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Debris circus

Debris circus

頭の中に散らばっていた破片(debris)を改めて文章に書き起こし、オリジナルブログ小説としてサーカスの舞台に上げていきます。読みにくいものもありますが、お暇な時にパラパラとめくる感じででも読んでいただけたら嬉しいです……

 

絵夢の素敵な日常(3)(2012-07-07)

2012.07.09微妙に校正
2012.07.14絵夢の性格に微妙にかかわる若干の修正

 絵夢はレースをあしらった白のワンピースに身を包んでいた。その上にマリンブルーのベストを羽織っている。全体としてシンプルなデザインだが、胸元のペンダントやレースがアクセントになって、細身の彼女に良く似合っていた。黒く長い髪は後ろにまとめ、イヤリングが耳元に揺れている。絵夢はガラス張りの壁面の前で一瞬立ち止まってガラスに映り込む自分をすばやく確認すると、レストランの自動ドアセンサーの感知圏に入っていった。
「いらっしゃいませ」スタッフが控えめに声をかけた。
「ヴィンデミアトリックスですけれども……」(待ってるかな?)連絡も無しに遅れた絵夢は確認を取るような口調で告げた。
「ヴィンデミアトリックス様、お連れ様がお待ちです。こちらへどうぞ」スタッフは絵夢からベストを預かるとクロークに渡し、よく訓練された身のこなしでホールを横切り、一番奥の窓際のテーブルへと案内した。
 天井まで届く大きな窓からは、夜のとばりの中に浮かび上がる宝石をちりばめたタワーのような超高層のビルを幾つも見下ろすことができた。
 その素晴らしい夜景を背景に彼は立ち上がって絵夢を迎えた。「やあ絵夢。少し遅かったね。仕事、忙しいの?」
 白いワンピースの絵夢は少し微笑むとそのまま椅子の前に立ち、スタッフが椅子を合わせるのを待って優雅に腰掛けた。
「メニューはボクがチョイスしておいたよ。文句は無しだ。遅れた罰だよ。でも気に入ると思うよ」彼は絵夢の目を見ながら悪戯っぽく言ってからスタッフに向かって「じゃあ。始めてください」と言った。
 ゆっくりとワインが運ばれてきた。彼がテイスティングを済ませると、それは最良のコンディションで2人のグラスに注がれた。
「じゃぁ」グラスを軽く合わせる時、彼は「君の瞳に……」と歯の浮くような台詞を口にした。多分これは歯の浮くことを計算でやっている。
 絵夢はクイィッとワイングラスを空にすると、今までずっと我慢していた話題を口にした。「ヒッグス粒子が見つかったかもって、発表されたね!!!」
 彼の瞳は意味不明な言語の登場に一瞬宙をさまよったが、すぐに落ち着きを取り戻し口元に曖昧な笑みを浮かべた。
 絵夢はその曖昧な笑みを微笑みと解釈し、長い長い感想と意見と絵夢なりの素粒子論と量子力学を踏まえた解説を始めた。

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テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(1)(2012-05-21)

(注)山西にしては驚異的な速さで書いてUPしています。ですから校正・修正なんでも有り得ます。お許しください。
2012.07.15さっそく微妙に校正

「お嬢様!」「絵夢お嬢様!!」黒磯は玄関を入ると声をかけた。時計は午前6時をさしている。
 返事は無い。「お嬢様!」もう一度声をかけてから「上がらせていただきます」と入り込み、廊下からリビングそしてキッチン・ベランダと覗いてトイレ・浴室まで手馴れた様子で確認していく。
 寝室のドアの前で立ち止まりもう一度「お嬢様!」と声をかけ「開けさせていただきますよ!」とゆっくりとドアを開けた。部屋の中とクローゼットを確認するが誰もいない。
「逃げられたか!!」黒磯は携帯電話を取り出すとボタンを操作した。「山本。駐車場はどうだ?……何!無い。やはりそうか。車を玄関にまわせ。お追いするぞ!だいたい立ち寄られる先はわかっているからな。急げ!」黒磯は寝室を出ると丁寧にドアを閉めもう一度部屋を確認してから玄関を出た。ダブルロックをかける音が部屋に響いた。

 その音を確認し、暫く待ってから絵夢はベランダの壁を離れた。ここは上手い具合に死角になっていて、リビングから覗いただけでは見つからない。そのままそっとリビングの様子を窺う。(大丈夫)ゆっくりとリビングに入って他の部屋も確認する。(大丈夫)前に鍵の音だけさせて隠れられていたことがあった。その時はクローゼットの奥に隠れていたのだが、帰ったと思って出て行って捕まってしまったのだ。今日は隠れる場所も工夫したし、車も友達の所に預かってもらい万全の準備をした。思った以上に上手くいった。
 絵夢はやっと安心してデスクの引き出しから何かを取り出した。日食観察グラスだ。そう、今から金環日食があるのだ。
 今日は父親の関係でどうしても出席しなければならない集まりがあって、その準備の為に黒磯が迎えに来ていたのだが、絵夢はそんなつまらない集まりよりも日食が見たかったのだ。日食の観察の為に2時間ぐらい準備が遅れてもなんてことは無い。絵夢はそう思っていた。
 絵夢はそれを持ってベランダへ出た。雲はかなり出ているが太陽の周りにはかかっていない。一旦下を向いて観察グラスを目に当ててからそのまま顔を上げて太陽の方を向く、太陽は端の方から欠け始めていた。絵夢は暫くじっと眺めていたが、一旦リビングに入ると朝食の用意を始めた。時々ベランダに出ては暫く観察し、また朝食の用意を続ける。それを繰り返しながら過ごしていると、だんだん金環になる時間が近づいてくる。絵夢はベランダの椅子に腰を据えてその瞬間を待った。
 絵夢の住んでいるマンションは南側に開けた丘陵の上にあって、遠くの都市からその向こうに広がる海までを一望に見渡すことができる。しかし絵夢は広がっているいつもの風景に、ふと不思議な雰囲気を感じて立ち上がった。太陽は輝いているのに何か違う。
(夕暮れ?)そうまるで夕暮れが迫ったように……、まるで黄泉の世界に堕ちていくように、世界が沈んでいるのだ。
 何千年も前の古代の人々は皆既日食が起こった時、それは恐怖に慄いただろう。(真っ暗になるんだもの)でも金環の時はそれほど暗くなるわけではない。しかしこの不思議な雰囲気はなんだろう。現代人よりも遙かに自然に関して感性の強かったと思われる古代の人々は、どんな気持ちでこの金環日食を体験したのだろう。暫く古代人の気持ちを想像していた絵夢は、ふとそれどころではないことに気付いて、あわてて観察グラスを目に当てて太陽の方を向いた。
 金環が完成しようとしていた。このマンションは金環が見られる地域のほぼ北限にあるため、月はほんの少しの間だけ絵夢の見ている前で太陽の前に完全に立ち塞がり金環を作り出した。
 息を呑む美しさだった。
 やがて月は太陽の前からゆっくりと退場し始め金環の幕は閉じた。絵夢は一旦太陽から目を離し観察グラスを外した。長時間の観察は禁止されているのだ。
 その時一陣の冷たい風が絵夢の長い髪を揺らせた。半そでの腕を思わず抱え込むほど冷たい風だった。
 絵夢は周りを見回した。月の影の中で気温が下がったのだろうか。科学的には納得できるが、黄泉色の空気の中とても不思議な体験だった。その貴重な体験を充分に堪能してから、絵夢は朝食を食べにリビングに入っていった。
 世界は黄泉から徐々に現世に帰りつつあった。

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絵夢の素敵な日常(4)(2012-08-03):前編

 空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の気持ちなど全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

 絵夢・ヴィンデミアトリックスはちらりと腕時計を見た。17時40分、ロビーは混雑し始めていた。
 絵夢は福岡空港の出発ロビーに座っている。大きなガラス窓の向こうには滑走路が横たわっていて、今ハワイアン航空のB767-300ER(多分)が滑り込むように着陸していった。
 絵夢が乗るANA428便は乗り継ぎの客の接続の為、10分ほど出発が遅れるという案内が表示されている。絵夢は手早く携帯を操作して黒磯にその旨メールを入れた。必要ないと何度も言ったのだが、直帰するなら山本を大阪空港まで迎えにやらせると言って聞かないのだ。仕方なく了承したがいつまでも子ども扱いは困ったものだ。
 小さくため息をついてから、絵夢はまた膝の上の本の世界に戻っていった。膝の上には「ノルウェイの森」の文庫本が乗っている。絵夢は何度読んでもどこから読んでも読めてしまうこの小説が好きだったし、この小説のイントロはここで読むのにピッタリの雰囲気だった。

 B767-300は滑走路をフルパワーで加速し始めた。絵夢はこの瞬間に感じることのできるGが大好きだ。いつものように窓際の席でしだいに上にしなってゆく翼を見つめながら、次に来る浮遊感を待っていた。
 夕方の到着便の混雑で428便は結局20分遅れて出発した。絵夢は個人的に利用する場合はプレミアムクラスを利用することが多いが、仕事で利用する場合は会社の規定なので普通席を利用する。座席はいつも希望する左側窓際翼の前は取れず、右側の窓際翼のやや後ろだった。大阪空港に着陸する時は左側の窓から見える大阪都心の夜景がとても綺麗なのだが、今回は着陸が午後7時ごろなのでまだ明るい。左側に固執する理由はなかった。
 地面はどんどん遠くなり、ギアアップの振動が伝わり、フラップが収納された。そして翼をふって左へと旋回しながら薄い雲を突っ切り充分に高度が上がると、絵夢はようやく安心して一旦本の世界へと戻っていった。

 絵夢はふと気になって窓から下を覗いた。遙か下には細長く伸びた島?が見え、その尾根の上に白いものがたくさん一列に並んで動いている。良く見るとそれは風車で、ゆっくりと羽根を回している。(風力発電なんだ。ずいぶんたくさんあるけど、どこだろう?)絵夢は前の座席の背のポケットにあった冊子の航空路地図を開いた。地形と地図を見比べると、見えている細長い陸地は四国の佐多岬半島であることがわかった。伊方原発のあるところだ。こんなに大きな原発のある半島にこんなにたくさんの風力発電機があることに、絵夢は意外性を感じていた。(まるで電力半島だ。この半島の尾根沿いに目一杯風車を立てたとして、この原発の分を補うことはできるんだろうか?)長い半島を眼下に絵夢はそんなことを考えていた。

 飛行機は四国の山間部に差し掛かっていた。
 本を閉じて、また下を覗き込んだ絵夢は息を呑んだ。下界は水蒸気をたっぷりと含んだ大気に覆われているのだろう。丁度夕日は高度を下げ地表付近には当たらなくなっている。それらのせいで、地表は濃い緑と青を含んだ薄墨を和紙の上に何層にも何層にも塗り重ねたような深い色に染まっていた。濃い灰色などという簡単な表現ではとても表せない色合いだった。
 その下地の上には、夕日の当たっている輝く白の部分と、もう日の当たらない類白色の部分が偶然によって配置された雲が、鹿の子模様の様にポカリポカリと浮かんでいた。その大自然がこともなげに作り出した地表の情景は、霞の中ぼかしを加えながら地平線付近まで広がり、その先は夕焼けの色を吸い込んで薄い桃色に染まっていた。
「お客様、お客様」ようやく呼びかけられていることに気付いた絵夢は、窓の外から視線を戻した。「お飲み物はいかがですか?」アテンダントが笑顔を向けていた。(何回くらい呼ばれていたんだろう?)少し顔が赤くなるのを感じながら絵夢はホットコーヒーを注文した。

 飛行機は紀伊水道に向かって順調に飛行していた。

 絵夢の素敵な日常(4)(2012-08-03):後編に続く…


テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(4)(2012-08-03):後編

空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の気持ちなど全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

 飛行機は紀伊水道を越えると紀伊山脈上空でゆっくりと左に旋回し、進行方向を変えた。左側への緩やかな機体の傾斜を感じた絵夢は本を閉じ、窓から下を覗き始めた。
 眼下には紀伊山脈の濃い緑が広がっていたが、そこから人類の生活圏上空にに進入して、スポイラーを展開しフラップを徐々におろした。
 そして生駒山上空へ差し掛かると機体を傾けて旋回しILS(計器着陸装置)の信号に乗ると、大阪空港への進入を開始した。ギアダウンの振動と音が伝わってきた。
 眼下に広がる町も郊外からだんだん建物の密度が上がり背が高くなってきた。もう夕日は沈んでいるがまだ夜がやってくるには少し早い時間だ。絵夢は後ろへと飛び去って行く人間の生活を遥か上空から眺めていた。いよいよ高度が下がってきた。反対側の窓からだったら大阪城が過ぎ去り大阪都心の高層ビル群が見えて来る頃だ。もっと暗くなってからだと左側の席からは素晴らしい夜景が見えるはずだ。(もう一本遅い便だったら悔しい思いをしたかな……)そんなことを考えているうちに前方に大きな川が見えてきた。
 この川を飛び越えたら、いくらも時間をかけずに着陸の瞬間がやって来る。絵夢はその瞬間が一番苦手だった。ドスンと主脚が接地してからやや遅れて前輪が接地し、甲高い逆噴射の音がして減速が始まるまでのほんの短い時間だが、いつも手のひらに薄っすらと汗を感じるのだ。絵夢はこの人類の英知を集めた最新の乗り物が大好きだったが、完全には信用していなかった。
 大きな川に差し掛かろうとした時、飛行機は不意に絵夢の側の主翼を上げて左へと旋回を始めた。いつもなら水平のまま真っすぐ滑走路に向かうはずだ。「14(ワンフォー)だ!」絵夢は思わずひとりごとで呟いてしまい慌てて口元を押さえた。そしてニヤけてくる口元を隠すためにそのポーズを続けたまま窓の外を眺めていた。やがて飛行機は絵夢の側の主翼を下げ右に旋回を始めた。高度が下がっているので町の様子がつぶさに見える。絵夢は席が右側で正解だったと小躍りする気分だった。
 大阪空港は通常南側から侵入しそのまま真っすぐ着陸する。だが南風が強い時はそのままだと着陸時に追い風になって機体が不安定になるため、逆方向から進入する事がある。これには色々な通称があるが、その1つが滑走路の向きを示す番号から付いた14だ。途中までは通常のルートで降りてくるが、さっきのように滑走路の手前で左に旋回し、空港の西側の市街地上空を滑走路と平行に飛行し、反対側に出てぐるりと右にUターンして北側から着陸するのだ。この着陸コースは低い高度で市街地上空を長時間飛行するため騒音の問題があることや、ILSが使えない、急旋回直後の着陸のため操縦が難しい、などの理由であまり使われることはない。風の問題が解決するとすぐに通常のコースに戻ってしまうため、しょっちゅう利用している絵夢でもこの14滑走路への着陸は始めてだった。
 右旋回を終えた飛行機は暫く直進する。すぐ向こうに大阪空港の滑走路が平行して見えている。まもなく北側から滑走路に進入するためのUターンが始まる。これは“伊丹カーブ”とも呼ばれ、その昔、香港の啓徳空港(現在は閉港)で見られた香港カーブには及ばないが、やはりパイロットの経験と技量を必要とすると言われている。絵夢は父親が、香港カーブについて「翼の先がアパートの軒先の洗濯物を引っ掛けそうだったよ」と大げさに語るのを、そして大阪空港にまだ国際線が就航していたころ、この伊丹カーブをさまざまな国のカラフルな飛行機、B747-100やSP.B727.DC10などが翼を揺らして通過していった様子を懐かしそうに語るのを思い出していた。ただ当時は騒音も物凄かったらしい。
 飛行機は右旋回を始め機体を右側に傾けたので、絵夢が張り付いている窓の向こうの地上の風景は、手が届きそうなほど近くに感じられた。いつも絵夢が生活している街角の角度を変えた風景が、歩いている人が誰か分かるくらい近くを通り過ぎてゆく。細かくコースを調整し微妙に傾きを変化させる機体と、微妙に変化するエンジン音を感じながら、絵夢の手のひらにはやはり汗が浮いていた。やがて飛行機は伊丹カーブを終えると一気に機体を水平にして、そのままドスンと主脚を滑走路14Rに降ろした。すぐに前輪も着地し甲高い逆噴射の音が響いた。減速のGをシートベルトで受け速度が充分に落ちると、絵夢はようやく緊張を緩めた。
 機内アナウンスが流れ大阪国際空港への到着を告げている。飛行機は駐機スポットへタキシングを始めた。機体が停止すると乗客は降りる支度を始めたが、絵夢はまだゆっくりと外を見ていた。機外には乗客の荷物を降ろすための作業車がゆっくりと近づいて来るのが見えた。
 ドアが開いて乗客が動き始めた。絵夢は暫く待って乗客がほとんど降りてしまってから、バッグを棚から降ろし通路を歩き始めた。山本は待つのには慣れっこになっているはずだ。通路の途中に飲み物をサービスしてくれたアテンダントが立っていて、にこやかに「ご搭乗ありがとうございました」と言った。そして「ずっと外を見てらっしゃいましたね。飛行機がお好きなんですか?」と遠慮気味に尋ねた。
 絵夢は優雅に微笑んで「ええ。とっても……」と答えた。
 そしてまた少し赤くなった。
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絵夢の素敵な日常(5)(2012-08-18)

 空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の気持ちなど全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

 絵夢は目を開けた。あたりはまだ暗い。大気は過飽和の状態まで水蒸気を含み、皮膚の表面の汗は気化を妨げられていた。我慢が限界に達しようとしたその時、微かな涼風が網戸にした廊下側の格子の入った窓から、ベランダ側へと抜けていった。近くでスコールでも降っているのだろうか。汗はようやく気化でき、絵夢の体感温度は下がった。
 部屋はオートロックとセキュリティシステム完備のマンションの高層階だったので、窓を開けて眠ることも可能だった。そして絵夢はエアコンが嫌いだった。
 暗闇の中、目覚まし時計に手を伸ばし小さなLEDを点灯させると、デジタルのパネルは午前2時を表示していた。
(喉がかわいたな。ちょっと塩辛かったのかな)絵夢は夕食のメニューの中から心当たりを探していた。水分の不足は体にも良くない。我慢しようかとも思ったが、やはり我慢が出来ずゆっくりと起き上がると、ベッドから足を下ろしスリッパを履いてキッチンへ向かった。キッチンへ入るといつもの位置に目印が小さく光る照明のスイッチを入れた。
 一瞬で真昼の明るさがやってきた。そのことに戸惑ったのは絵夢の目だけではなかった。白い床に黒い流線型の物体が動くのが見えたのだ。絵夢の背中に悪寒が走るのと同時に、それは何を思ったのか、それとも単に混乱したのか、高速で絵夢の方へ向かってきた。絵夢は悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えながら、すばやく決断を下した。
 このまま朝までずっと不安におびえて眠るのか、それとも安心して眠るのかの決断だった。絵夢は一瞬でより良い選択が出来るように教育されている。
 足をすばやくそして正確に動かして逃走しようとしていたその黒い物体の上に置いたのだ。
 もちろんその黒い物体は、人類より長い歴史を持ちツヤツヤした黒い甲殻と長い触角を持つ昆虫綱の生き物だ。
 長い生存競争の歴史を戦い抜いてきた兵士である軍曹(絵夢のイメージでは老練な軍曹だった)は、今、スリッパと床の間に挟まれて最後の抵抗を試みていた。ガサゴソガサゴソ……6本の脚を全力で動かして脱出を図っているのが足裏から伝わってくる。
 絵夢は最初の一瞬こそ驚きと恐怖の顔をしていたが、今は平静な顔を保っていた。やがてゆっくりと目をつぶると、一瞬ためらってから(ごめんなさい。軍曹)足先に力を込めた。プチッ……軍曹は生命活動を停止した。
 絵夢はスリッパをそこに置いたままティッシュペーパーを何枚か取ってくると軍曹を処理した。そしてスリッパの裏と床を除菌スプレーをかけ丁寧に拭き取った。
 すべての処置を終え丁寧に手を洗ってから、冷蔵庫のペットボトルに冷えていた水を飲んだ絵夢は、大きなあくびをかみ殺してから寝室へと戻っていった。
 また蒸し暑い暗闇が帰ってきた。ただその中には少しだけ涼しい空気の流れが感じられるようになっていた。

 絵夢、ごめんなさい。書いてしまいました。(素敵になんて感じてない!)グッと睨みつけるあの黒い瞳が目に浮かぶようです。

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絵夢の素敵な日常(2)(2012-06-06)

>これは、あれですね。記念掌編ですね。ひゃっほう!(お祭り騒ぎが好きらしい)(by夕さん)……
と言うことで記念掌編です。 2012.08.26さっそく微妙に校正:08.26そしてさらに追記

 空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の気持ちなど全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

 今日は朝から曇りがちの天気だったのに、絵夢は空ばかり見上げていた。今、絵夢は講習会に出席するため会場に向かうバスの座席に座っていたが、やはり窓から空を見上げていた。
 やがてバスのアナウンスは次が終点であることを告げた。絵夢の行く講習会場はそこから徒歩3分程の所にある。バスが終点の停留所に到着しようとした時、雲の切れ間から太陽が顔を覗かせた。雲の動きから見て、しばらくは雲に入ることはなさそうだ。また空を見上げていた絵夢は、他人に見られないように顔を窓の外に向けたまま微笑んだ。
 バスを降りると絵夢は右手につけた腕時計で時間を確認してから、すぐ横の公園に入って行った。そしてベンチを見つけるとそこに腰かけてショルダーバックを開け、少し周りを見渡してから何かを取りだした。
 取り出したのは例の日食観察グラスだ。一旦下を向いて観察グラスを目に当ててからそのまま顔を上げて太陽の方を向く、じっと目を凝らすとオレンジ色の丸い太陽の中に小さな丸い粒がホクロのように映っていた。「金星だ!見えた」絵夢は小さな声で叫んだ。2012年6月6日、21世紀では最後の「金星の太陽面通過」が絵夢の目の前で起こっている。
 次回は105年後、2117年12月11日だ。おそらく、いやもうほぼ完全にこの瞬間世界で生を受けている人間にとって人生最後のチャンスだ。そして生まれたばかりや、これから暫くの間に生まれる人間にはもう見られる機会は無いのだ。
 非常に見にくい小さな丸い粒だが思っていたより大きく見えた。「金星ってけっこう大きいんだ」大きさを太陽と比較しながら絵夢の空想は膨らんでいった。実際は金星の方がずっと近くにあるので、そのまま大きさを比較することは出来ないのだが。

 ウェヌス一族の最後の末裔であるエムは、果てしなく広がるピンク色の砂の大地の真ん中をたった1人で歩いていた。上空から降り注ぐ強い太陽の光と、容赦なく吹き付ける高温の風がエムの肌を焼いていった。
 増え続けた炭酸ガスはこの星の気温を徐々に上昇させ、高温に焼けた大気は熱波を伴った砂嵐となって次々と村を町をそして都市を焼き尽くし砂に埋めた。長い時間をかけて一族が構成を調整し続けてきた大気は、ある時点から一族の制御を拒否し、ついにこの星の太古の姿に戻ろうとしているのだ。
 この星で生きていくことを望んで、この星に残ったエム達にとって、もう打つ手は無かった。わずかでも可能性のある手は全て打った。しかしこの星はあらゆる手立てを拒否し、たくさんの同族を奪い、ついにはエムの最愛のパートナーを奪った。最後の1人になったエムはすべての可能性が無くなった事を確認し終えると覚悟を決め、保護パワードスーツを出て太陽の元を歩き始めたのだ。
 すぐにエムの肌や肺は高温の大気にさらされ蛋白は変性し水分を失っていった。体温が上昇し意識が遠くなってゆく。エムはパートナーの名前を呼び、最後に数歩前に歩いてからドゥと倒れた。
 吹き続ける熱風は砂に刻まれたエムの足跡を消し去り、その上に風紋を描いていった。さらにエムの体も砂の中に取り込んで完全に痕跡を消し去ろうとするかのように、絶え間なく吹き付けていた。

 絵夢は溜まった涙を拭くために、下を向いて観察グラスを顔からはずした。(太陽を長く見つめすぎたのかな?)絵夢はそう考えようとしていたが、そのせいばかりでは無いことはわかっていた。ハンカチを出して涙を拭うと、絵夢は急ぎ足で講習会場へ向かった。昼の休憩の間に、もう一度観察の機会があるはずだ。
 金星は太陽の中を進んでいた。いつものように強烈な太陽光線が金星に降り注ぎ、大気に含まれる膨大な量の二酸化炭素による温室効果によって、地表温度は500℃に達していた。
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絵夢の素敵な日常(6)(2012-10-23)

空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の都合など全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。
今日は「Stella」用ハロウィン企画バージョンです。
Stella/s


 絵夢はベッドの中で目を開けた。まだ夜明けには相当に早いようで、部屋の中は真っ暗だ。
 なぜ目が覚めたんだろう?寝ぼけ眼で絵夢は考えた。ハロウィンのカボチャ、ジャックランタンが追いかけてきて……、絵夢はそんな夢を見ていたような気がして、目が覚めたのはそのせいだろうと思った。

ジャックランタン
A Jack o' Lantern made for the Holywell Manor Halloween celebrations in 2003.Photograph by Toby Ord on 31 Oct 2003. {{cc-by-sa-2.5}}

 でも絵夢はハロウィンについてはあまり関心を持っていない。クリスマスほどにはという意味でだが……。クリスマスに関しては絵夢は小さい頃からたくさんの思い出があった。天井まで届きそうな大きな本物のクリスマスツリー、てっぺんに光る星、輝くオーナメント、点滅するイルミネーション、靴下に入れられたプレゼント、美味しそうなケーキ、揺らめく蝋燭、家族との楽しい会話、静かに降り続ける白い雪。何もかもがふうっと浮き上がってくるような楽しい思い出だ。
 でもハロウィンには何も無い。日本では最近になって注目されるようになった行事だが、絵夢はまだまだ歴史が浅いという感想を持っていた。絵夢ぐらい以上の年齢になると幼い頃の思い出が何も無いのだ。クリスマスにあけられたアドバンテージは大きかった。
 でも、だからと言ってオレンジのカボチャに追いかけられる謂れはない。じゃあ、なぜ追いかけられて目が覚めたの?闇の中で思考を巡らせていたその時、絵夢は自分の頭の下に敷かれた自分の右腕に思いが至った。そう、目が覚めたときから絵夢の右腕は枕の替わりに頭の下に敷かれていた。そっと右腕の先に付いている指を動かしてみる。
 そこには指があるなどという感覚は一切無かった。右手の指はまるで最初から無かったように絵夢の意思をまったく無視した。まさか!絵夢は右手の上からそっと頭をどけ、左手で右手の指を触ってみた。そこには冷たくなった死に人の指があった。力なく左手に弄ばれるままになっている右手の指はプラプラと揺れた。触られている感触も無い。
 右手は死んだの?絵夢は少し動揺しながらも少し待ってみることにした。ずいぶん長い時間が経過したように思われた頃、少しづつ右手の先に痺れのような感覚が戻ってきた。力を入れると微かに動きを感じる。徐々に痺れは大きくなり指の動きも大きくなってきた。ジンジンという痺れが、戻ってきた血液の流れと共に感じられる。それと共に、そしてついに、右手は全体の感触と動きを取り戻した。絵夢はベッドの上で身を起こすと左手で右手を握って存在を確かめた。そして入念にマッサージした。確かに右手は存在している。そして動いているし暖かい。
 絵夢はホッとすると同時に目を覚まさなければ本当に右手は死んでしまったのかもしれないと思った。そして目を覚まさせてくれたジャックランタンに少しだけ感謝した。
 絵夢にとって初めてのハロウィンの小さな思い出ができた瞬間だった。
 安心した絵夢は、その後にやってくるクリスマスのスケジュールに思いを馳せながら、眠りに戻った。両手をお腹の上に載せて……

 おやすみなさい。

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絵夢の素敵な日常(7)

「Debris circus」4000HIT記念

 空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の気持ちなど全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

「お嬢様!」「絵夢お嬢様!!」黒磯は玄関を入ると声をかけた。時計は午前10時をさしている。返事は無い。「お嬢様!」もう一度声をかけてから「上がらせていただきます」と入り込み、いつものように各部屋を手馴れた様子で確認していく。もちろんベランダに出て前回気付かなかったスペースも覗きこむ。前回はここに潜まれていて見つけることができなかったのだ。
 キッチンからベランダへ出るドアのカギが、外からも開ける事の出来るタイプに替えられていることに気付いたのはつい先日のことだ。外から鍵を開けることができるということは、自ずからベランダに絵夢の秘密が存在するということで、そのスペースの発見にはいくらも時間はかからなかった。
「逃げられたか……」黒磯はリビングに入ると丁寧に窓を閉め、もう一度部屋を確認してから玄関を出た。ダブルロックをかける音が部屋に響いた。

