Debris circus

Debris circus

頭の中に散らばっていた破片(debris)を改めて文章に書き起こし、オリジナルブログ小説としてサーカスの舞台に上げていきます。読みにくいものもありますが、お暇な時にパラパラとめくる感じででも読んでいただけたら嬉しいです……

 

赤い記憶

「赤い記憶」をUPします。このお話は「エリカ」の再掲です。
このお話、「Category: ひとりごと」2011.11.06でシスカ12話UPの更新案内として掲載したものです。
実はこれが山西のショートショートの第一作になります。ですが、サイドストーリーとして書かれていて、これだけを読んでくださっても何のことだか分かりません。
そこで少し文章を追加して大幅なテコ入れをしました。
「赤い記憶」と改名して単独でUPしておきます。
よろしければどうぞ。

赤い記憶

 わたしは電車のドアが開くとサッと中に入った。母さまより先に乗って1人でICカードを読み取り機にかざすと、子供料金を示すヒヨコの鳴き声がして白い光が点いた。
 わたしはこの音が大嫌い!早くこんな音がしないカードを使いたいなとずっと思ってた。
 リン・リンとベルが鳴って電車が動き出した。
 わたしはいつもみたいに運転席のすぐ後ろに立とうと思ってた。でも、そこにはもう女の人が2人立っていて、小さな声でしゃべっていた。わたしは自分の場所を取られたような気持ちになって、2人をそっとにらみつけた。
 わたしはその場所に立つのが好き!だって、前に進む感じは見晴らしが良くてとても気に入っているから。でも、そこに立つのは子供だけのような気がして、立つ時はいつもモヤモヤした気持ちになる。
 時々は大人の人がそこに立っていることもあるんだけど、混んでいるとき以外はほとんど男の人だったから、わたしは男の人って大きくなっても子供なんだな……って思ってた。
 でも今日はあんまり込んでないのに女の人が、しかも2人も立っている。それはわたしにとってびっくりで、だからにらんじゃった。
 でも、わたしはそっとにらむだけにした。だって、わたしがどうしてもそこに立ちたいって思っているのがわかるのは嫌だったから。

 電車が動き出してすこし経つと、運転席の後ろに立っていた女の人のうちの1人が帽子を取った。
 わたしはドキリとした。
 帽子の中から真っ白な、ううん、ちょっとキラキラ光るような色の髪の毛が出てきた。
 そのまっすぐなきれいな白い髪の毛はフワッと流れ出して、それからその女の人が首を左右に振ったのでユラユラと揺れた。青い目……左だけなんだ……がちらりと見えた。すごく綺麗だなって思って、わたしはただじっと見とれてた。だって、わたしの周りの人はみんな髪の毛は黒いし、瞳はこげ茶色なんだもの。茶色の人は見ることもあるけど、キラキラした真っ白なんて初めて。
 でも周りの大人達は違ってた。同じように驚いているんだけど、わたしが見ているのとは全然別の尖った気持を感じた。それでグルリと周りを見回して、そして母さままで周りと同じ尖った気持が出てるのにびっくりした。
 帽子を脱いだ女の人もその空気に驚いていたんだけど、その顔はもう一人の女の人が間に立ったので見えなくなった。そしてその女の人が綺麗な髪に帽子をきっちりとかぶせてしまった。
 大人達はもう何もなかったみたいに女の人を見なくなって、みんなそれぞれの方向を向いていたけど、その尖った気持ちは女の人が電車を降りるまで続いてた。
 女の人が電車を降りた後、尖った気持ちは急に薄くなって、すぐに何にも無かったように消えた。あんなに綺麗だったのに、なぜそんなことになったのかわたしには分からなかったけれど、わたしはあんな嫌な尖った気持ちを出したくないなと思った。

 わたしは電車を降りると母さまと繋いでいた手を少し引っ張ってから、見上げるようにして訊いた。
「母さま、さっき女の人が帽子を取った時どうしてあんなになったの?」
 母さまはわたしの顔をジッと見つめてから「ごめんね」と言った。
 そしてしゃがみこんでわたしの目と同じ高さになってくれて「エリカ、この街で戦争があったことは学校で習った?」って言った。
 わたしがうんって頷くと「そう……」母さまは少し考えてから続きを話し始めた。
「この島が誰の物かでお隣の国と戦争になったのは習った?」
 わたしは頷いた。
「じゃぁ。この街がお隣の国に占領されたことも習った?」
 わたしはまた頷いた。
「そう。母さまがまだ小さな子供、そうエリカぐらいの頃ね。それぐらいだったけど、この街が占領された時のことははっきりと憶えているの。そして占領していた兵士は銃を持って、恐い目をして街をうろついていたわ。母さまはとっても恐かったわ。だから家の中にずっと隠れていたんだけど、ある日気になって窓からそっと覗いてみたの。窓の下には大通りがあって、その向こうには占領した軍隊の兵士達が休憩していたの。みんな、いつもと違って笑いあったりしゃべりあったり、なんだかピクニックみたいに楽しそうだったわ。母さまはね、絶対そんなことにはならないって思っていたんだけど、すこしウキウキした気分になったわ。そうしたら道端でくつろいでいた兵士の1人がヘルメットをとったの。さっきみたいに。そうすると白い、キラキラ光るような色の髪の毛が出てきたの。そのまっすぐな綺麗な髪の毛はフワッと流れ出して……女の人だったのね。その髪は女の人が首を左右に振ったから、ユラユラと揺れてキラキラ光ったの。青い目だったわ……」
 母さまは続きを話そうか少し迷っている風だったけどそのまま続けた。
「そのとき急にその女の人が倒れたの、綺麗な白い髪は見る見る血で赤く染まったわ。撃たれたのね。そして激しい戦闘が始まったわ。母さまは避難するためにそのまま連れていかれて、そこからは良く憶えてないんだけど。でも、さっきあの女の人の白い髪と青い目を見てその時のことを思い出したの。だからあんなになったと思う。ごめんね。お隣の国の兵士は女の人もたくさんいて、さっきの人みたいな白っぽい髪や青い目の人が多かったの。だから他の人もあの白い髪で戦争のいろんな記憶を思い出したのよ……きっと。だから許してあげてね」
「その人は死んだの?」
「多分ね」

 わたしはさっきの大人たちを許してあげることにした。
 戦争なんかしなければいいのにと思った。
 でもわたしよりずっと大きな大人が戦争を始めたんだ。
 わたしも大人になったら知らないうちにそうなるんだろうかと思った。
 そしてわたしもあの白い髪をみて、赤く染まる髪を思い出すのかなと思った。
 とっても寂しくなった。
 電車に乗る時、ずっとヒヨコの鳴き声がしてもいいような気がした。


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テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

地下鉄のエルフ

Stella/s月刊・Stella ステルラ 12月号参加 掌編小説

 現代と平行する時代、ここではないあるところにイルマとベクレラそしてグロイカという三つの国が有りました。
 イルマはあまり大きくないけれども四季のある美しい海洋国家で、ベクレラは寒い地方の広大な青い森の広がる大陸国家、そしてグロイカは海の向こうの無限の草原の広がる大陸国家でした。
 イルマとベクレラは狭い海峡をはさんで隣り合わせで、そこにある小さな島を自分の物にしようとしてお互いにいがみ合っていましたし、グロイカはこの二つの国が自分より強くならないよういつも画策していました。
 でも悪の同盟の国々が世界征服をたくらんだので、二つの国はとりあえず仲直りをしてグロイカと三つの国で仲間になって、その同盟をやっつけました。けれども一緒になって一生懸命戦ったのに、たくさんのご褒美をもらえたイルマやグロイカと違って、何ももらえなかったベクレラはイルマとグロイカが羨ましくて仕方がありませんでした。なぜ自分だけがご褒美がもらえないんだ。ベクレラの不満はどんどん大きくなっていきました。
 ずっと昔から、その島をイルマはキタカタと呼び、ベクレラはオルガノと呼んで、島は自分のものだと言っていました。ただそこには本当に何も無いように思えたので、どちらの国も戦いをしてまで自分の物にしようとは思わなかったのですが、最近になって島で石油が見つかたのです。戦いのご褒美がもらえず我慢できなくなったベクレラは、その石油に目が眩んでしまい、その島に軍隊を進めて町を作ったのです。そして、それに負けないように町を作ろうとしたイルマの軍隊と戦いが始まりました。勝ったり負けたりを繰り返しているうちにどちらが勝つということもなく何年も過ぎて、二つの国は力もお金も使い果たしてフラフラになったのでした。
 海の向こうの三つ目の国グロイカは弱っていく二つの国をのんびりと眺めながら、両方に武器を売り付けて大きく逞しく育っていきました。
 やがて二つの国は大きく育っていくグロイカが怖くなって、戦いを止めることにしました。そして、島を真っ二つにしたところに線を引いて、それを仮の境目としてとりあえず戦いを終わらせたのでした。

 彼はイルマの首都を走る地下鉄で会場に向かっていた。キタカタをイルマのものだと主張する集会に参加するためにその会場に向かっているのだ。キタカタはイルマの領土だ。彼はそう教えられ固く信じていた。
 だが彼も教えられたことをそのまま鵜呑みにしているわけではない。自分なりに調べ上げ学習し、ある程度の知見を持っている。確かに戦前はイルマはキタカタと呼び、ベクレラはオルガノと呼んだその島の支配ははっきりせず、両国がそれぞれ曖昧に支配し、両国の民族が何の境も無く行き来していた。ただ人口が現在とは比較にならないほど少なく、極寒のこの小さな島に利用価値が無かっただけだ。だがこの島に石油が発見された時、両国の確執は激しさを増し、マサゴとオルガという二つの資源開発都市の設置をめぐって戦争にまで発展したのだ。
 彼は戦前はこの島をイルマが領有していたと考えていたし、先時代に探検し測量したのもイルマ政府だったという史実からみてもこの島はイルマが領有権を持っていると考えていた。ベクレラの言い分についても調べたが、それはどうにも屁理屈に思えるのだった。その理屈は彼をベクル人嫌いにさせただけだった。

 地下鉄の車内アナウンスは次の停車駅がマエハマ駅であることを告げていた。
 彼は文庫本から目を上げて暫く前から気になっていた女性をそっと観察した。
 彼女がホンマチの駅から乗ってきた瞬間、彼の目は彼女に釘付けになった。オリーブドラブの作業服のようなブルゾンにジーンズという格好は地味といえばまだ聞こえが良い。野暮ったいと表現したほうがピッタリだ。
 しかしこれだけで彼の目が釘付けになったりはしない。問題はその上で、ボブにカットされた髪が白に近いプラチナだったのだ。しかもそれだけではない、ちらりと目が合った時に見えたのだが、右目は黒そして左目はなんと透き通るようなブルーだった。それが色白ではあるが東域系のどちらかというと可愛い部類の顔に付いている。
『彼女はベクル人なのか?』キタカタをイルマのものだと主張する集会に参加しようとしている彼は複雑な気持ちになった。
 色素の少ない髪、ブルー系の虹彩、それはベクル人の特徴だ。ベクレラに最も多く住むベクル人はこういう特徴を持っている人が多いが、最近は東域系の民族との混血も進んでいる。彼女もそうなんだろうと勝手に想像を膨らませる。
 そのなんとも不思議な組み合わせについちらちらと視線を送ってしまい、自分がストーカー一歩手前であることに気がついて文庫本を読むことに専念していたのだ。
 彼は本に目を落としていたが彼女が目の前に立ったのには気づいていた。本の向こうにオリーブドラブのブルゾンとジーンズが見えている。
 そっと観察を再開すると彼女は彼の頭越しに真っ暗な地下鉄の窓の方をずっと見ている。『何を見てるんだろう?地下鉄には風景も何もないのに……』と思いながら見ていると、顔を少し左右に向けたり斜めに傾げたりしている。『あぁ窓に写る自分の顔を見てるんだ』そう思うと本に目を戻して口元に手を当てた。
 このまったく外見にかまわないような格好をした彼女が自分の顔をチェックしている様子がおかしかったのだ。『悪いけど……』
 暫くして、彼女は急に窓から目を離すと携帯端末を忙しく操作し始めた。そして何かを確認するとまた窓の外を覗き始めた。間もなく電車がホームに入ったのか外が明るくなり、彼女はホームの様子を確認するように外を見ている。『ここで降りるつもりかな?』彼はまだ先まで行かなければならないので残念に思いながらその様子を観察していた。
 電車が止まると予想通り彼女はつり手から手を離した。そしてドアへ向かう一瞬手前、まともに目が合った。彼女が彼の顔を覗きこんだのだ。彼が驚いたその瞬間、彼女の口元が微笑みに変わった。そしてブルーと黒の瞳に見つめられて彼は一瞬で茹であがった。『さよなら』唇が小さくそう動いたように見えた。彼女は微笑みを保ったまま少し会釈をし、そのまま電車を降りて人ごみの中に消えて行った。
 彼の頭の中にはオッドアイの彼女の微笑みがくっきりと焼き付けられて消えなくなった。
 彼はまだドキドキする心臓を抱えたまま本を読むのも忘れて電車の揺れに身を任せていた。
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ナオミの夢

