がやってくるのではないかとそっと周りを見回した。
 係官はモニターを覗いている。そして何かウナギに語りかけたが、ウナギは言葉が分らないので引きつった笑顔で答えた。
 係官は初めて笑顔を見せた。そしてパスポートのページを変えてスタンプをポンと押すと、パスポートをグイと突き返してきた。
 ウナギはポカンとした顔になってそれを受け取ると、自分の言葉で「ありがとう」と言ってその場を離れた。

 ウナギはマニュアルに指示されたとおりに行動し、バゲージクレームで小さなトランクを受け取り、税関検査場をなんとか無事に通過した。スーツケースの中には着替えと少しの書類が入っているだけだったので、トラブルが発生する要素は無かったのだ。
 ウナギはスーツケースを引っ張りながら到着ロビーに出た。
 ロビーにはたくさんのソファーが設置され、空港を利用する人々でごった返している。ウナギは人ごみの中を暫くウロウロしていたが、ようやく空きを見つけると人々の隙間に腰を下ろした。そしてバッグから例のマニュアルを取り出すと熱心に読み始めた。
 これからの行動予定はそこに詳しく書かれていて、空港から地下鉄の1号線でセントラルシティーへ、そこで乗り換えて3号線でダウンタウンへ入るよう指示されていた。あとは措定されたアパートで連絡があるまで暮らす必要があった。
 どんな生活が待っているのか、貧しい国の小さな町で育ったウナギにとって不安ではあったが、テレビや映画でしか見たことのない華やかな大都会での生活に、その鳶色の瞳は輝やいて見えた。
 前方の壁には大型のモニターが設置されていて、画面では女性のキャスターがおそらく彼女の前にあるプロジェクターに映し出されている原稿を読み上げている。
『世界保健機構は20日細胞死病の感染者が8カ国で1万29人となり、1万人を超えたことを明らかにしました。うち死者は6814人で、感染者と死者の数は加速度的に増えています。我が国での感染者は該当8カ国で医療活動にあたった医療関係者や旅行者などが感染した例4例が報告されていますが、うち2名が死亡しています』
 モニターにはグラフや一覧表が映し出される。
『この病気に感染すると3週間ほどの潜伏期間ののち発症するのですが、初期の症状はほとんどありません。風邪をひいたように微熱が出たという報告もありますが、無症状の方がほとんどです。そして病状が進むにつれて脳細胞が少しずつ死んでいきます。徐々に脳の機能が衰えていきますので、それはまるで大人が幼児化していきついには乳児になって行くような経過を辿ります。そしてやがて胎児にまで遡ると体の機能を維持できなくなって死に至るのです』
 イラストや動画が表示され、治療にあたる人々の様子も画面に流れるが、ウナギは顔を上げない。彼女にはこの画面から流れる言葉や表示される文字はほとんど理解できなかったからだ。
『この病気はEELウィルスの感染が原因だということはわかっていますが、有効な治療法は今のところありません。致死率は80%を超えると言われ、発病すればほぼ助かりません。ただ救いなのはこの病気のウィルスは飛沫感染ですから、直接の接触や1メートル以内への接近を避けるなど、十分な注意を払えば感染しないと言われています。必要以上に恐れる必要はありませんから、落ち着いた対応を取るようにお願いします。疾病対策センターも発生国からの入国者に検査を義務付けるなどの対応を取っていますが、一般市民には「特段の警戒は必要ない」として冷静な対応を呼びかけています。ただし空気感染ではないかと疑われる事例も発生していますので、空気感染が起こる可能性も指摘されています。新しい情報には充分注意してください。この後のコーナーでは開発中の治療薬や治療法などについて解説していきますので、引き続きご覧ください』
 派手なコマーシャルが流れ始めた。番組の雰囲気が変わったのでウナギは顔を上げ、色鮮やかな食品群のコマーシャルを眺めていたが、やがてマニュアルをバッグに仕舞い、思い切ったように立ち上がった。
 大都会は空港からあふれ出る大量の人々を、その膨れ上がった大きな腹に次々と飲み込んでゆく。その腹の中ではいくつもの酵素が働き、複雑な反応が連鎖的に起こっているのだろう。そしてそれはすでにコントロールできる範囲を大きく超えている。
 ウナギは人ごみに揉まれながら、地下鉄へのエスカレーターを下り、大都会の雑踏の中へ消えていった。

世界に、そしてウナギに救いがありますように……


2014.10.30
2014.11.03 更新
2015.11.21 更新(今回の更新で、更新前にいただいたコメントと矛盾が生じています。お許しください)


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予告していた作品の発表です。

山西 先です。
 はい、先日からサキが予告していました作品の発表です。
 読んでみようかなと思われた方は、この下のリンクからお進みください。

EEL
 
だいぶ背伸びをして無理をして書いたみたいな感じでしたね。
 表現はもっと過激な部分もあったのですが、こっちで適当に変更してしまいました。
 いくらなんでもそれは無いだろと判断しました。
 サキとはちゃんと意見を交わしていますので納得してくれているはずです。
 でなければUPしておいてくれとは言わないでしょうから。
 ここのところの世界の情勢に対して心配と不安を感じているようですので、それがこんなお話に繋がったのでしょう。
 サキはちょっと暗めになっていましたが、昨日のロケット爆発失敗の件で調べ物をしたくなったようで、さっきまでPCの前に座っていました。
「あのロケットNK-33を使ってたんだね」などと訳の分からんことを言っているので調べてみました。
 どうやら「NK-33」というのは、失敗したロケット「アンタレス」のエンジンのことですね。「アンタレス」は旧ソ連が40年以上前に製造したエンジンを改良したエンジン「AJ26」を使っていたのだそうで、改良する前の名前が「NK-33」なんだそうです。
 そしてこれ、「V645 Centauri (プロキシマ)」に登場する“少佐”を打ち上げた「N-1」ロケットのモデル、旧ソ連のN-1ロケットに使われていたロケットエンジン「NK-15」の改良型らしいんですね。N-1ロケットは失敗続きで計画が廃棄されたのですが、その時に次世代のN-1改ロケットのエンジンとして作られていた「NK-33」もお払い箱になって、150機のエンジンが倉庫に40年ほど眠っていたんだそうです。
 そのうちの36機をアメリカの企業が買い取り改良して「アンタレス」に使用したということらしいですね。(ウィキ情報ですが……)
 それで目を輝かせてモニターを覗いていたんだな。
 こんなことが面白いのか?ま、復活の兆しかな。
 よろしければ読んでやってください。

山西 先


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