 昼過ぎの地下鉄四つ橋線難波駅は乗客の数も少なく、先に降りた乗客はすでにエスカレーターや階段を忙しげに登っていった。最後に電車を降りた絵夢はゆっくりと歩き、ホームの一番南側の端にある登り口にたどり着くと、いきなりクルリと振り返りホームに人影が無いのを確認した。そして再び向き直り、今度は歩調を速めてエスカレーターを歩いて登り、改札を抜け迷路のような階段を上下して地上に出ると裏通りに入った。両側に夜の客を迎える店が並んだ狭い通りには、白日の下に曳き出された夜行性動物の困惑と違和の気配が漂っていた。絵夢はその気配をないまぜにした哀れみに似た感覚を抱きながら通りを抜け、11月のまだ冷え切らない風に長い髪を揺らしてスクランブル交差点を渡った。
 たくさんの歩行者に紛れて高島屋の東のはずれを少し南に下り、そこからさらに東へ歩を進めると通称“オタロード”と呼ばれる通りが南へ伸びている。仮想と現実、快楽と苦悩、繁栄と衰退、相反するものが混然となって存在するこの街はある種の高いエネルギーを発している。絵夢はそれを、生命力などとはまた違った未知のエネルギーのように感じていた。
 ゲームソフトやフィギィアやカードゲームそれにPCパーツなどのショップが並ぶ通りを進み、メイド服やネコ耳の女の子の横を抜けると左に折れ、くたびれたビルの入り口をくぐった。
 そして何度も折り返しのある狭い階段を3階まで登ると“SOLARIS”と小さなプラスチックの板に書かれた札の付いた灰色のドアの前に立った。絵夢はもう一度階段の方を確認してからドアを開け中に入った。
 薄暗いドアの中は細長いカウンターになっていて、3人の初老の男が並んで座り何事か話しこんでいる。カウンターの中にはこれも初老の身長の高い痩せた男がグラスを拭いていたが、入って来た絵夢をちらりと見るとまた元の作業に戻った。3人は一番奥から並んで腰かけていたので、絵夢は彼らから少し間隔をあけて、ドアから3つ目の椅子に腰をかけた。すると手前に腰かけていた小柄な男が声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、お嬢ちゃん、ここは会員制やで。その辺の店とおんなじように好奇心で入ってきてもうたら困りまんなぁ」
 絵夢が口を開こうとした時、カウンターの中の男が声を出した。
「おい!カスレ。この子はええんや。偉そうにいうな」
「なんやいな。こんな若いお嬢ちゃんの会員なんか、わしは聞いたことも見たこともないで。なあ、お前ら」「そうや、そうや」
カスレと呼ばれた男は奥の2人に声をかけ、彼らも同調した。
「この子ぉはやな……」カウンターの中の男が屈みこむと声をひそめて話し始めた。店の一番奥で4人の男らは頭を突き合わせひそひそ声で話しあっている。
「えぇ!ビンデミアトリックス!この子ぉがかいな。なんでそんなええし(良家)の子ぉがこんなとこにおるねんな?」
「それはまあいろいろ事情がやな……」
 ビンデミアトリックスの部分が3重奏になって絵夢の耳に届いたが、その後はまた徐々に声は小さくなって聞きとれなくなった。カウンターの中の男の解説が済むと客達は納得したのか、また自分達の会話に戻っていった。
 カウンターの中の男が近づいてきた。「絵夢ちゃん。もうちょっと待ったってな。さっき少し遅れるいうて電話あったわ」
「わかりました。マスター」絵夢はニッコリと微笑んだ。
「何か飲むか?」
「そうですね。始めてここに来た時出していただいた物をいただけますか?」絵夢はまた微笑むとそう言った。
「絵夢ちゃん。きついなぁ。ほんまにそれでええんかいな」
「ええ。とっても気に入ったんですよ」
「せやったらええねんけど」
 マスターは冷蔵庫を開けると特濃牛乳のパックを出し、それをグラスに注いだ。そして絵夢の前に置いたコースターにグラスそっと乗せると、シロップを入れたピッチャーとストローを添えた。
 絵夢はそれを見ながら言った。「始めての時はミルクにグラニュー糖だったですよね?」
「またまたきついなぁ!勘弁したってぇな」
「え?でも、沈殿するぐらい砂糖を入れていただいて、それがすごく気に入ったんですけど?」絵夢はシロップを全部グラスに入れた。マスターは頭を抱えてしまった。
「マスター、それ、たいがいな嫌がらせやで。他人(ひと)のこと言えんやないか」カスレがこちらを向いて言った。「そうや、そうや」奥の2人も同調した。
「俺も知らんかったんや。あんたみたいな可愛い子ぉの来る店とちゃうで、ゆうて教えたらなあかんと思たんや。すまんかったな。あやまっとくわ」マスターは絵夢に頭を下げた。
「え?でも美味しかったですよ。とっても」絵夢はキョトンとした顔をした。
「気に入ってもらえたから良かってんけど……まぁゆっくり飲んどいて」マスターは諦めて店の奥に引き上げた。
 絵夢はミルクを飲みながらマスターの引き揚げた先を見ていた。店の奥に陣取った男達の前には黄ばんだクリーム色の箱と古いモニターが置かれていた。箱は多分パーソナルコンピュータだ。男達は正方形の封筒のような物をその箱のスリットに挿入しスイッチを入れた。「ほれ!やっぱりメモリーが足りん」「ボヤキ、お前CONFIGいじれ」「HIMEM.SYSとEMM386は入っとるか?」「ファイルメンテ入れとったかな?……おるおる……と」真ん中のボヤキと呼ばれた太目の男は、老眼鏡をかけるとキーボードをたたき始めた。
 絵夢はこの店の雰囲気が気に入っている。カウンターの向こうにある棚には一部にアルコールやグラスの類が並んでいる他は、10年以上も前に発売されていたパーソナルコンピュータがずらりと並んでいるのだ。絵夢にはよく分からないが、PC9801、FM-TOWNS、X68000、IBM、COMPAC、GATEWAYの文字が見えるものや、子犬のようにちょこんと座り込んでいるリンゴマークの可愛いらしいものなどが並んでいる。棚の下には大小幾つもの古いサーバー機が座っている。この不思議な空間は過去のコンピュータ達のパラダイスの様相だったし、薄暗い店内で小さなスポット照明をあびて輝きを放っているそれらは、絵夢を少年の秘密基地に迷い込んだ少女の気持ちにさせた。
 絵夢はミルクのグラスを空にすると立ち上がって店の奥に向かった。カスレとボヤキそして一番奥の男は少しおびえた目つきで絵夢を見た。
「なんぞ用かいな。お嬢ちゃん」カスレがおどおどとした様子で訊いた。
 絵夢は愛想の良い笑顔を向けると「その四角い封筒のようなものは何ですか?先ほどそこのスリットに差し込んでおられた……」と訊いた。3人は顔を覗きこまれて少し赤くなっていたが、カスレがあわてて咳払いをして解説を始めた。
「これはスリットやなくてフロッピードライブやな。そんで封筒てこれか?ちょっと待ってや」カスレは箱から四角い封筒のような物を取りだし「これはフロッピーディスクや」と絵夢に手渡した。
「これが?」絵夢は疑問の顔をカスレに向けた。
「無理ないわ。見たこともないやろ?これは5インチのフロッピーディスクや。なんやフニャフニャで頼りないやろ?」
「これにデータが入るんですよね?」
「1.2メガバイトのな」
「メガバイト……ですか?少ないですね」
「ははっ!せやろ。小さいもんや。これにOSやゲームとかを入れるんやからな。大したもんやろ?」
「すごいですね!これで動くんだ」
「この機械はな。40メガバイトのハードディスク内蔵でな。そこにDOSとこのフロッピー7枚分のゲームをインストールして動かそうとしてるんや。今はメモリー不足でまだ起動せんけどな」
「40メガバイト……ですか?ギガでなくて」
「昔はこないなハードディスクだけで10万以上もしたんやで、遅いしメモリーも少ないから複雑なプログラムはそのままやったら動かんのが普通やった」
「いろいろ工夫しないと動かないんですか?」
「せやな、一筋縄ではいかんわ。こんな昔の機械、わしらみたいなもんで、さっぱり言うこと聞きよらん」4人の男達は爆笑した。絵夢もそれにつられて少し笑った。
 その時、店の入り口のドアが開いた。絵夢は弾かれるようにドアの方向に顔を向けた。
「お!オーナーのお出ましやな」カスレが声をかけた。
 ドアの所には長身の細長い中年男が、すこし背中を丸めて立っていた。
「カソール先生!」絵夢は店内を駆けるとカソールの胸に飛び込んだ。カソールはよろよろとドアの所まで後退しながら「アトリ君!元気そうだね。相変わらず」と絵夢の頭を撫ぜた。
「先生こそ。お元気そうで」絵夢はカソールの細い胴体に手を廻して締めあげた。
「痛いよ!痛い!!少しは加減してくれよ」
「だって!お会いするのは1年ぶりぐらいなんですもの」
「そんなに会ってないかな?」
「そうですよ。この前始めてこのお店にお邪魔した時は、電話でお話ししただけだったですから」
「そうだったね。呼び出しておいて私が来れなくなってしまって、私が電話で連絡するまでマスターにずいぶん苛められたって聞いてるよ」
「勘弁してやぁ。誰や報告したんは」マスターは頭を掻いた。
「えっ!でも面白い飲み物も頂いたのに、美味しかったし、苛められてなんて無いですよ」絵夢はまたキョトンとした顔をした。
「絵夢ちゃん。それ皮肉やなくて、ほんまに天然か?すごいわ。御見逸れしました」そしてマスターは深々と頭を下げた。
「頭を上げてください。わたしマスターに頭を下げていただくようなこと、何もしてませんから」絵夢はマスターの頭を上げさせるとカソールの方を向いた。「カソール先生、今日お邪魔したのは例の件で御報告があったからなんです」
「例の件って、お願いしていたペットボトルのことかな?」
「そうです。先生は携帯もメールも持たれてないから連絡の取りようが無いんですもの。マスターを経由してやっと連絡できるだけなんですから、とっても不便ですよ」
「すまないね。私はそういうものから離れた生活がしたくなったんだ。まぁ最高のわがままだね」
「周りはみんな迷惑やけどな」カスレがチャチャを入れた。
「で、ですね。お願いされていた大型の炭酸飲料用ペットボトルですけど、日本には製造している会社がありませんでした。兄に調べてもらってやっと見つかったんですよ」
「あったのかね?容量は?」
「ええ。ご注文のとおりです」
「おぉ!!それは嬉しいね」
「で、いま商品サンプルとして他の品物と積み合わせで海上コンテナに乗っています。30本用意しましたけどそれでよろしいですね?炭酸飲料容器の規格に合致していることも確認済みです」
「充分だよ。アトリ君。さすがに素早いね」
「入船と通関のスケジュールから見て、お届けは12月1日。配送場所はこのお店でよろしいですか?」
「それで大丈夫だ。マスターに受け取らせるよ。代引きにしておいてくれたまえ」
「そんなもん、何に使うんや?先生」矢継ぎ早に繰り出される会話に目を丸くしていたカスレがようやく訊いた。
「ロケットを打ち上げるんだよ。カスレ君」
「ロケット?ペットボトルロケットかいな?」
「そう。200メートル以上上昇する大型の2段式ロケットを作るつもりなんだ。アトリ君なら想像がついていると思うけど」
「ええ。こんなものの使い道はそれぐらいかなぁって思ってはいました」
「来年第1四半期の打ち上げを予定している。日程が決まったらまたマスターからお知らせするよ。もちろん打ち上げにもご招待するよ」
「嬉しい!」絵夢はまたカソールに思い切り抱きついた。
「お三方も来てくださいよ」カソールは少し顔をしかめながら3人の客にも声をかけた。
 そして「マスター!前祝いだ。なにか飲み物とおつまみをお出しして。今日はオーナーのおごりということでパ~ッといきましょう」と両手を広げた。
「やった~」4人の客の声が響いた。

 店の一番奥に座っていた男が携帯電話を開きながら店を出てきた。男は廊下の端まで行ってから携帯電話を操作し耳に当てた。
「黒磯さん?ナニワです。予想通りお嬢様は例の店です。えぇ。今、パーティが始まったところですよ。大丈夫です。えぇ。もう1・2時間かかると思いますよ。はい。見守ります。お嬢様が店を出られる時に連絡を入れます。はい、了解です。では」
 男は携帯をたたむと店の中へ戻った。
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(フム・アル・サマカー)

Stella/s月刊・Stella ステルラ 12月号参加 掌編小説

 人が歩いて通える道も無い細長い岬の先を過ぎると、湾の入り口の真ん中にいくつかの巨大な岩で構成された岩礁がある。その岬の先を外海に向かう一隻の漁船の“とも”には女が1人立っている。右膝の位置に穴のあいたジーンズ、船上作業用の紺の長靴を履き、化粧気の無い顔は少し潮に焼けている。師走の高い青空から降り注ぐ太陽は、黄色いフード付きのウインドブレーカーを柔らかく照らしているが、冷たい潮風はショートカットにした髪を揺らせ、ダウンジャケットの必要性を感じさせる。進むほどに海面は不気味な青黒さを増し、波も内湾のように優しくは接してくれなくなった。
 彼女はスロットルをいっぱいに開け舵を直進の位置に保ったまま、不安そうな目で正面に見える岩礁を見つめていた。口は一文字に結ばれたままだ。
 暫く戦いは続いた。船は上下の動きを徐々に大きくしながら岩礁へ近づいてゆく。しかし海面がさらに黒さを増し波の先が白く泡立つようになってくると、諦めたようにスロットルを緩めて船速を落とし取り舵を切った。船はゆっくりと、そして寂しそうに大きくUターンを始めた。
 水産研究所の研究生である彼女は、今日は“ワッチ”(見張り)をこなしていた。朝5時前に起きて各水槽の水質測定と飼育している魚の状態の確認をしてから朝ごはんを食べ、沖の生簀の様子を見るために船を出した。表層と水深10mの海水の採取と水質の測定を行ってから生簀を確認すると通常はそのまま帰るのだが、今日はさらに沖の岩礁に船を向けたのだった。
『何回目だろう?』Uターンを終えた彼女は考えていた。いつもあのあたりで不安がいっぱいになって頭の中をグルグル回りだし、怖くなって舵を切ってしまう。『1回ぐらいあの岩礁を1周したいな』未練を含んだ目で岩礁を振り返っていた彼女は視線を正面の航路標識に戻すとスロットルをいっぱいに上げた。師走の風は向かい風となってさらに冷たさを増した。

 師走の慌ただしい気配はここではまったく感じられない。雲の隙間から届いてくる昼前の太陽にも、聞こえてくる風や波の音にもそんな気配はない。ただ冷たい空気が年の瀬だということを知らせてくれるだけだ。
 水産研究所の桟橋は潮の満ち引きを考慮に入れて浮き桟橋になっているが、今は引き潮なので堤防から浮き桟橋までは結構急なスロープになっている。スロープを下って浮き桟橋に乗ったところは20センチ程の高さの板張りの柵で囲われたスペースになっていて、その先はFRP張りの通路になっている。彼女は板張りのスペースの囲いに腰掛けて、湾の真ん中に浮かんだ小島を眺めながら、今朝見た作業を反芻していた。
 板囲いのスペースのすぐ横は出荷用の生簀になっていて、いつでも出荷できるように魚が飼われている。毎朝、早出の職員がその生簀から板張りのスペースにタモ網で魚をすくい上げ、暴れる魚をスポンジの上に押さえつけ、こん棒で目と目の間をガンッ!と殴る。すると魚は口と鰓蓋を大きく開けて失神する。痙攣している魚の鰓蓋から出刃包丁を差し込み、脊椎の中骨まで深く切り込んで太い血管と神経を切断すると真っ赤な血が流れ出す。それを出荷用の箱に放り込む。この作業は生魚の血を抜くことによって生臭さを抑えるためのもので、この作業は出荷される魚の数だけ繰り返される。板張りのスペースは血だらけになり、最後にそれを海水で洗い流してきれいにする。
 彼女はこん棒で殴られた魚の大きく開いた口や空を向いた目、細かく痙攣する胴体、流れ出る赤い血を思い浮かべていた。
「由布ー!」声をかけられて我に返り声のした方を振り返ると、堤防の上に髪の長い女が立っている。
「絵夢!」由布は立ち上がってスロープを駆けあがり絵夢に飛びつくと「ひさしぶりー」と抱きついた。絵夢はいつもとは違う由布の様子に驚きながら背中に廻した手にギュッと力を込め「どうしたの?招待されたから来てしまったけど。何かあったの?」と訊いた。
「ううん」由布は首を横に振りながら「そんなんじゃなくて、ひさしぶりに無性に会いたくなっただけ……ほんとに来てくれたんだ。うれしい」と言った。
 絵夢は怪訝な顔をしたが「いつもの父のクリスマスパーティーが23日に終わったから今年はイブが空いたの。だから明日もお休みをもらっちゃった。急に決めて来ちゃったけど大丈夫だった?」とすぐに笑顔になって続けた。
「大丈夫もなにもボクが誘ったんだし、大歓迎だよ」
「でも由布?少し魚臭いよ」
「ええっ!ごめんなさい」由布は慌てて体を離し自分の服の匂いをかいだ。
「ふふっ!冗談よ。だって由布いつまでも抱きついていて離れないんだもの」
「なんだ。びっくりしたよ。これ私服なのに」由布は安心した顔をした。しかしここ全体が魚の匂いがしていて、どれが大丈夫なのか絵夢にもわからないのも事実だった。
「で、先生には?」由布は本館の方を見た。
 絵夢の父親の会社とこの研究所は共同研究のプロジェクトをいくつか立ち上げていて、その縁で絵夢はここの所長と親しくさせてもらっている。
「先にご挨拶したわ。相変わらずお元気そうね。由布もだけど」絵夢は由布の顔を覗きこんだ。
 由布は少し顔を赤くしたが「元気なのだけが取得だからね。アバも」と自分の師のあだなを口にし「今日ボクは昼から休暇で今夜のクリスマスパーティーの買出し担当なんだ。付き合ってくれるよね?」と絵夢の手を握った。
「もちろん。いいに決まってるじゃない。でもその前にみんなに挨拶しとかないと」
「みんなは研究室か飼育室に居るよ。絵夢が参加するならみんな喜ぶよ。来て!」由布は絵夢の手を引っ張った。

 水産研究所は細長く入り込んだ湾の奥にある集落の外れにある。結構大きな集落なのでそこには集落の名前を冠した鉄道の駅もある。絵夢と由布は1時間に1本程度やってくる普通列車に乗って一番近い町まで出かけた。2人はボックス席を1つ占領し、最近それぞれの身に起こった出来事を披露しながら車窓に広がる海を眺めていた。
「ねえ。彼とは上手くいってるの?」絵夢が唐突に訊いた。
 暫く続いた沈黙がその問いに対する由布の答えだった。
「何かあったの?」海の方を向いて黙っている親友にその親友は尋ねた。
「後で……後で話す。先に買出しをしてしまおうよ。絵夢」そう言われてしまうと絵夢はそれ以上先へ進むことが出来なくなって「そう……?」と曖昧に笑った。由布は自分の論文のテーマについて熱く語り始めた。列車は海岸線から山の中へと入って小さな分水嶺を越えると、また海に向かって下り始めた。車内放送が町の駅への到着を告げた。
 町では由布の案内で今夜のクリスマスのパーティーの用意を買い込むために何軒かの店を回った。由布はみんなで決めた買い物リストを片手に、それぞれの店で絵夢のアドバイスを受けながら必要な物を手に入れた。
「ボク1人だったらこんなに手際良くはいかないよ。絵夢に来てもらって良かった」
「由布はみんなのことを考えすぎるのよ。そんなに考え込んじゃ決まる物も決まらないよ。時には思いきった決断も必要だよ」絵夢がそう言うと由布は複雑な笑顔でそれを受けた。
「次は?」絵夢が催促すると「後はケーキ、それで終了!」少し空いてきたお腹を抱えた2人は、その町ではちょっと有名なケーキ屋に向かった。
「どうしよう?」由布はたくさん並んだケーキを覗きこみながら悩んでいた。つい絵夢の顔を見上げる。
「あなた達何人いたっけ?」見上げられた絵夢が尋ねた。
「7人、絵夢を入れると8人だね」
「男ばかり6人だよね?」絵夢が確認すると「そう、6対2で男の勝ち!」由布がにっこりと笑った。
「辛党の人から甘党の人までいるよね?」
「だから困ってるんじゃない」
 絵夢は少し考えていたが「だったらホールで買うのは諦めて、カットされたいろんな種類を、ぐるっと一周丸くなるように買ったらどうかしら?彼ら、ホールケーキのカットを楽しむ柄でも無いでしょう?綺麗にカット出来ないだろうし」
「そうだね!ボク等の好きな物も混ぜられるしね」
 2人はワイワイ騒ぎながらカットケーキを一周分選び出すと、色どりを考えながら綺麗に並べて箱に詰めてもらった。ようやく任務を果たした2人は列車の時間を確認すると隣の喫茶室へ移動した。
「それで……後で、の続きは?由布」席について注文を終えると、絵夢は椅子に深く掛け直し由布の目を覗きこみながら言った。顔はにこやかだが目は笑っていない。冷静に観測するセンサーのような目がそこには有った。いきなり切り替わった絵夢の表情に由布は困惑した顔になったが「話したくて呼んだんじゃなかったの?」絵夢にそう言われて頷いた。
「嘘を入れないで、なるべく正確に話してくれる?」絵夢が念を押すと、フウ……と溜息をついてからゆっくりと話し始めた。

 病室の窓越しに差し込む晩秋の日差しはすでに傾いていたが、まだ暖かみをベッドに届ける程度には力を持っていた。由布はその日差しを受けながらベッドを起こして遠慮がちに座っていた。彼女の目はもう少し意識を振り分ければ芯の強そうな目になるのだろうが、今は不安な気持ちを反映して部屋の中を小刻みに揺れながら彷徨っていた。肩の下までストレートに伸ばされた髪や薄い唇までが、不安げに見えた。
 さっきまで、ベッド脇の丸椅子には彼が座っていた。
 由布は高校3年生、一方彼は結構有名な商社に勤める社会人だ。2人は由布が高校1年生のときから付き合い始めて、今では両方の家族にも一応認められている仲になっている。
 由布は何の疑問も無く将来はこの人と結ばれるんだろうな、という思いを持っていた。
 由布が体育の授業中に倒れたのは3日前だ。幸いなことに担ぎ込まれた病院での診断は、病気は命に関わるようなものでは無く後遺症の心配も少ないということだったが、治療には手術が必要で完治まで3カ月以上の療養を必要とする……という結果になった。診断結果自体は胸をなでおろすものだったが、大きな問題は、由布は高校3年生で大学の受験を控えているということだった。
 彼はとても心配してくれた。進路を確定しなければならないこの時期、経過観察と検査で動けない由布に代わって動いてくれて、総合大学の文学部への推薦での受験を薦めてくれた。
「君の実力なら問題ないんだけど、この大事な時期に学校を離れてしまうからね」彼はなるべく目立たないように配慮して動いてくれた。
 そして手術にも付き添うと言ってくれた。由布はお母さんが付いてくれるからと遠慮したが、もう休暇を取ったから大丈夫ということだった。
 結局、由布は二つの提案に黙って頷いた。そして彼は安心した顔になって帰っていった。

「その大学のサークル活動で私達は出会ったというわけね?」運ばれてきたカップに口をつけながら絵夢が質問し、由布は頷いた。
「で、入学してすぐ、由布は他の学部への編入をわたしに相談して、わたしはそれを応援したんだよね?」絵夢はモンブランの頭をフォークでザクッと半分に分けた。
 由布はレアチーズケーキを口に運びながら伏し目がちに頷いた。
「学部を変わりたい理由は全部聞いたつもりだったけど、それだけじゃ無かったということかしら?」
 由布はごめんなさいと口の中で言った。
「彼は怒ったんじゃない?」

「なに考えてんだよ!」彼は珍しく大きな声を出した。イライラしている時の癖で右手で左の肘を強くつかんでいる。由布はその様子におどおどしながら「ごめんね」と言った。
「君は1人じゃどこにも行けなかったじゃないか。いつも1人じゃ何も決められなかったし、なんでも僕に相談してたじゃないか」
「ごめんね。でももうそういうのやめにしようと思ったの」
「意味が分からない!なんでそんなとこに1人で行くんだよ。そんなところに行ったらもう僕に相談したり訊いたりできなくなるんだよ。田舎の何もないところに君は1人で行くんだよ」
「ごめんね。でも1人で行ってみたくなったの……」

「ということは、編入したことについては4年間もずっと黙っていて、院への入学と研究所へ行くことが決まってからいきなり彼に打ち明けた。そういうことなの?」絵夢は自分の口調が少しきつくなるのを気にしながら言った。由布は絵夢の目を見ようと努力しながら頷いた。
「彼は由布に手を上げたの?」
 由布は一瞬戸惑ってから頷いた。
「そう……」
「あなたの敷いた線路の上を歩くのは嫌だ!って……」
「言っちゃったんだ」絵夢はそう言うと少し頬を緩めた。「由布はまだ彼の事が好き?」
「わからないよ。わからなくなった。これまでも本当に好きだったのか、それもわからなくなった」
「彼から連絡は?」
「何回かメールが来た」
「なんて?」
「自分が悪かったっていうことと、会いたいって、会って直接話しがしたいって」
「会うの?」
 由布は首を横に振った。
「何か返事はしたの?」
「会えないって、放っておいて欲しいって、返事をした。でも、ちゃんとありがとうも言ったよ」
「そうだったんだ。それで研究所に来てからずっと悶々としてたの?」絵夢は努めて優しい口調で言った。
「研究所での生活は新鮮だし、研究も楽しいから一生懸命やってるんだよ。それとはまた別になんだか苦しかったんだ。ボクは自分がとても悪い奴のように思えるんだ」
「由布?悪いけど今わたしには何も言えない。時間が解決するのを待ちましょう。でもけっしてあなただけが悪いんじゃない。それだけは言えるわ」絵夢は由布の反応を確認するために少し間を置いて続けた。
「それに何でもいい。もしこの件に関して何かあったらすぐに……いい?ちょっとしたことでも、すぐにだよ。必ずわたしに相談してほしいの。約束できる?」絵夢はまた冷静に観測するセンサーのような目で由布を見つめた。
「うん。わかった必ず相談する」
「約束だよ」
「約束する」由布が真剣な面持ちで答えた。
「じゃあ、もう1つケーキを食べちゃおうか?」絵夢の眼差しは、いつものおっとりとした柔らかいものに戻っていた。
「ほんと?じゃぁリストを見せて!」2人はスイーツリストの検討を始めた。

 湾の入口近くに並んで浮かんでいる沖の生簀に1隻の漁船が横付けされている。船の上ではオレンジのダウンジャケットを着込んだ由布が水質の測定を終えようとしていた。ゆっくりと揺れる生簀の通路の上にはバランスを取りながら歩く絵夢の姿がある。ツイードのポンチョ風のコートは少し歩きにくそうだがユラユラと時折生簀の中を覗き込み、生簀の中をグルグルと泳ぎ続ける魚達の様子を眺めていた。
「絵夢!終わったよ!魚達に異常は無い?」由布が大きな声を出した。
「うん。みんな元気!」絵夢は頭の上で丸を作ってから「と思う。底に居て見えないところもあるんだもの!」と付けたしてユラユラと戻ってくる。絵夢が船に乗り込むと由布は“とも”を押し出しながら飛び乗り、ギアをバックに入れてスロットルを少し開く。船がゆっくりと生簀を離れるとギアを前進に入れ舵を切って再びスロットルを大きく開く。船は生簀を回り込みながら沖へと向かい始めた。
「絵夢!正面に岩礁が見えるでしょ?」
 絵夢が頷いた。
「今日はあれをぐるっと回ってから帰ろう!」
「いいけど。由布は回ったことがあるの?」
「ううん。一回も無い。だから今日は回ってみたいんだ」
「じゃあ……」絵夢は一瞬躊躇したが1隻の遊漁船が2人の船の後を追って来るのを視界の隅に捕らえると「行ってみようか」と言った。
「よっしゃぁ~」由布はスロットルをいっぱいに開けた。
 沖に出るにつれてやはり海面は不気味な青黒さを増し、波も内湾のように優しくは接してくれなくなってゆく。
 由布はスロットルをいっぱいに開けたまま、不安そうな顔を絵夢に見られないように正面に見える岩礁を見つめている。
 船は上下の動きを徐々に大きくしながら岩礁へ近づいてゆく。しかし海面がさらに黒さを増し波の先が白く泡立つようになってくると、由布は諦めたようにスロットルを緩めて船速を落とし、取り舵を切ろうとした。
「行こうよ!大丈夫だよ!」その手を絵夢の手が止めた。
 笑いかけてくる絵夢に由布は黙ったまま頷くと、またスロットルを全開にした。漁船は再びスピードを上げ沖の岩礁を目指し始めた。
 師走の風は追い風となって2人の船をサポートした。
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(9)(新しい年)

「Stella新年号」の掲載作品をUPします。連載 掌編です。
「Stella」専用に書いている連載ではないのですが、続き物ですので連載としておきます。
一応新しい年の訪れをテーマに据えて書いています。よろしければどうぞ。

あっ!そうです。5000HIT記念作品はもう少しお待ちください。現在構想中です。
指定のオリキャラは「黒磯」お題は「お餅」あるいは「チョコレート」です。
今回「黒磯」より先に「山本」が登場して彼のバックボーンが垣間見えています。
お楽しみいただけたら良いのですが……。



絵夢の素敵な日常(9)(新しい年)
Stella/s 「Stella新年号」掲載作品 連載 掌編

 空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の気持ちなど全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

 絵夢は立ち止まった。
 頭上には少し欠け始めた月がこうこうと光を放っている。地面には一面に霜が降りていて、その一粒一粒が小さく青い光を反射して浮かび上がる。
 見上げると冷たい空気の中へ広がる息が白く輝き渦を巻く。そしてその冷気は精神を孤高へと運び上げる。
 暫くして月から目を戻すと、絵夢はまた月光と懐中電灯の明かりを頼りに山道を歩き始めた。
 やや遅れて付いてくる灯りは山本だ。彼は黒磯と2人でビンデミアトリックスの本家を管理するスタッフだ。俗な言い方をすると執事ということになる。年齢は黒磯より10歳若くて46歳、絵夢が8歳の時に母親が亡くなってから仕事に忙しい父親に代わって、黒磯と2人で幼かった絵夢と12歳年上の兄の成長を見守ってきた古参のスタッフだ。
 絵夢は大晦日から山本の実家、山郷にある茅葺の大きな民家を改装した民宿を訪れ、三賀日を過ごす予定にしていた。
 年老いた山本の両親は絵夢を孫のように歓迎してくれる。実の祖父母がいない絵夢にとってそれは懐かしい感覚だった。この山郷の雰囲気や空気が気に入った絵夢は、年に一回位はここで過ごす機会を作るようにしていた。農作業を手伝ったりキノコ狩りに出掛けたりして周りを慌てさせたがそれは新鮮な経験だった。ずっとここで生活することが自分にとって不可能なことはわきまえていたが、新鮮な経験で好奇心を満たすことに喜びを、そして緩やかな時間の流れるここでの生活に安らぎを感じながら、山本の両親の好意に甘えていた。
 やがて山道の先に小さな街灯が現れ、細い石段を照らし出しているのが見えた。それを上ると栗林の中に続く緩やかな坂が続く。そしてその先のやや幅広の石段の上に祠が見えてきた。
 大晦日、囲炉裏端で山本の両親、山本、家族で宿泊している二組のお客とテレビを見ながら楽しく過ごしていた絵夢は、新年が明けてすぐ初詣の為に村の裏手の山腹に有る村の祠を目指しているのだ。はっきり言って絵夢は敬虔な信仰というものを持っていない。ホーキンス博士のように「天国はない」などという超合理的な考え方で割り切ることはできないが、科学者と信仰者のどちらを取るか無理やり意見を求められれば、科学者に寄った立場を取る。
 もちろんすべての宗教に対してそれを最大限尊重するし配慮した行動を取る。それにこうしてちゃんと初詣にも出掛ける。だが、世界の紛争のほとんどが根っ子に宗教の対立を抱えている……そういう事実に割り切れない感情もある。人々の心に安らぎを与えるはずの宗教が人々の争いの大きな原因になる。そんなことがあってもいいのだろうか?絵夢は漠然とだがそんな思いを持っていた。
 石段を登ると目の前に祠が立っていて、その手前には村人がこしらえたしめ飾りが設えられている。祠の前の左右に立てられた背の高い門松に渡された大きなしめ飾りは、綺麗に結われた藁でできていて、それに昆布や干し柿がぶら下がっている。山本はそこから干し柿と昆布を少しちぎり取って「お嬢様、これを」と絵夢に渡した。絵夢は「ありがとう」とそれを受け取り、ポケットに入れてからしめ飾りをくぐって祠の前に立った。山本は少しちぎった物を口に放り込むと少し後に立った。
 絵夢は賽銭を入れ鐘を鳴らし胸の前に手を合わせ、祠の中に神仏習合で祭られている大日如来に「恙無く過ごせますように」と祈った。
 そして祠の横手に回った。そこには高さ50センチ位の小さな祠があって、それに合わせた小さな賽銭箱が置いてある。絵夢はそこに賽銭を入れ、ぶら下がった小さな鈴をチリチリと鳴らして手を合わせた。
「山本のご両親が恙無く過ごせますように」
 そしてその横には高さ30センチ位の本当に小さな祠があって、それに合わせた小さな小さな賽銭箱が置いてある。そこにも賽銭を入れ、ぶら下がった小さな鈴をチリリと鳴らして手を合わせ、絵夢は祈った。
「世界が平和になりますように」
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

アルテミス達の午後

Stella/s scriviamo! Stella2月号参加作品(シリーズ番外.掌編)
夕さんに……感謝を込めて

アルテミス達の午後

130206_阪急三宮

 三宮駅は大きな鉄骨で構成されたドームで覆われている。マルーンの電車は、そのドームにゆっくりと滑り込んだ。
 ドアが開くと由布はすぐにホームに降りてそのまま端に寄り、降車する人々をやり過ごした。人波がひいたホームの真ん中には青年が立っていて、頭上に広がるドームを見上げている。由布はゆっくりと近づいた。
 少し長めのふわりした黒い髪、やせっぽちなボディ、白すぎるくらいの肌、丁度好い位置についているのにアンバランスに大きな目、その中にある猫のような大きな焦げ茶色の瞳、やや大き目の口、真っすぐ通った鼻、胴体に比べるとやや長く感じる手足そして指、それぞれに個性的なパーツは組み合わされると今風な青年が出来上がる。少し潮に焼けた化粧気の無い顔にショートカットの由布の方がよっぽど男っぽく見えるくらいだ。
「ハル、久しぶり!」由布が声をかけるとハルと呼ばれた青年は驚いて顔を向けた。
 由布がクスクスと笑って言った。「どうして上を見てるの?」由布の質問に「鉄骨とリベットがいい感じやから」ハルが無愛想に答える。
「鉄骨萌えだね」由布がまた微笑んだ。
「元気そうやな。その顔は例の件が上手く行ってるということやな?」ハルが言うと「何が?」由布が少し怒った顔になった。
「色々と」まずかったかな?という顔でハルが答える。
「ごめんね。色々と迷惑をかけたね。問題もあったんだけど何とかね」由布は、はにかみながら「でね。今日は会ってもらいたい人が居るんだ」と続けた。
「会うって?誰と?」ハルは驚きと疑念の混ざった声で答えた。
「ううん。違うよ。もう1人のアドバイスをもらった友達に会ってもらおうと思って、女の子だよ」
「そうなんや」ハルの顔から力が抜けた。
「向こうにはハルのことは伝えてあるから。じゃ、行こうか?」
 エスカレーターにはハルが先に乗って由布の方を振り返ったので、下り始めると顔の高さが同じになった。いつものハルの顔が目の前にあるだけのことなのに、由布は妙に速くなる鼓動にあわてて少し下を向いた。すぐにハルも前に向き直り、2人はそのままコンコースへ下りて行った。
 改札を抜けた先にライトグレーのコートをまとった髪の長い女性が立っている。由布は小さく手を振りながら近づくとハルに彼女を紹介した。
「紹介するね。彼女はエム」
 由布に紹介された女性は丁寧に頭を下げた。
「始めまして、エム・ヴィンデミアトリックスです」
「エム・ヴィンデミ……」
「ヴィンデミアトリックスです。言いにくいでしょ?エムでいいです。漢字で書くとPictureとDreamです」
「でもヴィンデミアトリックスてあの……」ハルは言い淀んだ。
「それを抜きで紹介したいんだ。ボクの友達として」由布が口を挟んで「この子が“例の友達”」とハルを紹介した。
「“例の友達”です」チラと笑みを浮かべてハルは言った。「でも名字はレイノではなくてクロイソで名前は“友達”でもなくてハルナですけど、ハルナは山の名前と同じ漢字です」
「黒磯さん?」絵夢は一瞬目を見開いて驚いた様子だったが「山ってあの榛名山?」と訊いた。
「ええ。父が付けたんですけど変わってるでしょ?女みたいですよね?」
「ううん。とってもいい名前だわ。由布だって山の名前でしょ?よろしくね榛名くん」
「こちらこそよろしくお願いします」ハルは絵夢に顔をのぞき込まれて頬が少し赤くなった。いつもの絵夢の動作だったが、なぜか今日の由布には疎ましく感じられた。
「お父様は山男なの?」絵夢が興味深げに尋ねた。
「僕と由布の親父は両方とも山男で昔からの山仲間なんです。それで何や知らんけど2人とも山の名前が付いてるんです。僕らは親父同士の関係で、まあ幼なじみみたいなもんです」
「お父様は今でも山に登られる?」
「若い頃はずいぶん登ってたみたいですけど、今は全然。仕事が忙しいみたいで」
「そう」絵夢は思うところがあったのか少し間を置いて「お父様はどんな仕事をされてるの?」と訊いた。
「親父は仕事の話を全然しないからよく分からないんですけど。財産とか資産とかの管理をする仕事をしてるって聞いてます」ハルは曖昧に答えた。
「でも絵夢さんはあの……」ハルはまだ少し遠慮している様子で訊いた。
「ええ、隠すのはいやだから先に言っておくけど、確かに私はヴィンデミアトリックス家の者です。でも、それは抜きにして欲しいの。榛名くん」
「あの、照れくさいのでハルでいいですよ」
「じゃあ、抜きにしてくれる?ハル」
「は、はい」ハルはそう答えたが、絵夢がまだ見つめているので「わかった。絵夢」と言い直した。絵夢は満足げに笑って「よろしくね!ハル」と言った。
『あの目に見つめられたら、女でもたまらないよなぁ』由布は口の中で小さく呟いた。
 3人は暫く談笑を続けていたが少し遅い昼食を取るために歩き始めた。