 ナオミは視線を感じたような気がして立ち止った。
 あちこちに紛争の爪痕が残るマサゴ市。その中心部にある市民会館は、ホールの屋根に大穴が開いてはいたが、まだ建物の形は残している。そのエントランス部分を使って開設された避難民救済センターは、避難民登録や避難所を求める人々でごった返していた。ナオミは避難先登録をシンキョウ市に変更するために夫のロクとそこを訪れていた。
 視線を感じた方に顔を向けると、そこには少女が座っている。その容姿は異彩を放っていて、今生きてゆく事に精一杯で、他人にかまう余裕などあるはずのない避難民の衆目すらも集めている。
 髪はプラチナブロンド、というよりもほとんど白髪に近い。そしてこちらを向いた目は右が黒、左が透き通るような明るいブルーだった。
 4歳位だろうか?栄養失調に見えるその痩せた体を壁に預けて座り、頭部は後ろの壁の窪みに上手い具合にはまり込んで固定されている。彼女はナオミを見つめていたのではなく、焦点の定まらない目がたまたまこちらを向いていた……ただそれだけのことだった。だが、ナオミはこの喧噪の中、その無気力な表情から向けられる弱々しい視線を感じ取った自分に驚いていた。
 ベクレラ連邦とイルマ国によるキタカタの領有権を争った国境紛争は、まだ停戦協定が成立したばかりで、ここ避難民救済センターは混乱の極みだ。紛争が終結する直前になって戦線が激しく動いたせいで、大量の民間人が争いに巻き込まれ、多くの避難民が出た。そのうえに、強引に暫定国境線を引いたために、相手側の国に取り残されてしまった人も少なくは無かった。少女は髪や目の色から想像してベクル人で、混乱の中イルマに取り残された中の1人なのだろう。自国民だけでも救済の手は不足しているのに、ほんの数か月前まで敵だった人々へのそれはよけいに滞りがちだ。少女の行く末を案じながらナオミは、その青白い顔を見つめていた。
 一緒に歩いていたロクは、ナオミが立ち止ったのに気付いて、振り返って待っている。
「どうした?何かあったのか?急いで戻らないと移動手段が無くなるぞ」
「うん。ちょっと……」ナオミはロクに待っているように手を挙げると少女に近づいた。
 黒と明るいブルーの瞳はどこを見ているのだろう。いや、何も、どこも見ていないのかもしれない。意識がそこに存在するのかさえ疑いたくなる。そんな少女に近づいたナオミは、一瞬ためらってからそっと少女の白い髪に手を置いた。
 驚くべき反応だった。瞳に一瞬意識のような物が見て取れたと思った瞬間、少女は高圧電流が流れて痙攣したように動いて、ナオミの指に噛みついた。
「アッ」後ろで見ていたロクの方が声を上げた。
 ナオミは左の手の平を向けて近づこうとしたロクを制した。ギリギリ……少女は全力で噛みついている。痛みに耐えながらそのままの体勢でじっと少女を見つめる。少女の目は今は意識を持ってナオミを見ている。やがて危害を加えられることはないと感じたのか、あるいは諦めたのか、力を緩めるとグタッと人形のように元の場所にもたれかかった。ナオミは噛まれていた右手をポケットに入れ、左手でそっと少女の頭を撫でた。白い髪は汚れていたが、ふわりとしていて柔らで、暖かだった。(天使みたい)ナオミはそんな感想を持った。
 少女はまた動かなくなった。
「大丈夫ですか?」女性スタッフが駆け寄って来た。
「ええ」ナオミは頷いたが、ポケットから出した指からは血が滴り落ちていた。看護師であるナオミは、手慣れた様子でハンカチをまいて手当てを終えると「この子は身寄りが無いのですか?」と訊いた。
「ええ。多分取り残されたベクル人です。1人で瓦礫の中にうずくまっているところを保護されたんですが、ほとんど何も喋らないし、喋ってもベクル語だし、何も分からないんですよ。それに今みたいでしょ?あなただけでは無いんですよ。噛まれたのは」と女性スタッフは大きな傷テープを巻いた指を見せた。
「あら、そうなの?わたしが気に入らなかったのかと思ったんだけど。そうじゃなかったのね」ナオミはチラリと少女の方を見た。
「お止めしようと思ったんですけど。あっというまで間に合わなかったんです。でもあの後あの子の頭を撫でてらっしゃいましたよね?あの子が体を触らせるのは始めて見ました」彼女は驚いた声で言った。そして「ただ1つ、着ていた服にベクル語でシスカという縫い取りがあったんです。ですから、多分彼女はシスカという名前なんだと思います」と付け加えた。
「シスカ……」響きに運命のような物を感じながらナオミはその名前を繰り返した。そしてまた少女にそっと近寄るとゆっくりと頭に手を置いた。女性スタッフが「アッ」と小さく叫んだ。ロクは緊張して見つめている。ナオミはそっと頭を撫でながら「シスカ?シスカ?」と優しく言った。
 少女はゆっくりと顔を上げ、今度ははっきりとナオミを見つめて小さく口を動かし何がしかの言葉を口にした。そしてまた無表情になって動かなくなった。
「ナオミ、そろそろ行かないと、本当に足が無くなる」ロクが言葉を挟んだ。
「そうね。行きましょう」ナオミは「お騒がせしました」とスタッフの女性に声をかけると歩き出した。ロクはチラリと少女を見てからナオミを追った。

 2人は言葉を交わすこと無く道を急いだ。何とかバスターミナルで列に並んでバスに乗り込まなくてはならない。ロケット弾で破壊されてはいるが、どうにか寝ることのできる家まで、歩いて帰るには少し遠すぎた。
 バスを待つ列に並んでからも暫く2人は無言だった。
「なぁ……」ロクが沈黙に耐えられなくなって訊いた。「ナオミは何を考えているんだ」
「なにを?」ナオミは列の先を見たまま答えた。
「俺達は充分に話し合ったよな?」
「そうね、充分に話し合ったわ。そして結論も出した」
「ならいいんだ」2人はまた黙り込んだ。
 ナオミが子供を産まない方がいい体だという事が分かったのは、2人が結婚して暫く経ってからだった。出産はナオミの寿命を大きく縮めるリスクを伴う、ということがはっきりしたのだ。2人は充分に話し合った。時には喧嘩にまで発展した話し合いは何日にも及び、2人はナオミの体のために子供は作らないということでようやく合意した。
 ロクがさっき言った、充分に話し合った、というのはそのことを指し、ナオミが答えた“結論”もそれで得た結論を指していることはナオミにも痛いほど分かっていた。ナオミが子供を産めない以上2人の間に子供はいらない、確かロクがそう発言し自分が頷いたのを覚えている。
 ナオミは自分の頭の中に湧き上がってきた感情を消え去るぐらい小さく押さえ込んだ。そして隣に並んだロクに笑いかけた。
「大丈夫だよ。ロク。大丈夫」
 ロクの心配そうな顔がこちらを向いていた。

 ナオミはマサゴ市の瓦礫だらけの大通りを歩いていた。崩れた建物が所々で道をふさいでいるので、その部分は通りの端まで回り込んで、完全に瓦礫でふさがっている部分は隣の通りへ迂回して進まなければならない。停戦して数ヶ月が経過しようとしているのに、復興の槌音はまだ弱々しい。市民会館はすぐそこに大穴の開いた屋根をさらしているのに、なかなかたどり着けない。ナオミは少しイライラしながら歩調を早めた。いつも少し先を歩くロクの姿は見当たらなかった。
“充分に話し合った”ロクは確かにそう言った。ナオミも確かにそれに合意して一緒に結論を出した。ただロクの言った“充分に”の中にこれが含まれていたか、そうでなかったか、それだけの違いだった。2人の意見はどこまで行っても平行線で、堂々巡りだった。
「あの子は精神的にも大きな問題を抱えている。きっと丁寧なケアが必要だ。ナオミにそれが出来るのか?」黙って毎日少女の様子を見に行っていたことを知ったロクがついに切れた。そしてその後は、出来る出来ないの応酬が続いた果てに、ついに2人は決裂した。修復は不可能だった。ナオミは家を飛び出し、ロクは残った。それだけだった。
 避難民救済センターは前よりもいっそう激しい喧噪に包まれていた。大きな声で抗議を繰り返している男性、泣き声を上げてすがりつく女性、泣き叫ぶ子供達、倒れ込む老人達『避難民救済は行政の後手後手に廻る政策によって、以前に増して混乱している』避難所に張り出される壁新聞にそんなニュースが掲載されていたのは昨日の事だったろうか。ナオミは人混みをかき分けながら進み、いつも少女がもたれかかっている壁を目指した。気持ちは焦るが人の流れに逆行する形になってなかなか進めない。「すみません。ごめんなさい」声をかけながら人混みを押し分ける。その時ナオミはまた視線を感じた。顔を向けると人と人の隙間にあの黒と明るいブルーの瞳を持つ顔が見える。ナオミはここまで持ち続けてきた緊張をようやく緩め、全力で人混みをかき分けながら少女の元へ近づいていった。
 どこも見ていないように見えた少女の視線は、正面に現われたナオミの顔に焦点を合わせた。少なくともナオミにはそう見えた。ナオミはいったん立ち止まってから、少女によく見えるように、ゆっくりと正面から近づいた。そして「シスカ。こんにちは」と声をかけ、そっと白い髪を撫でた。少女は不思議そうな顔をしてナオミの事を見上げていた。
 しばらくそうしていたナオミは、突然湧きおこった激しい衝動に耐えられなくなって、少女の右手を取ると「シスカ、行きましょう」と声をかけグイッと引っ張った。シスカは引かれるまま立ち上がるとナオミに付いて歩き始めた。
「何をされてるんですか?困ります!」女性スタッフが立ちふさがった。ナオミがその女性を押しのけてさらに進もうとすると、女性は首にさげていたホイッスルを吹いた。数名のスタッフが集まってきてナオミはもう前進できなくなった。
 シスカは手を引かれたままナオミの様子をじっと見ていたが、やがて喧騒の中へ意識を埋めた。

 避難民管理官は初老の男だった。彼はナオミを自分の机に向かい合わせに座らせると、両肘をつき手を顎の下に組んで、まるでナオミを値踏みするように眺めながら「いきなり手を引っ張って連れて行こうとされても困りますね」と皮肉っぽく言った。
「すみません。どうしてあんな事をしたのか自分でもよく分からないんです」ナオミは素直に謝った。
「この混乱の中ですが、たとえベクル人であったとしても、一旦我々の保護下に入った者を何の手続きも無しに引き渡す訳にはいかないんですよ。あの子を引き取りたいとおっしゃるなら正式に手続きを取ってください、そうでなければあなたを警察に引き渡すことになります」
「では、正式な手続きを取ります。どうすればいいんですか?」
「まず、あなたの身分を確認する必要があります。何か身分証明のようなものをお持ちですか?」
 ナオミは住民カードを手渡した。管理官はそれをチラッと眺めてから「あなたは避難民ですよね?」と訊いた。ナオミが頷くと「とても安定した身分とは言えませんね」管理官は困った顔をした。
「私は避難民ですが、シンキョウで生活する当てがあります。先日、夫と一緒に避難先登録をシンキョウ市に変更したところです」もう夫のロクの協力を得られる状態では無かったが、ナオミはそんなことはおくびにも出さずに答えた。
 管理官の顔が少しほころんだ「なるほど、そういうことでしたら、ちょっと確認させていただいてもよろしいですか?」
「どうぞ、ご自由に」
「では失礼」管理官はデスクにあったタブレットを何度かタッチし、住民カードをリーダーにかざした。
「フム。キタハラ・ナオミさん、ですね」
「ええ」
「再度確認ですが、あの子、シスカという名前は推測ですが、シスカをを引き取りたいとおっしゃるわけですね?」
「ええ。何度もそう申し上げていますが……」ナオミはうんざりした顔で頷いた。
「キタハラさん」管理官は改まった表情で喋り始めた。「我々もまぁ正直、困り果てていたというのが本当のところです。現在の条例は混乱の中、策定が間に合わず穴だらけです。あの子の場合も管轄がはっきりせずに、施設間での押し付け合いが続いています。このまま放置すれば、あの子が落着く場所は見つからず、当センターはいつまでもあの子を抱えていなければならなくなるでしょう。しかし、穴だらけということは解釈によっては実に簡単な手続きで、合法的にあの子をあなたの保護下に置くことが出来るということです。有り体に申し上げれば、、あなたはあの子を自分の元に置ける。我々は問題を残さず厄介払いが出来る。そういうことです」管理官はナオミを見つめた。
「このまま手続きを始めますか?なに、そんなにお手間は取らせません」
 ナオミは事態が今一つ飲み込めず返事が出来なかった。
「シスカをお連れになってもよろしいと申し上げているのですよ。手続きを始めますか?」
 管理官のその言葉によって、ナオミはようやく事態を理解した。
「ええ。始めてください」ナオミが頷くと、「では事務課の方へご案内します。こちらへ」管理官は立ち上がった。