「お嬢様!」「絵夢お嬢様!!」黒磯は玄関を入ると声をかけた。時計は午後3時をさしている。返事は無い。「お嬢様!」もう一度声をかけてから「上がらせていただきます」と入り込み、いつものように各部屋を手馴れた様子で確認していく。もちろんベランダに出て例のスペースも覗きこむ。
「逃げられたか……」黒磯はリビングに入ると丁寧に窓を閉め、携帯電話を取りだした。
「山本か?やはりいらっしゃらない。車はどうだ?あるのか?だったら、午後1時前に退社されているし、スケジュールはご存じだから、ここより本宅からアクセスし易い場所でピックアップの連絡があるだろう。連絡があり次第お迎えするから我々はとりあえず本宅に向かう。玄関へ車をまわせ」携帯を切るともう一度部屋を確認してから玄関を出る。ダブルロックをかける音が部屋に響いた。

130206_トアロード3

 神戸の町は東西に細長い。町の南側には港が広がり、北側には六甲山が連なっている。海と山に挟まれた町は、真ん中を鉄道がやはり東西に走っていてとても便利がよい。大阪と違って上る方向が北で、下る方向が南だから不案内な者にもわかりやすい。山が近くに見えたら坂を下ってどんどん進む、港が見えたら上る方向にどんどん進む、そうすれば必ずJRの高架に突き当たる。そして右か左に向かえば三宮か元町あるいは神戸の駅にたどり着く。
 3人はレストランを出て坂を下り始めていた。由布はお世話になったお礼にご馳走すると言い張った。普段はあまり主張することはないのだが今日は特別だ。それじゃぁ遠慮なくと2人が折れてくれて、少し高めのランチを済ませたところだった。
 少し歩けば大きな商店街に戻れるがその手前に人だかりが見えた。「何だろう?」由布が小走りに駆けて行って人だかりを確認して戻ってきた。「何かパフォーマンスをやってるよ。面白そうだから見ていこうよ」パフォーマンスは4人のチームで演じているらしく、人垣から覗きこむとそのうちの2人が演奏を始めたところだった。正面に立つ三味線を持っている男性とフルートを構えている黒い髪の美しい女性は日本人のようだが、演技を終え横に控えている2人は金髪碧眼と茶色い巻髪の外国人の男性だった。演奏は日本歌謡をメドレーにアレンジした曲で、楽器の組み合わせはとても面白く観客の目や耳を楽しませ。その演奏の素晴らしさは素人の由布にも充分感じられた。
 演奏が終わった後もアンコールの拍手が鳴りやまない。チームは控えていた2人がボーカルで参加してアンコールに答えた。観客は拍手を惜しまず、そして前に置かれたフルートの箱に次々とコインを放り込んだので、結構な身入りになったようだった。3人もコインを幾つか放り込んだが、絵夢はそのままフルートを吹いていた女性の所に近づいて行く。そして笑顔で暫く会話をかわしていたが、やがてフルートの女性は小さく頷くとソロで演奏を始めた。 由布はハルと近づきがたい雰囲気に気おされて、少し離れたところでそれを眺めていた。感想を言おうと由布はハルの方を見たが、ハルも由布を見ていたのであわてて演奏に目を戻した。また鼓動が速くなる。「不思議な曲やな。邦楽みたいな曲調や」ハルが声をかけてきて「そうだね」由布はフルートの女性を見つめたまま短く答えた。こういう場所ではやや不向きな曲だったがやはり響きはすばらしく、演奏が終わるとまた大きな拍手が巻き起こりコインが放り込まれた。
 絵夢は拍手をしながらまた近づいて話しかけ、他の3人もそれに加わって何やら談笑を始めた。暫くして会話を終えた絵夢は4人と軽く握手を交わして別れを告げ2人の所へ戻ってきた。
「何をしゃべってたの?」由布が訊いた。
「ちょっとね。フルートと三味線がとっても素晴らしかったから、どうしても話を聞いておきたくなったの。シランクスも素敵だったわ……」絵夢はまだ夢見ているような目つきだったが、やがて2人に目を戻すと「さぁ、お2人さん!そろそろ買い物に行かない?」と誘った。
 3人はセンター街に着くと、店を覗いて歩いた。由布は絵夢の思案気な様子に「絵夢は何か買いたいものはあるの?」と尋ねた。
「そうだね。チョコレートを仕入れておきたいかなぁ」絵夢がそう言うと、ハルがちらりと由布の方を見てから「バレンタイン?」と訊いた。
「ボクに気を遣う必要は無いよ。ボクだって買うよ。義理だって結構必要なんだ。水産研究所は男ばかりだし」由布は口を尖らせた。
「どこかお店の当てはあるの?」絵夢が言った。
 由布はハルと顔を見合わせてから絵夢の方を向いて首を横に振った。「いつも適当なブランドのものを特設会場で買ったりするだけだもの」
「それなら、わたしが時々買っているお店があるからそこへ案内しようか?多分気に入ると思うんだけど」絵夢が提案した。
「うわぁ!どんな店だろう。絵夢が買う店だったら見てみたい」由布は喜んでその提案に乗った。
「そう?だったらすぐそこだから。こっちよ」絵夢を先頭に3人はセンター街を離れ、山手へ向かって歩き始めた。

 黒磯の携帯が着信音を鳴らし始めた。
「はい、黒磯です」黒磯は発信元を確認してから簡潔に応答した。
『絵夢です』携帯からは明るい声が響いた。
「お嬢様。今何時だとお思いですか?約束の時間はとっくに過ぎておりますし、約束の場所にもいらっしゃらなかったですね?」
『ごめんなさい。ちょっと急用ができてしまって』少し困ったような声だがいつもの作戦だ。
「また急用ですか?いつものことですね。もう慣れっこになってしまいましたが?あらかじめお伝えいただくということはできないのですか?」
『あらかじめ伝えられないから急用と言うんじゃないかしら?それに伝えたら認めてくださる?』
「それは時と場合によります。いまどちらですか?」
『いま三宮の駅です。あと2分で電車が出発します。御影の駅で拾ってくださるかしら?それから準備しても十分に間に合うとわたしは思いますが?』
「いつものことですから、もう準備は整っております。後はお嬢様がいらっしゃれば滞りなく進行できます。すぐに山本を駅へ迎えにやりますので、いつもの北のロータリーで待たせます」
『わかりました。よろしくお願いします。ところで……』絵夢は言い淀んだ。
「ところで、何ですか?」
『黒磯は若い頃山男だったの?』からかうような口調だ。
「は?いきなり何ですか?」
『質問に答えてくださる?でないと新開地行きに乗り換えますよ』
「何をおっしゃっているんですか?意味がわかりませんが、確かに若い頃はあちこちの山に登っておりました。なぜ急にそんなことをお聞きになるのですか?」
『何となくよ。何となくそんな気がしたの。やっぱりそうだったんだ。あっ!電車が出る。乗ります』発車のメロディーが聞こえ始めて電話が切れた。
 黒磯は携帯を操作した。「黒磯だ。お嬢様から連絡があった。電車はいま三宮を出たところだ。御影駅の北のロータリーでお迎えしてくれ。急げ」

 黒磯は家路を急いでいた。無事お嬢様を送り出して今日の勤務は終了した。あとは山本に任せておけば万事滞りなく進むはずだ。
「ただいま」玄関を入って声をかけると「父さんお帰り、先に風呂に入るだろ?夕食待ってるから早めにね!」ハルの声が返ってきた。
「待っててくれてるのか?」台所を覗くと2人並んで台所に立っている。「たまには一緒に食べよ」ハルがこっちを振り返って笑った。
「すまないな。母さん着替えは?」
「寝室のいつもの棚。のんびり入ってもいいけど、あんまり長くならないようにお願い」
「わかってる。俺はそんなに長風呂じゃないぞ」黒磯は寝室に急いだ。
 風呂を上がった黒磯が席に着くと「いただきまーす」待ちかねたハルが声を上げて食事が始まった。「今日は飲めるんよね?」黒磯が頷くと、ハルが缶ビールを開けて黒磯についでくれた。黒磯が「いただきます」とコップを空け食事を始めると、ハルは立ち上がり後ろの棚から紙袋を持ってきて、そこから小さな箱を出してきた。「父さんこれ、いつもの由布からのバレンタインデーのチョコレート。預かってきた。なかなか一緒に夕食食べられないから、ちょっと早いけど今日渡しとく。」
「そうか。それはうれしいな。おぉ!しゃれた箱だな」
「だろ?友達に今日三宮でお店を教えてもらった」
「ハルがか?」黒磯は問い返した。
「由布と一緒にやで」あわててハルが付け足した。
「由布ちゃんと……2人でか?」
「いや。由布の友達も一緒で、その子に教えてもらった。女の子や。それから、これ!」ハルは紙袋からもう一つ箱を出してきた。
「なんだ?」
「これはね。その由布の友達から……ついでにって言うてた」
「由布ちゃんの友達から?ついで?」
「絵夢っていう、髪の長いすごくきれいな子」
「絵夢!」黒磯は素っ頓狂な声を上げて飲もうとしていたビールでむせた。
「大丈夫?漢字だとPictureとDreamと書くんやって。すごい家系のお嬢様らしいで」
「絵夢か……まいったな」黒磯は頭を掻きながら小さくつぶやくと、苦り切った顔で「その友達にもよろしく言っといてくれ」と言った。
「それから、これは僕から」ハルが照れくさそうに箱を出した。
「なんだ?お前もチョコレートか?」
「違うよ。中はネクタイ。その絵夢に選んでもらったんだ。選んでプレゼントしろってうるさいんや」ハルは少し迷惑そうな顔をしたが「いつもいろいろとありがとう。これこそついでやな」と箱を手渡した。
「おじょ……絵夢さんが?父さんちょっと開けてみてよ」連れ合いは興味津々だ。
「ありがとう。だが、なんだか照れるな」黒磯は箱を開けるとネクタイを取り出し胸に当てた。
「へぇ、明るい感じでよく似合う。いいセンスやわ」連れ合いが声を上げた。
 食事中、ハルは由布や絵夢の話を楽しげに続けた。黒磯はこんなに生き生きと話すハルを久しぶりに見たような気がした。絵夢にかかわる者の表情が明るく変化するのを何度も見てきた黒磯は、ハルの中にもその変化を感じていた。まぁこれはいいことなんだろう、そう考えながら黒磯は食事を続けた。

 食事を終えて自分の部屋へ向かうハルを見送りながら、黒磯と連れ合いは目を合わせた。
「なぜハルの話にお嬢様が出てくるんだ?」黒磯の小声の問いに連れ合いは「さあ。何ででしょうね?」と笑って答えた。
「ハルはお嬢様と係わり合わないようにしてきたつもりだったんだが」
「そうやね。男の子でしたからね。でももう係わってもいい時期になったんやないですか?いい人も居るみたいやし」
「あれにか?由布ちゃんじゃないだろう?あっちは決まった人が居るようだし」
「それが、そうでもないようなんですよ」
「それはどういうことだ?」
「まぁ、おいおいわかりますよ。それから父さん、これは私から」連れ合いから小さな箱が渡された。
「お、ありがとう」黒磯は照れくさそうに受け取った。
 黒磯は、狐につままれたような面持ちで、4つ並んだ箱を見つめていた。

 ハルは自分の部屋に入るとベッドに腰掛け、横に置いてあった紙袋を膝の上に置いた。そして中から箱を取りだした。1つは絵夢からもらった父と同じ箱。そしてもう一つは由布からもらったそれよりも少し大きな箱だった。開けてみるとシンプルだが美味しそうなチョコレートが行儀よく並んでいる。真ん中にはメッセージカードが乗っている。由布が絵夢と一緒にキャーキャー言いながら隠れるように店のテーブルで書き込んでいたものだ。ハルは気がついていないふりをしていたが、やはり気になっていた。何を書き込んだんだやろう……そう思って開いたカードには“ありがとう。これからもずっとよろしくね”と書き込まれていた。

2013/01/25
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

The Horizontal Blue(s)

Stella/s 絵夢シリーズ(番外)掌編

The Horizontal Blue(s) 
 
 スダジイの幹は海に向いて傾いている。一般的に海流で削られてできた急な斜面に立つ木は、海の方向に傾いて成長するからだ。
 その傾いた幹の上面にはコケが生えておらず地肌がむき出しになっている。その部分はまるで研磨されたようにきれいに仕上げられているが、あちこちに尖ったもので削られたような跡が見られる。
 夜明け前、ユウはそのスダジイの幹で足を踏ん張り、爪と嘴を引っかけ、両方の翼でバランスを取り、時には少し羽ばたきながら樹上を目指していた。前後には仲間が連なって同じように踏ん張って幹を登り続けている。まだ辺りは真っ暗だが、明るくなる前に飛び立ってしまわないと命の危険がある。凶暴な雑食の奴らが明るくなるまでに飛び立てなかった者の命を狙っているからだ。
 毎朝くりかえされるこの行進によって、スダジイの幹は磨きあげられるのだ。
「ごめんね。ごめん」ユウは小さな声で前後に居る仲間に声をかけていた。
 ユウの翼は他の仲間と違っていてとても長い。
 雄同士がやっているように大きく翼を広げて体の大きさを比べをやってみると、その辺の雄なんかより自分の方が翼長が長いことに驚くぐらいだ。
 しかしこのような態勢で密集した時は、その長い翼が邪魔になる。銘々がバランスを取るために翼を広げたり羽ばたかせたりすれば、ユウの翼は周りの仲間の体に当たることになり迷惑がられる。ユウは小さな声で謝り続けながら慎重に登っていた。ユウに面と向かって文句を言う仲間はいなかったが、やはり翼がぶつかれば腹を立てて押し返す者もある。グイと押し返さてユウは少しバランスを崩した。
 その時ユウの爪が外れた。ズルズル……その反動でもう片方の足の爪も外れた。「まあいいか。飛び出してしまおうか」そう考えた瞬間、木の上にとどまるのは不可能になった。必死で羽ばたくが必要な揚力を得ることは出来ない。不安定な状態で空中に放り出されたユウは、フラフラと高度を失った。バサバサーッ!なにもコントロールできないまま、密集した細い木の枝に突っ込んだ。
「しまった」翼をバタつかせ脱出を試みる。幸い翼はなんとか動かすことができる。何度か羽ばたきを繰り返した後に、ようやく木の枝から解放されクルクルと地面に落ちていく。落ちながら翼でバランスを取り、羽ばたきで揚力を確保し、何とか地面に軟着陸することに成功した。
 ホッとしたユウは全身を確認した。痛みはない?翼を広げてみる。大丈夫。ユウの長い翼は、元の形を保っていた。軽く羽ばたいてみる。痛くない。大丈夫。そう思ったとき後ろから声をかけられた。
「大丈夫か?」聞き覚えのある声にユウが振り返ると、そこにはハルの見覚えのある嘴があった。
「大丈夫みたい」ユウは心配をかけないよう、何でもなさそうに答えた。
「どう?見せて見ろ。翼を広げて!」ハルにきつくいわれてユウはゆっくりと翼を広げた。
「ふむ」ハルは回り込みながらしげしげとユウの全身を見ていたがようやく納得したのか「よし、大丈夫や。どこにも痛みは無いんやな?」と言った。
 キョトンとした目をしてユウが頷くとハルはようやく安心した顔になって「さあ列に並ぼう、夜明けまで時間が無いで」と嘴でユウをせっついた。
 あまり突かれてはかなわないので、ユウは木の根元の列の最後尾に向かって歩き始めた。
「あら、ユウ、まさかまた落っこちたんじゃないでしょうね?」凛と澄んだ声が聞こえた。
 そっと首を廻すとそこには心配そうな目をしたエムの顔があった。エムは他の仲間より白い部分の割合が多い上に羽の艶や形も良くて、同じ雌から見てもじっと見とれてしまうような美しい姿をしている。
 えへへ……ユウがばつの悪そうな顔で応えると「やっぱり」エムは少し怒ったような顔になって「ユウはみんなより翼長が長い割に翼幅が無いんだから初速がいるのよ、楽しようなんて考えないでちゃんと木の上の方まで登ってから飛ばないと」と語気を強くした。
「楽しようなんて思ってないよ。翼も長いし嵩張るからみんなの邪魔になるかなと思って、つい早めにね……」したから見上げるようにユウが応じると、「他のみんなの邪魔にならんように遠慮して、早めに飛んで落ちて怪我でもしたら、それこそ何をやってるんかわからへん」後ろからハルがたたみかけた。
 逃げ場を失ったユウは前にエム、後ろにハルに挟まれて、またスダジイの木を登り始めた。
 ユウ達の種類の鳥は地面からは直接離陸できない。斜面や風の助けを借りれば何とかなるが、こんな森の中ではそれもできない。必然的にこうやって木に登ってそこからダイブする以外、大空へ飛び立つ術が無いのだ。
 前後がエムとハルなので、今度は遠慮せずに翼を広げ、あるいは羽ばたかせてバランスを取ることができる。薄明かりの中ユウは徐々に登っていき、視界には海面の広がりが見えてきた。
「そろそろ行けるかな?」ユウは海の方を向いて呟いた。
「まだや。その翼にはもっと初速がいる」後ろからハルが尻尾を突く。
「そうよ。もう少し頑張りなさい」前からエムが声をかける。
「僕はもう大丈夫だと思うけどな」
「そのいいかげんな見切りがあかんのや。なぜ諦めてまう。もう少しやろ?」ハルの低い声がユウを戒める。
「わかった。わかったよ。頑張るよ」
「頑張って!」エムの声が聞こえた。
 暫く登ってからエムが振り返った。「ユウは飛び出した後は、すぐに翼をいっぱいに広げて、必死に飛ぼうとするでしょ?」
「そう。だって揚力が出ないんだもの」ユウが答えた。
「でもね、ユウの翼は特に初速が必要なの。だからまず飛び出す高さを上げることが一番なの。そして次は飛び出した直後は翼を少し狭めるの。わかる?」
「なんとなく……」
「これぐらいかな?やってみて」エムは翼を広げて見せた。ユウはその幅に翼を合わせてみる。
「こんな感じ?」
「そう。飛び出した後すぐにその幅で滑空を始めたらきっと上手くいく。速度が上がるからね。そして速度が上がったら翼をいっぱいに、こう……」エムが説明をしている間にも少し下の木の枝からは仲間が次々と飛び立って行く。ユウがいっぱいに翼を広げると、エムよりずいぶんとはみ出した。「こんな感じ?」ユウが少し不安そうに言った。
「そう!そうよ!自信を持って。じゃあ、私はそろそろ行くわ。ユウもここなら大丈夫よ。よく頑張ったね」と言ってから勢いよく空中に飛び出した。
「ありがとう」ユウは言い忘れていたお礼を急いで叫んだ。
 優雅な姿はそのまま滑らかに滑空を始め、数回軽く羽ばたいただけで薄闇の中へ上昇して行った。
「さあ。落ち着いて飛び出すんや。さっきのを忘れんとな!」ハルの声を聞きながらユウは空中に飛び出した。最初は翼を全開にぜず少し閉じた状態で、それこそ落下するような恐怖の中飛び出していく。恐怖が限界に達し速度が乗ったところで一挙に翼を全開にする。ユウの翼は長さはあるが幅が不足しているので、離陸直後の速度が不足した状態では扱いづらい。だが今は翼を窄めて落下して速度を上げた直後なので、初列や次列風切羽は速度の速い空気を一杯に受け最大の揚力を発生する。空気の振動が羽先から伝わってくる。初列風切羽の間を通り過ぎる空気の音が聞こえてくる。下にある海面の波模様がどんどん小さくなる。
 信じられないくらい軽々とユウの体は上昇した。あまりに上昇率が高いので、風切り羽を閉じて空気の支えを減らしてやらねばならないくらいだ。尾羽でバランスを調整すると、ユウはバンクを取って大きく旋回した。低速域での扱いにくさに比べて、高速域での運動性能の良さは分かっているつもりだったが、今感じる翼の性能はユウの経験を遥かに超えるものだった。遠心力が心地よい。夜が明け始めて明るくなり始めた空は、まるでユウを歓迎しているようにさえ感じられる。ユウは自分が風と一体になったような気分で大空を舞った。
「どうや!ユウ。気分は」追いかけて上昇してきたハルが叫んだ。
「うん!とっても気持ちいい。こんなに上昇できるなんて。信じられない」ユウの声は高揚している。
「ユウの翼は一旦スピードに乗ってしまえば抵抗が少ないし扱いやすい。今まではその使い方がわかってなかったんや。多分離陸の時に感じるコンプレックスの影響が大きかったんやろう。エムに感謝するんやな」ハルは少し速度を上げながら言った。
「そうかも。でも、すごく楽!気持ちいい」ユウはハルにあわせて速度を少し落としてからバンクを大きく取ると、海面に向けて急降下した。
「やれやれ」そう言うとハルも後を追って急降下していった。
 ユウは海面まで一気に降下すると、今度は波に吹き付けて上昇する風を巧みに利用して旋回しながら上昇した。速度の乗ったユウの翼は、一定の安定性を備えたうえで抜群の運動性を発揮する。あっという間に海面が遠くなり気温が下がってくる。振り返るとハルが懸命に追いかけて来ていた。
 明るくなった大気の向こうには真っ青な水平線が広がっていた。

「ふぁ……」由布は目を開けた。
 自分が今どこに居るのか把握するのに暫く時間を必要とした。
 自分が空を飛んでいないことを理解してから、今まで突っ伏していた机の上をみて、由布は悲鳴を上げた。
 自分の声に驚いてあたりをきょろきょろと見渡してから、誰もやってこないことに安心と不安がないまぜになった気持ちになって、また机の上に目を戻した。
 由布は水産研究所の研究センター2階にある研究室の机に向かって座っている。徹夜で作業を続けていたが、いつのまにか眠っていたようだ。机の上にはよだれまみれになった履歴書がたくさんの皺を刻んで置かれている。せっかく途中まで書いた文字は判読不可能な部分もできてしまっている。
「ああぁ……せっかく書いたのに」

 研究所長の通称“アバ”に呼び出されたのは昨日の午後のことだ。論文の提出が切羽詰まっていた由布にとって無駄な時間は一切なかったが“アバ”の呼び出しとあっては無下にはできない。慌ただしく所長室に入って来た由布に“アバ”は言った。
「由布、水族館の飼育員の面接を受けて見る気はないか?」
「ボクが……ですか?」由布の目は宙を泳いだ。
「ボクは止めなさい」
「あ、私が、ですか?」慌てて言い直す。
「そうだ」“アバ”は結構有名な民間の水族館の名前を口にした。
「君の地元からは離れてしまうが、それでも良ければ僕の方から推薦してみるがどうだ?受けてみないか?」
 由布は一瞬迷うようなそぶりを見せたがすぐに承諾の返事をした。

 研究室の窓の向こうにはフィヨルドのように長く切れ込んだ湾が左右に広がっている。湾の中央には小さな島があってその上には松が茂っている。見慣れたその風景はまだ夜明け前の薄闇の中に沈んでいたが、間もなく日の出の時間を迎え徐々に明るくなってくるはずだ。
 由布は汚してしまった履歴書を細かく破いてゴミ箱に捨てると、また机に向かって新たに記入を始めた。履歴書は学校のフォームなので記入欄がたくさんある。フォームを見栄えの良い位に埋めるには結構時間がかかる。由布は下書きを見ながら丁寧に記入していった。
 たっぷりと時間をかけて記入を終えると、由布は大きく伸びをして立ちあがった。湾の向こうに伸びている半島の先から朝日が昇り始めたところだった。

 思い切って飛び出してよかったのかもしれない。由布は今そう思っていた。
 風切羽は速度の速い空気を一杯に受け最大の揚力を発生させた。由布は朝日にきらめく海面が遙か下に見下ろせる位まであっという間に上昇した。風をはらんだ初列風切羽からは由布の興奮がビリビリと伝わってくる。
 明るくなった大気の向こうには真っ青な水平線が広がっていた。

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(10)Promenade

Promenade

宝塚駅

 宝塚南口駅を出た電車は武庫川に架かる橋梁を渡り始めた。
 絵夢は進行方向左側のドアの傍に立って窓から河原を見下ろしている。河原には小説で有名になった“生”の字を河原の石を並べて描いた大きなオブジェがある。そのオブジェは阪神淡路大震災の犠牲者の慰霊のために作られたもので、幼かった彼女のかすかに残る激しい揺れの記憶を呼び覚ます。だが一方このオブジェは小説のヒロインがそうだったように、生ビールの「生」をも連想させる。この相違する2つの連想の不思議につられて、絵夢はそこを通るときはなんとなくそれを眺めてしまうのだった。
 鉄橋を渡り終わった電車は左へとカーブを描き始め、宝塚音楽学校と宝塚大劇場の間をかすめ、バウホールの前を通過して宝塚駅のホームに滑り込んでいった。

 宝塚駅の4号線に梅田からの急行が到着した。開いたドアから乗客達が降りた後、中年の女性がゆっくりと降りてきた。真黒なワンピースと真黒なジャケットを組み合わせ、ショートにした灰色の髪に真っ黒のつば広帽子をかぶった彼女の恰好は異彩を放っている。彼女は驚いた様子で周りを見渡していたが、やがてホームの中央にあるベンチに腰をかけた。暫くすると今度はホームの反対側、3号線に西宮北口からの電車が入ってきた。ドアが開いて降りてくる乗客に混じって絵夢の顔が見える。急行に乗り換えるためにホームを横切ろうとした絵夢は、ふとベンチに寂しげに座る黒ずくめの女性に目を留めた。一旦立ち止った絵夢は、小さく「ブラック・ウィドウ……?」と呟くと女性に近づいた。
「何かお困りですか?」女性の前に立つと絵夢は少し姿勢を低くして、覗き込むように声をかけた。
 黒ずくめの女性は絵夢を見上げたが『…………』と言葉を発した。絵夢はそれがどこの言葉なのか一瞬迷った。意志の強そうな焦げ茶色の瞳で見つめてくる女性は、一見すると日本人の顔つきだった。絵夢は頭の切り替えを終え、今度はポルトガル語で『何かお困りですか?』と訊いた。
『あなた。私の言葉が喋れるのね』女性はゆっくりとした調子で訊いた。
『いえ。ほとんど喋れません。あなたは英語は喋れますか?』絵夢は考え考えポルトガル語で話し、『あまり上手じゃないけど』女性は英語で応じた。
『何かわたしにお手伝いできることがあったら、遠慮なくおっしゃってください』絵夢は英語で告げると外交用の笑顔を作った。
『ありがとう』女性はそう言ってから『ここはどこかしら?』と呟いた。
「え?」絵夢は戸惑ったが『ここですか?ここは宝塚ですよ』と付け加えた。
『そうではなくて、ここは、なんていったかしら……そう阪急電車?の宝塚駅なのかしら?』女性はアリスのように、不思議に満ちた表情であたりを見渡した。
『そうですよ。阪急の宝塚駅です』絵夢もいっしょに周りを見回しながら答えた。
『ごめんなさいね。変な女だと思ったでしょう?』
『ええ。少し……あ、ごめんなさい』絵夢はあわてて謝った。
『ふふふ……』女性は始めて顔を緩めて微笑んだ。絵夢も笑顔になった。
 その笑顔をじっと見つめていた女性は何かを決めたように小さく頷くと『御厚意に甘えてもいいかしら。少しの時間私に付き合ってくださると嬉しいんだけど』と言った。
『喜んで!今日は特に急ぐ用事も無いですから』絵夢はこの人は大丈夫と判断した。
『私はメイコといいます。あなたをなんて呼べばいいのかしら?』
『エム、絵夢と呼んでいただければいいですよ。メイコさん』
『メイコでいいわ。少し私の話を聞いてくださる?エム』メイコの言葉に絵夢は隣に腰を下ろした。
 絵夢が落ち着くのを待ってメイコは喋り始めた。
『私はこの町の生まれなの。この町で16まで過ごして、そして海外に移住したの』
『宝塚のご出身なんですか?それに海外って、ポルトガル?』
『ええ。ポルトという町なの。移住して40年になるわ。今日始めて戻って来たの』
『ということは、メイコは50歳を超えているってことですか?そうは見えないけど』
『ありがとう』また微笑むとメイコは続きを話し始めた。
『今朝7時半に関西空港に着いて、後は迷いながら難波へ、梅田も驚きだったけど、そこから阪急で宝塚まで来て、幼い頃の記憶なんて全然当てにならない、ということがよくわかったわ。この駅だって全然違う。私の知っている宝塚駅は高架じゃなくて地面の上にあったし、古くて狭くて曲がっていたわ。国鉄の上を越えた電車がカーブをゆっくりと下りながら、曲がったホームに入ってくる記憶があるもの』
『そうですね。多分20年ほど前に再開発で全部作り替えられてます。だからわたしは前の駅は全然知らないんです』
『そう……私だけ置いていかれたみたい。何もかも無くなってしまったのね』メイコは暫く黙っていたが、絵夢の方を向き直ると『でも歌劇と大劇場はあるんでしょ?そこまで私を連れていってくださるかしら?』
『歌劇をご覧になるんですか?』
『ええ、多分……』メイコはチケットを見せた。絵夢は目を通したが、チケットは今日の午後の公演だ。まだ時間は充分にある。
メイコは続けた。『でも小さい頃は大ファンで、しょっちゅう見に行っていたのよ。小学校の授業として、大劇場で歌劇や映画を観たこともあるわ』
『大劇場で視聴覚授業ですか?贅沢ですね。わたし達の年代は無かったですね』
『あら、そうなの?せっかく大劇場が有るのにね』
『歩いて10分位ですよ。ご案内しましょう』
『なんとなく雰囲気は覚えているのよ。方向とか距離くらいは。じゃあ、お願いします』とメイコは立ち上がった。絵夢も立ちあがると二人並んでエスカレーターへ向かった。
『私の小さい頃はホームから改札口まで狭い地下道を通った記憶があるの。改札を出ると温泉街だったわ。街路樹の柳があって……』
『温泉街ですか?今はそういうイメージは橋を渡った向こう側ですね』
『宝来橋?だったかしら』
『ええ。宝来橋です。今でも橋を渡ると温泉街ですよ』
『そう。懐かしいわ』
 2人は改札を出ると、さらにエスカレーターを下って駅の建物から出た。
 メイコは立ち止って正面を見つめたまま『全然違う。まるで別の町だわ』と驚いた。そして『でも、きっとこっちよネ』と左側を指差した。
『そうです。こっちですよ』絵夢は左に進むとショッピングモールの中へ入っていった。
 モールの中の歌劇の大階段を思わせる階段を降り、出口に差し掛かるとメイコが声を上げた。『あ!このお饅頭屋さん憶えがある』
『老舗ですからね。ずっとこのあたりにあったと思いますよ』絵夢はモールを出て横断歩道を渡った。花の道1

『ここも憶えがあるわ。このモニュメントも見たことがある。花道(ハナミチ)ね?』メイコは横断歩道の先に続く通りを見て言った。
『ええ。花の道(ハナノミチ)といいますね』
『そう?記憶違いかしら?花道と言っていたような気がするんだけど。これは桜ね。懐かしい。そして綺麗』メイコは頭上に咲き始めた花を見上げてしばし立ち止った。目には涙が滲んでいるように見える。暫くしてハンカチを取り出し、目に軽く当ててから、絵夢に目を戻すと『この町、ヨーロッパの雰囲気になるように作られているのかしら?』と言った。
『歌劇の町ですからね。そういう雰囲気で作られていると思いますよ』絵夢は軽い感じで答えた。
『でも、私はこの町の雰囲気には違和感と、もっと言えば欺瞞を感じるの。私の町みたいに自然にまとまれない。無理に組み合わせたように感じてしまうの。ごめんなさいね』
『ポルトの町に比べてですか?』
『ええ。町の歴史そのままの建物には違和感は無いわ。日本でもそういう街並みってあるでしょう?でもこれは私の我儘ね。歌劇自体が幻想の世界ですもの。こういう雰囲気作りは大切なのかもしれないわね。一種のテーマパークとして考えなくちゃいけないんでしょうね』
『難しいところですね。メイコはポルトの町がお好きなんですね』
『そうね。仕方なく住み始めたし、日本みたいに豊かではないんだけど、今では気に入ってるんだと思うわ』メイコは遠いポルトを思っているのか、少し不安そうに見えた。
 しばらく花の道を進んでから絵夢は『こっちには遊園地があったんですけど……』と左手を指さした。
『え?』メイコはそっちを見てから『ファミリーランド?だったわよね?どうしたの?何もないわ』さらに不安そうに言った。
『ファミリーランドは10年ほど前に閉園になっています。今は駐車場やマンションや学校になってしまいました。わたしも小さい頃は来たことがあるんですけど』
『そう。やっぱり何もかも変わってしまうんだわ……私の戻るところも無いのね』メイコは独り言のように呟いた。
 絵夢はそんなメイコの寂しそうな様子をじっと見ていたが、やがて反対側を指さして言った。『大劇場はこちらです』