「最後に、登録手数料として7000イキューを納めていだだきます」手続きを終え立ち上がろうとしたナオミに女性のスタッフが言った。「えっ?」ナオミは言われたことの意味が分からず聞き返した。
「登録手数料として7000イキューを納めていだだきます」女性は事務的に繰り返した。
「子供を引き取るのにお金がいるのですか?」
「いいえ。そうではなくて登録するのに手数料が必要なんです」
「同じことだと思うんですけど……」
「お手持ちが無ければ3日後までに振り込んでいただければ大丈夫です。ただしその場合は振込手数料がかかりますが」女性の事務的な説明が続く。
 ナオミは何かを言おうと口を開きかけたが、諦めてバッグから財布を出した。そしてお金を出すと黙って机の上に置いた。
「ではこれが領収証です。納付の証明になりますので、大切にお持ちください。手続きはこれで終了です。子供を連れてまいりますので……」そこで同僚に肩をたたかれた女性は振り向くと小声で二言三言会話した。「申し訳ありませんが、子供のところにお連れしますのでそこでお引き取り願えますか?」女性は向き直るとそう言った。
「わかりました」ナオミはそう言うと立ち上がった。

 繋いだ手を離すまいとして力を込めているのがわかる。
 シスカがこんな反応を示すとは思わなかった。喚きまわってついてこなかったらどうしようか、などと考えていたのが嘘のようだ。時折ナオミの様子を確認するように見上げて、おぼつかない足取りではあるがついてくる。管理官と女性スタッフが並んでこちらを見ているが、厄介払いが出来てホッとした表情のように見える。ナオミはシスカの様子を細かく観察しながら避難民救済センターを出た。
 センターの前は小さな広場になっていて、2人はゆっくりと広場を横切っていく。
 ナオミは広場の向こうのベンチに見慣れた男を見つけていた。
 男は立ち上がって待っている。2人は男の方へ近づいていった。
「よお」ロクが声をかけてきた。
「何よ!」ナオミがぶっきらぼうに答える。
「その子に始めて触った時、その子はなんて言ったんだ」
 ナオミは少し迷ってから答えた。「“おかあさん”と言ったのよ……」
「帰ろうか」ロクは2人に背を向けて歩き出した。
 2人はその背中を追った。
 長い長い苦難の始まりだった。 
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アモルファシア

[Stella 12月号]参加作品 読み切り・掌編 Stella/s


アモルファシア

 熱いお湯がたっぷりと出る金色に輝くシャワー。今日は体が火照るまで浴びよう。
 綺麗な瓶に入った上品な香りのするシャンプーやボディーソープ。今日はたっぷり泡立てて気兼ねなく使おう。久しぶりにコンディショナーも使おう。
 ふわふわの大きなバスタオル。今日は贅沢に2枚使おう。
 風量のある大きなドライヤー。それを優雅に使って髪をフワリと乾かそう。
 ここは私にとって彼と過ごすことのできる特別な場所、そして彼と過ごすことのできる特別な時間。ここに居る間だけ私は私でなくなる。
 でも、今日はもうお終い。
 またいつもの私に戻る時間。
 遙か成層圏にまで押し上げられた私の心は今ゆっくりと地上に帰還し、着地しようとして……まだためらっている。
 もう少し……躊躇する自分の裸を浴室の大きな鏡の中に置いたまま、ギュッと目を瞑ると思い切ってクルリと体を壁の方に廻す。そのまま手探りで下着を身に付け(本当は薄く目を開けているんだけど)、今の気持ちにそぐわない地味目の服を急いで着込んで、また鏡の方へクルリと向き直ってそっと目を開ける。
 そして、鏡の中にいつものみすぼらしい引っ込み思案の自分を見つけた時、私の心は着地を終えている。
 私はその気持が変わらないうちに大急ぎで髪と洋服を整えると、大股でこの宿にたった1つだけあるスウィートルームを出た。

 この町の建物はすべからく実用的で、箱に四角い穴を開けてそれをそのまま並べただけの様な、味も素っ気も無い町並みが拡がっている。だが今私のいる建物は元々市の迎賓館として建てられたもので、財政の許す限り精一杯の贅沢が施されている。さっきまで私がいた3階のスウィートルーム、1・2階にかけての吹き抜け、吹き抜けの2階を巡る回廊から1階のホールに下る豪華な階段などは、1階を酒場、2・3階を宿泊施設として使う今の状態から見ると豪華さだけが浮いて見える。でも私はこの時代を1つ遡ったような非現実的な建物がとても気に入っている。期限付きの夢の時間を過ごすためだけなら、ここの不釣り合いな豪華さは相応しいような気がしているのだ。
 廊下を暫く進んでから階段を降りて、なるべく音を立てないように2階の回廊へ出る。そこは吹き抜けになっていて1階の酒場のホールが見える。
 その片隅にバーカウンターがあって、そこにはいつもブラウンの癖っ毛の少女がポツンと腰掛けている。大概は本を読んでいるか、棚に並んだ酒瓶を端から1つ1つ眺めながら、それにまつわる物語を空想したりしながらおとなしく座っているのだけれど、今日は背中まで延ばしたその癖っ毛を右の手でクルクルと絡めながら、有らぬ空間をじっと見つめて座っている。
 私はいつもよりだいぶ退屈させてしまったかな?と思いながら2階の回廊から1階へと続く大階段を降り始め、踊り場で方向を変えた。
 少女は私が階段を降りる音に気がついて、こちらを振り返ると大きく目を見開いた。可愛らしい顔が私を見つけてパッと輝く。少女はその歓迎の笑みを私が階段を降りきるまで保ってから「北風に願いを!」と言った。
「あら?もう年末祭だったかしら?」私はすっかり忘れていたふりをした。
「そう。今日はイブだよ。オネエサン忘れてたの?」少女は驚いてさらに目を大きくした。
「じゃあ、南風に祝いを!」私は努めて明るくお祝いの言葉を返してから「これで良いかしら?」と付け加えた。
「うんっ」少女は満足げに答え、椅子から飛び降りるとそのまま駆け寄ってきて私の腰に抱きついた。
「ひょっとして今日は来ないのかと思った。でもよかった。ずっと2人でお祝いをしようと思って待ってたんだもん」美しく輝く明るいブルーの瞳がすこし心配げに見上げてくる。
「ごめんね。少し遅くなったかな?でももう大丈夫、開店まで時間はいっぱいあるよ」そう答えると少女の顔はまた明るくなった。
「でも、遅くなったからバツね!1曲歌って欲しいな」
「え、罰?しょうがないなぁ。なにが良い?」
「わたしのお気に入り。あの家族の歌!」
「またあの歌?いつもそれだね」
「だって……すごく素敵なんだもん。わたしあの歌大好き!お願い」少女はそう言うと再び私の腰に抱きついて体を左右に揺すった。
「じゃ、歌ってあげるから、観客席に座って」
「はい」少女は礼儀正しくそう言うと、カウンターの椅子に腰掛けて体をクルリとこちらに向けた。
 私は一呼吸置いて気持ちを落ち着かせてからゆっくりと頭を下げた。ホールにたった1人の観客の拍手が響く。私は歌い慣れたその曲を静かに歌い始めた。

 余韻を残しながら歌い終えると、たった1人の観客の惜しみない拍手が響いた。「素敵!素敵!この歌を聞くと、ここのところがキュンとするもの」彼女は鳩尾のあたりをさすりながら言った。そしてまた拍手を始めた。
 その時、少女の拍手にもう1つの拍手が重なった。
 今度は私が驚いて2階の回廊を見上げた。
 回廊には彼が立っている。今3階から降りてきたところのようだ。そのまま拍手を続けながら「アンコール!アンコール!」と繰り返す。
 少女も拍手の音を大きくした。
 私は2階の彼と、カウンターの少女に交互に目をやってからゆっくりと頭を下げた。顔を上げると拍手が鳴りやみ一瞬の静寂が訪れる。私はいつもアンコールに使う子守唄を歌い始めた。私は自分の持ち歌の中でこの曲が一番気に入っていた。
 拍手が鳴りやまない。その様子に私は満足し、少女に微笑みかけてから彼の顔を見つめた。彼は拍手を続けながら大階段を降りてくる。
「パパ」少女は彼をそう呼ぶと椅子を降りて階段に近づいた。そして踊り場のところで待つ彼を見上げて「お仕事はもう済んだの?」と言った。
「ああ、今日はもうお終いにした。なにしろ年末祭のイブだからね」彼は少女を見下ろしながら言った。そして「そうだ!これから開店までここでパーティーにしようか!」と今思いついたように付け加えた。
「オネエサンも一緒だよね?」少女は彼の顔を覗き込んだ。
「もちろんだ!3人でパーティーをしよう」
「本当?!」少女はクルリと向きを変えて私の方を向くと「いいの?」と訊いた。
「もちろん」私がそう答えると、彼女は喜色満面で私の腰に抱きついてきた。そして「オネエサン、来て」と私の手を曳いてカウンターの椅子に腰かけさせ、「パパはこっちに入って」とカウンターの内側を指した。
「え?パパはこっちなのか?」彼は笑顔のまま少し不満げに答えた。
「だって、パパが一番遅かったんだから。バツとしてわたし達にサービスしなさい」少女にそう言われて彼はハイハイとカウンターの内側に入った。
「お客様、何をお作りしましょうか?」彼は澄ました顔で少女に問いかけ、私の方を向いて片目を瞑った。
「そうね……」少女も澄ました顔でそう言うと「いつものをお願い」と気取った声を出した。
「かしこまりました。では、そちらのお客様は?」彼は私の方を向いて微笑んだ。分かっていたのにその明るいブルーの瞳に見つめられると、私の心臓は跳ね上がる。
「そうね……」私は動揺を少女に悟られないように努めて冷静に「サングリアをいただけるかしら」と言った。
「かしこまりました」彼はそう言うとカウンターの中で手際よく作業を始めた。
 少女のためにはオレンジジュース、レモンジュース、パイナップルジュースをシェーカーに入れ気取った手つきで軽く混ぜる。少女はこの仕草がお気に入りのようで、カウンターに頬杖をついて下から見上げている。これはシンデレラというノンアルコールカクテルだ。私には赤ワインとオレンジジュースを氷入りのグラスにそそぎ込み、軽く混ぜてカットしたフルーツを添えてできあがりだ。
 彼は少女の前にはシンデレラ、私の前にはサングリア、そして自分には薄めのハイボールを用意すると右手にそれを高々と掲げ「北風に願いを!」と言った。
 私達は笑顔で顔を見合わせてから、それぞれの飲み物を右手で高々と掲げ「南風に祝いを!」と大きな声で唱えた。それから3つのグラスをカチンと合わせた。

 このまま時が止まればいいのに、私は神様にそう祈ろうとして……止めた。

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

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Stella/s 月刊ステルラ6月号 投稿作品


 ゴリアテ、彼女は彼女の好みに関わりなくそう呼ばれている。女を全く連想させないこの二つ名、それは彼女の任務にとって有益だったし、彼女の聡明さをカムフラージュもした。その上いつの間にかこの二つ名は、彼女の破壊力を如実に表し始めていた。
 彼女はシンキョウ駅のエントランスにある待ち合わせ場所、“銀の星”のベンチに腰掛けている。そして隣には彼女の“標的の女”が座っている。
“銀の星”は列車の出発を待つ乗客でごった返していて、たくさん置かれているベンチもほぼ満席だ。2人は切符の手配を済ませ、軽くショッピングをして時間をつぶしてから、列車の発車までの少しの間このベンチで休憩を取っていた。
「我が国が再び戦争を始めるといった誤解がある。しかし、そんなことは断じてありえない」壁際に置かれているモニターでは国防大臣が声を張り上げていて、“標的の女”はそれに冷ややかな視線を向けている。
 彼女が身をやつしているヨウコは“標的の女”の幼馴染みだ。懐かしげに接近し恩を売る。そしてヨウコの特別な事情をでっち上げ“標的の女”に同行することを承諾させる。その計画は上手くいった。目的を達して少し落ち着いた彼女は、斜め前に座っている一人の男が気になり始めていた。

 彼はオリーブドラブの軍服に身を包み、制帽を目深に被っている。歳は30ぐらいだろうか。肩には2曹の階級章が付いていて、そのすぐ上には3つの矢が交差した徽章が縫い付けられている。この徽章が国境軍の物だということは一般市民の間でも周知の事実だ。国境軍、それは本来島国であるこの国イルマが、拠所無い事情でベクレラとの間に抱え込むことになった陸上の国境線を防衛するため、陸海空軍の枠を超えた精鋭で組織されたスタンドアローンの軍事組織だ。隣国ベクレラとの国境紛争を抱えたキタカタ州北部に展開し、不測の事態に備えている。

 彼は明らかに“標的の女”のことを気にしていた。“標的の女”の髪はプラチナブロンドと言うよりも、ほとんど白髪に近いくらい色素が少ない。自分たちイルマ人の髪は黒に近いものがほとんどだから、その髪は特に人目を引く。
 だが、それだけではない。いざ事が起れは彼が戦うことになるベクル人には色素の少ない髪を持つ者が圧倒的に多い。しかもかの国ベクレラには女性兵士も多い。その状況が彼を“標的の女”に強く反応させたのだ。その時ヨウコはそう考えていた。

 “標的の女”の名はシスカと言った。ヨウコは隣に座るシスカに目をやると、「シスカ!斜め前の軍服の彼、わかる?」と囁いた。色恋ごとに縁のなさそうなシスカに対するからかいの気持ちも半分あった。
 しかしシスカはちらりと顔を上げてまた下を向くと「ああ……マグロだ」と冷たい声で言った。“マグロ”は国境軍の別称だが、“ヤマカガシ”というコードネームと違って蔑称の意味合いが強い。時には死体を表す隠語である上に、陸上では全く役に立たないからだ。ヨウコはシスカがこの隠語を使ったことに驚き、その話題に触れることを止めた。そしてしばらくシスカの横顔を見つめていたが、やがて手持無沙汰気にショルダーバッグから携帯端末を取り出した。

 5分ほどの間ヨウコは携帯端末の画面をシスカに見られないように操作していたが、発車の時間が迫るとそれをポケットにしまった。
「何の連絡?」シスカが訊いてきた。
「ううん、ちょっとお別れの連絡をね。急だったから」ヨウコは首を左右に振りながら答えた。
「だったら思いつきで行動しなければいいのに。あとから来てもちゃんと迎えに行くよ」シスカは固くなっていた表情を崩した。
「私は思い立ったら……の人だから。しょうがないのよ」ヨウコはシスカの表情に安堵しながら答えた。
「じゃぁ、行こうか。もう入線してるだろう」シスカが立ち上がった。

 シンキョウ駅の高速鉄道ホームは頭端式になっていて、行き止まりの6本の線路が7本の櫛状のホームに囲まれている。さらにホーム全体は巨大なドームに覆われ、心地よく響く出発のアナウンスが旅情をかき立てる。
 このレトロな雰囲気のホームは、イルマに高速鉄道が初めて作られたとき、以前から運用が面倒で取り壊しがささやかれていた古い駅を文化遺産に指定して転用した物だ。
 ヨウコはシスカの後について車両番号を確認しながら、自分が乗車する列車が停車している6番ホームを急いでいた。
 この駅の作りは古いのでホームが低く、車両のドアまでは高さがある。そのままではドアまで上がれないので、それぞれのドアの前には移動式のタラップが置いてある。シスカは立ち止まるとエントランスの方を見ていたが、すぐにヨウコの方を向いて「ここだ」とタラップを上がった。
 横に立っていたパーサーがスーツケースをデッキまで上げてくれる。ヨウコは、大きな荷物を持っていなかったので、そのままタラップを上がった。
「本当に身軽だな」シスカがあきれた様子で言った。
「思い立ったら……の人だから、って何回言わせるのよ」ヨウコが明るく答えると、シスカもつられて笑った。

 デッキから客室に入るとすぐに荷物置き場がある。ワンコインでロックをかけ、外すとコインが戻る方式だ。シスカはそこにスーツケースを置くとロックをかけ座席に向かった。座席は通路を挟んで2列ずつ並んでいて、家族連れや商用の乗客でほとんど満員だ。リザーブしたシートは進行方向左側で右側の2席はまだ空席だった。シスカはさっさと窓側に腰掛け、ヨウコは通路側に席を取った。
 何か気になることでもあるのか、シスカは座るとすぐに首を後ろにまげてホームを見下ろしている。ヨウコは荷物を頭上のラックに収納したが、その様子が気になって中腰になるとシスカの上から同じ方向を覗き込んだ。
 ホームの上には彼が立っている。軍服の彼だ。ホームの後方、エントランスの方向を見つめたままじっと立っている。
「気になる?」ヨウコはシスカが乗車前にエントランスの方を気にしていたのを思い出しながら、白い髪の上に顎をトンッと乗せて尋ねた。
「何が?」シスカの声はまた冷たくなった。
「彼、誰かを待ってるのかな?」
「さあ……」どうでもいいような口調だが、シスカの目は睨みつけるように厳しい。
 彼は苛ただしげにエントランスとホームの時計を交互に見ていたが、やがて諦めたように動きだし、タラップを駆け上がって列車に乗り込んだ。
 シスカはそれを確認すると外を見るのをやめ、顔をまっすぐ前に向けた。プラグドアが閉まる気配がして列車は静かに動き出した。
 プラットホームが流れ去り、古風な作りのドームを出た列車が少し速度を上げる頃、例の彼が客室に入ってきた。
 ヨウコの予想通り、彼は二人の通路を挟んだ反対側のシートの窓際に座った。通路側は彼の待ち人のためのリザーブなのだろう、空席のままだった。彼は気落ちした様子で流れ去る窓の向こうの景色を眺めている。シスカは厳しい視線でまっすぐ前を見つめたままだ。

 車内放送が次の停車駅がシンキョウセントラルであることを告げた。ビジネス街やショッピング街の中心にあるシンキョウ駅と違って、セントラル駅は官庁街の中心に有る。時間にして10分もかからない。列車は速度を上げきらないままシンキョウの堀端を進んでいく。
「何かあるの?」ヨウコはシスカの様子を気にしながら訊いた。
「なんでもない」前を見つめたままシスカは答える。
「とてもなんでもないという顔じゃないよ」ヨウコはいつもの癖で相手の表情の細かい動きを観察していた。
「あいつら国境軍は国境線の利害だけで動く。そこに住んでいる住民なんかどうでもいいんだ。だからマサゴでは鼻つまみ者だ。国境警備隊の方がずっとましだ。それだけだ」そう言った後、シスカの目は焦点を合わさなくなった。そして別人の様な声で続けた。「蜘蛛みたいな長い手足の大男なんだ。吐き気がするほど汚らわしい。ぞっとするほど悍ましい。思い出した……あのマーク……国境軍のだったんだ」ヨウコはシスカの発言を頭の中で繰り返した。シスカの生い立ちに係わる重要な情報に思えたのだ。
「長い手足の大男?誰のこと?あのマークって、国境軍のマークがどうしたの?」ヨウコはシスカの耳元に口を近づけると、シスカにだけ聞こえるような声で訊いた。
 シスカについてはライブラリを総動員して丁寧に調査をした。彼女の生い立ちには問題があって、精神的に不安定な部分を抱えているという結果が報告されていた。重い精神的な障害の診断が下されていたが、治療の結果今は安定していて、それがこのような形で表面に出てくることは無いという内容だったはずだ。
 だが今シスカは不安定になっている。国境軍のマーク、これが引き金になったのだろうか?
 そしてシスカはベクレラの生まれだ。純粋ではないと推測されるが、彼女にはベクル人の血が流れている。これは客観的な情報による確かな結論だった。シスカがなぜイルマに来たのか詳細は不明だったが、国境紛争の混乱に巻き込まれたのであろうことは容易に想像ができる。
 これほどまでにシスカの精神を追い込む何が起こったのか、自分の任務のためにも、そして短い時間の間に生じ始めているシスカへの友情のためにも、ヨウコはそれが知りたいと思っていた。
 常に沈着そして冷静に、全ての感情を廃して与えられた任務を遂行してきたゴリアテにとって、こんなことは初めてだった。
 シスカはヨウコの言葉に無反応だったが、突然前の座席の背をドスンと叩いた。
 前席の客が驚いてふり返ったので、ヨウコは慌てて愛想笑いを返し「すみません」と謝った。
「ごめん。もう訊かないから。ね!」ヨウコがそっと肩に手を置くと、シスカの目はヨウコの方を向いた。その瞳はヨウコを必死で確認しようとしているように細かく動いている。そしてようやくヨウコに焦点を合わせると、シスカは唇の端を微かに上げた。それは笑顔と呼ぶにはほど遠いものだった。

 列車は徐々に速度を落とし、セントラル駅のホームに滑り込む。
 セントラルは高速鉄道のために新しく建設された駅で、ホームはタラップを使わなくても乗車できるように高く作られている。列車は停車位置に向かって緩やかに減速を続けている。ヨウコはシスカの様子を気にしていたが、窓の向こうを走る人影に目を奪われた。グレイの大きな帽子とコートの女だ。彼女は列車に合わせて速度を落とし、列車が止まると同時に窓を覗き込んだ、そしてガラスを叩いた。シスカもその音に気付いて顔を上げたので2人して窓の外の女を見ることになった。彼女はなおも窓を叩いている。何か言っているがよく聞き取れない。周囲の乗客も何事が起ったのかとざわつき始めた。ヨウコも彼女の行動に驚いてはいたが、さらにヨウコを驚かせたのは彼女の瞳がシスカと同じライトブルーだったことだ。シスカも同じように思っているのか、驚いたように彼女の顔を見つめている。
 だが、彼女の視線はヨウコ達2人には向いていない。ヨウコは振り返って例の軍服の彼の方を向いた。彼はまだぼんやりと向こう側の窓から外を眺めている。列車は停止しプラグドアの開く気配がした。
「そこの軍人さん!」ヨウコは彼に呼びかけた。
 彼は窓の外から顔を戻した。そしてヨウコとシスカを見たが、すぐに2人の後ろ、窓の外にいる女に視線を合わせて立ち上がった。
「ヒムカ!」彼は確かにそう言った。女の名前だろうか。
 彼は突如行動した。頭上の収納ラックを開けて鞄を取り出すと、通路を前方に向かってダッシュしたのだ。
 すぐにプラグドアの閉じる気配がして、列車はそろりと動き出す。ヨウコはシスカの頭越しに窓の外を見つめる。シスカも同じように顔を窓の外に向ける。
 列車は徐々にスピードを上げながら1つになった2人の前を通過した。
 彼は彼女をしっかりと抱きしめていた。
 大きなグレーの帽子がポトリと落ちる。
 金色の豊かな髪がふわりと広がった。
「はぁ……綺麗!彼女ベクル人?」ヨウコがポツリと言った。
 ホームの2人はどんどん遠ざかる。
「国境軍の男とベクル人の女?ありえない組み合わせだね。でも彼女の作戦勝ちね」ヨウコの言葉にシスカが顔を上げる。
 ヨウコはシスカの疑問に答えた。「この恋を成就させるには、彼は国境軍を辞める必要があるもの」軽い感じで口に出してからヨウコはしまったと思ったが、シスカの表情は変わらない。
(大丈夫かな……)そう判断したヨウコは、シスカを見つめながら笑顔で言った。「2人に祝福を……」
 シスカは諦めたように笑顔を作った。
 満員の列車は2つの空席を残したまま、最高速度に向けて加速していった。

2014.05.31
 
 

Prologue Sikisima Miyuki Var.