大劇場・バウホール

『大劇場は昔と同じ所にちゃんと有るのね?でもやっぱり違っているわ』
『そうですね。大劇場も20年ほど前に建て替えられています。でも、以前のものより大きくなって観やすくなっていますし、バウホールという小ホールも併設されているんですよ』
『そう。立派になったのね』小さな声でそう言うとメイコは動かなくなってしまった。絵夢は入り口へと向かうために横断歩道を渡り始めていたが、メイコがついてこないのに気がついて引き返してきた。『どうされました?』
『絵夢、私には娘がいたの』唐突にメイコは話し始めた。
 それが過去形であることで、絵夢は言葉をはさめなかった。
『私が18の時にポルトで産んだの。でもね、事情があってその子は生まれてすぐに日本へ連れ戻されて、私はその子の消息を知ることは出来なかったの』
 絵夢は木陰の小さなベンチにメイコを座らせると隣に自分も腰掛けた。
『ありがとう』メイコは大きくため息をつくと少しずつ話し始めた。
『私はその子を連れて行かれた後、その子のことを忘れていたわけでは無かったのよ。だけど自分が生きていくのに精一杯だったの。でも、ようやく生活が安定して心に余裕が出てきた頃には、もう日本に近づくことも出来なかった。いまさらどんな面下げて……会いに行けるの?それから悶々と20年が過ぎていったわ。そんなとき、一通の手紙が届いたの』メイコの両手は強く握られていた。絵夢の目が優しく先を促した。
『手紙は私の娘の娘、孫からのものだったわ。もう16歳になっていたの。その手紙には私の娘……その子の母親ね、が病気で亡くなったこと、私の娘が亡くなる前に私を探したこと、探すのにとても手間取ったこと、見つかった時にはもう会いに行くことが出来なくなっていたことが書かれていたわ。そして日本までの航空券と歌劇のチケットが入っていたの。私が歌劇の大ファンだったことを憶えている人が生きているのかもしれないわね』メイコの目は大劇場の門の方を向いていたが、メイコには別のものが見えているようだった。
『私は何もかも放り出して出かけてきたわ。名前も知らない私の娘がどんな人生を歩んでどう亡くなったのか、私の孫はどんな子だろうか、居ても立っても居られなくなった……。でも、今は不安でいっぱい。私はどんな顔をしている?どんな顔をすればいい?』メイコは遠くの誰かに話しかるように語った。
『あなたは出会った時はアリスのような不思議に満ちた顔を、そして今はとても不安に満ちた顔をしています。でもそれは当然だと、わたしは思います。無理に取り繕わない素直な気持ちで、この先へ進んでもかまわないと思います』絵夢はメイコと同じ方向を見ながら誰に言うでもなく喋った。
『そうね。ここまで来てしまったんですものね。このまま帰るなんてとてもできないわ』メイコは絵夢の顔を見つめた。
『お孫さんが待っておられるんでしょうか?』絵夢もメイコの顔を見た。
『このチケットの席に座れということなんでしょう。それに従ってみるわ。ありがとうエム。いきましょうか?』メイコは立ち上がった。

 絵夢は先に立って横断歩道を渡ると門をくぐった。そのまま階段を上がって入り口を入る。今度はメイコもしっかりとした足取りでついてくる。
 入口を入った絵夢は『この入り口部分の上がバウホールという小ホールになっています。このまま左方向がプロムナードになっていて、その先が大ホールのエントランスです』と案内した。
『そのエントランスまでついてきてくださるかしら?』絵夢の配慮を感じたのかメイコが遠慮気味に言った。

プロムナード

エントランス

『よろしければ!』ニッコリと微笑むと絵夢は進み始めた。両側にレストラン、喫茶店、ギフトショップなどが並ぶプロムナードを進み、スロープを登って2人はエントランスの入り口に着いた。
『ここでチケットを見せてエントランスへ入ってください……』絵夢はさようならを言うために言葉を続けようとした。
 その時「エム、あなたがいてくれなかったら私はここまで来れなかったでしょう。感謝の言葉もありません」メイコは少し硬いが流暢な日本語で話すと深々と頭を下げた。
 絵夢は少し驚いた顔になったが「いえ。とんでもないです。メイコのお役に立てて本当に嬉しかった。こちらこそありがとうございました」と言った。
 メイコは下げていた頭を上げ言葉を続けようとしたが、顔を絵夢の方に向けたまま固まってしまった。メイコの目は絵夢を通り過ぎて絵夢の後ろを見ている。絵夢は後ろを振り返った。
 そこには長い髪をツインテールにした少女が立っていた。2人は絵夢を挟んで見つめ合っている。絵夢はあわてて立ち位置を少しずらした。
「おばあさま?」少女が声を出した。
「ミク?」メイコは恐る恐る声をかけた。声は少し震えている。
 ミクと呼ばれた少女はメイコに駆け寄ると一瞬戸惑った。
 メイコがぎこちない笑顔を向け両手を少し広げると、安心したのか小さく「おばあさま」と言って胸の中へ飛び込んだ。

 2人は仲良く並んで何度もこちらを振り返って深々とお辞儀を繰り返した。ミクはさらに手を振りながらエントランスに入っていった。絵夢も手を振って2人が赤絨毯の階段を上って行くのを見届けてから、プロムナードを出口に向かって歩き始めた。
 花の道の桜は満開に向かっている。

花の道・桜

 穏やかな春風の中、絵夢は少し歩きたい気分だった。宝塚駅の方へは戻らず、このまま手塚治虫記念館の前を抜け、さくら橋を渡り、旧音楽学校の所でR176を横断し、中央図書館を覗いてから清荒神駅まで歩いてしまおう。そう考えると絵夢は携帯を取り出して操作した。
「絵夢です……」そう言うと電話の向こうからは長い御説教が聞こえてくる。
 絵夢はそれを一切無視して「いま大劇場の前です。そう、宝塚大劇場です。これから歩いて中央図書館に寄ってから帰ります。今日は何も予定がありませんでしたから問題無いですね?ごきげんよう」と言って電話を切ってしまった。
 絵夢は颯爽とした足取りで歩き始めた。早めに咲いた桜が春風に舞い、絵夢の長い髪と一緒に踊っていた。
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HONG KONG EXPRESS (香港急行)

HONG KONG EXPRESS (香港急行)

 ボーイング747の巨大な機体は右側に大きく傾いた。急激に高度が下がる。窓の外には灰色のビルの群れが流れ去っていく。傾けた翼の先端が触れそうなくらい近い。
 747は旋回を続けたまま、まだ高度を下げる。下にはビルの群れが続いている。恐怖で閉じそうになる目を懸命に開けて窓の外を見つめる。手には冷や汗がにじむ。
 墜ちる!!そう思った瞬間、ビルの群れが途切れ草地が現れた。滑走路だ。だが、まだ機体は大きく右に傾いたままで4番エンジンのナセルが地面を擦りそうだ。
 次の瞬間、ドスンドスンという車輪が接地する大きな衝撃が来た。機体は地面に降りることで無理やり水平を取り戻し、進行方向を真っすぐにした。リバースがかかって大きく減速する。隣に見られないよう顔を窓の方に向けたまま小さくフゥと息をつく。減速を終えた機体はゆっくりとタキシングを始め、到着を告げる英語のアナウンスが始まった。
 肩にどかないようにカットされたふわりした黒い髪、やせっぽちなボディ、白すぎるくらいの肌、丁度好い位置についているのにアンバランスに大きな目、その中にある猫のような大きな焦げ茶色の瞳、やや大き目の口、真っすぐ通った鼻、胴体に比べるとやや長く感じる手足そして指、それぞれに個性的なパーツは組み合わさると少し風変わりな18の少女が出来上がる。
 そこは彼女にとって始めての海外だった。修学旅行のために取ったものの、色々あって使うことの無かったパスポートが思わぬところで役に立った。
 長い列に並んで見様見真似で入国審査を終えた彼女は、バゲッジクレームで小さなスーツケースを受け取ると到着ゲートを出た。ゲートを出たところで彼が待っていてくれるはずだ。だが、待ち合わせのカードを掲げる人々が大勢並ぶ通路を何往復しても、彼女は彼の顔を見つけることはできなかった。彼女は不安を抑えるために、到着ロビーの手近なベンチに腰を下ろした。そして不安げな顔で周りを見渡していたが、1人の男が近づいてくるのを見つけると一気に顔を輝かせた。
 男は長身でやせ形、ラフな感じで紺のスーツを着こなして大股で近づいてくる。彼女は顔を輝かせてじっと男を見つめていたが、見つめられているのに気が付いた男が顔を向けるとその輝きは一瞬で消え失せた。男は彼ではなかった。感じはよく似ているが全くの別人だった。彼女はがっかりして下を向いてしまった。男はその様子に気が付いた風だったがそのまま通路を進んでいった。まったく意味のわからない雑踏が彼女を包み込み覆い隠した。

 香港啓徳空港。アジアの中のヨーロッパ。中国に中に取り残されたイギリス。この隔離された自由地帯にただ1つ開いた空の窓。そこを目指して群がってくる人間達を呑み込んで、ひっきりなしに着陸と離陸を繰り返すジュラルミンの翼達。ランウェイランプを反射するその翼に夜の帳が降りる頃、空港はラッシュアワーを終えようとしていた。
 もう何時間になるだろう?彼女は到着ロビーに座っていた。いったい何人の人が前を通り過ぎていったのだろう?彼女は1人だった。
 だれもわたしを向かえに来てはくれなかった。それどころか誰もわたしを拾ってくれることも、誑かしてくれることも無かった。もう帰れはしない。帰るところなんか無い。すべてのことを諦めたように彼女は俯いて目を瞑っていた。
「何かお困りですか?お嬢さん」男の声がした。ハッと驚いて顔を上げた彼女の前に男の顔があった。あの男だ。ここに着いたとき、彼と一瞬勘違いした、あの長身でやせ形、ラフな感じで紺のスーツを着こなして大股で歩いていたあの男だ。同じ格好と同じ顔で今、彼女の顔を覗いている。
「日本人だよな?」そう言われて彼女は日本語で話しかけられていたのに気が付いた。
 安心感と緊張感がないまぜになったような顔で彼女は頷いた。涙があふれ出しそうだったがグッとこらえる。
「どうしたんだ?俺が昨日の午後ここを通りかかった時、ここに座っていたよな?」30歳位だろうか?彼女よりずっと年上の落ち着いた感じの男だ。
 彼女は元気を装って笑顔で首を横に振ったが、また下を向いてしまった。
「そして今朝ここを飛び立って用事を済ませ、また帰って来たところだ。昨日君が座っているのを見てからもう30時間以上たってるよな?そんなに長い時間そこに座っている理由がわからないんだが?」
 彼女は顔を上げて男の顔を見た。最初に疑いと怯えの目線を向けて、今度は長い間まるで心の中を読もうとするかように顔を見つめてから、この男なら大丈夫だろうと判断した。今回の件で自分の男を見る目がまるで無いということは嫌というほどわかっていたが、ずいぶん長い時間不安と猜疑心に曝され続けて自暴自棄になっていたし、見まわしてみても考えてみても他に頼れるものは何も無かったのだ。彼女はようやく重い口を開いた。だが整理をして話してみると複雑に思えた事情は、最後に日本に帰る選択肢は無いことを付け加えても、たった5分ほどに収まってしまった。
「と、いうことは」男はやけに軽い調子で「とりあえず必要なのは今夜の宿だな」と言った。
 特に驚いた様子もない男の態度に彼女はなぜか安心した。
「それから先のことは、明日考えよう……おいで」男は立ち上がった。でもさすがにこの状況では彼女の脳みその奥の方で警報が鳴り始める。彼女は座り込んだまま動けなかった。男は少し歩きだしてから引き返してきて、やれやれという具合に少し手を広げた。
「彼を待ってまたここで夜を明かすつもりか?強制するつもりはないが、俺を信用して暖かい食事とベッド、そしてシャワーをものにするか、来ない可能性が高い彼を待って手放すかの選択だ。Life or death now! どうする?」
 彼女は男の様子にキョトンとした表情になっていたが、やがて今度はお腹の虫の警報に耐えられなくなって、ゆっくりと立ち上がった。そして「Lifeの方を選んだつもりやけど……」と笑った。
「じゃあ行こうか。おいで」彼は先に立ってタクシー乗り場へ向かった。

「的士と書いてタクシーなんやぁ。へぇ~」
 赤いセダンがずらりと並んで客を待っている。安心感からだろうか彼女の目は好奇心に輝き始めていた。男は先頭の1台に乗り込むと、彼女が隣に乗り込んでいる間に運転手に行き先を告げた。車は夜の町へ走り出した。
 夜の町は人と車が溢れている。薄汚れた建物達は規則も法則もなく無秩序に増殖を繰り返した癌細胞のように、奇妙なエネルギーを放ちながらぬらぬらと続いていた。漢字やアルファベットで書かれた原色のネオンサインが光を放ち輪郭を取る。今、ビルの間からわずかに見える夜空を、飛行機の赤いビーコンライトが轟音を叩きつけながら横切った。
「夜の街並みを見て何か気が付かないか?」
「う~ん。ネオンが綺麗!というか、そうやなくて、とても怪しい!かな?多分夜やからネオン以外はよく見えへんから?」彼女は少しづつ元気を取り戻しつつあった。
「見えないから怪しい?」
「ううん。見えてるとこも怪しい。町がぜ~んぶ怪しい。でも、やっぱり綺麗!」
「よくわからんな」男は首を振った。
「不思議シティ」窓におでこを当てて彼女は言った。
「ネオンが点滅してないだろう?」
「え?」彼女は姿勢を低くして上を見渡した。「そうゆうたら。それで余計に不思議な感じなんかな?」
「この町はすぐ上空を飛行機が飛ぶ。だから飛行機の誘導灯がビルの上に付いているんだ。そいつは点滅を繰り返すから、ネオンは点滅しちゃいけないんだ」
「え?パイロットがネオンと誘導灯とを間違えんように?ということ?」
「そういうことだ」
「ここに降りてくるとき墜落するかと思ったもん。ビルの上スレスレでメチャクチャ恐かったよ。ここはやっぱり不思議シティや」彼女は食い入るように窓の外を眺めていた。
 ホテルのロビーは空いていた。「ちょっとそこで座って待ってろ」男は彼女をロビーのソファーに座らせるとフロントへ向かった。 何やら暫く話し込んでいたが振り返ると彼女を手招きした。「上手い具合に部屋を取れた。パスポートを出して」男に促されるまま内ポケットに大事に仕舞っていたパスポートをカウンターに出す。男は手に取って中を眺めてからフロント係に手渡した。「コズミでいいな?」男がそう尋ねると彼女は「わたし?ウン……コズミ。変な名前やよね?あまり呼ばれたくないんやけど」
「そうか?いい名前だぞ!漢字も「香る」に「澄む」だろ?いいと思うけどな」
「そう?じゃぁ、それでええわ」コズミはしょうがないな、という顔で言い、促されるままサインをして手続きを終えた。
「じゃあコズミ!部屋も確保できたことだし。晩飯といこうか。そんなに良いところには連れて行けないけどな」男はコズミのスーツケースを持って待っているボーイに何か言うと細かく折った札を握らせた。「部屋に荷物を置いたら20分後にこのソファーに集合だ」男はまた軽い調子で言うと歩き出した。ボーイがにこやかに待機している。
「部屋?わたしの?部屋代は?」コズミは男の背中に声をかけた。
「それはまた明日考えよう。腹が空いた」男はエレベーターに消えた。
「あの……」どうしていいかわからないうちに置いていかれたコズミは、そのままじっとしているわけにもいかずボーイに付いて部屋に向かった。

 コズミはホテルを出ると暫く通りを下り海沿いに出た。朝日を受けて光る海の向こうには、香港島の高層ビルが群れ立つ様子が見える。空港から来るときに見た癌細胞のような町並みとは全く違って、近代的な清潔感溢れる町並みだ。その落差の大きさに、抜かりなく生きるこの町のエネルギーのようなものを感じながら、コズミは海沿いに続くソールズベリー通りを歩き始めた。
 昨日の夕食は男に連れられて小さな食堂で取ることになった。庶民的な広東料理だったが、元来なんでも好き嫌いなく食べるコズミにとって、違和感無くとても美味しかった。飛行機の中で軽食を食べてから水以外何も口にしていなかったコズミは、安心感も手伝って餓鬼のように豪快に食べた。男は呆れた顔をしていたが、やがて諦めて好きなだけ食べさせてくれた。支払いの段になってコズミは自分が支払うといって男ともめたが、結局男の方が何枚も上手で全額を支払ってくれた。「話したくもない事情をたっぷりと聞かせてもらったし、そのお詫びだ」とまで言われて、心の中に溜まった物を思い切りぶちまけた気分でいたコズミはいっそう恐縮した。そして部屋に戻ると、とりあえず満たされた幸せな眠りがやってきた。とても疲れていたのだろう。コズミは彼に約束を反故にされた事をどこか心の外側に押しやり、愛用のパジャマに着替えて幸せな仮想空間を演出すると、いくらも時間を置かずに深い眠りに落ちていった。
 どれくらい寝ただろう。閉め忘れたカーテンの隙間から入ってくる朝日でコズミは目を覚ました。でもそれだけではない。コンコンコン……ノックの音がする。コズミは起き上がるとパジャマのままドアスコープを覗いた。ホテルの制服を着た男がにこやかに立っている。ドアチェーンをしたままそっとドアを開けると、何やら英語で喋りながら小さな白い箱を差し出す。怪訝な顔をしながらドアチェーンを外し箱を受け取ると、制服の男は丁寧に挨拶をして去って行った。
 コズミは椅子に腰掛け、テーブルの上に置いた箱を恐る恐る開いた。中には携帯電話とメッセージカードが入っていた。
 コズミは携帯電話というものに触るのは初めてだったので、物珍しげにボタンをいくつか操作したが早々に諦めて箱に戻した。メッセージカードを広げると……
「香澄、ヴィクトリアピークへ向かえ。ホテルをもう一泊できるように自分で交渉し、大事な物だけを持って身軽な格好で出発すること。携帯電話はすぐに取り出せるところに持っていること」
……と丁寧な字で書き込まれていた。
 これはあの男からのメッセージだ。「でもヴィクトリアピーク?ってなに?」コズミはその指示に従ってみることにしたが、それからが大変だった。
 コズミは海沿いをスターフェリーの乗り場に向かって歩きながら、さっきまで繰り広げられた喜劇を思い出していた。
 バタバタと支度を済ませフロントに降りたコズミは、どうにかこうにか連泊の手配を済ませてから、とりあえず2万円を両替した。料金は余分に預けられているようで必要ないと言われたものと解釈し、両替はよくわからないまま渡された香港ドルを受け取った。頭は慣れないコミュニケーションで一杯一杯だったが、続けてヴィクトリアピークについても質問した。にこやかに対応していたフロントは、ほとんど英語を話さないうえに、ヴィクトリアピークが何かさえ知らない様子のコズミに困惑していたが、地図を見せながら身ぶり手ぶりを交えて丁寧に対応してくれた。コズミは拙い断片英語と(高校へはほとんど通っていないので中学で習った単語を少し並べるぐらいしかできなかった)身ぶり手ぶりで何とか意思を伝えた。コズミは一応観光客とみなされたらしく、地下鉄を使うコースや、バスを使うダイレクトなコースではなく、フェリーを使って香港島へ渡るコースを勧められ、今フェリーターミナルへ向かって歩いている。黒い髪を揺らす潮風の向こうにレトロな建物が迫って来た。
 コズミは発券所に瞬く佇み乗客が切符を買う様子を観察してから、その作法通り窓口にお金を払い切符を購入した。そして切符を買っていた客の後ろをついてピアを歩いた。短い航路を往復するだけのフェリーは、方向転換をしないで行き来出来るように前後にスクリューと舵をもった構造になっている。コズミはそのオシツオサレツのような姿を物珍しげに眺めていたが、出発の合図に慌てて船のアッパーデッキに乗り込んだ。ヴィクトリア・ハーバーには午前中の爽やかな日光が降り注ぎ、船の上では気持ちのよい潮風とすばらしい風景が迎えてくれた。対岸からはバスに乗り継ぎ、さらにピーク・トラムというケーブルカーに乗り換える。ホテルでもらった地図を丁寧に読み込むことと、他人の真似をすることで難局を次々と乗り越え、コズミはついにピーク・トラムの切符を手に入れた。シートに腰を降ろすとトラムは静かにガーデンロード駅を出発した。
 トラムは平地を走る電車のように作られていて、ケーブルカーのように床が階段状になっていたりはしない。その代わり通路には溝が掘られていて、坂ではこれを階段のように使ってドアまで移動する。シートはすべて坂の上の方を向いてセットされていて、上り坂にさしかかると車体がぐっと傾いて、シートにおしりが押しつけられる。さらにトラムはロープで引っ張り上げられているので途中の駅で停車すると、ロープが収縮する関係で車両が前後に大きく振動する。不思議な乗り心地にコズミはあちこちをキョロキョロ見回していたが、大して眺望も開けないままザ・ピーク駅に到着した。
 駅を出たコズミは人の流れに乗って山上広場へと進んだ。眼下にはさっきまで海上から眺めていた高層ビルの群、ヴィクトリア・バーバー、そしてその向こうに九龍地区が広がっている。「うわー」コズミは素直にその巨大都市の景観に感動して、思わず両手を大げさに広げ歓声を上げた。「すごい!すごい!」そしてかなり長い時間を、それを眺めるのに費やした。隣にいた白人の夫婦が怪訝な顔をして見つめていたが、やがてコズミのあまりに素直な反応に、2人で顔を見合わせ微笑みを浮かべた。
 急に胸ポケットで携帯電話が鳴り始めた。コズミは慌ててそれを取り出し、どこを触ればいいのかしばらく混乱してから、受話器のマークから機能を想像してボタンを押した。
「お楽しみのところを悪いな……」男の声がした。
「ううん。今日は楽しい冒険をありがとう。ここまですごく面白かった」コズミは答えた。
「よくここまで1人でこれたな。褒めてやろう」
「もう、むちゃくちゃやったよ。全然喋れないし。人のまねばっかりしてた」
「だから、よくやったと言ってるんだ。で、そのご褒美だ。よければ受け取ってくれ」
「ご褒美って何?わたしは何もしてへんよ」興奮して喋っていたコズミは少し怪訝な声になった。
「だから、強制はしない。よければだ。携帯電話を切らずに後ろを向くんだ」
 コズミは言われたとおりにした。
「よ~し。そのまままっすぐ歩け」
 コズミは携帯電話を耳に当てたまま歩き始めた。コズミは見られているような気がしてキョロキョロとあたりを見渡した。きっとあの展望台だ。大きな建物の屋上を見ながらそう思ったが人を見分けることは出来ない。仕方なく言われるままに右に左に進んでいく。暫く歩くと道が三つ叉に分かれているところに差し掛かった。
「そこから真ん中の道に入るんだ。行き止まりになる少し手前の右手に屋敷がある。入り口に葡萄のレリーフがあるからすぐにわかるはずだ。そのレリーフの下に呼び鈴があるからそれを押せ。そして日本語でいいから名前を告げてみろ。出来るか?」
 ここまで来たらやってみよう。そう考えたコズミは「うん。やってみる」と答えた。
「よし」そういって電話は切れた。
 真ん中の道は緩やかに上りながら続いている。道の両側には十分な間隔を取ってお屋敷と森が連なっている。コズミは一軒ずつ確認しながら進んでいった。
 やがて前方に行き止まりの屋敷が見え始めた頃、大きな鉄柵を持った門が右手に現れた。鉄柵の両側は大きな石組みの柱になっていて、そこには葡萄のレリーフが描かれていた。
 コズミは暫くその門を見つめていたが、スッと息を詰めると呼び鈴を押した。
 暫く待つと英語で話す声が聞こえた。あの男の声ではない。
「コズミと申します」思い切って声を出すと「どうぞお入りください」日本語で答えがあって鉄柵の一部が内側に開いた。
 コズミは中に吸い込まれていき、鉄柵は静かに閉じた。

 香澄は手に持っていた携帯電話を、角が擦り切れた厚紙製の少し色あせた小さな白い箱に戻した。そしてすぐ横にあったメッセージカードを手に取った。香港の屋敷に落ち着いてから気が付いたのだが、このカードの端の方には葡萄のレリーフが浮きあがっている。この模様がヴィンデミアトリックス家の紋様であることは後から教えてもらったことだ。香澄はそっとレリーフの手触りを確かめ、書かれたメッセージを読んで小さく微笑んでから、それを箱に戻した。そして、そっと白い箱の蓋を閉じた。
「母さん!」急に後ろから声をかけられ香澄はびっくりして振り返った。
「あぁ。ハル、どうしたん?何か用?」後ろには息子のハルの顔があった。
「いや。別に……。なんか、ボ~ッとしてたから」
「ちょっと思い出にね……浸ってた」
「楽しい思い出?」
「まあね」香澄は照れ臭そうに笑った。
「その箱は?」後ろに立ったハルが箱を見つけて訊いた。
「これ?」香澄はまたそっと箱を開けた。
「何それ。古い携帯やね」ハルは携帯電話を手に取った。電源が入らないのでまた箱に戻そうとして、メッセージカードに気が付いて手に取った。香澄は取り返そうとする仕草を見せたが、ハルは手の届かない高さまでカードを上げた。
「何?この連絡メモみたいなのは?父さんの字やな。ヴィクトリアピークって香港やろ?香港に行ったことあるん?」ハルの声はからかいを含んでいる。
「返しなさい」香澄は立ち上がってカードを取り上げると箱に戻した。
「子供は変な詮索はしなくていい」香澄は厳しい顔をしようとしたが、この箱を受け取ったときに自分が何歳だったのかを思い出して上手く出来なくなった。
 ハルの笑顔が眩しかった。

2013.04.20

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

OSAKA EXPRESS(大阪急行)

「OSAKA EXPRESS(大阪急行)」

雲
雲 by 篠原 藍樹 2013/07/21 on pixiv

 キャセイ・パシフィックのボーイング747はゆっくりと高度を下げていく。窓の外を大阪城が通り過ぎ、キタのビル群が流れてゆく。淀川を渡り神崎川を越え阪神高速をかすめると、まもなく大阪国際空港32L滑走路だ。
 コズミは恐怖で閉じそうになる目を懸命に開け、手には冷や汗をにじませて窓の外を見つめている。コズミが見つめる窓の外には、2つの大きなエンジンとフラップをいっぱいに下ろした翼が見えている。やがて建物が途切れ、草地が広がって、そして滑走路だ。ドスン、ドドンッ、着陸の衝撃が伝わってくる。リバースと、スポイラーの展開で急激に速度を落した機体は、滑走路から誘導路に進入するとゆっくりとタキシングを始めた。英語のアナウンスが予定より早い到着を告げ、大阪の気象情報の案内を始めた。
 コズミは隣に見られないように小さくフゥと息をついた。
 19歳の誕生日を暫く前に迎えた彼女は、やせっぽちな体や、肩にどかないようにカットされたふわりした黒い髪から、一見弱々しそうな印象を受ける。
 だが、その下にある大きな目、その中にある猫のような大きな焦げ茶色の瞳、やや大き目の口や真っすぐ通った鼻、そしてそれらで構成された彼女の顔と相対し、よく通る声を聞けば、彼女の並々ならぬ意思の強さを感じ取ることが出来る。
 実際、彼女は自分の意思を押し通したために、かなり破天荒な経歴を持っている。高校へはほとんど通わず、18歳で男を追いかけて単身日本を飛び出し香港へ渡り、一人ぼっちで放り出されていたところを、長身でやせ形、ラフな感じで紺のスーツを着こなした男に助けられ職を得た。それはなんとヴィンデミアトリックスという名家の香港別宅の管理スタッフ、俗にいうメイドという変わった職業だったが、持ち前のバイタリティーでなんとか仕事を憶え、そしてその努力が認められたのか、日本の本宅での研修を命じられて一時帰国したのだった。もっともこの研修には2人目の子供、女の子が誕生して忙しさを増したヴィンデミアトリックス本宅の雑用を手伝うという側面もあったのだが……。
 コズミは何も知らないまま不安をいっぱいに抱え込んで出発した大阪国際空港へ、今一応の社会人として帰ってきたのだ。
 コズミは入国審査の列に並ぶ前に、肩から提げたポーチに入っている最新型の携帯電話の電源を入れた。日本へ戻る日程が決まった時、1人での行動が不安だからと渡された物だ。着いたらすぐに電源を入れるようにという指示を受けていた。
 入国審査を終え、バゲッジクレームでスーツケースを受け取る。香港に着いたときは、身の回りの物だけを入れた小さなスーツケースだったのだが、今は大型のスーツケースだ。何も持たず身軽だったコズミは、この1年で生活に必要な物を増やしていた。
 その重さに辟易としながら、優しそうなおじさまを選んで税関検査を終えて到着ゲートへ……。ゲートを出たところで彼が待っていてくれているはずだ。ゲートを出たコズミは長身でやせ形、ラフな感じで紺のスーツを着こなした男を探し始めた。
 コズミの目は並んだ出迎えの人々の間をくまなく動き回り、ゲート前のフロアを大きなスーツケースを引きずりながら何度か往復した。1年前、香港空港の到着ロビーで1人ぼっちで過ごした長い時間と耐えがたい孤独感が蘇り始めた頃、ポーチの中で携帯電話が鳴り始めた。
 コズミは慌てて電話に出る。
「ああ、もう着いてたか。今どこだ?」長身でやせ形、ラフな感じで紺のスーツを着こなした男からの電話だ。
「今、到着ロビーに出たとこ。黒磯さんは?」コズミは少し嘘をついた。そして周りを見渡した。
「すまない。緊急の案件があってな。今それが終わったところで、そちらに迎えに行けてないんだ」電話の向こうの黒磯の困った顔が見えるようだ。
「どういうこと?」つっけんどんに言葉を発してからコズミは『しまった!』と顔をしかめる。
「いや、今頃は到着ゲートでお前を待っているはずだったんだが。どうしても抜けられなくてな。今から出てもお前を待たすことになってしまう。すまないが、ターミナルビルの前からタクシーを拾って、そのまま本宅の方へ来てくれないか」
 いつもは大して気にもならない“お前”と言う言い方まで気に障って、「わかった」出てくる言葉はさらにつっけんどんになる。コズミは自分の口調を後悔しながら、湧きあがってくる怒りを抑えられない。感情のままに「でも、タクシーなんか使わへんから!」と告げてから電話を切った。そしてそのまま大きなスーツケースを引きずって国際線ターミナルの自動ドアを出た。

 国際線ターミナルを出て駐車場を囲む環状道路に沿って歩くと、隣は国内線のターミナルになっている。コズミはその前の歩道を勢いよく通り過ぎようとして、自動ドアから出てきた人影と鉢合わせしそうになった。
「ごめんなさい」コズミは慌てて謝る。
「すみません」自動ドアから出てきた人影も声をあげる。明るい色のワンピースがよく似合う、コズミよりずっと年上に見える女性で、彼女も大きなスーツケースを引きずっている。見合わせた顔は凜々しい感じの美人で、近寄りがたい雰囲気に気圧される。2人はどちらからということもなく歩道を並んで歩き出した。
 ターミナルを通り過ぎると道はカーブを描いて向きを北東に変えて空港から離れ始め、やがて着陸の時にかすめた阪神高速へ登るランプウェイをくぐる。
 その頃になって始めて、コズミは同じようにスーツケースを引きずって並んで歩く女性が、どこに向かっているのかが気になり始めた。
「「あの」」相手も同じようなことを考えていたのか2人同時に喋り始め、コズミは手を差し出して相手を促した。少し戸惑った風だったがその女性は口を開く。
「どこまで行かれるんですか?」
「蛍池の駅まで行くつもりですが。あなたは?」コズミも疑問に思っていたことを尋ねる。
「私もそのつもりですけど、タクシーやリムジンバスは使わないんですか?」女性も至極当然のことを口にした。
 コズミはその質問をそのまま彼女に返したい気持ちだったが、同じ行動を取る彼女に奇妙な同族意識を感じて、話してしまう気になった。コズミは微かに微笑むと「迎えに来てもらうはずが、都合が悪くなったみたいで、タクシーを拾うように言われたんやけど。なんや腹がたって……。タクシーなんか使わんと電車で行こうと思って……」としゃべり方を崩した。
「ふふっ!」女性も相好を崩して「私も同じような理由かな?ちょっと重いのは、私の場合、もうほとんど“成田離婚”じゃないな“伊丹離婚”みたいな感じ?それくらいかな」と笑う。
「どういうことですか?伊丹離婚って?」
「知らない?新婚旅行が終わったときに即離婚って。そういうの成田離婚って言うの」
「あ、ここは伊丹だから?」
「そう。でもここは豊中だけどね」2人は声を上げて笑ったが、コズミは笑っている場合では無いことに気がついて緩んでいた口元を引き結ぶ。
「ごめんなさい。笑い事やないね」
「いいよ。ほんとに腹が立ったから。奴がタクシーに乗ってから『もういい』ってほっぽってきてやったんだ。ああ、清々した。ざまあみろ」吹っ切ったように言う。
「でも、これからどうするの?」
「私はまだアパートをそのままにしてあるから、とりあえずそこへ帰る。長田なんだけど。あなたは?」
「わたしは他に行くところも無いから職場に行くけど……」
「けど?」女性はコズミの顔を覗き込みながら口元を緩める。最初に感じた近寄りがたい雰囲気はどこかへ消えている。歳も思ったほどに離れてはいないようだ。
「腹立つからタクシーは意地でも使わへん。わたしは御影まで行きます」コズミは毅然とした口調で答える。
「十三(じゅうそう)から神戸線だね?一緒に行かない?」
「うん。連れがいたら嬉しい。わたしはコズミって言います」
「コズミさん?」
「うん、変わってるでしょ?香るに水が澄むの澄むでコズミ」
「コズミック?から来てるのかな?いい名前だね。私はユミ。自由の由に美しいでユミ」
「じゃあよろしくね。ユミ」コズミはユミの質問には答えなかった。
「こちらこそよろしく。コズミ」
 コズミは同じような境遇に置かれた者として短い時間で打ち解けた気持ちになったし、ユミもそういう気持ちなんだろうと想像した。2人は楽しそうに喋りながら電車のガードをくぐると右に折れ線路沿いを進んだ。やがて前方に少しくたびれた蛍池の駅が見えてきた。