「じゃあね!」ミユキはしっかりと繋いでいた手を離すと、手を軽く挙げてから角を曲がった。
「うん。また」そう言ったショウが自分の後ろ姿を見つめているのは分かっていたが、あえて振り向かないでなるべく早く彼の視界から消えるようにした。そして彼が行ってしまったことを確認すると、2人で一緒に登ってきた坂道を下り始めた。ビル群の向こうには濁った灰色の空をバックに大きな赤黒い太陽が沈んでいこうとしている。見たことの無い色・・・ミユキは不思議に思ったが、それより学校が閉まってしまう前に教室へ戻る必要があった。どうしてそんな必要があるんだろう?ミユキにはその理由がまったく思い浮かばなかった。

 ***

 ミユキが当番を終えて教室に戻ってきた時、ヤマネ・ショウは確かに変だった。
 同級生のショウとは、2か月ほど前に話しかけられてから、時々会話を交わすようになった。取っつきにくい部分もあったが、話してみるととても親しみやすかったし、音楽について造詣が深く、ミユキの好きなボーカルグループの話で盛り上がる事もあった。だが、まるで別人のようにミユキにまったく感心を示さない時もあった。すれ違いざまミユキが目で挨拶を送っても、まるで気が付かないように通り過ぎて行く。何故だろう?ミユキは不思議に思ったし、傷つきもした。実はショウは双子で、時々入れ替わっているとか?ミユキはそんなふうに勘ぐる時もあった。そして、そういうときは自分からは声をかないようにしていた。
 でも、今日はいつもとはいっそう違っていた。1人でぼんやりと教室に座っている彼は、まるで操り手を失った操り人形のように、全ての糸が弛んでしまっていた。操作をするための木の枠は傍の机の上に投げ捨てられ、操り手はどこか遠くの町へ出かけてしまっていた・・・。だから思い切って声をかけた。「元気ないね」
「あっ。いや。」顔を赤くしてドギマギする様子がとても可愛かったが、やはりいつものショウとは違っていた。
「どうしたの?もうみんな帰ったよ。当番済まして戻ってきたら1人でボーっと座ってるからびっくりしちゃった」
「え?みんな帰ったの?さっきチャイムが鳴ったのに」ショウは周りを見回した。
「だれも声をかけなかったの?チャイムが鳴ってからもう30分以上たってるよ。なんか最近おかしいね?具合悪いの?」
「うん。相当おかしいかもしれない」ショウは驚きながらも事情を話してくれた。
 時々自分の記憶が抜け落ちている事、自分では経験したことが無いはずの記憶がある事、そして自分のノートに見慣れぬ筆跡の文字が書かれている事。そしてその文字を見せてくれたが、ノートの文字は全く別人の物のように見えた。
「わざと字体を変えて書いて私の気を引こうとしてるとか?」ミユキが上目使いで見つめると「そんなことしない!」ショウは激しく抗議した。
「わかってる。悪かった。ごめん、ついね」可愛い!そう思いながらミユキは謝った。
 じゃぁ、いつも自分が話していたのはここにいるショウではなくてもう1人のショウなんじゃないの?だから別人のように思えるときもあったんだ。そう考え始めたとき、ミユキはふと思いついて質問した。「ヤマネ君、私と始めてしゃべってるって思ってる?」
 ショウが大きく目を見開いてミユキを見上げる。
「私何度かヤマネ君と音楽の話で意気投合してるんだよ。さっきの授業前の休み時間だってあなたと話をしていたんだよ」
「へっ?」ショウの声は裏返った。
「覚えてないんだ。こんなに歌に詳しかったかなあって、U・B・Aの話とか・・・。でも当番済ませて帰ってきたら全然違うでしょ。ボーっとして。どうしたのかと思って」ミユキはショウの目を見ながら話し続けた。
 理由はわからない、けれどショウは2つの人格を持っているんだ。ミユキの推測は確信に変わった。
「でもそれってショウともう一人誰かが出てきてるって事だよね?」ミユキはショウの顔をの覗き込むようにして尋ねた。
「そうかな?僕、そんなになるほど精神的プレッシャーなんかうけたことないんだけど……」ショウの顔は見る見る赤くなった。
 ミユキは口元に指を添えて頭をめぐらせた。ミユキは物事を正面から真っ直ぐに見ることは少ない。どちらかというと他人とは違った方向から見て判断する。
 今のショウと、いつも喋っていたショウ、2つの人格が存在するのならどちらのショウが本当のショウなんだろう?確か、主人格というメインの人格と交代人格が入れ変わって登場する。そんな精神的疾患があるということを本で読んだことがある。交代人格といってもとてもリアルで、出現していない時でも脳の中に作り出された別の世界でリアルな生活を送っている。とも書いてあった。ここにいるショウは主人格?それとも交代人格?どっちだろう。いつも喋っていたショウはどっち?そんなことは本人にも分からないことじゃないの?驚き方からしてきっとそうだ。ショウの記憶が途切れているときは、誰か別の人格がショウとして生きている。そしてこれまでわたしが喋っていたショウはその誰かだったんだ。きっと・・・。でもショウが精神的なプレッシャーを受けたことが無いのに、なぜ人格が2つもあるんだろう?今のショウがその誰かの交代人格……?だったらプレッシャーを受けたことが無いというのも説明が付く。私が休み時間に話したのが主人格かもしれない。きっとそうだ・・・。
「とりあえず帰らない?もう遅くなってるよ」ミユキは話を終わりにした。
 2人は校門を出ると国道を渡り、ニュータウンに繋がる坂道を登り始めた。

 ***

 坂を下り国道を渡ったミユキは校門をくぐって校舎に入り、急ぎ足で教室に向かう。もうあまり時間がない。夕日が沈んでしまう前に辿り着かなければならない。理由はわからない。早く!早く!ミユキは後ろのドアから教室に飛び込む。
 なんとか間に合ったようだ。室内は最後の夕日が差し込み、まだ充分に明度を保っている。そしてミユキはショウの席に誰かが座っていることに気がつく。
「誰?」声にしたつもりは無かったのに、言葉が口をついて出る。その誰かはゆっくりとこちらへ顔を向け始める。
 ミユキは息をのんだ。艶のあるプラチナの真っ直ぐな髪は、肩に届かないぐらいにカットされていて、それがまるで銀糸のようにキラキラと夕日を反射する。
 顔に光が当たり始め、光線が彼女の瞳に到達すると、その左側はライトブルーの、右側はブラウンの波長を返してくる。『オッドアイ』ミユキは唾を飲み込み、喉の奥で奇妙な音が鳴る。
 潤いのある2つの大きな瞳はそれぞれの波長でミユキの方を見つめている。感情を排除したその視線は左右で微妙に奥行きが異なり、ミユキをいっそう不安定な気持ちにさせる。
 顔はどちらかというと丸顔に分類され、東域系の特徴を持っている。だがその割には肌の色は白い。そしてそれらの特徴は彼女の容姿を現実離れした物に昇華させ、どこか別の世界から迷い込んできた妖精を連想させる。しかし真一文字に結ばれた小さめの口や、真ん中にきちんと置かれたやや小さめの鼻は、その意志の強さを端的に表している。
 彼女はゆっくりと立ち上がる。背丈は170センチを超えているだろうか、セージ・グリーンのフライトジャケット、胸には赤い星を3つあしらったワッペン、カーキ色のチノパンツ、それに黒っぽいスニーカー、格好だけを見ればまるで男だ。
 そこまでを照らし出すと夕日は役目を終えて舞台下へと去り、そろりと夕闇が忍び寄る。

シスカlimeさん作
このイラストの著作権はlimeさんに有ります。

「誰?」ミユキはもう一度繰り返す。
 彼女はまだ黙ってミユキを見つめている。いや、たぶん彼女は遙か彼方からじっとこちらの方向を、ミユキを通り越して遙か彼方をじっと見つめているのだ。それも左右の瞳で微妙に異なる彼方を。彼女に自分は見えていないのだろうか?質問は聞こえているのだろうか?そして彼女は本当にここに居るのだろうか?ミユキの精神はいっそう不安定に揺れ始め、振幅はどんどん大きくなっていく。
「あなたは誰?」三度ミユキが問う。
 彼女の意識がやって来る。ずっと彼方を見ていた視線はゆっくりとミユキに焦点を合わせる。
「ミユキ・・・」彼女は初めて口をきく。
「ショウ?ショウなの?」ミユキは彼女にショウを感じ、そのままの印象を口にする。
「うん。でもどうしたんだろう?どう見てもショウじゃないよね」彼女は自分の体を見下ろす。
「いつもはそのショウという男の子なんだけど・・・」と少し首を傾げる。
「あなたはショウの主人格?それとも交代人格?」
「わたしは時々ショウとして君に会っている。気が付いたらそうなっていたんだ。そうでない時はこの格好なんだけど」
「普段は女性なの?」
「こことはまた違う世界では、わたしはずっと女性だ。この姿をしている」彼女はまた自分の体を見下ろす。
「違う世界?それはここじゃない別の世界?」
「そう、こことはよく似ているけれど全然繋がっていない別の世界」
「その世界はあなたの精神が作り出した世界なのかな?」
「わたしはここが自分の精神が作り出した世界じゃないかと思っている」
「こんなにはっきりしているのに?」ミユキは自分の体をギュッと抱きしめる。
 ミユキは口元に指を添えて頭をめぐらせる。さっきショウと繋がって坂を登りながらこの世界こそ仮想世界なんじゃないか・・・と考えた。それは事実かもしれない。彼女がこの世界で今の体とショウの体の両方が使えているとしたら、もしそれが嘘でないのなら、この世界こそが仮想世界だという事になる。この世界が現実だという事なんか証明できない。だとしたらこの世界が誰かの脳の中に作り出された仮想の世界ということだってあり得るかもしれない。そうじゃ無い事なんてどうやって証明できるんだろう?
「あなたは現実なの?」
「現実か仮想かを聞いているなら、わたしは現実だ。でも仮想でもある」
「時と場合によるという事?」
「見る角度によって、という事かもしれない。でもわたしには正確なことは分からない。君が現実だということを証明できないのと同じように」
「私が?」
「そう、君は自分が現実だということをどうやって証明する?」
 ミユキは闇に飲み込まれたように黙り込む。実際に夜の闇がそこまで迫っている。
「あなたは誰?」四度ミユキが問う。
「シスカ」彼女はそう名乗る。薄くて少し引いた、作り出すのを失敗したような微笑みを浮かべながら。
「でも聞いても無駄かもしれない。多分あした目が覚めたら、いや、この後振り返ったらきっと忘れている」シスカは遙か彼方からミユキを見つめ続ける。

 ***

 3分の2ほど坂を登った時、ミユキはそのままショウに寄り添い、後ろに組んでいた手を解いて手を繋いだ。ショウは一瞬手を引っ込めようとしたが、ミユキは強くつかんで離さない。
 ショウの顔は火を吹きそうに赤くなる。『可愛い!』ミユキはショウと繋がったまま坂を登った。そして交差点の横断歩道を渡ったところでしっかりと繋いでいた手を離すと、「じゃあね!」手を軽く挙げてから角を曲がった。
「うん。また」そう言ったショウが自分の後ろ姿を見つめているのは分かっていた。
 日々の生活はこの恋の始まりも含めて時の流れと共に順番に過ぎていき、そして続きもやって来るように思えた。

しかし・・・・

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

オート・ローテーション

 プラチナの髪がフワリと揺れた。ロクがドアの鍵を下ろした瞬間、シスカが勢いよく振り返ったのだ。シスカは一瞬の戸惑いの後、ロクの胸に飛び込んできた。

 シスカがテロ組織から解放されてから、すでに3週間以上が経過していた。解放されてからはまずベクレラ側の事情聴取や手続きに数日、シンキョウへの移動に2日、健康診断に2日、国の特別調査委員会と軍の事情聴取に一週間、さらに警察の事情聴取に3日、その他の各種の手続きに3日、そして首都シンキョウからの移動に1日。家族や友人、仲間達の心配をよそに、シスカは世間から完全に隔離された。父親の立場であるロクは早く返してくれるように何度も要請したが、国家権力の前にその努力は空しいものになった。だがロクは根気強く要請を繰り返し、その効果があったのかは定かではなかったが、晴れて今日社会復帰することが出来たのだ。
 復帰は実に素っ気ないものだった。ロクがマサゴの警察本部に出頭し、シスカの身柄を引き取った・・・ただそれだけだった。ロク1人で来るようにとの但し書きがついていたし、親子水入らずで語り合いたいだろうという配慮もあって、サエやアツコ達は顔を出していない。あれだけ話題になったのに、マスコミ関係者の姿もない。ロクにとってはとてもありがたいことだったが、拍子抜けのする事態だった。何かしらの圧力が働いたのだろう・・・ロクはそう考えてこの事態を納得することにした。
「お父さんですね?」担当の婦人警官に尋ねられて「はい」と答えるのは何となく気恥ずかしかったが、反面誇らしくもあった。
 シスカは髪の毛を全て覆う防寒帽、目立たない色のコート姿で待っていて、ロクの姿を認めると何も言わず少しだけ微笑んだ。それから愛想の無い顔になって、手続きの終わるのを待っていた。署員達には感動の再開シーンを期待していたような節があったが、それは見事に裏切られた形になった。全ての手続きを終え、警察署長からのねぎらいの言葉を受けている間も、シスカはやはり愛想の無い顔を保っていた。
 2人は署長以下警察幹部のお見送り付きで警察本部を出て、ライトレール(マサゴ市内を走る路面電車)に乗り、とりあえずロクのアパートに向かった。そこはシスカの実家に当たる場所で、小学校5年生の時にここマサゴに引っ越してきてから、彼女はここで大きくなった。シスカは今、別のアパートで友人とルームシェアをして暮らしているが、連れ合いのナオミを亡くしてからロクが1人で暮らすそのアパートは、シスカにとって思い出のたくさん詰まった場所だった。ロクはライトレールの中で、注意深くシスカの様子を観察していたが、愛想のない硬い表情に変化は起こらなかった。停留所から道路を渡り、団地の中へと入り、正面に29と番号の振られた5階建ての建物が見えたとき、シスカの頬にようやく緩みのようなものが見えた。2人は階段を3階まで登り、ロクが鉄製のドアを開けた。先にシスカが玄関を入り帽子を取る。続いてロクが入ってドアのカギを降ろした。その瞬間だった。待っていたようにシスカが行動を起こしたのだ。