阪急路線図


「コズミは国際線の方から歩いて来たけど、どこから帰ってきたの?」プラットホームで電車を待ちながらユミが話題を変えた。
「香港から。わたしは今、香港で働いてるんやけど、研修で一時帰国してん」
「香港で働いてるの?すごいね。それになんだかかっこいいね」
「ううん。日本語が通じるところで補助みたいな仕事やから、かっこいことなんかないよ。英語や広東語もまだまだやし」コズミは言葉とは裏腹にちょっと誇らしげに言い「ユミはどこから?」と続けてから「あ、ごめん、喧嘩してるんやったね」と小さな声になって謝った。
「いいよ別に。東北地方を1週間かけて回ったの。私は山形が実家なんだけど、彼が東北地方は行ったことが無いって言うもんだから。八甲田、奥入瀬、十和田湖、平泉、松島、実家にも寄って、けっこう楽しかったよ。最後に大喧嘩だけどさ」コズミの耳に届くユミの声は少し寂しげに聞こえる。
「2人の新居はどこに構えたん?」コズミがそっと訊いたが「宝塚」ユミの答えはそっけなかった。彼女は逆方向の電車に乗ろうとしているのだ。
 梅田行きの電車がホームに滑り込んでくる。昼間の普通電車はよく空いていた。
 大きなスーツケースを持ち上げて電車に乗り込んだ2人は、スーツケースを前に置いて並んで座った。
「なんで喧嘩なんかしたん?」コズミはまた思ったままを口にして「あ、ごめん……」と小さく謝った。
「ふふっ。コズミはストレートだね」ユミは思わず笑顔になった。
「そう言われて考えると全然大したことじゃないの。ほんと、つまんないことで意地を張って喧嘩しちゃったんだ。バカみたい……」ユミは向かいの車窓に目をやりながら小さく笑ったが、コズミには自嘲しているように見えて「ごめんなさい」とまた小さく謝った。
「謝らなくっていいって。じゃぁ、お返し!コズミはどうして腹を立てたの?もう1つ理由がわからないんだけど?」
「え……わたし?」コズミはいきなり話を振られて困惑したが、空港での出来事を順々に話し始めた。しかし話をまとめてみると、自分がどうして腹を立てたのか上手く説明が出来なかった。コズミもやはり「全然大したことない」という結論に達したのだ。
「でさ、その黒磯さんってコズミとどういうご関係?」ユミが満を持して質問する。
「えっ!黒磯さん?」コズミは言葉に詰まる。
「どういう関係って、仕事の上司なんやけど……」コズミは自分の顔が赤くなっているんじゃないかと気にしながら、単身で香港に向かった時のことや、声をかけられた時のことを話し始めた。
 電車は庄内に停車した。当たり前のように、降りる人を待ってから乗客が乗ってくる。話を続けながら横目でそれを眺めていたコズミは、体のスイッチを香港から日本に切り替えた。ホームの向かいを急行が通過するのを待って電車は出発した。
 コズミの事の顛末を聞き終わったユミはコズミの顔をじっと覗き込んでから「ごちそうさま」と言って微笑んだ。
「あの。ごちそうさまって、そんなんと違うよ」コズミは顔を赤くする。
「まるで映画みたい。素敵な出会いだわ。でも、あなた、見掛けによらず相当無鉄砲だね。良くここに居るなと思うわ」
「そうかな?でも、これくらい思い切らないとなにも変わらへんよ?」コズミは不満そうだ。
「すごいよコズミ、でも私には無理。もうそんな無茶をしちゃダメだよ」ユミは呆れた顔になった。
『まもなく十三、十三です』のアナウンスがあって電車は速度を落とし始め、2人は降りる支度を始めた。

「ユミ。さっきからずっとわたしだけが喋ってる。ユミも彼氏のことを喋ってよ」
十三駅の地下道の階段を大きなスーツケースを下げて昇り降りし、神戸線のホームに出てホッとしたところで、コズミは唐突に話を向けた。
 ユミは一旦息を止めて顔を上げ、低いトーンで「離婚した彼のことを?」と睨みつける。
「あ……、ごめんなさい。わたし」コズミは俯いた。
「あ!嘘嘘、冗談よ。ちゃんと話してあげるから。顔を上げて」ユミは慌てて手を左右に振ると笑顔を作り「大きなスーツケースを怖い顔で引っ張っていた女の子と、こんな話をするなんて全然思わなかったわ」と笑った。
「ええ?それはこっちの台詞や。すっかり喋らされたよ」コズミは言い返した。
 まもなく須磨浦公園行きの特急がホームに入ってきた。特急は空いていたので、2人はスーツケースをドアの横に置いて、横の席に並んで腰かけた。ユミは彼氏との慣れ染めから話し始め、コズミは話に耳を傾けながら、ユミの顔がゆっくりと変化していくのを眺めていた。
 電車は神崎川を渡りながら加速していった。
「いい彼氏だと思うけどなぁ」話を聞き終わったコズミはやっぱり思ったままを口にする。
「ふう……」ユミはそれには答えず、少し憂鬱そうに溜息を漏らした。
「ユミ。わたしは次で普通に乗り換えやから降りるけど、せっかく出会ったんやから連絡先を交換しておかへん?」コズミはユミの溜息を気にしていたが、なるべくそう見えないように振舞った。
「そうね。せっかくコズミに出会ったんだから、このままさよならなんか出来ないわ」
 2人はメモを取り出すとそれぞれの連絡先を書き込んで交換した。
「ユミは長田のアパートなんやね」コズミはチラリとメモを見てからユミの顔を見ている。
「うん」ユミはコズミのメモを見ながら、考え事をするような様子だ。
「それは研修で泊まることになっている寮の住所、その下は香港のわたしが住み込みで働いているお屋敷の住所。研修が終わったらそこに戻ってるから。その書き方で書いてくれたら、わたしのところへダイレクトで届くから」
「うん。分かった」ユミはコズミのメモをじっと見つめたままだ。
「でもこのVindemiatrixって、あのヴィンデミアトリックスだよね?」
「うん。わたしが雇われてる人のファミリーネームやけど、有名?」コズミは小首を傾げる。
「有名って……あなた働いてて知らないの?有名どころか、かなり有名」一瞬口を半開きにして動きを止めてからユミは答えた。
「日本人なのに変な名前って思ってたんやけど、やっぱり有名なんや」
「コズミ!それはピントがずれてる。ヴィンデミアトリックス家って日本の政財界ばかりじゃなくて国際的にも大きな影響力を持った名家だよ」ユミの目は事実を伝えようと真剣だ。
「そう?とんでもないお金持ちやとは思ってたけど、そんなにすごいんや」コズミは大きな目をさらに大きくしたが、その表情は何もわかっていないように見える。実際、働きだして1年以上たつのにその辺の知識については疎いのは事実だった。雇い主が家の品格を持ち出したり振りかざしたりすることは無かったし、コズミ自身にもあまり興味の持てることでは無かったうえに、自分が環境に慣れ仕事を覚えるのに手いっぱいということもあったからだ。
「ふう~」ユミはまた大きく溜息をつくと「まるで他人事だね。コズミは驚くって事が無いの?」と呆れた顔だ。
「え?ちゃんと驚いてるよ」コズミはキョトンとした顔になった。
『まもなく西宮北口、西宮北口です』武庫川の橋梁を渡った電車は減速を始めた。

 コズミはスーツケースを手元に寄せると「じゃぁ、わたしは次で普通に乗り換えやから」と立ち上がった。
「うん」ユミは窓の外を見やりながら頷いた。
 電車がホームに滑り込みドアが開く。ホームの向かいでは普通電車が特急に追い越されるのを待っている。
「じゃあね。楽しかった。絶対連絡するからユミも連絡してね!」ユミが笑顔で頷き、手を上げるのを見ながらコズミは電車を降りた。
 乗客が乗り込み発車の合図が鳴る。コズミはホームに立って、ユミの乗った特急が出て行くのを見送ろうとしている。
 その時だ。ユミはいきなり立ち上がるとスーツケースの取っ手を掴みドアに向かって駆けだした。閉じかけたドアはユミを挟みこんだ後あわてて開き、その隙にユミは電車を降りてしまった。
「どうしたん?ユミ」今度はコズミが呆れた顔で尋ねた。
「うん……まあね。やっぱり帰ってやろうと思ってさ」
「彼のところへ?」コズミはニンマリとユミの顔を覗き込んだ。
「コズミと話しているうちにね。腹を立てる程の事じゃ無いような気がしてきた」ユミは努めて冷静に話そうとしているようだ。
「新居は宝塚やったよね?じゃあ、今津線に乗り換えややからちょうどええね」
「だから、あわてて降りたんじゃない」
「くふふ」コズミはしてやったりの顔をして「じゃあ、これを使う?」とポーチから携帯電話を取り出すと「へえ!携帯電話?いいの?」ユミは目を丸くする。
 コズミは「どうぞご遠慮なく。社用の物でございますが、お客様のご用なら使うことを認められておりますので」と恭しく頭を下げる。
 ユミは「コズミ、さまになってるよ」と誉めてくれてから「最新型?ずいぶん小さいね。さすがヴィンデミアトリックス家だね。じゃあ、お言葉に甘えて遠慮なく」と受け取った。普通電車は2人を残して出発して行った。
 コズミがホームのベンチに腰掛け2つのスーツケースの番をしている間に、ユミは少し離れたところで電話をかけている。
 三宮行きの次の普通電車が入線してきた。
 電話を終えたユミはコズミに電話を返し「ありがとう。私、これから今津線で宝塚に帰る」と言った。
 コズミは幼子のように「よかった」と微笑んで「じゃあ、その新居の連絡先を教えて欲しいんやけど?電話番号もね」と付け加えた。
 ユミは「こっちこそ、コズミのその携帯電話の番号を教えて欲しいんだけど?」と笑ったが、コズミにはそこに現れたその可愛らしい表情こそが本来ユミが持っている性質のように思われた。2人はベンチに並んで腰掛けると新しい連絡先を交換した。
 特急電車が入線してきた。
「じゃあねコズミ。ありがとう。とっても楽しかった」
「こっちこそ。ありがとう。わたしも怒った理由がわからんようになったし」
「あ、ちょっと待って!」ユミは急いでスーツケースを開けると中から箱を1つ取り出す。「これ、私の実家からのお土産なんだけど、良かったら受け取ってくれる?」
「え?もらえるの?何やろう?あ、サクランボや!山形って言ってたもんね。わたしこれ大好き!」コズミはその箱を持って1回転してから「じゃあ……」と自分のスーツケースを開け中から同じように箱を取りだした。
「お返しね!これあげる」
「ありがとう。なにかしら?あれ?これってペニンシュラのチョコレートじゃない?らしくないね」
「なにそれ?どういう意味?」
 2人は顔を見合わせて大笑いした。特急が出発したので、コズミは普通電車に乗り込んだ。
「じゃあね。ユミ。落ち着いたらすぐに連絡入れる。新居の方にね」
 微かに間を開けてはにかんでからユミが応える。「うん。待ってる。きっとだよ。待ちきれなかったらこっちから携帯電話に連絡を入れるから」
「うん。じゃ!」発車の合図が鳴り、コズミはあわてて付け加える「お幸せに」
「あなたこそ。あなたに逢えてよかった」
「わたしも」
 ドアが閉まり、普通電車はゆっくりと加速を始めた。コズミはしばらくの間、手を振りながらホームで同じように手を振るユミを見ていたが、やがてユミが見えなくなるとゆっくりと空いている席に座った。
 電車は六甲山の麓に沿って走り、夙川・芦屋川・岡本と停車してほどなく御影にたどり着く。電車がホームに入りドアが開くと、コズミは地図を手に持って電車を降りた。もちろんこの駅に降りるのは初めてだったし、ましてやヴィンデミアトリックス本宅を訪れるのも初めてだった。
 不安げに改札口に向かうコズミの目に、長身でやせ形、ラフな感じで紺のスーツを着こなした男の姿が飛び込んでくる。改札の向こうでこちらを向いて立っている男に、改札を抜けてゆっくりと近づいてゆく。どんな顔をしようかと迷っているコズミに「よお!」男は片手を挙げた。
 コズミは最高の笑顔になると男に駆け寄った。

「お!今年もサクランボが届いたのか?」連れ合いが声をかけてくる。
「うん。こっちもチョコレートを送ってるからね」香澄が答える。
「いつもこれを送ってくれるのは、母さんが研修で始めて本宅に来た時に出会った人だったよな?たしかその時もらってきたのが最初だったよな?」
「そう。由美って言うんやけど、新婚旅行から帰ってきたとたん彼と喧嘩して、離婚だって怒ってて、わたしもカンカンに怒ってたから意気投合したの。長い付き合いになったよ。怒ってたわりに夫婦仲は良いみたいやけど」
「母さんは何に怒ってたんだっけ?」
「覚えてないの?」
「まったく覚えてない」香澄は連れ合いの顔を観察したが本当に覚えてないようだ。ひょっとすると香澄を怒らせたという意識すら無いのかもしれない。
 香澄は早速箱を開けると1粒サクランボを取り出し「あ~ん」と連れ合いの口元にぶら下げた。連れ合いはパクッとそれをくわえ込むと「お!やっぱり山形産は美味いな」と言った。
「ハルがお腹にいたときはこればっかり食べてたんやから。ちょうどこの季節やってんね」とサクランボを口に放り込んだ。甘酸っぱい味が広がった。『これって青春の味?』香澄は連れ合いを見ながらそう思った。


2013.09.12 八少女夕さんに……


テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(11)(ラグーン)

空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の都合など全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。
絵夢の素敵な日常の第11話をUPします。

よろしかったらどうぞ。


絵夢の素敵な日常(11)(ラグーン)


 潮騒が微かに聞こえる。
 緩やかな空気の流れがレースのカーテンをそっと揺らす。
 潮の香りがほのかに鼻孔をくすぐる。
 絵夢はそっと目を開けた。
 天井には海面で反射した太陽光線が不思議な模様を描いていて、それは一瞬も静止すること無くユラユラと形を変える。
 絵夢は心地良いまどろみの世界を漂いながらその様子を眺めていたが、やがてシーツから右手を出して枕元をさまよわせた。そして目的の物が見つけられないことが分ると顔を緩め、ゆっくりとベッドの上に起き上った。
 長く伸ばした黒い髪がシーツの下から流れ出す。絵夢はベッドから足を下ろすと立ち上がった。
 広々とした部屋は木を基調とした南国風の内装と調度品の落ち着いた色合いで統一され、ベッドの正面と左側の二方向が大きな窓になっている。絵夢はそのまま正面に真っすぐ歩いて大きな窓に近づいた。
 大きく開け放たれた窓の外は広いテラスになっていて、その向こうには明るく輝く淡いエメラルドの水面が広がっている。ラグーンになっているのだろうか?水面は穏やかで、高度を上げ始めた太陽がその透明度の高さを際立たせる。目を沖に向けると、環礁だろうか?白い水平の帯が海を分かち、その向こうに白く砕ける波が見る。さらに向こうにはコバルトの海が水平線まで続いている。
「ここは?」絵夢は少しの間放心したように窓際に立ちつくしていた。

「お嬢様?」後ろから声をかけられ、絵夢は驚いて振り返った。
 部屋の入り口に女が立っている。やせっぽちな体型、ふわりした黒い髪、白すぎるくらいの肌、丁度好い位置についているのにアンバランスに大きな目、その中に輝く好奇心に満ちた大きな焦げ茶色の瞳。「香澄!」絵夢は一瞬戸惑ったがやがて笑顔になり、そのまま駆け寄ると勢いよくハグをした。長いハグになった。
「どうしたの?急に!びっくりするじゃない」絵夢は体を離すと改めて言った。
「それについてはあまり深く詮索されないほうがよろしいかと……」香澄はサラリと言うと言葉を続けた。「それよりお嬢様、朝食の用意が出来ております。お召し上がりになりますか?」
「そうね。なんだかお腹が空いた。今何時なのかしら?」絵夢はさっきから感じている疑問を口にした。
「朝、ですけれども、時間はちょっと……。ここには時計が無いのです」そう言いながら香澄はテラスの方へ歩き出した。
「あ、それで……」絵夢はさっきいつもの場所に目覚ましが無かったことを思い出しながら、あたりを見回したがすぐに時計を探すのを諦めた。そして香澄に付いてテラスへ出た。
 テラスは大きく張り出した庇に覆われ、それが作り出す影の下にテーブルと椅子がセッティングされている。香澄は朝食が並べられたテーブルに絵夢を誘った。
 テーブルの上には、フランスパンやコーヒー、トロピカルジュースなど定番の朝食メニューの他にトロピカルフルーツを美しく盛り合わせたボールが置かれている。
 絵夢はいつもと違って2人分の用意がされていることを一瞬不思議に思ったが、すぐに「うわ~綺麗」と歓声を上げた。
 香澄は椅子を引いて絵夢を腰かけさせてから「では失礼して……」と、向かいの席に座った。
「香澄とこうして食事をするなんて初めてじゃないかしら?」絵夢は楽しげだ。
「今日は特別です」2人はいただきますを言うと食事を始めた。

「香澄、香澄が来てくれたのは私が6年生の時だった?」ジャムをつけたパンをほおばりながら絵夢が訊いた。
「正確には6年生の3学期の始業式の日からです。一旦退職しておりましたから補助的な立場でしたけれども……」
「そうだったかな?傘を差して空から降りてきたんだよね?」
「またそんなご冗談を。私はメリーポピンズではありません」
 フフフ……2人は顔を見合わせて笑った。
「香澄が来てくれてからはとっても面白かった」
「それはありがとうございます」香澄が嬉しそうに礼を言った。
「だって、メチャクチャなんだもの」いたずらっぽく絵夢が笑う。
「どちらがですか?前言は取り消します」言葉とは裏腹に香澄は微笑んでいる。
「一番面白かったのは2人で香港の家に行った時だったわ。九龍を散策したときは本当に楽しかった」絵夢も微笑み返す。
「散策だったんですか?誘拐事件と間違われて大騒ぎになって、後でこっぴどく叱られましたけれども……」香澄はコーヒーに口をつけながらすました顔で言った。
「ごめんなさい」絵夢は神妙な顔になった。止める香澄を引っ張り回し、警察が出動する大騒ぎになった記憶があったからだ。この後、香澄は絵夢と2人きりで出かけることはなくなった。
「謝ることはありません。私も連絡を怠りましたし、これ以上無いくらいスリルを楽しみましたから」香澄は本当に楽しそうに話し、絵夢も笑顔でそれを受けた。
 2人は朝食を終えてからもそのままテラスで思い出話に花を咲かせていたが、やがて絵夢が大きく伸びをしながら欠伸をした。
「ごめんなさい。2度寝をしてもいいかしら?なんだかまた眠くなっちゃった」
「どうぞ、ご自由になさいませ。ここでは何をしても自由ですから。時計もありませんし」そう言うと香澄は立ち上がり「少しお待ちください。ベッドをお直ししますから」と部屋に入っていった。
 絵夢はしばらくの間ラグーンを眺めていたが、やがて香澄に呼ばれて部屋に入っていった。
 絵夢がベッドに横になると香澄はシーツをかけ「ごゆっくりお休みください。私は隣に居りますので」と言った。香澄がレースのカーテンを閉めたので、部屋は落ち付いた雰囲気になった。
「ありがとう。おやすみなさい。でも香澄、ここはどこなのかしら?」
「それについてはあまり深く詮索されないほうがよろしいかと……」香澄はまたサラリと言った。
 絵夢はゆったりとした気持ちになって天井を見上げていたが、やがて心地よい眠りに落ちて行った。

 断続的に繰り返す耳障りな音に眠りは中断された。絵夢はシーツから右手を出して枕元をさまよわせ、目覚まし時計を見つけるとスヌーズボタンを押した。
 しかし音は鳴りやまない。「香澄!香澄!」訳が分からなくなって絵夢は香澄を呼んだがどこからも返事はない。
 ようやく鳴っているのが自分の携帯電話だということに気が付くと絵夢はサイドテーブルに手を伸ばした。そして携帯を取り、発信者を確認すると電話に出た。
「出るまで鳴らせとのご指示でしたので……」電話の向こうから黒磯の声がする。
 今までのウキウキした気持ちが萎えて行くのを感じながら絵夢は沈んだ声を出した。「ええ、ありがとう。黒磯。もう大丈夫、目が覚めたわ。スケジュールは決まった?どうすればいい?」
 黒磯の長い説明が始まった。絵夢はそれ黙って聞いていたが、思っていたことが思わず口をついた。「香澄の方が優しいな……」
「何かおっしゃいましたか?」
「香澄の方が優しいなって、今なんとなくそう思ったの」
「香澄……ですか?あれはお嬢様を甘やかしすぎます。あれとお嬢様を組み合わせたら最強ですが、破壊力が大きすぎますので……で、あれが何か?」
「ううん。何でも無い。暫く会ってないなと思って」
「お嬢様が独立なさった時にお側を離れましたからね。でも、いつでもお会いになれますよ」
「そうね」絵夢は今度黒磯家に押しかけようと考えて、いたずらっぽい笑顔になった。
「でも黒磯の説明、聞いてなかった。もう一度最初からお願い」
「は?もう一度ですか?」黒磯は今日のスケジュールについての長い説明を最初から繰り返した。絵夢の忙しい1日が始まった。


2013.11.17

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso

Stella/s 月刊・Stella ステルラ 3月号参加作品

 空気の読めないお嬢様、絵夢が素敵!と感じたことを感じたままに写し取る、読んでくださる方の都合など全く考えない、とっても自分勝手なショートストーリー。

イラスト:sidaさん(絵夢のイラストはブログ「孤男絵」を運営されているsidaさんのところからお借りしています。素敵なイラストありがとうございます)

監修と写真:八少女夕さん(この物語の町の様子は、夕さんの協力で描き出されています。また料理についても助言をいただいています。さらに掲載している写真はすべて夕さんの提供によるものです。心から感謝いたします)


絵夢の素敵な日常(12)Porto Expresso

 絵夢はボーディングブリッジを出るとクルリと振り返り片手でカメラを構えた。ターミナルビルの大きなガラス窓の向こうには、フランクフルトから乗ってきたエアバス320型旅客機が見えている。レンズに捕らえられた彼女は、美しく輝く真っ白なボディーをキラリと光らせた。「ありがとう」絵夢はそう呟くとシャッターボタンをそっと押さえた。
 昨日までは曇りがちだった初秋のポルトは、今日は突き抜けるような青空の下にあった。

      絵夢

 絵夢はバゲージクレームで荷物が出て来るのを待っている。
 視界の隅にはダークスーツの山本の姿が見え隠れしているが、それはあえて無視する。暫く待っていると、見覚えのある大きなスーツケースが流れてくる。絵夢は慌てて駆け寄ろうとした山本を再び無視してスーツケースを降ろすと、山本にチラリと笑顔を向けてから歩き始めた。
 絵夢は到着ゲートを出ると左右を見渡した。
「絵夢!」声のする方には長い髪をツインテールにした少女が立っている。「ミク!」絵夢は軽く手を挙げて少女に近づいた。
「お久しぶりです。絵夢!ようこそポルトへ!」ミクは右手を差し出す。
「お招きありがとう」ニッコリと笑うと絵夢はその手に握手して「ごめんね。遠慮無く来ちゃった」と言った。
「いえ、こちらこそ気楽にお招きしたんですけど、ご迷惑じゃ無かったですか?」ミクは少し上目づかいに見上げてくる。
「大丈夫。ちょうどドイツへ来る用事があったから、上手くごまかしてそれにくっつけて来てしまいました」絵夢は悪戯っぽく片目をつぶって「でもあなたが迎えに来るって聞いた時は驚いたわ。メイコとはずっとエアーメールでやり取りをしていたから、打ち合わせにも時間がかかっていたんだけど、途中から電子メールになってとても助かったの。メイコの傍にあなたが居るようになったからだったのね?」と訊いた。
「はい、おばあさまに電子メールを教えてしまいました。タブレットをプレゼントしたんです」ミクは少し得意そうだ。
「そうだったの」
「うん、でもとっても優秀な生徒だったんですよ」
「ふ~ん、メイコ、けっこうやるね」
「なんでこんなに便利な物を知らなかったんだろうって怒ってました」
「自分に対して?」
「いつもそうなんですよ」ミクはそう言ってから、思いついたように「絵夢、食事はまだですよね?」と訊いた。
 絵夢はフランクフルトで昼食を食べた後、何も食べていなかったので「ええ、食べてないけど?」と答えるとミクはホッとした顔をした。そして「じゃぁおばあさまの所へ、いざ!」と絵夢からスーツケースを取り上げて背中を向けた。
「あ、ありがとう」(いざ!か……メイコの影響かな?)絵夢はミクに覚悟のような物を感じたが、一瞬遅れて歩き出した。

 空港とポルトの都心部はメトロと呼ばれる電車が結んでいる。ミクは並んで歩きながら絵夢をメトロの乗り場へ案内した。
 ドームで覆われたメトロ乗り場には、大きな窓のモダンなデザインの車両が発車を待っている。ミクが乗車カードを用意してくれていたので、絵夢はそれを乗り場の読み取り機にかざし、一番前の車両の窓側に腰かけた。
「始めての街だもの、やっぱり見晴らしは大切よね」絵夢はミクの顔を覗き込んだが、ミクはそれには笑顔で答えただけで絵夢の隣の席に腰を下ろした。絵夢は歩き始めてからミクが無口になっていることを気にしていた。
 やがてドアを閉じるとメトロは都心に向けて出発した。
 ミクは少し考え込むように窓の外を眺めていたが、やがて意を決したように絵夢の顔を見つめると「絵夢!」と呼びかけてから少し大きな声ではっきりと言った。「おばあさまを連れてきてくれてありがとう」
 絵夢は最初、何の事だかわからず目をパチクリとしたが、宝塚大劇場へメイコを案内した時の事だと分かると「ううん。なんでもないことだよ。でも、お節介だったかな?」と言った。
「あのままだったら、おばあさま、折り返しの電車に乗ろうと考えていたんです。絵夢が声をかけてくれなかったら、おばあさまはわたしの所へ来てくれなかったんです。もし、そうなっていたら……わたし」
 絵夢はミクの目に涙が溢れそうになっているのを見てそっと肩に手を回した。ミクは口の周りの筋肉にキュッと力を入れると再び話し始めた。
「わたし、ここに来ることは出来なかった。だから!どうしてもお礼を言いたかったの。ありがとう」ミクは頭を下げた。
 絵夢は少しの間驚いた顔をしていたが、すぐに柔らかい笑顔になって、ミクの肩に優しく手を回したまま「どういたしまして」と言った。
 ミクは少しの間逡巡している様子だったが、絵夢の顔を見つめながら口を開いた「わたしはずっといじめられっ子だったの」
「そう……」絵夢の答えは簡潔だ。
「わたしの声、少し高いでしょ?髪も絶対に短くしないし。だからかな?」
 絵夢はミクの肩を抱く手に少し力を込めた。「ここでの生活は満足?」
「うん、とっても!」ミクは顔を上げた。
「そう。よかった」
 ミクは空港で出会った時の明るい顔に戻ると「あ、メイコに連絡を入れておかなくちゃ」とメイコに連絡を入れた。そして、ポルトでの新生活のことを話し始めた。
 色々なエピソードを語るミクの話を聞くうちに、メトロは坂を下って地下へと潜り込む。「あらら……せっかく眺めの良い席に座ったのに」
 楽しげに話していたミクは絵夢の言葉に思わず笑いを漏らした。「ふふふ……メトロは街の中心部は地下鉄になってるの。眺めは暫くの間お預けだよ」
「それは残念」
「もう暫くしたらLinha Dに乗り換えるの。そして少し走ったらまた景色が見えるようになるよ」
「じゃぁそれまで我慢するわ」2人はポルトの話を再開した。
 やがてメトロは乗換駅のホームに滑り込む。ミクは「絵夢、ここで乗り換えだよ」と立ち上がった。2人は一緒にトラムを降りホームを歩き始めた。
 その時背後から『ミク』と声がかかった。振り返ると男の子3人、女の子2人の5人組が手を振っている。髪の色も肌の色もそれぞれが違う5人は、大きな声で『ミク!』ともう一度呼びかけた。
 ミクは振り返って声をかけてきた相手を確認すると「絵夢、ちょっと待っててくれる?」と言った。
「いいよ、ごゆっくり」絵夢がそう答えると、ミクは小さく手を振りながら5人に駆け寄っていく。
 5人はミクを加えて賑やかに喋り始める。会話の内容は聞こえないが時々こちらを見るのは絵夢の事を説明しているのだろう。暫くすると『じゃぁね!』そう言う感じで挨拶を交わして、ミクは絵夢の方に駆け戻ってきた。
「ごめんなさい。遅くなっちゃった。こっちだよ」ミクはスーツケースを曳いたままエレベーターに絵夢を案内すると地下に降り通路を進んだ。
 エスカレーターを上がると、乗り換えるLinha Dのメトロはもうホームに止まっていてドアを開けている。2人は駆け足で乗り込んだ。絵夢はまた見晴らしの良い席を選んで窓際に腰かけたが、ミクは少し笑ってから「こっちの方が良いよ」と左側の後ろ向きの席を薦めた。「そう?」絵夢はその窓際の席に座り直し、ミクも隣に腰かけた。
「今のは学校のお友達?」絵夢がそう声をかけるとミクは「うん」と頷いた。
「インターナショナル・スクールなのかな?」絵夢は推測を尋ねる。
「うん。わたし、英語は少し喋れるから。でもポルトガル語もずいぶん覚えたよ」
「楽しい?」
「まあね!」はにかむようにミクは答えた。
 やがてメトロはトンネルを抜ける。

   リベイラ

 そして「わあ!!!綺麗」窓の外は暗いトンネルの中からいきなり空中に飛び出したように変化する。メトロは高い橋の上を渡っていて、絵夢の眼下には煉瓦色の屋根が連なる古い町並みと大きな川の流れが拡がっている。絵夢はしばらくの間窓ガラスにおでこをくっつけて、抜けるような青い空と煉瓦色の屋根瓦のコントラストの美しさに見入っていた。
「この橋はドン・ルイス一世橋、このリベイラの街並みは一応世界遺産だよ。リベイラって川岸っていう意味なんだけど」ミクが解説してくれる。「明日一緒にあそこへに行ってみる?」そう付け加えたミクに絵夢は大きく頷いた。
 メトロは橋を渡り終えると路面電車のように道路の中央を走り始めた。
 旧市街を離れ、幾つかの停留所を過ぎると、会話に区切りを付けたミクが「次でおりるよ」と立ち上がった。
 メトロは滑らかに停車し、2人は仲良く並んでホームに降り立った。
 メトロの停留所は道路の中央に有って、その道路に沿って中層の集合住宅が立ち並んでいる。2人は車道を渡るとメトロの通りを離れてゆっくりと歩いて行く。裏道に入ると喧騒も遠くなり、静かな住宅街が広がっている。ミクはスーツケースを曳いて幾つかの角を曲がってからクルリと振り向いた。
「ここだよ」そこは何軒かの家が繋がったテラスハウスの、一番左端の一軒の前だった。
 たくさんの花が咲き乱れる小さな庭や窓辺に置かれたフラワーポットは、小奇麗に管理された建物と共に、メイコの人柄を表しているようだ。
「どうぞお入りください。亭主がお待ちしています」ミクは改まった口調でそう告げて玄関ドアを開けた。
『おばあさま!連れて来たよ』ミクがポルトガル語で奥に声をかけると、真黒な固まりが玄関ホールに飛び出してきた。相変わらず黒で統一された服装のメイコは「絵夢!よく来てくれたわね。宝塚ではお世話になりました」そう言いながら絵夢をしっかりと抱きしめた。
「お招きいただいて、ありがとうございます」絵夢もしっかりと抱擁を返す。
「さあ!入って。用意が出来ているわ。お腹すいたでしょ?」
「あら?そう言えば……」絵夢はミクと目を見合わせてから「メイコ?出来れば荷物を置いてきたいんですけど……」と言った。
「ああ、ごめんなさい。嬉しくてすっかり舞い上がってしまったわ。ミク、案内してあげて」
「はい!絵夢、こっちよ」ミクはスーツケースを持って階段を上り、突き当たりの部屋へ絵夢を案内した。小さな屋根裏部屋だったが、きちんと片付けられた部屋には寝心地のよさそうなベッドが置かれ、窓からは街並みが見えている。
「素敵な部屋ね!」
「洗面所は階段の右横だよ。じゃぁ、下で待ってるね。首を長~くして」ミクは小さくウィンクすると階段を降りていった。

 旅装を解いた絵夢はリビングへと案内された。
 レースのカーテンが掛けられた窓の向こうは隣のテラスハウスに遮られていて見晴らしは良くない。だがレース越しに日光が緩やかに差し込む室内は、清潔でセンス良く装飾され気持ちよく片付いている。
 中央に置かれた大きな食卓にはメイコの手作りだろう、そしてきっとミクも手伝ったのだろう、魚介類を使ったタパスやフライの盛り合わせなど、たくさんの料理が並んでいて良い匂いが漂っている。

   ポルト_料理01 ポルト_料理03 ポルト_料理02

「どうぞ絵夢、こちらの席へ」メイコが座り心地の良さそうな椅子を示す。
「うわぁ!美味しそう!!!」絵夢は歓声を上げ、メイコとミクは嬉しそうに顔を見合わせた。
「ありがとう」絵夢はミクの引いてくれた椅子に優雅に腰掛けた。
「絵夢、あなた飲めるわよね?」メイコはグラスにワインを注いだ。
「これはポートワイン?」
「そう、ご名答。まず食前酒で乾杯よ」
「じゃぁわたしも!」ミクもグラスを差し出す。
「あなたはだめよ!こっち」メイコは同じ色の液体の入った瓶を向けた。
「つまんないの」ミクはそう言いながらもグラスを差し出した。
「では改めて」メイコはグラスを掲げ絵夢とミクがグラスを持つのを確認すると「絵夢、ようこそ私達の町ポルトへ」と声を掛けた。
「お招きいただいてありがとうございます」絵夢はそう答えて2人とグラスを合わせた。
「うん、甘くて美味しい。チーズにも合うわね」
「この辺りにはポートワインのワイナリーがたくさんあるから明日行ってみる?」ミクが提案する。
「行ってみたい」絵夢は一も二も無く賛成した。
 食前酒を空にするとドゥロの赤ワインに切替える。
「これはポルトを流れるドゥロ川流域で作られる赤ワインなの」とメイコが注いでくれる。
「あ、これも素敵!」絵夢はクィッとグラスを傾ける。
「絵夢、ペース速いわね。だいぶいける口ね?」
 そして、メイコの日本行きの後日談に花が咲く。
「これはねバカラのフライ。あ、バカラって鱈の干した物ね」「これはタコのグリル、それに鱈のグラタン」次々と料理が追加されミクが説明してくれる。

   ポルト_料理06 ポルト_料理04 ポルト_料理05

 出てくる料理に絵夢は「美味しい」を連発するが、メイコの作る料理は量が半端で無い。
「お腹がいっぱいになってきちゃった。食べきれないわ」ついに絵夢はお腹をさすったが「次は貝のワイン蒸しだよ。どんどん食べてね」とミクが料理を運んできた。
「ホウ……」絵夢は満腹の意思表示をしたが、それでも料理に手を伸ばした。
「白黒の貝だね」絵夢は身を食べてから貝殻を裏返しにした。
「この貝面白いでしょ?パンダ貝って言うんだよ」ミクが解説を加える。
「パンダ貝?白黒だから?」絵夢の顔は少し赤くなっている。
「嘘よ~。アサリの一種ね」メイコが答える。メイコの顔も赤い。
「え~?本当かと思った」絵夢の答えに2人の笑い声が重なった。

「山本です。お嬢様の目的地への到着を確認しました。2泊滞在される予定です」
「はい、身元もしっかり確認できておりますし。彼女らにまかせておけば大丈夫かと……」
「増員は無いのですか……」
「そうですか。わかりました」山本は携帯を切った。
 欧州の西の果ての町。その住宅街の一角に佇むダークスーツの東洋人は、周りから激しく浮いていた。
 山本の携帯がコールを鳴らした。
 慌てて携帯を見た山本は、絵夢から送られてきた夕食への招待メールを確認した。

2014.02.10



この物語は、絵夢の素敵な日常(10)(Promenade)の続きです。構想はずっとあったのですが、山西左紀(2人共ですね)には舞台の町の土地勘がまったく無くて、おそらくこのままだとずっと完成しない物語だったと思います。
 この完成しないはずの物語、書き始めたのはsidaさんにイラストの使用許可をいただいたのがきっかけです。それならばと、絵夢シリーズのストーリーを考え始めた時、あの話(Promenade)の続きへと繋がったのです。多分。

 そしてこの作品を書きたくなったサキは、(Promenade)でその舞台を設定するきっかけを作ってくださった夕さんに協力をお願いしたのです。お忙しい中、細かい部分まで助言をいただいてこの物語は完成しています。
 で、ですね。サキはこの作品も一種のコラボレーションであると考えて「scriviamo!」に出すことにしました。2作品目になりますけどよろしいですよね?
と、お願いしたら夕さんが二次創作を書いてくださいました。このお話の続きです。
【小説】追跡 — 『絵夢の素敵な日常』二次創作

scriviamo!