 シスカの柔らかい体はロクの腕の中にあった。シスカは静かにゆっくりと、そして大きく呼吸をしていた。体温が伝わってくる。ロクにはシスカを抱きしめた経験が数え切れないほどある。混乱したシスカは、時には石の様に硬く強張り、時には泣き声を上げ、鼻水やよだれを垂らし、喚き、震え、時には暴力も振るった。だが、今は強張るでもなく、泣き声を上げるでもなく、震えるでもなく、ただロクにしがみついている。ロクよりも上背があるシスカは、前にかがみになって顎をロクの肩に乗せていて、その暖かい息がロクのうなじをそっとかすめる。ほとんど白に近いプラチナの髪が顔に触れる。シスカの微かな体臭が感じられる。ロクは思わず両手をシスカの背中に回し、力を込めた。シスカの1対の乳房がより一層はっきりと感じられる。ロクが力を弛めようとしたその瞬間、シスカは肩に乗せていた顎を上げ、ロクの正面に顔を回すと、その唇をロクの唇に合わせた。激しい口づけになった。シスカの舌がまるで別の生き物のように入り込んでくる。それに答えようとしたロクは、意識の中にナオミの影が浮かび上がってくるのを感じた。難民たちの中にシスカを見つけた時、シスカに触れようとして指を激しく咬まれた時、シスカを引き取りたいと打ち明けてきた時、それに反対した自分を激しく罵った時、シスカの手を曳いて気まずそうに自分の前に立った時、その時々のナオミの顔が浮かびあがる。ロクは自分の欲望に最大限の制御をかけ、シスカの頬を押さえて唇を離した。
「勘弁してくれよ・・・」ロクは優しくそう呟くとシスカの体を離し、自分との距離を取った。
「ごめん・・・」シスカは放心したような顔でそう言うと、ロクに背を向けダイニングキッチンへ向かった。
 玄関でそれを見送ったロクは自分の寝室に入り、ゆったりとした部屋着に着替えて心を落ち着かせた。そしてユーティリティーで顔や手を洗いうがいを済ませてから、ダイニングキッチンに顔を出した。
 シスカはダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。コートは隣の椅子の背にかけられている。
「おかえり」ロクは努めて平静を装って声を出した。
「ただいま」シスカがはにかみながら答えた。
「大変だったな・・・。疲れたろう?少し眠るか?」ロクはようやく労いの言葉をかけることができた。
「ううん」シスカは顔を左右に振った。「大丈夫。話したいことがたくさんあるんだ。今、眠ってなんかいられない」シスカの声が強くなった。
「そうだな。俺も聞きたいことが山ほどある。どこかへ食事に行くか?それとも・・・」全部を言い終わる前にシスカが言葉を被せた。
「家で食べたい。誰にも邪魔されたくないんだ」
「わかった。じゃぁ、食事の支度をしながらでいいか?材料はたっぷりと揃えてある。酒もな」ロクは最後の部分に力を込めた。
「そうしよう!何を作る?」シスカの顔に笑顔が戻ってきた。2人は並んで冷蔵庫を覗き込んだ。
 夕食を作りながらシスカは話し始めた。最初から順を追って、正確に少しずつ、ロクは要所要所で的確に質問を挟み、バラバラになりそうな話を纏めて行った。オルガで何が起こったのか、拉致されてからどうなったのか、話はシスカの生い立ちの話や家族の話にまで及んだ。それは長い長い話になって、夕食の支度が終わり、入浴のためのインターバルを取り、ゆっくりと食事を終えても、まだ尽きなかった。夜が更け、そして夜明けがやって来た。
 そしてその日、ロクはシスカとのフライトチームを解消した。そしてシスカにパイロットの資格を取るように命令した。精神に大きな問題を抱えていたシスカは、パイロット資格条項の規定を満たせず、パイロットになることはできない。パイロットになるためには治療を受け、精神的に抱えている問題をクリアする必要があった。ロクはここ最近のシスカの言動から、この問題はすでにクリアできている可能性が高いと判断していた。大学病院の診察の予約はすでに取ってあった。診察を受け、パイロット資格条項を満たすことが当面のシスカの任務であり、その次の任務は資格試験に合格することだ。その任務を全うするまでこの家に帰ってくるな。ロクはそう宣言した。
 シスカは別のパイロットとチームを組んで仕事を再開し、日常生活は友人のアツコとの共同生活に戻った。そしてスケジュール通り大学病院で診察を受け、パイロット資格条項をクリアし、受験資格を得た。シスカは整備士だったが飛行経験は豊富だったし、飛行に関する専門的な知識も問題の無いレベルだった。だから、実技試験をクリアし、パイロットの資格を得るまでにそんなに長い期間は必要なかった。だがシスカが合格の通知を受け取った時、その喜びを一番に伝えたい相手は身近にはいなかった。



 AW289は設定された高度いっぱいで巡航している。
 このAW289型ヘリコプターはやや旧式に分類され、アビオニクスも新型に比べると見劣りがする。だが初飛行以来発生したバグを1つ1つ潰して得られた、いわゆる涸れたメカニズムは、最新の機種では得られない、一種の信頼感をもたらしてる。ロクはパイロットとして機種を選り好みできる立場にはなかったが、こんな辺境でこの機種に当たったことに幸運を感じていた。キタカタでも乗務していた機種であり、癖さえつかめば操縦桿もしっくりと手に馴染んだ。
 ロクはゆっくりと進行方向を見渡した。キャノピーの外はどちらを向いても見渡す限りすべてが砂漠だ。それはある意味洗練された砂色の美しい世界だったが、高温、細かい砂、気まぐれな砂嵐、すべての環境は劣悪だった。だがそんな環境の中、フライトは微妙なバランスを保ちながら順調に推移している。今のところは、という但し書き付ではあるが・・・。気温が相当に高いため空気の密度が低く、設定通りの高度を維持するためには、いつも以上に神経を使う。ロクはコ・パイロット席に座っているキャシーにチラリと目をやった。キャシーはそれに気づくと瞬間的に笑みを浮かべたが、またすぐに見張り業務に戻った。
 キャシーはここへ赴任してからコンビを組んだ整備士で、いっしょに飛び始めて3年になる。年齢は33、明るくて仕事熱心だが、コンビを組んだ頃はまだ経験が浅く、整備士としての技量はいまいちだった。だが意欲的で吸収が早く、まるで乾燥した海綿体の様に知識と経験を吸収し、ロクと組んで3年で優秀な整備士に成長した。ロクは優秀な教官でもあった。
「どうだ?順調か?」ロクはキャシーの亜麻色のお下げ髪に声をかけた。
「はい。問題ありません」キャシーはロクに背を向けたまま答えた。見張りに余念が無い様子だ。
「だったらいい。最初はどうなるかと思ったけどな」
「機体じゃなくて私のことですか?だったらいろいろ問題はあります。けど何とかなっていますか?」キャシーは振り向き、透き通るようなブルーの瞳をロクに向けた。
 ロクは虚を突かれたように一瞬たじろいだが、「期待通りの働きができているよ」そう言って、すぐに前方へ視線を戻した。キャシーは満足そうな顔になってまた見張り業務に戻った。彼女の瞳のブルーはシスカの左の瞳とよく似ていた。
 間もなく進行方向に背の高い櫓が見えてきた。新しく開発が始まった油田で、そこが目的地だ。ロクは指でその方向を指し示し、キャシーに合図を送った。キャシーはホッとしたように頷くと、マイクのスイッチを入れ無線交信を始めた。AW289は、いつものように左から回り込み、一旦ホバリングしてからスムーズに着陸した。
 積んでいた荷物を降ろすともう夕方だった。機体を格納庫に入れチェックを済ませると、キャシーを先に宿舎に向かわせた。ロクはキャシーの背中を見送ってから現地本部と連絡を取り、報告と翌日のスケジュールについて打ち合わせをした。それからキャプテンシートで日報を記載する。ロクはいつもそうやってゆっくりとパイロットモードから休息モードへと自分の神経を切り替えた。シスカが相棒だった時は、彼女はその間コ・パイロット席に座って待っていた。そして大概2人で並んで引き上げた。
 日報を書き終えたロクは格納庫を出るとヘリポートの脇を抜けて宿舎へ向かって歩きはじめるた。夕日が彼方の砂丘に近づき、徐々に大気が赤く染まり始める。夜間のエリア外への外出が禁止されているイルマの町の住人であったロクは、条件反射的に早足になった。
 宿舎までの通路はパイプラインに沿って続いている。ロクはそのパイプラインの点検用ステップの上にキャシーが座っているのに気が付いた。待っていたのか?そういう感じが見て取れたので、ロクは声をかけた。
「キャシー。先に戻っていいんだぞ。明日も早朝からフライトだし」
「キタハラさん」キャシーはロクのことを名字で呼んでいる。「ちょっと、お話させていただいてかまいませんか?」
「かまわないが・・・なんだ?」
「キタハラさんはサイトを出て行かれるつもりなんですか?」
「その話、どこで聞いた?」ロクは驚いて声を荒げた。
「うちのサイトでは有名な話ですよ。けっこう流れてます」キャシーは慣れている様子で平然と答える。
「そうか、ここは何も無いところだから、秘密というものは存在できないのかもしれないな。どんな重要な秘密でもダダ漏れだ」
「じゃあ・・・」キャシーはロクの顔を伺った。
「ああ、出て行こうと思っている。人事に話を付けたから、間もなく辞令が出るだろう。君も一人前に育ったから、俺の下にずっと付いていることもない」
「でも・・・」キャシーは言い淀んだ。
「大丈夫だ。心配することはない。君はもう充分な技術と経験を持った一人前の整備士だ。新しいパートナーのこともちゃんと考えてある」
「ありがとうございます」キャシーは力なく礼を言った。「それでイルマに戻られるんですか?」
「いや、当面戻るつもりは無い」ロクは当然の事のように返事をした。
「え?じゃぁ、どちらへ?」
「北極だ」
「北極!」透き通るようなブルーの瞳が大きく見開かれる。
「そうだ。イオナイオラのサイトへ向かうつもりだ」イオナイオラは数年前、極北に設置された最も新しいサイトだ。
「どうしてイオナイオラなんですか?」
「イオナイオラは慢性的な人手不足だ。希望すればまず100%認められる。それでだ」
「そうじゃなくて・・・」キャシーは少し苛ついたように言った。「キタハラさんご家族は?・・・あ、すみません、立ち入りすぎていたらお答えいただかなくて結構です。話を終わりにしますから」
「いや、かまわないが、君はこういう話を避けているとずっと思っていた」
「ですね。避けていたんですが、今はちょっと・・・」
「そうか」ロクは少し微笑んで続けた。「一度は結婚したんだがな」
「した?」
「ああ、だがもう妻は死んでしまった・・・」
「そう、ですか・・・お子さんは?」
「娘が1人」ポツリとロクが答える。
「娘さんは心配されてません?」
「さあ、どうだろうな・・・。聞いたことはない。娘はもう一人前だし、お互いに独立して生活している。前に会ったのはもう5年も前だ」
「そうですか・・・」沈黙が続いた。
 ロクは質問を促されているように感じて口を開いた。「こっちこそ立ち入ったことを聞いて悪いが、キャシー、君は結婚しているのか?」
 キャシーは自嘲するように顔を歪めてから「キタハラさんと同じです」と言った。「ダンナはまだ生きていますけど・・・」そう続けた声は残念そうにも聞こえた。
「そうか。子供は?」
「いません。私にとってはまだそこが救いですけど・・・」
「そういうものかな」
「子供は嫌いです・・・」その声は本音とは思えなかった。
 キャシーは話を続けた。「私は3年間キタハラさんとコンビを組ませてもらって、キタハラさんのことをとても尊敬しています。そして素敵な方だと思っています」
「それはありがとう。だが・・・」ロクに顔は一瞬揺るんだが、すくに硬くなった。
「あ、黙って聞いてください。その、なんていうか、愛の告白じゃありませんから」キャシーはロクの発言を押さえ込むように付け加えた。
 ロクは“愛”という言葉に少し驚いたが、黙って続きを促した。
「キタハラさんにはちゃんと決まった人がいて、もう私が入り込む余地はないんだろうなって、そんな感じがするんです。だからそういう話ではありません」
「どう感じようと君の自由だが?」
「すみません。支離滅裂ですよね。ちゃんと本題をお話しします」キャシーはそこで一度大きく息を吸い込んだ。そして覚悟を決めたように言った。「私もご一緒していいですか?」
「どういうことだ?」
「私もイオナイオラへついて行ってもいいですか?つまりキタハラさんとのチームを続けさせてほしいということです。いけませんか?希望すればまず100%認められるんでしょ?」キャシーの言葉は挑みかかるように響く。
 ロクはキャシーの真意を測りかねて黙っていた。
「せっかく仕事を覚えてやりがいを感じ始めてきたところです。このままキタハラさんの下でキャリアを積みたいです。私には家族と呼べるものはないので、どこへ行っても平気です。キタハラさんは私が邪魔ですか?」キャシーはさらに食い下がる。
 ロクはすぐには返事をせずにキャシーをじっと見つめた。キャシーも負けずに見つめ返す。ロクの脳裏を極北の厳しい風景がかすめた。
「やっぱり・・・」キャシーが言葉を続けようとしたがロクの携帯の呼び出し音がそれを遮った。
 発信者を確認すると「悪い」ロクはキャシーに詫びを入れ、着信ボタンを押した。「もしもし」
「緊急事態だ!」クラモチの濁声が響いた。クラモチは以前ロクが一緒に仕事をしていた海洋調査会社のプロジェクトリーダーだ。今でもシスカは奴の現場で仕事をしているはずだ。
「シスカに何かあったのか?」嫌な予感を感じてロクの声に力が入った。
 クラモチは要領よく要点だけを伝えた。短い通話だったが深刻さはキャシーにも伝わったようだ。
 通話を終えると「娘さんのことですか?」キャシーが訊いた。
「ああ、燃料切れの時間になっても目的地に着かないそうだ」
「娘さんもパイロットなんですか?」
「ああ、俺達と同類だ。ヘリに乗っている」
「それじゃ、すぐに行ってあげないと」
「俺が駆けつけてもどうにもなるもんじゃない。それに俺が今ここを抜けるわけには・・・」
「行ってあげてください!どうにかなるかなんて分からないけど、なるべく近くに居てあげて!それが親であるあなたの務めでしょう?」キャシーの声は大きくなった。
「まだ落ちたって決まったわけじゃない。どこかに上手く降りているかもしれない。あいつは腕のいいパイロットだし、腕のいい整備士でもある」
「でも・・・」
 再度ロクの携帯の呼び出し音が鳴る。今度はサイトの本部からの電話だった。背を向けて短い通話を終えると、ロクはキャシーに向き直った。
「本部からも同じ連絡があった。本部はすぐに最寄りの空港へ向かえと言っている。クラモチの野郎、手を回したな。転勤や君のこともあるし、さてどうしたものかな」
「行ってあげてください!イオナイオラの事や私の事より、娘さんの無事を確認することの方が大切です」
「むう・・・」ロクは彼方の砂丘に沈もうとしている夕日の方に目をやった。彼方では砂が舞っているのだろうか、沈みゆく太陽はいっそう赤黒く、あたりの空気層までも同じ色に染め上げている。少しずつ光が弱まり始めた。ふと気が付くと、キャシーも同じように夕日を見つめている。僅かの時間、ロクは夕日に染まるキャシーの横顔を見つめていた。それは美しい横顔だった。
 大気の温度が下がり始める。2人は点検用ステップの上に並んで、弱まっていく光を受け入れている。今度はキャシーがロクの方を向いたが、2人の間に会話は無い。ロクはすでに結論を出していたし、キャシーにはそれが伝わっているようだった。太陽は徐々に砂丘の向こうに姿を隠し、やがて点になって消えた。赤黒く染まっていた大気は色を失い、世界に闇が訪れた。