 改めてお2人に感謝の意を表するとともに、この作品を捧げます。(って言われてもご迷惑かな?)


本作品に使用されているイラストの著作権はsidaさんに有ります。
本作品に使用されている写真の著作権は八少女夕さんに有ります。

テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(初めての音)Porto Expresso2

scriviamo! この作品はscriviamo! 2015の参加作品です。

 最高の秋晴れだ。幸先がいい。

 アパートを出て暫く通りを行って買い物を済ませる。まずばあちゃんの頼まれ物を買っておかないと……この店の物でないと美味しくないってうるさいんだ。そんなに味が違うのかな?僕は買い物を袋に入れて肩にかけ、のんびりとアリアドスへ出てから坂を下る。たくさんの車が市役所前広場を通って、サン・ベント駅の方へと曲がっていき、僕も同じ方向へと歩いて行く。
 リベルダーデ広場にはいくつものカフェの椅子とテーブルがでていて、観光客たちが眩しい陽光を楽しんでいる。
「ジョゼ!」通りの向こうから声がかかった。車の切れ目を縫ってこちら側へと道路を渡ってくるのは友達のエジーニョだ。でも女の子と一緒だ。
 カミラ!僕は彼が連れている女の子を見て驚いた。エジーニョはカミラと付き合ってたんだ。カミラは栗色の長い髪と瑠璃色の目の素敵な女の子で、クラスではマドンナ的存在なんだ。
「よぉ。どこ行くんだよ」エジーニョは少し自慢げだ。
「やぁ、ちょっとばあちゃんの所へね」僕は袋の中身をチラリと見せた。
 エジーニョは『ああ』と納得の顔になったが、カミラは同じように覗き込んでから『これがどうしたの?』という顔をした。
「ジョゼのばあちゃんの好物なんだ。特にこの店のがね」エジーニョがカミラに説明する。やつは僕の幼馴染みだから何でも良く知っているんだ。
 当然のことながら僕もやつの幼馴染みなんだけど、やつがカミラとデートに出かけられる仲だなんて、全然知らなかった。だから驚いたんだ。
「お前こそなにやってるんだよ」僕は少し冷やかし気味に聞こえるように訊いてみた。
「俺か?見ての通りだよ」エジーニョはカミラの肩を軽く抱き寄せた。
「いやだぁ。何言ってるのよ!」カミラもまんざらではなさそうだ。
「じゃ、もう時間がないから行くよ。楽しくやってくれ」僕は顔が赤くなっているのを見られないように背中を向け、片手を挙げて挨拶をすると歩き始めた。
 エジーニョは根は良いやつなんだけど、小さい頃から女の子の扱いが下手で、気になる子が居るとちょっかいを出して泣かせてしまうということを繰り返していた。だからカミラが楽しそうに一緒に居たのに驚いたんだ。
 僕の場合は気になる子が居てもそっと見ているだけの事が多い。だから、やつの積極的な行動はとても信じられなかった。大勢の仲間と一緒に友達として付き合うのは楽しかったけれど、1対1で面と向かってはちょっとね。そんなふうに考えていた。ま、恋愛が絡むと面倒くさいし、もともとあんまり興味なんてないからね。僕は少し歩調を早くして通りを進んでいく。
 通りの向こうには、赤や黄色の観光客用の二階建てバスが出発時間になるのを待っている。白い市庁舎、ドン・ペドロ四世の銅像。秋晴れの青い空はずいぶん高くなったけれどまだまだ日差しは強くて、少し歩いただけでもう汗ばんでくる。

 僕は歩きながらずっとデジャビュだと思っていた。
 でもこれはデジャビュじゃない。あの時も今と同じだった。そう言えば季節も天気も同じような感じだし、歩いている道も同じだ。途中で寄りたいところは違うんだけど、ばあちゃんの所に向かっているのも同じだったんだ。
 あの時、まだ小学生だった僕はばあちゃんの頼まれ物の買い物を済ませ、ポートワインを試飲する観光客に紛れ込んで一杯やろうとして、川向こうのワイナリーに向かっていた。そして、姉貴達に出会うことになったんだ。姉貴と姉貴のおばあさんのメイコは、お客さんを連れてワイナリーに来ていた。お客さんは綺麗な女の人で、僕はその女の人のボディーガードを彼女を誘拐しようとしているマフィアと間違えてタックルしたんだ。
 間違いだと分ったとき、僕は物凄く恥ずかしい思いをした。「あんた、いったい、何やっているのよ」僕は姉貴に叱られた。でも、そのお陰で僕は姉貴やメイコ、綺麗な女の人、そしてその人のボディーガードの男の人と友達になれたんだ。メイコには手料理をご馳走になったりして、家族のように接してもらっている。メイコの手料理はウチのばあちゃんに負けないくらい美味いし、それに腹一杯食べられるんだ。
 お客さんだった綺麗な女の人は物凄い名家のお嬢様で、男の人は彼女の執事だったんだけど、この2人ともクリスマスカードのやり取りが続いている。
 特に姉貴とは姉弟のように付き合ってもらっていて、今でもときどきあまり上品でないポルトガル語で叱られるんだ。姉貴は日本人なんだけど、どこであんなポルトガル語を覚えたんだろう。その上品でないところがまたいいんだけどね。
 そのいつも叱られてるばかりの姉貴からお願いがあるって言われたら、そりゃぁ乗らなきゃいけないだろ?
 そういうことで僕は今、カテドラルに向かっているんだ。
 カテドラルっていうのはこの町の大聖堂のことで、姉貴からこの中で待っているから来て欲しいという連絡があったんだ。僕は緩やかな坂を登って建物を回り込むと、待たせちゃったかな……少し急ぎ足になって広場を横切り建物の入り口を入った。
 午前中の早めの時間だったせいか中はまだガランとしていて、僕は姉貴を探しながら祭壇に向けて長椅子の間の通路を進んだ。
 前の方、大きな柱の陰にいつもの長い髪の後ろ姿が見えた。姉貴は手入れが面倒だとボヤキながらも絶対に短くしない。そして頑なにツインテールの髪型も変えようとしない。何をそんなに拘る必要があるの?何度もそう訊いたが姉貴はまったく聞く耳を持たなかった。
 僕は姉貴の座っている位置までゆっくりと進んでいくと、声をかけようとしてそのまま固まってしまった。
 姉貴は長いすの一番奥に姿勢良く座っている。そして何を思っているのか祭壇の方を一心に見つめている。僕が近づいたことに気がついた様子はまったくない。薄暗い大聖堂に天井から降り注ぐ光が姉貴の姿を照らし出す。
 艶やかな髪の毛やまつげの1本1本、鼻から頬にかけての顔の輪郭、引き締まった口元、細くて長い首筋、肩から鎖骨そして胸に向けてのラインが、光を反射して薄暗い背景にほの白く浮かび上がる。どうしてだろう?僕の心臓はドキドキと速くなった。

miku
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 姉貴は僕よりずっと年上だし、だからガンガン文句を言ってくるし、叱ってくるし、怒ってくるし、でも東洋人だから顔立ちは子供っぽいし、ペチャパイだし、声は高いし、カミラの方がずっとグラマーだし色っぽいし、だから僕はこれまで彼女をこんなふうに見つめたことはなかった。だいいち彼女は僕の中で、ずっと姉貴だったんだから。僕は通路に立ったまま声をかけるのも忘れてじっと見つめていた。
 フッと姉貴の顔から力が抜けて視線がこっちを向いた。
「ジョゼ……。居るんなら声をかけてよ」姉貴が言った。
「ああ、ごめん。つい……ね。何をじっと見てるのかなって……」僕はしどろもどろになって答えた。
「え?ああ、ちょっと考え事をね。でも今日はありがとう。忙しいんじゃなかったの?休日だからデートの予定とかさ」
「大丈夫。でもなんでここ?もっと気のきいたところがあっただろ?」
「変かな?だって、ここなら絶対に間違えないし、この時間ならまだ静かだし、タダだし、それにあたしはここの雰囲気が好きだから」
「まあ、確かにそうなんだろうけど」そう言ってから僕は小さい声でゴニョゴニョと付け足した「でももうちょっと若者らしく……」
「何か言った?」
「何でも無い。で、今日は何の用?呼び出したのは姉貴だろ」
「うん。実はね、あたしあと2年学校に残ろうと思うんだ」姉貴はいつものようにいきなり本題に入った。
「落第したの?」僕は驚いて訊いた。
「まさか!何言ってんの。違うよ!院に行くんだよ」
「インって、大学院のこと?」
「そう!その院。だからあと2年はポルトに戻れなくなったんだ」
「ふ~ん。姉貴って案外優秀なんだね。でもお金とか大丈夫なの?」
「その点はメイコの了解を取ってるし、奨学金も出るから大丈夫なんだけど」姉貴は少し言い淀んだ。
「けど?」
「メイコは応援するって言ってくれてるんだけど、やっぱり寂しいみたいなんだ。今までずっと1人だったし大丈夫だって言うんだけど、あたしとしてはそれだけにかえって心配なんだ」姉貴はまた祭壇の方に目をやった。
「メイコはこの町を離れる気はないんだろう?」
「メイコはこの町を愛しているもの。絶対にそれは無いよ。だからジョゼにお願いがあるんだ」姉貴の目は真剣だ。
「姉貴からお願い?怖いな」僕は戯けた調子で答える。
「悪かったわね」姉貴の視線が弱くなった。
「冗談だよ。で、お願いってなに?」僕は慌てて話を元へと戻す。
「時々はメイコを尋ねてやってほしいの。ジョゼの都合の合う時だけでもいいから。メイコはジョゼのことをあたしの弟みたいに可愛がっているから、喜ぶと思うんだ。今でも凄く歓迎してくれるでしょう?」
「そうだな。腹一杯食わせてくれるし、それに凄く美味いんだ」
「だからそうやって時々尋ねてやってほしいの。そしてその時の様子をあたしに知らせて欲しいの。お願いできるかな?」
 僕はニッコリと微笑んで言った。「もちろんOKさ。喜んでやらせてもらうよ。僕はメイコが好きだし。メイコがそう思ってくれているんなら、何回でも行くさ。迷惑じゃなければね」
「良かった」姉貴が初めて微笑んだから、僕はまたドキッとして固まってしまった。
「あたしも休みが取れればなるべく帰ってくるようにするし、電話やメールもたくさん入れるようにする。でもジョゼが時々でも覗いてくれる方が安心。メイコもいつ押しかけても歓迎してくれると思うよ」
「そんな、ちゃんと連絡を入れてから行くよ。その方が美味しいものがたくさん食べられるからね」
「現金な奴。でも一月に1回は覗いてもらえると助かる」
「わかった。約束は出来ないけど、それ以上は覗くようにするよ」
「ありがとう。やっぱりジョゼはやさしいね。そういうところ好きだよ」姉貴がまたニッコリ笑ってそんなことを言うもんだから、僕の心臓はまたドキドキする。
「任せとけって、姉貴」僕は少し胸を張る。
「姉貴はやめてよ。もうジョゼはあたしより大人に見えるから姉貴って変だし、どう見ても姉弟に見えないし、照れくさいよ」
「え?じゃあ、任せとけって、ミク?こんな感じかな?」僕の心臓はますますドキドキだ。
「ジョゼはこの後どんな予定なの?」満足そうに頷いてからミク…が言った。
「僕?ごめん、これからばあちゃんのとこに寄らなくちゃいけないんだ」
「じゃぁ、あたしも一緒に行っていいかな?」
「もちろん!大歓迎さ。ミク…なら、ばあちゃんも大喜びだよ」
「じゃぁ。そうしようかな」
「それにほら、これ」僕は肩にかけた袋の中身をミクに見せた。
「あ!これ、パステイス・デ・ナタじゃない。あの店のだよね?」
「そう。ばあちゃんちで食べよう。行こうよ」僕は立ち上がった。
 そろそろ増え始めた観光客の間を縫って表に出ると、僕らは並んで歩き出した。
 僕は歩きながらミクの方を見たが、ミクの横顔はこれまでとは全然違って見えた。
 ミクはそんな僕の視線に気がついたのか、上目づかいにこっちを見ると優しく微笑んでくれた。でも、なぜこんなことで僕の心臓はドキドキするんだろう?
 僕らの上には最高の秋晴れが広がっていた。

おわり

2014.12.15
2015.02.17微調整
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

Promenade 2

scriviamo! この作品はscriviamo! 2015の参加作品です。

 関西国際空港、そのターミナルビル4階にある国際線出発ロビーは、大勢の人で溢れていた。チェックインの列に並ぶ団体客、大きなスーツケースを曳いたビジネスマン、レジャーに出かける家族連れ、カートを押した友達連れ、どう見ても新婚旅行のカップル、そして彼等を見送りにきた人々、この奇妙な高揚感の漂う特異な空間には様々な人々が集まっている。彼等は出発への期待に胸を膨らませて楽しげに会話を交わしたり、1人でベンチに座って書類を確認したり、様々な思いを胸に自らの旅立ちへの備えを継続している。流れる外国語のアナウンスはこれから向かう異国を連想させ、人々を、特に日本人をいっそう特別な気分にさせる。
 その人々の中に、それとは異なる雰囲気の1人の女が座っている。出発ロビーの端の方のベンチに、足下に機内持ち込み用のスーツケースを従えて、彼女はポツリと座っている。歳は20代後半だろうか、ゆったりとしたベージュのロングニットにストレートのデニムパンツ、首元からはチェック模様のシンプルなシャツの襟が覗いている。髪はちょっと短すぎるくらいにカットされていて、それが気になるのか時々首筋に手を当てる仕草をする。腕時計をチラリと見て、それから出発の予定が表示されたモニターに目をやる。そして小さくため息をつくと、彼女はまた出発を待つ人の群れに自分を紛れ込ませた。

 絵夢は改札口を出るとデッキを渡ってターミナルビルへ急いだ。そしてエスカレーターを使って一気に4階まで上る。
 昨夜遅くの彼女からの電話は唐突だった。絵夢は彼女が日本に帰ってきていることをまったく知らなかったのだ。いつもの調子でとりとめのない日常の会話を続けるうちに、彼女の様子がいつもと違う事に気がついた。それにこれは普通の通話だ。海外からなら追加料金不要のパケット通信でかかってくるはずだ。
「今どこにいるの?」絵夢の追求に彼女は今日本に帰国していることを白状した。
「どうして知らせてくれなかったの?」彼女は絵夢にポツリポツリと事情を話し始めた。
 彼女は絵夢より6つも年下だったが、とても大切な友人の1人だ。彼女が16歳、絵夢が22歳の頃からの付き合いになるから、もう12年来の友人ということになる。
 彼女とは日本で出会ったのだが、その後事情があって生活の拠点を海外に移した。絵夢は何度か彼女が世話になっている家を訪問させてもらって楽しい時間を過ごしたし、彼女が学校に通うためにアパートを借りてからは、そのアパートを訪れることもあった。彼女には歌の才能があって、声楽の専門教育を受けるために世話になっていた家を離れたのだ。
 彼女はすぐに頭角を現したが、世界はそんなに甘くなかった。教授に認められて院まで進んだものの、卒業後幾つかの役をこなしただけで、そのあとオファーが無くなった時期もあった。
 彼女は自信を無くして殻に閉じこもったこともあったが努力を続け、最近は端役や、時にはサブキャストの仕事も舞い込むようになって、地道に歌手生活を続けている。絵夢も色々と相談を受けアドバイスもしたが、やはり彼女の努力が報われたと考えるべきだろう。絵夢も何度か舞台を観たが、評価はけっして悪くは無かったし、卓越している部分もたくさんあった。今準備中の公演ではメインキャストを割り付けられていて、日本でのんびりしている暇など無いはずだ。
「喉にポリープが出来たの」彼女は日本にいる理由を語り始めた。「たいしたことは無いんだけど。やっぱり全力で歌うと声が微妙に割れるの」電話の向こうの声は沈んでいる。
「それで日本に?」
「専門のお医者さんに診てもらったんだ」
「結果は?」声質に気をつけながら絵夢は尋ねる。
「手術は難しいと言われた。位置が悪くて失敗すると声に影響がでるかもしれないって」
「そう・・・」絵夢は言葉を失った。
「でも日常生活にはなんの問題も無いんだよ」彼女は声を明るくする。
「会いたい。会って話がしたい。いつまで日本にいるの?」
「明日の飛行機で帰る」
「明日?」絵夢の声は珍しく裏返った。
「いまどこにいるの?何時の飛行機?どこの空港?」絵夢の質問に彼女はホテルの場所と飛行機の時間を答える。
「神戸?今からじゃそこへは行けないわ。明日1番の新幹線でそちらへ向かいます。出発ロビーで待ち合わせにしない?会いたい。会って顔が見たい」

 絵夢はエスカレーターをおりるとあたりを見渡した。
 彼女の姿は見当たらない。まさかもう出国したの?そんなことはしないとは信じているが、絵夢の心を不安が満たしていく。GのチェックインカウンターからAまで順にベンチを覗いていく。居ない。気を取り直してもう一度AからGへ、ベンチとチェックインカウンターに並んでいる人々を確認していく。やっぱり居ない。携帯電話を取り出そうとしたその時、絵夢は1人の女性に目を留めた。
 彼女だ!見つけた。あまりにもイメージが違っていたため最初は見過ごしてしまっていたのだ。絵夢は彼女に駆け寄った。
「ミク!」
 彼女は顔を上げた。あのツインテールにまとめられ長く伸ばされていた髪はショートカットに変わっていた。でもクリッとした大きな目、小さな鼻、凜々しい口元は確かにミクだ。「ミク!」絵夢はもう一度彼女の名前を口にした。
「絵夢」ミクは安心したようにふわりと微笑んだ。そして恥ずかしそうに首筋に手を添える。
「どうしたの?その髪」絵夢は思わずそう尋ねた。尋ねてしまってから少し後悔したがもう口にした後だ。どうしようもない。
「これ?もう歌えないんだったらいいかなぁって・・・おかしいかな?」ミクは髪の上から首筋に手をあてた。
 絵夢は黙ってミクに近づくときつく肩を抱きしめた。ミクははじめ黙って抱かれていたが、やがて絵夢をきつく抱き返した。
「会わないで帰ろうって思っていたんだよ。でもけっきょく電話しちゃった。声だけでも聞けたら良いなぁって思ったの」
「それだけで済むはずがないじゃない」絵夢はもう一度しっかりとミクを抱きしめた。そのまま2人は仲の良い姉妹のように、ベンチに並んで腰掛けて話し込んだ。
 暫く顔を合わせていなかった2人は近況を伝えあい、抱えている大きな問題について深く話し合った。
 やがてミクの乗る便の搭乗開始を予告するアナウンスが流れる。
「そろそろ行かなきゃ」ミクが出発の予定が表示されたモニターに目をやった。
「本当に搭乗をキャンセルすることは出来ないの?」絵夢が食い下がる。
「舞台に穴を開けるわけにはいかないからね。今度は久々のメインキャストなんだけど・・・でもこれで最後にする。仲間にこれ以上迷惑は掛けられないもの。その公演が終わったらメイコのところに、ポルトへ帰るつもり」
「まだ歌えなくなるって決まったわけじゃないわ」
「え?」
「私は諦めの悪い性格なの。イタリアのその方面の専門家を紹介するわ。幾つもの難しい手術を成功させた名医よ。諦めるのはその先生に診てもらってからになさい。メイコのところへ帰るのはいつになる予定?」
 ミクは日付を言う。
「そう。じゃぁその頃にまた電話を入れる。イタリアの先生にも連絡を取っておく。それから日本で診てもらった先生の名前を教えてちょうだい」絵夢はてきぱきと話を進める。
 有無を言わせぬ絵夢の気迫に押されて、ミクはメモを書いて絵夢に渡した。
「ミクに直接電話をしてもらわなくてはいけないこともあると思うけど、その時はまた連絡する。動いてくれる?」
 ミクはあっけにとられた様子で頷いた。
「少しは元気になった?」少し間を開けて絵夢が尋ねる。
「うん」ミクは頷いてからゆっくりと微笑んだ。
「よかった」絵夢はミクの顔をじっくりと覗き込んでから言った。
「さ、行きなさい。舞台が待っているんでしょう?」
 ミクは立ち上がった。いままで出発を待つ人の群れに紛れ込んでいたミクの姿はすこし浮き上がって見えるようになっていた。
 保安検査場の入り口で挨拶を交わしてから、絵夢は思いついたように尋ねた。
「ところでジョゼはどうしているの?」
「元気だよ。元気だけが奴の取り柄だからね。メイコのところで一緒に夕食を食べようって言ったら喜ぶかなぁ」ミクは笑顔で答えた。
 絵夢はその笑顔にさらに安心を感じながら言った。「そう、じゃぁジョゼには隠し事をしないで、喉のこともちゃんと話しておきなさい。あなたにはそうする義務があるわ」
「え?」
「そうしておきなさい!」絵夢は言葉に威厳を込めた。
「うん・・・そうする」ミクは素直に頷いた。
「約束よ。じゃあ行ってらっしゃい!」絵夢は満足げに頷くと軽く手を挙げた。そして「その髪型も可愛いよ」と付け加えた。
「ありがとう!じゃあまた」ミクはまた首筋に手をあてた。そして保安検査場の通路を進みながら振り返り、思い切ったように大きく手を振った。
 絵夢は笑顔で手を振りかえす。
 ミクもそれに笑顔で答えた。

2015.02.10
2015.02.17微調整
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

初めての音 Porto Expresso3

scriviamo! この作品はscriviamo! 2015の参加作品です。

 フランクフルトからの便が到着してから30分以上が経過したのに、到着ゲートからは待ち人は出てこない。ジョゼは出迎えの人々の中に立って辛抱強く待っていた。ポルト空港の到着ロビーはそれほど混雑しているわけではないから、見逃すはずはないし、向こうも気がついてくれるはずだ。
『おかしいなあ、乗り遅れたのかな』ジョゼは到着便が表示されているパネルに顔を向けた。
「お待たせ!」突然後ろから声をかけられて、ジョゼは驚いて振り返った。ジョゼは一瞬記憶と現実とのギャップに翻弄されて認識に手間取り、ようやく認識を終えてからさらに度肝を抜かれた。「姉貴?姉貴・・・だよね」
「驚いた?」ミクは首筋に手を当てながら恥ずかしそうに言った。
「ど・・・どうしたんだ?その髪」ジョゼはようやくそれだけを口にした。
 ミクのツインテールにまとめられていた長い髪は、見事なショートカットに変わっていた。いつもはゆったりとしたラフな格好ばかりなのに、今日はおしゃれな感じの明るいショートコートと紺のミニスカート、少し踵のある黒い靴、そして耳元にはトパーズの並んだヘアピンがキラキラと輝いている。その大人っぽい雰囲気もジョゼにとっては初めての経験だった。
 ジョゼは訳が分らずただジッとミクを見つめるだけだったが、混乱の中で『レースのリボンにしなくてよかった』と、とりあえずホッとしていた。
「ジョゼ、時間ある?メトロに乗る前に軽くお茶に付き合ってくれない?」ミクが訊いてきた。
 ジョゼはまだ驚きを収めることが出来ていなかったが「いいよ!」と答え、大きなスーツケースを引き受けてミクの後を歩き出した。

 到着ロビーに隣接した喫茶スペースに座り、それぞれに飲み物を注文し他愛のない話を少しした。そして飲み物がテーブルに置かれると、少し口を付けてからミクは話し始めた。
「あたし、歌手を止めなければならないかもしれないの」
「え?どうして!」ジョゼはようやく落ち着き始めた心をまた震わせた。「今回の公演だって評判はよかったじゃないか」
「喉にね、ポリープが出来ているの」
「ポリープ?」ジョゼは立ち上がりそうになる自分を押さえ込んだ。
「うん、暫く前から全力で歌うと声が微妙に割れるの。この間、日本のお医者さんに診てもらったんだけど手術は難しいと言われた。位置が悪くて失敗すると声に影響がでるかもしれないって」ミクは淡々と事実を語る。努力してそうしているようだ。
「そんな・・・」ジョゼは言葉を失った。
「それで髪を切ったのか?」暫く間を開けてからジョゼが訊いた。
「これ?もう歌えないんだったらいいかなぁって・・・そう思ったの」ミクは髪の上から首筋に手をあてた。
「で、そのポリープって、まさか・・・」
「ううん、日常生活にはなんの問題も無いんだよ。悪性ではないって」彼女は声を明るくする。
「そうか」ジョゼは安堵の息を漏らした。そして顔をあげて言った。「でも、何か上手い方法はないのかな」
「日本にいるときにね、絵夢に会うことが出来たの」ミクはカップを口に運びながら言った。
「絵夢に?それで?」ジョゼは続きを促す。
「言われたの、まだ歌えなくなるって決まったわけじゃないって」
「うん、その通りだと思う」
「ジョゼもそう思う?」ミクはカップに口を付けた。
 ジョゼは大きく頷いた。
「でね、絵夢にお医者さんを紹介してもらうことになってるの。イタリアの専門の先生なんだって。諦めるのはその先生に診てもらってからになさいって」
「で、いつ診てもらうんだ?」ジョゼは身を乗り出す。
「ポルトに帰ってから連絡をもらうことになってる」
「そうか、そんなチャンスがあるならチャレンジするべきだし、まだまだ希望を失うことはないよ。
「そうだね」ミクは少し顔を緩めて微笑んだ。
「でも絵夢に会えてよかったな」ジョゼは飲み物で口を湿した。
「うん。実は不安になって、あたしから呼び出しちゃったんだけどね」
「かまわないんじゃないのか。友達だし。黙っていたら絵夢が怒ったと思うよ」
「そうかな?迷惑かけてなければいいんだけど」
「そんなこと言うなよ。絵夢はそんなこと思ってないよ」
「ごめんね。こんな話をして。でもジョゼにはちゃんと言っておきたかったんだ」
「謝るなよ。友達じゃないか」そう言いながらジョゼはミクとの関係について考えていた。「絵夢から連絡が来たらちゃんと僕にも知らせてくれ。絵夢みたいに色々出来るわけじゃないけど、出来ることは何でもするし、一生懸命応援するから」
「うん、ありがとう」ミクはそう言いながらジョゼに頭を下げた。耳元のヘアピンがキラリと輝く。
「ところでさ、そのヘアピン可愛いな」ジョゼは話題を変えた。
「あ、これ?」ミクはヘアピンに手をやった。
「この前の舞台の演出家の人にもらったんだ。喉の治療のために暫くお休みするって言ったら。成功を祈っている。復帰したらまた一緒に仕事がしたいって」ミクは下を向いたので表情が読めない。
「そうか・・・」ジョゼは複雑な心持ちで返事を返した。
「そろそろメイコのところへ行こうか。あまり遅くなると心配する」ミクは腕時計をチラリと見て言った。
「そうだな。今日は何を食わしてくれるのかな」
「もうお腹すいてるの?」
「僕はいつも腹ぺこさ」ジョゼがそう言うとミクは声をたてて笑った。
「そうだ!姉貴。明日時間があるならちょっと僕に付き合ってくれるかな?」ジョゼは勇気を振り絞って言った。
「明日?いいよ、何も予定は無いから」ミクはそう答えたが、その声は少し寂しげに聞こえた。
「じゃぁ、明日の予定に入れといてくれ。午前10時に迎えに行く」力強くジョゼが言った。
「わかった」ミクは明るい声で答え、そして付け加えた。「また姉貴って呼んでるよ。姉貴はやめてよ」
「ごめん。ずっとそうだったから・・・気をつけるよ」ジョゼは苦笑いになって頭を掻いた。
 2人は横に並んで、メトロ乗り場に向かって歩き始めた。

2015.02.15
2015.02.17微調整
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(初めての音)Augsburg

 ハンス・フリードリヒ・ガイテルは入口から入ってくる女性に向かって軽く手をあげた。明るい色のショートコートの下から紺のミニスカートが覗き、少し踵のあるブーツを履いている。渋い色合いのマフラーが印象的だが、短くカットされた髪は少し寒そうだ。
 彼女はハンスの仕草に目にとめたのか、ウェイターにコートとマフラーを預けながら軽く頭を下げた。「やはり日本人だな。同じ東洋人でも中国人とはまた違う」ハンスはその仕草を微笑ましく思いながら、同じように軽く頭を下げた。
 ロマンティック街道沿いの古都アウクスブルク、マクシミリアン博物館にほど近い裏通りに、このレストランはひっそりと店を構えている。もともと家庭的な雰囲気の小さな店だが、オーナーシェフがハンスの幼馴染みということもあって、気兼ねなく食事ができるうえに、友達のよしみで値段にも配慮してくれる。それになにより馴染みの客以外にはあまり知られていないせいで隠れ家的な趣があり、それがとても気に入っている。ミクが迷わずに来店できるか心配していたくらいだが問題はなかったようだ。ミクは日本人のソプラノ歌手だが、オペラの歌詞や台詞だけでなく日常会話でもドイツ語を支障なく話すようになっていたし、勤勉な民族性もあるのだろう、ドイツ人の気質にも比較的に馴染んでいる。隣町からやって来たドイツ人のように、気軽に道を尋ねるはずだ。

「お招きいただいてありがとうございます。ガイテルさん」席に付くと彼女はさっそく礼を言った。
「そんなに畏まらなくてもいいよ、ミク。僕は君が来てくれただけで嬉しいんだから。それにハンスと呼んでくれるともっと嬉しいんだけど・・・」ハンスはとびきりの笑顔で答えた。
「はい・・・ハンス・・・さん」ミクは言いにくそうだ。
「ハ・ン・ス」ハンスがゆっくりと発音する。
「ハンス」ミクは小さく復唱した。
「そう、それでいい」ニッコリと笑って大きく頷くとハンスはウェイターに向かって「始めてくれ・・・」と声をかけた。「畏まりました」ウェイターは礼をして下がった。
「料理は適当に選ばせてもらったけど、かまわなかったかな?」仲間たちと一緒に何回も食事に出かけ、ミクの好みはわかっているつもりだが、2人きりで会うのは初めてだ。ハンスはミクの反応を窺った。
「かまいません。好き嫌いはありませんから。それに料理を選ぶのは苦手なんです」すこしホッとした様子でミクが答えた。舞台を離れたミクはいつものように硬くて愛想が無い。あの劇中の豊かな表現力とは雲泥の差だ。
 ウェイターがワインを運んできた。ハンスが簡単にテイスティングを済ませ、軽く頷くと2人のグラスにワインが注がれた。
「公演の成功に!」2人でグラスを合わせるとガラスは優雅な音を響かせた。

 アウクスブルクでの公演は成功だった。小さな劇場での公演だったが、この規模にしては奇跡的に赤字を出さすに済んだ。演出家であると同時にプロデューサーの立場も兼ねるハンスとしては上々の出来だった。劇団としての打ち上げはすでに済ませていたが、今夜はヒロインを務めたミクとどうしても話がしたかったのだ。それに気になる噂も耳にしていた。
 暫く食事を続けた後ハンスが口を開いた。「稽古の時は厳しい事ばかり言ってすまなかったね」
「いいえ、とんでもありません。わたし、まだまだヘタッピィですから」ミクが遠慮気味に答える。
「ははは・・・ヘタッピィか。でも君のマリーはとてもよかったよ。天才的という表現は適切ではないかもしれないが、あえて使わせてもらおう」
「ありがとうございます」ミクは笑顔を見せると礼を言った。そしてにんじんに慎重にフォークを突き刺すと、それを口もとに運んだ。
「マリーは不安定な精神を抱えているが、それはガラス細工のような繊細なものではない。もっと図太いものだ。それがよく表現されていた。特に第3幕の第2場での絡み、赤い月の下で繰り広げられる血塗られたシーンは期待以上の出来だった。鬼気迫るものがあった」ハンスはナイフとフォークを置きミクの目を見つめて言った。
「幼過ぎることはなかったですか?」にんじんはまだフォークに刺さったままだ。
「マリーもある程度の幼さを持っているが、その加減が非常に難しい。君は上手くやっていたよ。君が自分の外見を気にしているのなら、それは杞憂だ」
「そう言っていただけると嬉しいです」ミクはやっとにんじんを口に入れた。
「ところで、君がこの公演の後、暫く休養に入るというのは本当の事なのか?」少し眉間に皺を寄せてハンスが訊いた。
「ええ、前にもお話しましたが、わたしはのどに不具合を抱えています。暫くの間その治療に専念するつもりです。今の状態では全力で歌う時にためらいがありますし、これ以上皆に迷惑はかけたくありませんから」ミクは言葉を選びながら答えた。
「残念だが、君がそう判断したのなら、それがベストの選択だろう。どこで治療するつもりだ?」ハンスは切り分けた肉を口に運びながら言った。
 ミクはイタリアのドクターの名前をあげた。
「ほう!」ハンスの手が止まった。「彼の患者になることはなかなか難しいと聞いていたが?手術を受けるのか?」
「まずは診察をしてから治療法を決定するそうです」
「誰かの紹介でもあったのかな?」
 ミクは少し躊躇してから答えた。「エム・ヴィンデミアトリックスという方の紹介です」
「エム!」口の中に肉を置いたままだったので、ハンスはあわてて口もとを覆った。「ヴィンデミアトリックス家の?知り合いなのか?」
「古くからの友人なんです」ミクはハンスの反応に驚きながら答えた。
「驚いたな。でもそれはラッキーなことだ。君にとってはもちろんだが、僕にとってもだ。君が診察を受けるドクターはこの世界では最高級の腕を持っている名医だ。出来うるかぎりの高度な治療を施してくれるだろう」ハンスは顔を明るく輝かせると、ワイングラスを口に運んだ。
「ところで、君に2つお願いがあるんだが・・・」ハンスは肉を胃の中に納めてから話題を変えた。
「何でしょうか?」
「まず、君が復帰したらまた僕と組んで欲しいんだ。どうだろう?」
 ミクはエビをカットするのを中断して答えた。「ええ、喜んで。でも、ちゃんと直ったらという条件が付きますけれど」
「僕は君の回復を強く望んでいるが、さっきの話を聞いていっそう希望が湧いてきたよ」ハンスはワインを口に含むと、コクリと音を立てて飲み込んで続けた。「それともう1つ、これを受け取ってほしい」ハンスはポケットから小さな箱を取り出すとミクの前に置いた。
「これは?」ミクの動きが止まった。伏し目がちにハンスを見る。
「いや!すまない。君の事情も考えずに唐突だった。でもそういう意味じゃないんだ」ハンスは顔を赤くする。「これは今回の演技に対する僕の感謝の印だ。そして治療が上手くいくようにという僕の祈りでもある。お守りとして身に付けておいてくれないか」
「お守り・・・ですか?」
「開けてみてくれ。ミク」
 ミクは小さな箱の包装紙を外し蓋を開けた。キラキラ輝くトパーズの並んだヘアピンが入っている。
「僕は自分の演出家生命を君に懸けてみようと思っている。だからそのお守りを身に付けておいてくれ。そして必ず劇団に帰ってきて僕と組んでほしい。君と組んでやりたいオペラがたくさんあるんだ」
 ミクは気圧されたのか、やがて静かに頷いた。「ありがとうございます」
「いや、こちらこそありがとう」ハンスは立ち上がって右手を差し出した。ミクは右手をそこに添えるように握手した。ハンスは左手も差し出して、両方の手でその小ぶりな手を包み込んだ。そして力強く揺さぶった。

2015.11.12
2015.11.13微調整
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(初めての音) Augsburgその後

scriviamo!

 翼を広げた黒い双頭鷲の紋章と2つのミントグリーンのタマネギ型の塔を備えるアウクスブルク市庁舎を眺めながら、ヤスミン・レーマンはカフェのテーブル席の椅子に腰掛け、コーンに盛られたアイスにとりかかった。春は本番になっていたが、アイスクリームを食べるにはまだ少し肌寒い。だが、チョコチップ入りのミントアイスは彼女の一番のお氣に入りだし、日の差し込むこの席なら問題はない。なにをさておいても今日はそんな気分だった。
 ヤスミンはこの町の劇団カーター・マレーシュに、ほとんどボランティアとして参加しているメイクアップ・アーティストだ。小さな劇団の常だか、彼女は広報の担当も兼ねていて、本業の美容師の仕事の合間を縫って、キャストのメイクアップと、広報活動やそれに含まれる協賛金集めにも飛び回っている。
 ショートの豊かな巻き毛、大きく黒い双眸、そして濃い眉、彼女の持つエキゾチックな顔立ちは、彼女の実務的だが暖かい性格と相まって、劇団の役者たちを差し置いて協賛金集めに効果を発揮した。
 そして今日は大きな協賛金を受けることに成功し、その充足感に浸りながら自分へのご褒美を頬張っていた。ヤスミンはビジネスでもプライベートでも満足のいく結果が出せた時には、いつも自分へのご褒美としてミントアイス、それもチョコチップがいっぱい入ったやつを食べることにしていた。

***

 ホテルの部屋にまで通されるとは思っていなかったので、ヤスミンはよけいに緊張していた。世界的に有名な名家のお嬢様が今日のヤスミンの交渉相手だった。芸術に造詣が深く、いろいろな方面の芸術家や団体を支援する財団の理事だと聞いている。どんな人間だろう?こういう交渉には慣れているはずのヤスミンだが、世界的に有名な名家のお嬢様と聞かされると、緊張を抑えることは難しかった。
 ドアを開けてくれた女性はヤスミンの身分を確認してから「こちらへ」と廊下の先へと案内した。ヤスミンはホテルのスイートルームなど利用したことはなかったので、辺りを見回しながら廊下を進んだ。
「ヤスミン・レーマンさんがお見えになりました」女性がドアをノックして声をかけると「どうぞ」と優しい声が答える。
「お入りください」女性がドアを開ける。
「失礼します」ヤスミンはさらに緊張しながら部屋に入った。そこは広いリビングルームで、大きな窓の向こうにはミュンヘンの町並みが広がっている。
「こんにちは、レーマンさん」正面に髪の長い東洋人の女性がまっすぐに立っていて、にこやかに頬笑んでいた。
「始めまして、ヤスミン・レーマンです。お会いできて光栄です」ヤスミンの声は硬くなった。
「絵夢・ヴィンデミアトリックスです。こちらこそよろしく。ヤスミンとお呼びしてよろしいかしら?」握手を交わしながら、黒い瞳が覗き込んでくる。
「はい」ヤスミンは頬が赤くなるのを感じながら答えた。
「私のことはエムと呼んでください。ヤスミン」
「はい」ヤスミンは返事をしたが、絵夢はまだ覗き込んだままだ。
 ヤスミンはようやく「はい・・・エム」と返事を返した。
 絵夢は満面に笑みを浮かべると「どうぞ」とソファーを進め、自分もヤスミンの向かいに座った。
「なにかお飲みになる?ヤスミン。コーヒー、紅茶、ジュース、何なりとどうぞ。日本茶もありますよ」絵夢がまず訊いた。
「あの、それではコーヒーを・・・」
「熱い方でいい?」絵夢の声は親しみを帯びる。
「お願いします」ヤスミンは落ち着きを取り戻しつつあった。
「コズミ、私も同じものを」絵夢は部屋の隅で待機していた女性に声をかける。
「畏まりました」コズミと呼ばれた女性はそう言って軽く頭を下げると部屋を辞した。
 交渉はスムーズに進んだ。ヤスミンはいつものように『カーター・マレーシュ』がいかに優秀な俳優陣とスタッフに恵まれた劇団で、積極的に新たな試みに挑戦してきたかということを述べ、さらに劇団の将来性ならびに窮乏を訴え、協賛金がどれほどありがたいかを切々と訴えた。
 絵夢は充分な下調べを済ませていたらしく、随所で的確な質問を挟んだ。そして「実は実際に舞台も拝見したんですよ」と悪戯っぽく笑った。
「え?アウクスブルクの劇場までいらしたんですか?」ヤスミンの声は少し裏返った。
「もちろん!とっても面白かったわ。でも、ヤスミンは出てなかったんじゃないかしら?」絵夢は微かに首を傾ける。
「ええ、私は役者じゃないんです。広報担当も兼ねてますけど、正式には劇団のメイクアップ・アーティストです」
「そうなの!じゃぁ、あの緑の宇宙人たちのメイクはヤスミンの作品?」絵夢の目は大きく見開かれる。
「そういうことになります」ヤスミンは絵夢の反応に驚きながら答えた。
「そうなんだ。凄くリアリティーがあるのに、やり過ぎでなくて、とてもコミカルだったわ。あなたはとても才能に恵まれている」暖かい瞳がヤスミンを捕える。
「ありがとう。エム」2人の会話はいつの間にか旧知の友人のそれに変化していた。短い時間だったが会話は弾み、ヤスミンは新しい友人が増えたような気持ちになった。実際、絵夢はこれからも友人として交際させてほしいと言い「これは社交辞令で言っているのではなくって、私の本当の気持ちなの」と付け加えた。そして少なくない額の協賛金を約束してくれた。
 ヤスミンは“友人として・・・”の話を全面的に信じたわけではなかったが、絵夢の気持ちは素直に受け取ることにした。そして前向きな、暖かい気持ちになって絵夢の部屋を後にした。ご褒美のチョコチップ入りミントアイスを頬張る自分を想像しながら。

***

「あら、あれはハンス・ガイテルよね」ミントアイスを食べ終えようとしていたヤスミンは、壁際の席に座っている男を見てと独り言を言った。ハンス・フリードリヒ・ガイテルはミュンヘンに本拠地を置くオペラ劇団の演出家だ。ヤスミンが所属する劇団カーター・マレーシュよりずっと規模も大きくて、全国規模で評判も高い。アウクスブルクでは1月に公演があったばかりだが、また今月にも公演があるはずだ。その準備でこの町に滞在しているのだろう。彼とは会合で何回か会って話をしたことがあるだけだが、ヤスミンは記憶力には自信がある。彼に間違いない。
 彼の向かいにはショートカットの女性が座っている。『オペラの歌い手かな?東洋人みたいだけど』記憶の中をまさぐっていたヤスミンは、ようやく目的の物を探し当てた。『そうそう、彼女、ミク・エストレーラ、そんな名前だった。1月の公演でヴォツェックのマリーを演じて結構評判が良かったんだ。確か初めてのプリマ・ドンナだったはずだ。でも今度の公演の配役には載ってなかったみたいだけど』
 その新進のプリマ・ドンナと新鋭の演出家の2人は深刻な表情で何事かを話し合っている。声をかけられるような雰囲気ではないな、ヤスミンはそう判断した。
 今まで意識していなかったから話の詳しい内容までは分からなかったが、ところどころ漏れ聞こえてきた内容からある程度成行きが想像できる。『どうしたんだろう?』ヤスミンはなるべく目立たないように注意しながら耳の感度を上げ、斜めの視線をそちらに向けた。幸い店の中は静かだった。



「ハンス、あなたがもし・・・その・・・」言いよどんだミクは覚悟を決めたように顔をあげた。「今以上の関係を望んでおられるのなら、わたしはそれに応えることができません。ですからこのお守りも・・・」と、ポケットに入れた手を出そうとした。
 ハンスは“皆まで言うな”という風にミクの言葉を手で遮り、暫くの沈黙を作り出してから喋りはじめた。「ああ・・・もしもだ・・・もし君の言っている“今以上”というものが“恋人同士の関係”を指しているのなら、僕にそのつもりが無かったというのは嘘になる。僕は単純に、いや純粋に君に好意を持っている。だからそういう感情を抱き始めていたとしても、それは当然だろう?」
「でも・・・」ミクの顔はまた下を向いてしまった。
「つまりは、僕はふられたということなのかな?」ハンスは静かに言った。
 ミクが考えをまとめるために少しの間が必要だった。「ハンス、わたしはあなたをとても尊敬しています。そして、あなたの演出で色々な舞台に立ちたいと思っています。ですからここへ来たんです。でも、わたしは自分の願いは叶えたいのに、あなたの願いを叶えることができない。わたしはそれをとても申し訳なく思っています。ですから、わたしの願いを叶えるかどうかはあなたにお任せします」ミクはここまでを一気に喋ると、静かにハンスの返事を待った。
 ハンスは長い沈黙を挟んで話し始めた。「ずるいな!ミク。いくら自分の願いが叶えられないからといって、君の才能を使える権利を放棄するなんてことを、僕ができないのは分かっているんだろう?せっかく手術が上手くいって気兼ねなく歌えるようになったんだ。僕は君の才能の全てを引き出してみたい。それは同時に僕の頭の中にあるイメージ世界を現実の中に創造することになるんだから。その願いが叶うなら、それ以上を望むのは欲張り過ぎなのかもしれないな」ハンスは苦しそうに続けた。「だが、そんな君の気持ちを受け止める奴は、もし居るとすればだが、いや、きっと居るんだろうね。そいつはいったいどんな奴なんだろう?その幸せ者の顔を見てみたいね」ハンスの言葉に微かにとげが含まれるのはやむを得ないだろう。
「受け止めてくれるかどうかは、まだわかりません」ミクは不安そうに答えた。
「なんだって?まだわからないって?それはどういう・・・?」
「まだ、わたしの気持ちの整理もついていないし・・・彼もどう思っているかよくわかりません。とても身近な人なのでかえって伝わらないというか・・・」
「身近な人か・・・」ハンスは思慮深い弁護士のような顔をした。「だが、その彼以外の気持ちを受けるつもりは無いんだろう?今のところ」
 ミクは頷いた。
「退路を断ったということかな?君らしいな」ハンスは暫くの間、黙ってミクの顔を見つめていたが、やがて満足げに頷いた。「わかった。君の申し出を受け入れよう。快くとは言えないが、僕の最も優先する願いのためだ、やむを得ない。そしてそういうことなら、役目を終えた僕のお守りは、回収しておいた方がいいのだろうか?」
 ミクはポケットから小さな箱をとりだした。そして両手でそれをそっと包み込むとハンスの方に差しだした。ハンスはその箱を受け取る。
「ありがとうございました」ミクは深く頭を下げた。
 ハンスはその日本式の礼に戸惑っていたが、やがて思い出したように「頭を上げてくれ、ミク」と言った。頭を上げたミクは滲んだ涙を両手でぬぐった。
「役に立ってよかった・・・」ハンスは努めて明るく言った。「だが、そのヴィンデミアトリックス家のお嬢さんと知り合いだったのは幸運だったね」



『ヴィンデミアトリックス!』ヤスミンは声をあげそうになって思わず口元を抑えた。『お嬢さんって、エムのこと?』ヤスミンの耳は益々感度を上げる。



「本当に偶然なんです。でも、わたしが日本を飛び出すきっかけを作ってくれたし、今度は声を守ってくれたし、人生の恩人です」
「それは言えるかもしれないな」
「でも、そんなことを言うと怒るんですよ」
「エムらしいな・・・」ハンスは遠い目で言った。



『やっぱりエムのことだ!』ヤスミンは思わぬ偶然に驚きながら、その気配を押さえ込んだ。



「ご存じなんですか?」
「実は僕が学生の時、ヴィンデミアトリックス家の創設した奨学金を受けたんだ。だからその財団の理事だった彼女には何度かあったことがある。綺麗な人だった。だから彼女に、エムに憧れのような物を抱いていた。いや、それ以上だったかもしれない。だから、君がそのエムの知り合いだと聞いて驚いたんだ」
「そうだったんですか」ミクは驚いた表情で言った。
「ところでミク、あとどれぐらい療養が必要なんだ?」
「はい、経過次第ですが、概ね3か月位は歌えません」
「じゃぁ、そのスケジュールで次の公演を予定しよう。演目について打ち合わせをしたいんだが、これから夕食でも取りながらどうかな?」ハンスはおどけた感じで片目をつぶった。
「はい、問題ありません」ミクは生真面目に答えた。
 2人は立ち上がると身支度を整え始めた。



 ヤスミンは慌てて彼らに背を向けた。この状況で自分の耳たぶがだんだん大きくなって、彼らの方を向いて行くのを阻止するのは難しかった。『だって、聞こえてしまうんだもの』ヤスミンは心の中で自分の好奇心に対して言い訳をした。
 そしてこの世界が思ったよりも狭い事に驚いていた。「こんな所にもエムがかかわってるんだ・・・」と今度は小さく口にした。
 2人はレジの前で支払いに関して揉めているようだったが、結局ここはミクが支払うことで落ち着いたようだった。
 支払いを終えてからハンスが冗談を言ったのだろう、2人は少しの間笑い合ってから店を出て、マクシミリアン博物館の方へ並んで歩き始めた。
「あ!遅れちゃう」ペルラッハ塔の時計を見たヤスミンはあわてて身支度を始めた。

2016.02.29
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常・カーテンコール・ジョゼ

 拍手が鳴りやまない。
 スタンディングオベーションに巻き込まれ、観客席の真ん中で立ち上がっていたジョゼは、長時間の拍手に手の痺れを感じ始めていた。
 舞台の幕が上がる。これで5度目のカーテンコールだ。舞台にはたくさんのキャストが両手を繋いで並んでいて一斉にお辞儀をした。彼らが二手に分かれて舞台の後ろに下がると、今度はメインキャストが次々と登場し、にこやかに愛想良くお辞儀を繰り返す。
 大波が押し寄せるように拍手が大きくなった。タイトルロールだ。小柄な女性が生真面目な顔で登場すると、大きな歓声と声援が加わる。彼女は舞台の中央に立ち、それに答えて弾けるような笑顔を見せた。あの悲壮なエンディングからはとても想像できない笑顔だ。ジョゼはこれまでに彼女のこんな笑顔を見たことがない。濃いメイクと亜麻色の長い髪はよけいに彼女を別人のように見せる。『あれは本当にミクなのか?』拍手を続けながらジョゼは自分に問いかけていた。
 拍手がまた大きくなる。オーケストラボックスにスポットライトが当たり指揮者が紹介された。そしてやや遠慮気味にスーツ姿の男性が舞台に上がってきた。このオペラの演出家だ。たしかハンス・ガイテルという名前だったはずだ。紹介を受けながら舞台中央に進み、ミクをしっかりと抱きしめた。そしてミクの頬に唇を触れさせる。最初は驚いたような様子だったミクも抱擁を返した。どよめきが湧きあがる。2人並んで手を繋いで優雅に頭を下げると、更なる歓声と拍手が2人を包み込む。
 観客席の照明が点いた。
 居並んだキャスト全員が笑顔でお辞儀をすると幕が下りてきた。まだしばらくの間は拍手が続いたが、後ろの方の観客から少しずつ席を立ち始め、カーテンコールは終了した。
 ジョゼは放心状態だった。たまに練習しているのを聞いていたから、ミクの歌声は知っている。とても素晴らしい声だというのも分かっている。そのつもりだった。だけど舞台の上のミクは全く違っていた。その歌声と演技は、ジョゼの知っているミクとは全く違っていた。
アッという間にオペラの世界に引き込まれ感動させられた。そして繰り返されるカーテンコール。送られる熱狂的な拍手、歓声、そして声援。
『あれは本当にミクなのか?』ジョゼは頭の中でもう一度繰り返した。

 一度舞台を見に来てほしい。ミクにそう言われたのはポルト近郊の運河の町、アヴェイロまでドライブに出かけた帰り道だった。アヴェイロで買ったお菓子、オヴォシュ・モレーシュをお互いの口元に運びながらドライブしていた時、ミクが突然そう言ったのだ。幸せな気分でいっぱいだったジョゼは二つ返事で「いいよ」と言ったが、言ってしまってから少し後悔した。
 ジョゼはオペラの舞台を実際に見たことはない。ミクの練習に付き合って歌を聞いた事はあったし、ミクが一生懸命練習しているオペラのDVDを借りてきて、食事の合間に“ながら見”をしたこともあった。だが、演劇として構成された実物を生で見たことはない。だからちゃんと理解できるか心配になったのだ。それにミクの出演する舞台を見に行くとなると、多分ドイツまで行かなくちゃならない。お金は何とかなると思うが、そんなに休暇を取ることができるのかも心配だった。
「飛行機と舞台のチケットは予定が決まったら送るね。ホテルはもったいないから、あたしのアパートに泊まったらいいよ」何気ない様子でミクが続ける。
「え?姉貴のアパート?」また姉貴と呼んでしまったと思ったが今はそんな場合じゃない。姉貴のアパートだって?
「だって、もったいないじゃない。ミュンヘンのホテルってやっぱり高いよ。遠慮しなくていいよ」
「でも!でもさ・・・」ジョゼの心は舞い上がったまま降りてこない。
「じゃぁ、それで決まりね。スケジュールが決まったらなるべく早めに連絡する。休暇も取らなくちゃいけないでしょ?」ミクはさっさと段取りを決めてしまった。
「チケット代はちゃんと払うから・・・」ジョゼはようやくそれだけを口にしたが「だめ、年上の言うことは黙って聞きなさい」とミクが一口かじったオヴォシュ・モレーシュを口に突っ込まれてしまった。
 予定が決まったとチケットが送られてきたのは2カ月前の事だった。あらかじめ根回しをしておいたから休暇は上手く取れた。上司の巧みな誘導尋問で女がらみだということがばれていたので、上手く取り計らってくれたのだ。暫くは休みが無くなるぞ、という脅しが付いていたが。

 ふと我に返ると、客席にはもうほとんど人が居なくなっている。
 ジョゼは大きくため息をついた。あらかじめミクと決めておいた予定では、舞台がはねたら楽屋を訪れることになっている。ジョゼはゆっくりと座席の間を移動し、清掃を始めたスタッフの邪魔にならないように通路を後方に進む。そしてロビーへ出たところで右手に向かい、楽屋の入口を目指す。ロビーの突き当たりのドアは開いていて、たくさんの人が集まっているのが見える。ジョゼは楽屋へ入ろうとその人だかりに近づいた。
「楽屋へ入りたいんですが」ジョゼは手近に居た1人の男に声をかけた。
「見たらわかるだろ?ちょっと無理だな。観客と取材の記者達でいっぱいだ」その男は答えた。
「なんの取材ですか?」
「エストラーダ女史に会いたいんだろう。俺も取材をしなきゃならないんだが、ちょっと出遅れちまってね。こりゃ、コメントは取れそうもないなぁ」
「そんなに人気なんですか?」
「まぁな。このところちょっと話題の人だ。最初は地方の小さい劇場で少し話題になっただけだったし、そのあと喉をやられて休養してしまったし、それでお終いになると思っていたんだ。才能があっても努力をしても、喉をやられてお終いになる歌い手はたくさんいるからな。彼女は腕の良い医者に出会えてラッキーだったと思うよ」
 ジョゼは絵夢の顔を思い浮かべた。絵夢のヴィンデミアトリックス家やローマの由緒ある名家がこの話には絡んでいるようなのだが、ここでそれを喋るわけにはいかない。
 男は話を続ける。「それにしても回復してからが凄かったな。大ブレークだよ。完全に予想外で、おかげで出遅れちまった。ガイテル氏のコメントでも取れればいいんだが・・・」男は口をへの字に曲げ、両手を横に広げた。
「ガイテル氏って演出家のですか?」
「ああ、奴がエストラーダ女史の才能を見出したんだからな。いい仲だって噂もあるしな・・・」
「いい仲?」ジョゼの口は半開きになった。
「気になるかい?噂だよ、噂」男はニヤリとした。

 ジョゼは背を伸ばして廊下の奥の方を見た。奥の方が騒がしくなったのだ。
「お!ガイテル氏だ。なにか話してくれそうだな」男は慌てて廊下の奥に向かって突進していった。
 ジョゼはそのままの姿勢で男を見送っていたが、現れたガイテルが記者や観客に取り囲まれ、笑顔で話し始めるとクルリと向きを変えた。
 そして、そのまままっすぐ進んで出口に向かい劇場の前の階段を下った。ジョゼの頭の中には舞台の中央に立つミクの姿が浮かび上がる。
 ミクの演技は素晴らしかった。舞台ではまるでそこにだけ光が当たったように存在感があった。オペラの経験の無い自分が、あの物語の世界に引きずり込まれたのは、ミクを応援する気持ちがそうさせただけじゃない。ミクの持つ歌唱力と演技力、それが掛け値無く素晴らしかったからだ。あんなに光り輝くミクは見たことが無い。そしてあのカーテンコール、観客はとても興奮していた。きっといい評価が与えられたんだろう。ガイテルとのコンビはとても相性がいいみたいだ。ミクがあんな風な笑顔を見せるのは初めて見た。そしてこのコンビでこれからも公演を成功させていくんだろう。
 ジョゼの頭の中にあの抱擁シーンが繰り返される。ミクの頭でキラキラ輝いていたトパーズの並んだヘアピンが思い出される。
 ジョゼは当てもなく通りを歩いて行く。
 と、ジョゼの携帯のバイブレーションが着信を知らせた。
 ジョゼは歩みを止めポケットから携帯を引っ張り出す。ミクだ。心配してかけてきたんだろう。ジョゼは電話に出ず、携帯をまたポケットにしまう。バイブレーションは暫く続いていたがやがて止んだ。ジョゼはもう一度携帯を取り出して電源を切った。

***

2016.07.27
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常・カーテンコール・ミク

 拍手が鳴りやまない。
 ほとんどの観客が立ち上がっている。スタンディングオベーションだ。
 カーテンコールは5回目になった。
 歓声と声援が頭の中にこだまする。沸き立つような興奮が感動になり、自分が自然と笑顔になるのがわかる。最高の瞬間だ。だがこんなことが自分の身に起こるなんてとても信じられない。ミクは舞い上がる自分とは別に、冷静に見届けようとするもう1人の自分の存在を感じていた。もっともこの冷静な人格は今のところ、自分自身の体を操ることはできないようだ。

 舞台の中央に立っていたミクは頭を深く下げた。拍手はいっそう大きくなる。ミクは頭を上げる一瞬の隙をついてジョゼの姿を探そうとした。だが照明の関係で客席は暗くてよく見えない。カーテンコールの間なら少しは探すことができると思っていたが、この興奮の中ではやはり無理だ。楽屋でゆっくり話をしよう・・・ミクは気持ちを切り替えた。
 オーケストラピットにスポットライトが当たり指揮者が紹介される。そして紹介のアナウンスと共に、スーツ姿の男がやや遠慮がちに舞台に現れた。このオペラの演出家、ハンス・ガイテルだ。ここまで4回行われたカーテンコールでは舞台に立たなかったのだが、5回目にして初めての登場だ。大波のように盛り上がる拍手の中、舞台中央に立っているミクに近づいてくる。彼はそのままミクをしっかりと抱きしめ両頬に唇を触れさせた。ミクは驚いたが、興奮がすべての感情を上書きし、まるで夢の中の出来事のようだ。浮遊感の中でミクはハンスの背中に手を回し抱擁を返す。どよめきが湧き起こる。2人並んで手を繋いで正面に向き直り優雅に頭を下げると、更なる歓声と拍手が2人を包み込む。ミクは達成感に我を忘れた。
 観客席の照明が点いた瞬間、ジョゼの顔が見えた様な気がしたが、すぐに焦点が外れ見失った。
 居並んだキャスト全員と共に笑顔でお辞儀をするとカーテンコールの幕は閉じた。

 ガイテルは本当に嬉しそうだった。カーテンコールが終わってからもずっと喋りづめだ。話はどんどん膨らんで、次の公演のプログラムにまでおよんでいく。幾つかの候補を挙げられて意見を求められたが、今の舞台の興奮も冷めやらないミクには無理な相談だった。
「ごめんなさい・・・今はちょっとそこまで考えられない」ミクはガイテルを見上げながら困惑した表情をした。
「そうだね。すまない。僕がちょっと先走り過ぎた。次々とアイデアが浮かんでくるんでね。また日を改めるよ」ガイテルはもう一度ミクを抱きしめようとしたが、その瞬間ミクがわずかに距離を開けた事に気が付くと笑顔を見せ、右手を軽く上げてから自分の部屋の方へ歩き去った。ミクはガイテルに向かって暫くの間頭を下げていたが、やがて楽屋に与えられた自分の部屋に向かった。
 ミクは部屋に入るとソファーの上に身を投げ出した。まだ心臓がドキドキしている。天井に顔を向けて両腕を目の上に重ね、視野を暗くして大きく息を吐き出す。興奮が治まらない。体が火照っている。こんなにハイになるんだ・・・ミクは自分の中に秘められた情熱に驚いていた。
 流れる時間に身をまかせて上を向いていると、やがて冷静な自分が体の中へ降りてくる。そしてその自分が徐々に体を操れるようになっていく。ミクの興奮は少しずつ治まり始めていた。

 コンコン・・・ドアがノックされた。廊下は騒がしいから聞こえ辛かったが確かにノックの音だ。
 ミクはソファーから飛び起き、「ジョゼ?」ドアに向かって声をかけた。
「私です。絵夢です」ドアの外から声がする。
「絵夢!?」ミクは飛び上がるようにソファーから起き上がるとドアを開けた。
「ミク!」ドアを開けたとたん絵夢が飛び込んできた。そしてそのままミクを抱きしめると「素敵だったよ」と言った。
「ありがとう」ミクも絵夢の体に手を回して答えた。
 絵夢は暫くの間ミクの存在を確認するように抱擁を続けてから、両肩に手を置いて体を離した。
「待ちきれなくて来ちゃった」絵夢はミクの目をじっと見つめて微笑んだ。
「この公演には来れないって・・・」ミクは驚きを隠せない。
「だから、待ちきれなくって無理やりスケジュール変更をねじ込んだの。黒磯と山本には怒られたけどいつもの事ね。なんとかしてくれたわ」
「そんな・・・」また無理をさせてしまった?ミクの言葉は続かない。
「大丈夫、ちゃんと穴埋めはできるから。心配しなくていい」絵夢は視線を強くしてミクの顔を覗きこんだ。「そんなことより喉の調子はどう?」
「大丈夫、調子はとてもいいの。気を使わずに歌えるのが、こんなに素晴らしい事だなんて、いままで思いもしなかった」
「よかった」絵夢は顔を緩めた。「歌声にもそれが表れていたわ。あなたはとても素敵だった。歌も演技もとても輝いていた」
「絵夢のおかげだよ」
「ううん。そんなことはない。あなたの実力よ。私はちょっと手伝っただけ」
「でも、絵夢に助けてもらわなかったら・・・」
「そんなことを考えなくていい。私はあなたが活躍出来てとても嬉しい。こんなこと言ったらなんだけど、あなたは私が想像していたよりずっと豊かな才能を持っている。だからあなたの復活を手伝うことが出来てよかった。本当にそう思ってる。それにこれは私の仕事でもあるの。だからそんなこと、考えなくていい」
「でも・・・」
「考えなくていいの!」絵夢の視線はいっそう強くなった。
「うん・・・」ミクは不承不承返事をした。
 それを感じたのか絵夢はもう一度ミクをしっかりと抱きしめた。
「来てくれてありがとう」ミクは絵夢の耳元で言った。
「どういたしまして」絵夢は優しく答えてから急に話題を変えた。「さっき、ジョゼって言ったわよね?」
「・・・」ミクの顔は少し赤くなる。
「公演に招待したの?」
「うん。今日の舞台を見せたの。舞台がはねたらここを尋ねてくることになってるんだけど」
「だけど?」絵夢はミクの顔を覗きこんだ。
「まだやってこない」ミクは仕方が無いという風に答えた。
「そう」絵夢は少しの間思案するように間を開けた。
「どうしたの?」ミクは心配になって聞いた。
「ということは、私はお邪魔ってわけね」
「そんな、邪魔だなんて」
「でもそろそろ退散するわ。ミクの舞台はたっぷり見せてもらったし、こうして話もできたから少し安心できた。それに、実は今日は無理を言ったからそんなに時間が無いの。会えて嬉しかった。次の公演を楽しみにしているわね」
「もう帰るの?」
「ええ、あらためて時間を作ります。その時にゆっくり話しましょう。ジョゼと2人でどんな話をしたのかもね」
「・・・」ミクの顔はまたいっそう赤くなった。
「でもねミク。ジョゼとはちゃんと話をしなくちゃだめよ。黙っていては何も通じない。だってあなたたちは女と男なんだから。探し物はじっとしていても出てこないのよ。わかった?」絵夢はミクがちゃんと頷くのを見届けると慌ただしく部屋を出た。廊下では女性が待っていて(たしかこの間紹介された時、香澄と名乗ったはずだ)こちらに向かって笑顔で挨拶をした。
「じゃあまたね」絵夢が片手をあげた。
「ありがとう」ミクも片手をあげて応じる。
 絵夢は何度か振り返りながら帰って行った。
 ミクは手を振ってその様子を見送っていたが、記者たちが廊下に入ってこようとしているのを見てドアを閉じた。