 シンダで乗り継いだ飛行機はYeK40という26席の小型のジェット機だった。後部に3つの小さなジェットエンジンを備えたSTOL性に優れた機体だ。
 荒れた、あるいは未舗装の滑走路にも対応したランディングギアーを持ち、尾部にはタラップすら自前で装備している。砂利の、しかもデコボコの短い滑走路、タラップすらないエプロン、そんな超ローカル空港への飛行を想定した機体だ。
 シンダ空港では慌ただしい乗継だった上に、NETはおろか携帯電話も繋がらなかった。情報に飢えていたロクの苛立ちは増したが、どうしようもなかった。目的地のヌイシュは、広い国土を持つベクレラの中でも有数の僻地だ。海に面した町なので船で接近することはたやすいが、陸路で接近することは不可能に近い。海以外に残された接近方法は航空機だけというような土地だった。
 シスカのヘリコプターはそのヌイシュへ向かう途中消息を絶った。到着予定時刻になっても、燃料の切れる時刻になっても到着しなかった。だがシスカのことだ、きっとどこかに上手く着陸している。ロクはそう信じていたし、今のところそう信じる以外に精神を安定させる方法が無かった。またそう信じるための根拠もたくさん持ち合わせていた。万が一のことを考えるのはそうなってからでいい。ロクは肝を座らせた。
 飛行機が高度を下げ始めた。アナウンスも何もないが、間もなく着陸のようだ。窓の下に見えていた海はやがて無限に森林に変わり、飛行機は小さな町の上を通過する。ヌイシュの町だ。小さな漁村だったこの町は、天然ガスの開発のためのサテライトとして、ここ十数年で大きく発展した。着陸しようとしている飛行場もほんの数年前に開港したばかりで、1日に1便が就航している。町を過ぎるとすぐに辺りは深い森になり、その中に滑走路が拓かれている。飛行機は森の木々より高度を下げ、すぐに大きな衝撃が来た。なんとか滑走路に滑り込んだようだ。機体はガタガタと滑走を続け、やがて速度を落とすと停止した。砂ぼこりで窓の外も見えない。飛行機は滑走路の端で向きを変え、やはりガタガタと滑走路を逆走し、その脇に設けられた広場に入って行った。どうやらそこがエプロンのようだ。働かない客室乗務員が通路を後ろへ進み、タラップを降ろす。ほぼ満員の客は立ち上がって降りる準備を始めた。
 ロクはタラップを降りてエプロンに立った。イルマでは晩秋と呼ばれる季節だが、ここではもう氷点下だ。乾燥した冷たい風が吹き付けてくる。灼熱の砂漠都市からやって来た身には酷く堪える。ロクは慌てて防寒着を着込みながら、ここまで乗ってきた機体を見上げた。T字型の垂直尾翼の下には小さな3機のジェットエンジンが装備されている。30席クラスの小さな機体にしては多すぎるそのエンジンは、1機が故障して修理できなくても、そのまま2機のエンジンで引き返すためだと聞いたことがある。さもありなん・・・ロクは何もない空港の様子を眺めながらそんな感想を持った。
 係員が機体から荷物を下ろし始めた。どうやらここで受け取れと言うことらしい。ベクレラ東域のローカルルールのようだが、ロクは荷物を預けていなかったのでその場を離れた。ロクの荷物は慌ただしく出発したときに、身の回りの物を適当に詰め込んだショルダーバッグ1つだけだった。
 デコボコで雑草の生えたエプロンの端には急ごしらえのプレハブ小屋が建っていて、それがターミナルビルの役割を担っているようだ。ロクは係員に誘導されてその建物に入った。建物の中は到着ロビーらしきスペースになっていた。
 建物の中は、出発を待つ乗客や見送りの人々、到着した乗客を出迎える人々でそれなりに混雑していた。この町と外界が接続する一日に一度のイベントだ。人数は少ないがそれぞれにドラマがあるのだろう。
 空港にはヘリコプター会社の現地駐在員が出迎えてくれる手はずになっている。ロクはカードを持って立つ人々を見渡し、KITAHARAのカードを探した。その時、「キタハラ!」聞き覚えのある声を聞いたような気がしてロクは振り返った。『幻聴か?』ロクは視線を彷徨わせる。「キタハラ!こっちだ」また声がしてその方向に顔を向けると、そこに見覚えのある顔があった。
 プラチナの髪、白い肌、形の良い鼻、引き結んだ口元、そして透き通るようなブルーと焦げ茶のオッドアイ、暫くの間その顔を見つめてから「シスカか?」ようやくロクが声を出した。確かにシスカだ。シスカは照れくさそうに微笑んだ。
 横にはKITAHARAのカードをもった男が立っている。ロクは腑抜けの様にその男の方を向いて「どうなってるんだ?」と訊いた。
「キタハラさんですか?」男は笑顔を見せるとまずロクを確認した。ロクが頷くと、「私はヌイシュ駐在のアシダと申します。どうぞよろしく」と自己紹介した。
「こちらこそ・・・」ロクはキツネにつままれた様な顔でシスカを見ながら、半分上の空で応えた。アシダと名乗った男は手元の書類を確認し「お疲れでしょうからまずホテルへ向かいましょう。事情はホテルへの道々でお話します。車はこちらです」と告げ、先に立って歩き出した。
 ロクはまだ放心状態で突っ立っていたが、「行こう!」とシスカに促され、ようやく歩き出した。ロクはそのシスカにちゃんと足が付いていることを確認した。
 車が動き始めるとハンドルを握ったアシダが事の成り行きを説明した。それによると、シスカが操縦するヘリコプターは電気系統のトラブルで動力を失い、オートローテーション操作でなんとか川沿いの開けたスペースに不時着したということだった。トラブルが電気系統だったために無線も使えず、行方不明のまま数日を過ごすことになったらしい。昨日ようやく捜索のヘリコプターに発見され、数時間前にここヌイシュに着いたところだということだった。
 ロクは真剣な顔で事情の説明を受けていたが、途中からはシスカを睨み付ける顔になった。シスカは覚悟をしていたらしく、神妙に説明が終わるのを待っている。
「お前らしくないな」ロクは説明が終わると開口一番そう言った。「ごめん・・・なさい」シスカは俯いて詫びを言った。アシダはその様子をミラー越しに見ていたが、続けて業務上の連絡を行い、そしてこれからの予定を告げた。「お二人にはとりあえずホテルに入っていただきます。2部屋お取りしたかったのですが、けっこう混み合ってましてね。ツインベッドルームのスウィートを1部屋確保するのがやっとでした。ま、親子ですからよろしいですよね?」
 ロクとシスカは顔を見合わせた。そしてアシダの方を向いて同時に頷いた。
「ありがとうございます」アシダはミラー越しに礼を言った。「シスカさんからは5年ぶりの再会だと聞いています。ゆっくりと近況などをお話しなすってください。明朝9時にお迎えに上がります。本社への報告はそれからということにしましょう」そして最後に付け加えた。「あ、それからNETと携帯はここでは繋がりませんから」
 ヌイシュの町はほとんど2階建ての建物で構成されていて、大きな建物はほとんどない。しかも四角い箱の様な実用的な建物ばかりが並んでいる。それは開発当初のマサゴの町を彷彿とさせる風景だった。ロクはナオミと出会ったころのマサゴの町の様子を思い出していた。『雰囲気が今のシスカと似ているのか・・・』ロクは窓の外を眺めているシスカを見ながらそう思った。それはロクの若いころのほんのり甘い記憶と重なった。
 間もなくホテルらしき建物が見え始めた。
 やはりそれはホテルで、車を降りると2人はアシダについてロビーに入った。フロントでの手続きを見守っていたアシダはサインを終えたロクに「では明朝9時にロビーから電話を入れます。もちろん部屋の電話にですが・・・」と告げると帰って行った。ロクもシスカも荷物はほとんど無かったのでボーイは手持ちぶさただったが、とりあえず部屋へ案内してくれた。一通りの説明を終えたボーイにロクはチップを渡した。
「ありがとうございます。どうぞごゆっくりお過ごしください」ボーイは笑顔でそれを受け取ると部屋を出てドアを閉めた。クローゼットの前に静かに佇んでいたシスカは、閉まったドアを背にする位置に移動し、後ろ手に鍵を閉めた。



 ロクは目を瞑ったまま大きく息を吐き出した。体には何も纏っていない。ただ柔らかい毛布だけが体を覆っている。キングサイズのベッドはロクの体を最適の堅さで受け止めている。左側に感じる質量はシスカのものだ。同じ毛布の中で、同じように何も纏わず、透き通るようなブルーと焦げ茶のオッドアイでじっとこちらを見つめているのだろう。強い視線の気配に加えて、穏やかだが熱い呼気、そして微かな体臭まで感じられる。
 シスカに応えられないのではないか?そういう心配は必要なかった。それは目的を果たすには充分な形態を保った。そして激しいものになった。
 光による刺激を断った脳裏に一瞬ナオミの影が現れ、そして消えた。避難民救済センターで頭に触れようとしたナオミの指に激しく噛みついたシスカ。一瞬の出来事に驚くナオミ。滲み出し、滴り落ちる真っ赤な血。ナオミは何故シスカに目を留めたのだろう?ナオミは子供の生めない体だった。だからシスカを自分の子供にしたいと思ったのだろうか?ロクは今でも単純にそう考えることが出来ない。避難民救済センターでシスカを目にしたときからロクには予感があった。だから、ナオミがシスカを引き取りたいと言ってきたとき、強く反対したのだ。ロクはシスカを初めて見たとき強く引きつけられた。そして、その引きつけられ方に普通で無いものを感じ、シスカに近づくことを拒否したのだ。ナオミはシスカに何を求めたのだろう?それはこの世から彼女が居なくなってしまった今、確かめる術はない。
『ナオミ・・・お前の意思なのか・・・』ロクはそう唇を動かしたが、声は出なかった。
 ロクはゆっくりと目を開けた。そこにはやはりオッドアイがあった。じっとこちらを見つめている。そして少し微笑んで、ロクの耳元に口を近づけた。
「僕をお嫁さんにしてくれないか」シスカは確かにそう言った。
 ロクにとってそれは驚くべき提案であるはずだった。だが、それは今の段階で実際に口にされると、受け入れるべき提案のように思われた。それよりもロクにとってシスカが再び“僕”を使ったことの方が驚きだった。
「僕?」ロクはシスカの目を覗き込みながら呟いた。
「ううん・・・わたし」シスカは何でも無いという様子で訂正した。そして・・・。
「わたしをお嫁さんにしてくれないか」と繰り返した。
「・・・」ロクは静かにシスカを見つめている。
「わたしは危険物だ。だから熟知した者が取り扱わないととても危険なんだ・・・」頬にプラチナブロンドの髪が降りかかる。
 シスカが唇を合わせた。
 ロクはプラチナの髪を両手で包み込んだ。
 それは合意の合図だった。だが、ロクにはこのままシスカとの生活を続けられないだろうという予感があった。
 一瞬、極北の厳しい風景が脳裏をかすめた。

2016.02.17

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

Cassie in the sky with ……

「ロク!大丈夫?視界はあるの?!」キャシーはマイクに向かって叫んだ。
「今のところ大丈夫だ。丁度ブリザードの隙間に入り込んだみたいだな」スピーカーからロクの声が飛び出してくる。キャシーの居る北極イオナイオラのサイトはブリザードの真っただ中にあった。 キャシーは今、見張り担当(ワッチ)として管制官と共に当直に当たっている。さらに今は緊急出動中なのでサイトのリーダーであるクリスが指揮を執り、サブリーダー達も詰めているので管制室は人でいっぱいだ。
 管制室は建物の中でも一番高い位置にあって、四方が窓になっている。滑走路やヘリポートが見渡せるように配慮されているのだが、サイト自体がブリザードの中にある現在の状態では、四方の窓の向こうには薄ら暗いホワイトアウトの世界が広がっているだけで、まったく意味をなさない。さらに不安を煽るように建物にぶつかる風が不気味な唸り声をあげる。建物には充分な強度が与えられているはずだが、それでも窓ガラスや構造物は軋み、その不安定な揺れと鈍い音がさらに不安を煽りたてる。
 もちろんヘリポートやエプロンに出ている機体は一つもない。全ての機体は格納庫の中に格納され、嵐が通り過ぎるのを待っている。ただ一機を除いては・・・。

 緊急事態は今朝から始まった。
「ロク、じゃあちょっと行ってくる」キャシーはベッドに居るロクに声をかけた。当直に入る時刻が迫っていた。素早く自分の部屋へ戻って着替える必要がある。
「ああ、俺だけが休暇で悪いな」ロクは申し訳なさそうに言った。
「しょうがないわ。順番だし。それにこれも仕事なんだから」キャシーは笑顔になってロクの方を見た。
 イオナイオラのサイトは結構自由な空気を持っていて、男性の部屋から女性が出てきても取り立てて咎められるようなことはない。お互い様ということもあるのだろう。その方面の事にはあえて触れない・・・そういう不文律が出来上がっている。全ては自己責任ということだ。それでもキャシーはドアからそっと顔を出して廊下に誰もいない事を確認してから、足音を忍ばせて自分の部屋へ戻った。そして大急ぎで作業服に着替え、何事もなかったように静かに管制室に顔を出すつもりだった。ところが、管制室は蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
 管制室にはイオナイオラ・サイトに対する緊急出動要請が入っていた。急激に発達した低気圧による強風で、タグボートで曳航中だったリグの固定ロープが切れたということだった。曳航中のリグは嵐の影響を避けるため厳重に固定されていたのだが、嵐の規模が想定以上に大きかった。リグは漂流を始め、氷山と接触し浸水が始まった。取り残された作業員たちは懸命に排水作業を続けたが浸水に追いつかず、ついに脱出を決めたのだ。
 だが問題はどうやって救出するかだ。リグは流されて氷山に取り囲まれ、船による接近は無理だ。さらにこの強風の中、空からの救出なども自殺行為に思われた。ただちに関係者が招集され緊急事態の把握と対応が検討された。
 パイロットとして選ばれたのはこのサイトで一番のベテランであるロクだった。当然チームを組むキャシーは自分が参加できると思っていたが、レスキュー要員と要救護者を乗せると定員オーバーになってしまう。嵐の中では少しでも軽い方がいいということで、キャシーはバックアップに回ることになった。キャシーは行きたかったが、自分が参加することでリスクが増すと言われれば、強硬な主張はできなかった。
 メンバーはそれで何とか決定したが、出動できるかどうかの判断は微妙だった。キャシーから見ても飛行は困難に思えたし、リーダーのクリスも出動を見合わせる判断を下そうとした。
 だがロクが反対した。大丈夫だと言うのだ。
 ロクは天気図をモニターに表示させると、低気圧の予想進路のデータを示しながら救出作戦の行程を説明した。
「だが、低気圧の進路が予測より北だったら、あるいは速度が上がったらどうするんだ」クリスが問題点を指摘した。
「低気圧の方が速かったらイエローポイントのサイトへ向かう。進路が北にぶれたらサイアミのサイトへ向かう。それで問題はないはずだ」
「むう・・・」それは合理的な考えだったのでクリスたちは反論できない。
「もうほとんど時間が無い。遅れるとこの対応を取る余裕もなくなる。それに俺達が向かわないと、奴らを見殺しにすることになる」ロクは強く主張した。
「最悪の場合、救助を放棄してイエローポイントかサイアミに非難することを出発の条件にしたい。どうだ?」クリスが言った。
「俺はパイロットだ。冒険家やヒーローじゃない」ロクは口元に笑みを浮かべた。
 キャシーはロクを見つめる。ロクは『大丈夫だ』という表情で見つめ返した。
「よし!20分で用意しろ!風が強くなる前に出発だ」クリスが結論を出した。
「15分で用意します」整備士のキャシーが告げた。
「頼むぞ」ロクがキャシーの肩にポンと手を置いた。キャシーは肩に置かれたその手にそっと触れ、ロクの顔を見上げた。ロクはそれに答えて落ち着いた視線を返す・・・それだけだった。キャシーは立ち上がると管制室を飛び出し、格納庫へ急いだ。整備は万全にしておきたかった。

「ヘリポートを使えそうか?」クリスが確認する。石油採掘用のリグには採掘用の設備や居住施設の他に、ヘリポートが設けられているのが普通だ。
「今の状態なら、何とか使えそうだ。作業員が手を振っているのが見える。9人、いや10人だ」ロクが答える。
「全員だな」クリスが人数を確認した。
「気を付けて!ロク」横手からキャシーが声をかける。
「わかってる」ノイズの向こうからロクが返事をする。
 ロクが救援に向かった遭難現場では、まだ低気圧の影響は限定的なようだ。上手くいくことを願ってキャシーは小さくお祈りの言葉を口にした。生まれてこの方、神なんかに祈ったことはなかったのに。
「接近する」緊迫したロク声は、ノイズの向こうにさらに遠くなった。
 緊迫の時間が経過する。キャシーの緊張の糸が極限まで引き延ばされた時。
「着床した!」ロクの無線が入った。
「収容作業急げ!」無線はロクが指示する声まで拾い上げる。キャシーは胸の前で手を組んだ。『早く!早く!早く!』呪文のように繰り返す。
「収容作業終了。全員無事だ。離床する!」
 全員が固唾をのんで耳を澄ませる。
「高度が取れた」ロクの声がスピーカーから飛び出した。
 ドオッと歓声が起こった。いつの間にか管制室は人でいっぱいになり、廊下まで人で溢れていた。それだけの人間が一斉に歓声を上げたのだ。
 キャシーの目から熱い物が溢れ出た。キャシーは両手の袖で交互にそれを拭ったが、どう頑張ってもそれを隠すことはできなかった。
 クリスがポンと肩を叩いてくれた。キャシーの顔は余計にグシャグシャになった。
「低気圧の野郎、ちょっと速いようだ。イエローポイントへ向かいたい。どうだ?クリス、その判断で?」
「ちょっと待て」クリスはモニターを覗き込んだ。周りにサブリーダーと管制官を集めて少しの時間話し込む。
「OKだ。それで行こう。イエローポイントへ向かってくれ」
「了解。イエローポイントへ向かう」復唱してからロクは続けた。
「ところでキャシーは居るか?」ロクの声に全員が黙り込む。キャシーがマイクの前に押し出された。
「なに?」キャシーは愛想悪く答える。
「ちょっと帰りが遅くなる。その間仕事にあぶれるが、我慢してくれ」
「了解、その間ゆっくりさせてもらうわ」キャシーの声は優しさを増し・・・。
「通信終わり!また連絡する」ロクの声は明るさを取りもどしていた。
 だが、それが最後の通信になった。



 ヘリコプターは燃料切れの時刻になっても、イエローポイントに到着しなかった。翌日ブリザードが去ってから、捜索隊が不時着したヘリコプターを発見し、要救護者を収容した。
 不幸中の幸いと言うべきだろう、犠牲者は1人で済み、この遭難の状況にしては生存率は非常に高かった。漂流したリグは作業員達が脱出した後、北極海に没していたから、脱出できなければ全員が助からなかっただろう。事態はそれほど切迫していた。
 犠牲者はヘリコプターのパイロットだった。最後まで操縦をしていたため、安全姿勢をとることが出来なかったのだ。彼は収容された病院で死亡し、その最期は彼のチームメイトが看取った。彼の配偶者が駆けつけたが間に合わなかった。
 不時着の原因は明らかになっていない。


2016.02.21
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
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プロフィール
こんにちは!サーカスへようこそ! 二人の左紀、サキと先が共同でブログを作っています。
ようこそ!


頂き物のイラスト

アスタリスクのパイロット、アルマク。キルケさんに書いていただいたイラストです。
ラグランジア
左からシスカ、サヤカ(コトリ)、サエ。ユズキさんにイラストを描いていただきました~。掌編「1006(ラグランジア)」の1シーンです。
天使のささやき_limeさん2
limeさんのイラストをイメージにSSを書いてみました。「ダイヤモンド・ダスト」
イラストをクリックすると記事に飛びます。よろしければご覧くださいネ!
スカイさんシスカイメージ
スカイさんのシスカイメージ
シスカ・イメージ高橋月子さん作
シスカ・イメージ 高橋月子さん作
シスカ・イメージlimeさん作
シスカ・イメージ limeさん作 コトリ・イメージユズキさん作
コトリ(コンステレーションにて)ユズキさん作
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