 ドアの外が騒がしい。きっと廊下では記者たちが待機しているのだろう。さっきスタッフがやって来て、記者たちが話を聞きたがっているから何かコメントをと言われたのだが、今は話したくないと返事をした。なんとかなだめてくれているようだが廊下の喧騒は収まりそうにない。
 ジョゼはまだやってこない。
 スタッフには話してあるから中へは入れるはずだが、入りにくいのかな?ミクはポシェットから携帯を取り出し、通話アプリを起動した。
 呼び出し音が鳴り続ける。ミクは20を数えたところで呼び出しをやめた。
 少し待ってリダイアルする。今度は電源が切られている旨を告げるメッセージが流れる。
 ミクはまたソファーに身を投げ出すと、不安げに天井を見上げた。


 ***

2016.08.05
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(AIRPORT EXPRESS)

AIRPORT EXPRESS

 出発ロビーではチェックインを促すアナウンスが繰り返されている。
 空港で夜を明かしたジョゼは、チケットを予定の便から朝一番の便に変更していた。少しでも早くここを離れて気持ちを整理したかったのだ。思考はグルグルと同じところを回り続け、結論は出なかった。だがいつまでもこんな状態を続けるわけにはいかない。それに無理を言って仕事に穴をあけているから、明日の勤務を休んだらクビになってしまう。
 ジョゼは横に置いていたショルダーバッグを肩にかけ、ソファーから立ち上がると、視線を下げたまま手荷物検査場へ急いだ。
 と、ジョゼは誰かにぶつかりそうになって慌てて足を止めた。目の前には腰に手を当てて、両足を肩の広さに広げた髪の短い女性が立っている。
「あんた、いったい、何やってるのよ」出発ロビーにポルトガル語が響き渡る。
「姉貴!」ジョゼは驚いて声を上げた。
 ミクはそう呼ばれて少し顔を歪めたが「心配するじゃない!連絡も取れないし・・・」と少し涙目になり、腰に当てていた手を下ろした。
「でもどうして・・・」ジョゼは早朝便なら顔を合わせずに飛び立てると踏んでいた。今の状態でミクと顔を合わせたくなかったのだ。
「今日一日ポルトガル行の出発ロビーを見張っているつもりだった」
「一日!」舞台がはねたばかりで疲れているだろうに・・・ジョゼは申し訳ない気持ちでいっぱいになって「ごめん」と素直に謝った。
「楽屋でずっと待ってたんだよ。それからアパートでも」
「ごめん・・・」ジョゼは謝罪を繰り返した。
「あたしの舞台、見てくれたんでしょ?」
「うん、素晴らしかった。あんなに凄いって正直思ってなかった」
「ありがとう」ミクはとりあえず礼を言った。
「お客さんの反応ももの凄くて、スタンディングオベーションの中はまるで異次元の世界だった」
「そう・・・」ミクの顔は少し緩んだ。
「うん、でも・・・」ジョゼは言葉を躊躇った。「僕はカフェのしがないウェイターだ。収入だって自分が食っていくのがやっとなんだ。そんな僕と、あの歓声の中に居て、これから世界に向けて飛び立とうとしているミクとが同じ場所に居ても許されるんだろうか、僕らは棲む世界が違っているんじゃないか・・・そんなふうに思えたんだ」
「怒るよ・・・あたしはここにいる」ミクはまた腰に手を当てて睨みつける。
「ごめん・・・」ジョゼはもう一度謝った。
「あたしとあんたは同じ世界にいる」ミクはかまわず話を続ける。「そりゃぁ、舞台に出してもらえるなら世界中どこへだって行くよ。でもね、ちゃんと戻ってくる。だってあたしには帰りたい家があるんだもの」
「ポルトの家のこと?」
「今はそう」
「今は?」
「そう、今はね。でもポルトに来るまではあたしに帰りたい家なんて無かったの。だから帰りたい家があるってことは、あたしにとって凄く大切な事なの」ミクは腰に当てていた手を下ろした。
「どういうこと?」ジョゼはポルトへやってくる前のミクについて、詳しくは聞いたことがなかった。
 ミクは手近のソファーに腰を下ろし隣の席を手で示した。
「ジョゼだけにはきちんと話しておくね」
 僕だけには・・・?ジョゼはミクの隣に腰を下ろし、話の続きを待った。
「おばあさまはね、日本の有力な一族の出で、その当主の一人娘だったの」
「メイコが?」ミクは何を話そうとしているんだろう?ジョゼは目をしばたたいた。
「そう。そして、おばあさまはその当主の望まない恋をしたの。もちろんその恋は叩きつぶされそうになったわ。でもね、おばあさまは負けなかった。恋人と2人ポルトへ駆け落ちしたの」
「駆け落ち・・・」あのメイコが、ジョゼは驚いた。
「おじいさまはポルトの人間だったから2人でポルトへやって来たの」
「その恋人がエストレーラ?」ジョゼはミクがメイコの養子になった時に引き継いだ名字を言った。
「そう。ミゲル・エストレーラというのがおじいさまの名前」
「じゃ、ミクは4分の1はポルトガル人の血が入ってるんだ」ジョゼはミクについて何も知らないことを思い知った。
「そういうことね」ミクは何でも無いことのようにそれを肯定した。
 メイコとミクの印象が何となく違っていたのはその血のせいだったんだ。ジョゼはようやく合点がいった。ミクに出会った頃からずっと持っていた印象だった。メイコは一目で東洋人とわかるが、ミクはそうではなかったのだ。
「そして母が生まれたんだけど・・・母が生まれてしばらくしておじいさまが無くなったの」
「そんな」
「ちょうど同じ時期に日本のおばあさまの実家では後継者争いが起こっていて、当主は一人娘のおばあさまを失って窮地に陥っていたの。だから、あらゆる手段を使っておばあさまから母を奪い取ったの」
「酷いな」ジョゼは改めてメイコの穏やかな顔を思い浮かべていた。とてもそんな人生を歩んできたようには見えない。
「母はね」ミクは話を続ける。「あたしの母はね、日本でおばあさまを知らないまま何不自由なく育って、当主の望む人と結婚して、あたしを生んで、母もあたしも見かけの上では幸せな生活を送っていたの」
 ミクは話を続ける。「今から思えは日本での生活はとても裕福なものだった。でもあたしはずっと疎外感を感じていて、母以外の家族やお屋敷の使用人たちとも打ち解けることはなかったわ。そこは帰りたい家じゃ無かったの。そしてあたしが小学校に上がる頃、今度はその当主が亡くなったの。そうしたらまた後継者争いが始まって、結局あたしの叔父に当たる人が当主を継ぐことになったの」
 ジョゼは無言で続きを促した。
「日が陰るようにあっというまに世間は暗くなって、誰にも相手にされなくなったわ。それは幼かったあたしにもはっきりと感じられた。いろんな噂が立って学校でもいじめられるようになったわ。あたし、声が高いでしょ?それをからかわれて。髪も長く伸ばしていたからそれもね。いつも引っ張られてたんだ。グイってね」ミクは首を後ろにそらす動作をした。「でも絶対に短くしなかったの。だから余計にね」ミクは自嘲気味に唇を曲げた。「そんな頃に母は自分の出生の真実を知ることになって、おばあさまを探し始めたの。でも見つかるまでには長い時間が必要だった。居場所がわかった時には母は重い病気になっていて、連絡を取る事も出来ないまま亡くなってしまったの。ずっとプレッシャーの中で生きてきた人だったから、体や心が壊れてしまったのね。帰りたくなる家を持っていなかったあたしはただ一人の味方も失ってしまったの。この世界に心休まる場所が無い。それはとてもつらい事だった・・・だから、あたしはどうしてもおばあさまに会いたくなって手紙を送ったの」
「そこで絵夢が出てくるのか?」ジョゼはこの部分の事情は聞いたことがあった。
「そう、前にも話したけど、絵夢がおばあさまとあたしを会わせてくれたのよ。そのおかげであたしは日本を離れてポルトへ来ることができたの」ミクは遠い目をした。「ポルトは素晴らしい所だった。いままであたしを押さえつけていた重しが、全部取れたように思えた。帰りたくなる本当の家が出来て嬉しかった。だってこれまでそんなもの、持ったことが無かったんだもの。友達もできたし、あんたとも出会えた」ミクはジョゼに肩を寄せた。
「そしてオペラにも出会えた。もしそうなっていなかったら、あたしはきっと生きていなかったと思う」
「ミク・・・」ジョゼは気遣わしげにミクを見た。
「だからあたしの命は絵夢やおばあさまや、ポルトのみんな、そしてあんた、ジョゼにもらったようなものなの」
ミクは覚悟を決めたようにジョゼの顔を見上げた。瞳は大きく見開かれ、口は横一文字に引き結ばれている。「あたしにとってジョゼの仕事とか収入とか、そんなことどうだっていいの。あたしはジョゼのことが好きなんだから」
 ジョゼの口は半分開かれたままだ。なにか言葉を発しようと小刻みに震えている。好き?今確かにそう言ったよな?いきなりの展開にジョゼは混乱した。
 ミクは言葉を続けた。「たぶんジョゼがガイアのワインセラーで山本さんに飛びかかった瞬間から、ズーッと」
「いや・・・だから・・・」それは姉弟として?それとも・・・ジョゼの頭には小学生の頃の少し苦い記憶が蘇る。
「・・・」ジョゼの口は半開きのままだ。
 その時、ジョゼが乗る便のファイナルコールが告げられた。
 ミクは出発便モニターの方へ顔を向けた。
 ジョゼも同じ方を向いた。
「乗らなきゃ」ジョゼは体を離した。「明日からの仕事を抜けるわけにはいかないんだ。もう便の変更はできないし」自分ではない誰かがどこかで喋っている。僕は何を言ってるんだ・・・ジョゼには自分の声がまるで他人の声のように聞こえていた。
 チケットは運賃を無駄にすればキャンセルすることもできる。そして改めて別の便のチケットを買うこともできる。そうすればあと数時間はミクと一緒に過ごすことができるし、ミクの考えもちゃんと聞けるだろう。でもそうするには新たにお金が必要になる。ジョゼの財布にそんな余裕は無いから、たぶんそのお金はミクが出すことになる。そんなことはとてもできない。ジョゼはそう考えた。
「うん」ミクは頷いたが、チケットの件には触れない。
 もう一度ファイナルコールが告げられる。
 2人は立ち上がり、並んで手荷物検査場へ急いだ。
「行くよ」検査場の入口でジョゼが言った。
「うん、いってらっしゃい」ミクは軽く手を上げた。
 ジョゼはロープで区切られた検査場の通路に入った。後ろ髪をひかれるような思いだが、なんとか振り返らずに通路を進む。
「急いでください」係員がせき立てる。
「なるべく早くポルトに帰るから」ミクがジョゼに声をかけた。
 ジョゼは振り返ってミクの方を見た。
「わかった。待っているよ」やはりジョゼには自分の声がまるで他人の声のように聞こえている。
 ジョゼはゲートをくぐった。

***

 その時、ジョゼが乗る便のファイナルコールが告げられた。
 まるで張り詰めた緊張の糸がフツリと切れたような気がして、ミクは出発便モニターの方へ顔を向けた。
 ジョゼも同じ方を向いた。
「乗らなきゃ」ジョゼが体を離す。「明日からの仕事を抜けるわけにはいかないんだ。もう便の変更はできないし」淡々とした調子でジョゼは喋る。
 チケットは運賃を無駄にすれはキャンセルすることもできる。そして改めて別の便のチケットを買えばいい。そうすれば数時間はジョゼと一緒に過ごすことができる。でもミクはその提案をしないことにした。もしそうすれば新たにお金が必要になるし、そのお金は多分自分が出すことになる。今そんな提案は止めておいた方がいい。ミクはそう考えた。
「うん」ミクは頷いた。
 もう一度ファイナルコールが告げられる。
 2人は立ち上がり、並んで手荷物検査場へ急いだ。
「行くよ」ジョゼが確認するように言った。
 さっき自分の思いはジョゼにはっきりと伝えた。自分たちは普通のカップルにはなれない。あたしがこの仕事を選んだせいで、一緒に過ごすより遠く離れている時間の方が長くなるだろう。おまけに、あたしは6つも年上だ。彼には他の選択肢も含めて考える時間が必要なのかもしれない。
『行かないで』その一言はミクの口元で別の言葉に変わった。
「うん、いってらっしゃい」ミクは軽く手を上げた。
 ジョゼが通路の奥まですすんだ時、ミクはたまらなくなって声をかけた。「なるべく早くポルトに帰るから」
「わかった。待っているよ」ジョゼは答え、係員にせかされながらゲートをくぐった。
 ミクは暫くそのままの格好で立っていた。
『探し物はじっとしていても出てこないのよ。わかった?』絵夢の言葉が蘇る。
 でも絵夢、探してみたらよけいに分からなくなったわ・・・ミクはクルリと向きを変えて出発ロビーを後にした。


2016.08.18
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常(番外) ラス・メニーナス

Stella/s月刊Stella 2016 12月2017年1月合併号掲載作品

 プラド美術館は大勢の人でごった返している。
 特にこの展示室に掲げられた「ラス・メニーナス」の前は、世界的な名画を一目見ようとする人々で立錐の余地もない。僕の背は低い方ではないが、欧州の人々は総じて背が高めで横幅も大きいから、絵の全体像を眺める事は困難だ。
 僕は鑑賞を終えた人が立ち去るたびに少しずつ前方へと移動し、ようやく人々の肩越しに絵の全体像が見える位置にまで移動した。
 絵のサイズは125 in × 109 inだが、その存在感は圧倒的で、データよりずっと大きく見える。
 舞台はフェリペ4世のマドリッド宮殿の大きな一室だ。ベラスケスはその並外れた描写力で、宮廷に住まう人々の様子を、まるでスナップ写真のように瞬間的に切り取っている。
 描かれた人物達は、ある者はカンバスの中からこちらに視線を向け、ある者は意図する動作を行っている。人々の輪の中央には幼いマルガリータ王女が立ち、その白い顔とドレス、金色の髪は、光に浮かび上がる人々の中でも、いっそうの輝きを放っている。
 背後には、大きなカンバスに向かうベラスケス自身が、やや控えめに描かれているが、彼もまたカンバスの中からこちらに視線を向け、まるで鑑賞者である僕を見ているようにも見える。背景の鏡には王と王妃の上半身が小さく映っていることから、王と王妃は絵の外、つまり僕の立ち位置と同じ場所に立っていて、ベラスケスはこの2人の肖像を描いているというのが、この絵の構図に対する一般的な考え方だ。

「見えないんだけど・・・」後ろで女性の声が聞こえた。それはスペイン語ではなく英語だった。
 僕は反射的に振り返ったが、男ばかりで声の主は見当たらない。僕はまた前を向いて、さらに前進すべく空間が開くのを待った。
「ねえあなた。見えないのよ」また後ろで女性の声が聞こえる。僕はまた振り返った。
「何とかしてくださらないかしら?」声は下から聞こえてくる。僕は背後にある人と人との隙間を覗き込んだ。
 そこには黒い髪の少女が埋まっていた。てっぺんに結ばれた赤いリボンが印象的だ。
「こんな所からじゃ鑑賞どころではないわ。考えられないくらい酷い境遇だわ」少女は少し気取った声でそう言ったが、僕が上から覗いているのに気が付くと小さな白い顔に微笑みを浮かべた。その幼い笑顔と大人びた喋り方は、僕に奇妙な親切心を起こさせた。
「お待ちください」僕は笑顔になってそう声をかけると少女に背を向け「すみません。すみません」と人々の隙間を縫って前進を始めた。振り返って確認すると少女は僕の後についてゆっくりと前進している。やがて人垣は無くなって、僕は最前列に到達した。そこから先はロープが張られていて前には進めなかったが、僕は少女の両肩をそっとつかみ、体を入れ替えるように彼女を前に押し出した。6歳くらいだろうか?肩の上でオカッパにした真っ直ぐな黒髪に赤いリボン、ほっそりとした体にブルーのワンピースを着て、淡いクリーム色のカーディガンを羽織っている。明らかに東洋人だが、どことなく絵の中のマルガリータの雰囲気を漂わせている。
 少女は首を後ろにまげて利発そうな大きな黒い瞳で僕を観察していたが、どうやら合格判定だったらしい。「あなたは中国の方?」と質問してきた。
「いや」僕は小さく首を横に振ると「日本人ですよ」と答えた。
「そうなの」少女はここまでを英語で話してから「どうもありがとう」と日本語で礼を言った。
「どういたしまして、あなたも日本人ですね」僕が日本語で確認を取ると、少女は小さく頷いた。
「さあ、せっかくですから絵を鑑賞されてはいかがですか?」僕は畏まった口調で言った。
「そうね。では、遠慮なく」少女はそのまま絵の方に向き直った。
「う~ん」少女は人差し指を少し曲げて唇の下に添えてじっと絵の方を見上げていたが、やがて「可哀そうな王女様・・・」と呟くと黙り込んでしまった。
「どうしてそう思うんですか?」僕は少女の頭の上から質問した。
「だって、お友達が無さそうなんですもの。周りに何人も人が居るけれど誰もお友達になりそうにないわ。それにこの顔、とてもつまらなさそうに見える。
こんな薄暗い部屋で、こんな人たちに囲まれて、いい事なんて一つもないわ。だから可哀そう。そう思ったの」
「この人は王女ですよ。だから不自由なんて何一つない贅沢な生活を送っていると思うんですが?」
「そうかしら?とてもそんなふうには見えないわ」
 少女はまた黙り込んでしまった。
「この時代、宮殿を一歩出るだけで、飢えや病気、略奪や戦争という名前の悪魔や妖怪がそこらじゅうを歩き回っているんです。それに比べれば宮殿の中はどれだけ守られている事か・・・」
「でも・・・」
「そんなふうに思うのは、あなたがそうだからですか?」僕は上から覗き込むようにして質問した。
 少女は短い判断の時間をおいて「少し前まではそうだったの・・・」と答えた。
「今は違っているのですか?」
 少女は首を回して僕を見上げた。今は違っている・・・少女の顔はそう告げている。
「ねえあなた。今度は少し離れて絵の全体を見てみたいわ」信頼しきったような表情でそう言われると、とても逆らうことはできない。
 僕は後方を見渡したが、絵の前は人でいっぱいだ。後ろに下がると背の低い彼女は絵の全体を見ることはできない。思案の末最前列を明け渡して少し後方に下がった僕は、少女の腰を持って彼女を左肩の上に抱き挙げた。
「キャッ」少女は小さく悲鳴をあげて、僕の肩の上にフワリと乗った。まるで小鳥のように軽い。彼女の頭は観衆の上に飛び出したが、係員が咎める様子は無い。
「どうぞ、ごゆっくりご覧ください」僕は肩に乗った少女に声をかけた。
「ありがとう」少女は僕の方を向いて丁寧に礼を言うと静かに絵を眺め始めた。僕らの行動に驚いたのだろうか、観衆は一歩ずつ引いて、僕らの周りには空間が出現していた。
「もう結構です。下ろしてくださるかしら」やがて満足したのか彼女は言った。
 僕は人ごみを離れ、彼女をそっと床に下ろした。
「どうもありがとう。おかげさまで存分に絵を鑑賞することができました」
「それはよかった。離れて鑑賞して印象は変わりましたか?」
「印象は変わりません」少女はきっぱりと宣言してから続けた。「でも描かれている人の気持ちや描かれた時代の事を色々と想像できて、とても素敵な絵だと思うわ」彼女は満足そうに言った。
「それだけこれを描いたベラスケスの表現力が素晴らしい、ということですか?」僕は少女の目の高さに合わせてしゃがみこんだ。
「そうね。とても上手」少女はまた小さく頷いた。
「次は何を見るつもりですか?」僕は辺りを見回しながら尋ねた。
「マハがいいわ」彼女は嬉しそうに言う。
「わかりました。でもその前に・・・」僕は館内図を確認すると少女の手を取って歩き始める。
「どこへ行くの?」少女は疑問を口にしながらも素直についてくる。 
 階段を下りエントランスホールに出るとカウンターに向かって歩く。
 カウンターの前に立っていた地味な服装の女性がこちらを向いた。
「コズミ!」少女はそう叫び、僕の手を離してその女性に駆け寄った。
「エル様!」女性は膝をついて、突進してくる少女を抱きとめた。
「どこへ行ってらしたんですか?本当にもう!こういうところはお母様にそっくりですね」と少女の頭をそっとなでる。
 少女の環境を変えたのはこの女性かな?しっかりと抱きしめられている少女を見ながら、僕はそう思った。

2016.11.17
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常 貿易風(alisios) 前編

貿易風 (alisios) 前編

「ねぇ。ここはどこなのよ。ねぇ」エレクトラの声を無視してジョゼはエスカレーターを下る。「ジョゼってばぁ」
「勝手についてきたんだから文句を言うなよ。疲れたならホテルに戻れば大丈夫だから」
「冷たいこと言わないでよ。ここから1人で戻るなんて無理よ」
「だったらおとなしくついてこいよ」ジョセは歩幅をエレクトラに合わせた。
「だって、自由行動の日なんてほとんどないんだもの。せっかく食い倒れの町なんだから、一緒になにか美味しい物を食べたいじゃない」

 研修旅行はもう最終の行程に入っていて、昨日は食い倒れの町と呼ばれている大阪で一日中缶詰になって講習と実習が行われた。そして今日は久しぶりのオフで自由行動が可能な日だった。“食い倒れ”とは、飲食に金をかけ過ぎて,貧乏になるという意味で、大阪にはそれくらい美味しい物がたくさんあるということらしい。

「僕は今日は個人的な用事で出かける。しかも食には全く関係ない用事だから、とはっきりことわったはずだよ」
「だって、一緒に出掛けたかったんだもん」エレクトラは泣きそうな声を出す。
「しょうがないな」ジョゼはエレクトラが追い付くのを待った。
「ありがとう。やっぱりジョゼは優しい」泣いてしまいそうな顔は一瞬だった。エレクトラはジョゼの肘に手を通すと満面の笑みを浮かべた。
 ジョゼは一瞬顔をゆがませたが、そのまま並んで歩き始めた。
「ねぇ。私達はいったいどこにいるの?」
「池上という町だ」
「イケ・・・?」
「イケガミ、だ」
「そのイケなんとかに、ジョゼは何の用があるの?」エレクトラは体を寄せる。
「邪魔だなぁ・・・」ジョゼは顔をしかめた。
「いいじゃない」エレクトラは気にする様子もない。
 駅を出たところでジョゼは「Information」の表示を見つけ、その入り口を入った。カウンターの女性に近づき、彼が仕事で培った最高の笑顔を向ける。
「何かお困りでしょうか?」ジョゼの姿から判断したのだろう。女性は英語で話しかけてきた。
「すみません。お尋ねしたいのですが、この辺にイケウエという家は有りませんか?」ジョゼはスイス生まれなので英語も堪能だ。エレクトラは英語が苦手なのでキョトンとした顔で横に並んでいる。
「イケウエミュージアムの事でしょうか?それでしたら・・・」女性はラックからパンフレットを取り出すと行き方を説明してくれた。

 ミク・イケウエ・エストレーラ、それがミクのフルネームだ。彼女の祖母であるメイコも同じミドルネームを持っているのだが、2人ともそれを書いたり名乗ったりすることは無い。ジョゼも何かの公的な書類を見る機会があって、初めて知ったぐらいだ。その時それについて尋ねたジョゼに、ミクはメイコの旧姓だと答えた。ということは・・・ジョゼはそれがミクが日本にいた時の名字に違いないと考えていた。
 今日ジョゼはミクが生まれた場所を訪ねるつもりだった。
 ミクはほとんど日本での生活の事は話さなかったが、ミクと絵夢が宝塚の町で出会った時の話を聞いたとき、ミクがその近くの池上(イケガミ)という町に住んでいたことは聞き出していた。
 それに池上(イケウエ)という家はかなりの名士である事も分かっていたので、池上の町でその名前を出せば何らかの手がかりが得られるだろうと考えていた。だから一発で反応があった事にも、たいして驚きはしなかった。だがミュージアムというのはジョゼの予想を超えていた。

 パンフレットを受け取り礼を言うとジョゼはエレクトラを伴って「Information」を後にした。案内されたとおり駅前広場を回り込み、正面にある商店街のアーケードに入る。
 商店街の人通りはあまり多くはなく、シャッターの閉まっている店舗も多い。大型ショッピングモールの繁栄と個人商店の衰退の、まさにその典型的なモデルを見るような思いでジョゼは商店街を進んだ。
 エレクトラはジョゼの肘に手を通したまま興味深げに店の商品を眺めている。何度か歓声を上げてその度に衆目を集めたが、今のジョゼにそれにかまっている余裕は無い。
 やがて商店街が尽き、小さな交差点を抜けるとそこが目的地だった。
 それは黒い屋根瓦を乗せた巨大な和風建築だった。道路に面して入口が有って、壁に日本語の表記と並んで「IKEUE MEMORIAL MUSEUM」の文字が見える。
「いったいイケウエという家は、どれだけ大きいんだ」ジョゼは目を見張った。横でエレクトラが色々と質問してくるがそれどころじゃない。適当に受け流したジョゼは恐る恐る入口を入る。
 中は土間と呼ばれるホールになっていて、落ち着いた感じの年配の女性が笑顔で向かえてくれた。
 ジョゼも最高の笑顔で答え「このミュージアムについて説明してもらえませんか」と尋ねた。
 女性は、池上(イケウエ)家がこの池上(イケガミ)の町で代々酒造業を営んできた家である事や、このミュージアムが、伝統的な酒蔵や池上(イケウエ)家の旧屋敷の保存に加え、酒造の歴史や製法の資料、酒造に関する道具などの他に、池上家代々の当主が収拾した美術品や骨とう品の展示を目的として作られた事などを説明してくれた。
 説明は英語だったので、ジョゼはエレクトラのために要点をポルトガル語に通訳した。
「どちらからお越しですか?」その様子をじっと見ていた女性が尋ねた。
「ポルトガルからですよ」
「まぁ、遠い所からようこそお越しくださいました」女性は少し驚いた様子だったが歓迎の言葉を述べた。
 ミュージアムはそんなに大きな物ではなかったので、屋敷の畳敷きの部屋を改装した展示室で絵画や骨董品を鑑賞し、縁側から日本庭園を眺め、さらに実際に使われていた大きな樽や酒造用具の並ぶ酒蔵の見学を終えるのに、思っていたほど時間はかからなかった。
 入口のホールへ戻るジョゼにエレクトラが声をかけた。
「ねぇ、私知ってるんだよ」
「何を?」ジョゼは怪訝な顔を向ける。
「どうしてここへ来たのか・・・ううん、来たかったのか」
「どういうこと?」
「六つも年上なんでしょう?」
「えっ!」ジョゼはエレクトラの思いもかけない言葉に驚いた。
「マイアが休暇で帰ってきたとき、そんな話をしてくれたことがあったんだ。ジョゼにはいい人が居るらしいよ。六つも年上らしいよ・・・って」
「マイアが?」ジョゼは立ち止まった。ホールのカウンターには先ほどの年配の女性が座っている。

 マイアというのはジョゼの同級生でエレクトラの姉だ。そういえばずっと前に出会った時、そんな話をした覚えがある。たぶんポートワインを飲み過ぎたせいだ。

「それに日本人だって・・・だから、ここは彼女に関係のある場所なんでしょ?それぐらい私にもわかってるよ」
 ジョゼは黙ってエレクトラを見つめた。
「ミクっていうんでしょ?調べちゃった」エレクトラはペロリと舌を出した。
「まいったな」ジョゼは頭をかいた。
「お取込み中すみません」カウンターの女性が申し訳なさそうに声をかけてきた。「ミクというお声が聞こえたものですから。不躾な質問で、見当違いだったらごめんなさいね。そのミクというのはイケウエ・ミク様のことなのでしょうか」


2017.01.27

貿易風 (alisios) 後編へ・・・
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絵夢の素敵な日常 貿易風(alisios) 後編

貿易風 (alisios) 後編


 ジョゼは暫くの間女性を見つめていたが、やがて大きく息を吸い込むと「ええ、そうです。でも今はミク・イケウエ・エストレーラと名乗っていますが」と答えた。
「そうですか。お元気でいらっしゃいますか?」女性の顔は不安気だ。
「ええ」
「エストレーラ?ということはご結婚を?」
「いえ、それは・・・まだ」
「お幸せでしょうか?」
「はい、あ・・・そうだと思います」
「ポルトガルへ行かれたということはお聞きしていたのですが、詳しいことが分からなくて、心配申し上げておりました。先ほどポルトガルからお見えになったとお聞きして、そして今ミク様のお名前が聞こえたものですから、つい。たいへん失礼いたしました」女性は深々と頭を下げる。
「彼女は今オペラ歌手として活躍しています。評判も上々ですし、元気にやっていますよ」
「良かった」女性の目は涙でいっぱいになった。
「あなたは?」今度はジョゼが質問を返す。
「私はミク様がお小さい頃、傍にお仕えしていた者です」そう答えた女性は少し用心深い顔になって「あなた方はミク様とはどういうご関係の方なのですか?それにどういったご用件でここへ?」と訊いた。
「え?はい、あの・・・」ジョゼは『ただの友人です』と答えるつもりだったが女性の涙を見て気が変わった。『ええぃ、ままよ!』「彼女は僕の恋人です」ジョゼは願望を口にした。
「まあ!」女性の顔は親しみを帯びた物に変わった。そしてチラリとエレクトラの方を見た。
 ジョゼもつられて横目でエレクトラを見た。エレクトラは何かを言おうと口を開きかけたが、そのまま口をつぐんでしまった。
「僕らは今日本へ研修に来ているんです。そして、こちらは研修生の友人です」ジョゼはエレクトラを紹介した。エレクトラは英語の会話についてきていなかったが愛想笑いを浮かべた。
 「今日はたまたま研修の休日で、ミクが育ったところを見ておきたくなってやって来たんです。ミクの小さい頃の事を伺ってもよろしいですか?」
「あなたはミク様から何か聞いておられますか?」女性の顔は再び警戒の色を帯びた。
「幸せな生活だったがそれは見かけだけで、実際は疎外感を感じていたと・・・帰りたい家が無かったとも・・・」ジョゼは正直に答えることにした。
「そうですか・・・」女性は申し訳なさそうな顔になったが、少なくとも警戒の色は消えた。「私共にはどうしようもなかったのです。いえ、これは言い訳ですね。私を含め大人が、なんらかの対応をしなければならなかったのです。でもなにもしなかった。出来なかった。ですから当時の事は私の胸の上に重くのしかかったままになっています。でも今、幸せにやってらっしゃるとうかがって、そして恋人のあなたにお目にかかれて、それが少しは軽くなったような気がします」

 女性は内線電話をかけて何か指示を与えてから「お連れの方はこちらでお待ちいただけますか」とエレクトラをホールの隣のスペースへと案内した。
 エレクトラはおとなしくそれに従った。
「ここは私どもの清酒“月溪”の試飲コーナーです。係りの者が対応いたしますので何なりとお申し付けください」
 ジョゼはエレクトラに通訳したが、エレクトラは状況をすでに理解しているようだ。彼女は英語は苦手だと言っていたが、簡単な文脈なら理解できるのかもしれない。ジョゼはそう思った。
 女性はその様子を確認すると「こちらへ・・・」とジョゼを誘った。
 ジョゼは女性について先ほど進んできた通路を戻った。
 建物の奥へ進んで酒蔵へ入ると女性はこちらを向いた。「まだ先代がご存命だった頃、幼かったミク様はここでよく遊んでおられました。その樽とこの樽との隙間はお嬢様にとって絶好の隠れ家だったんですよ。その頃この蔵はまだ現役で酒の仕込みに使われておりましたから、親方に危ないから蔵へは入らないように、と何度も叱られておられました」まるで昨日の事のように女性は語る。「ミク様の母親はあなたのお国の方との混血であったことはご存じですね」
「はい」
「当時からミク様が疎外感を感じておられたとしたら、そのことが影響していたのだと思います。酒造りの世界は保守的ですから。それでもミク様は天真爛漫な明るいお子でした。少なくともそのように振る舞っておられました。蔵人達も彼等なりに可愛がっている様子でした。でもそれが先代が亡くなったとたんガラリと変わったのです。酒蔵は別の場所に移転し、蔵人達もいなくなりました。この蔵はミュージアムに改装され、ミク様は居場所を無くされたのです」
「後継者の問題があったと聞いていますが?」
「はい」女性は辺りを見回し、誰もいないことを確認した。「ミク様には何の責任も無いのですが、環境はガラリと変わりました。私も配置転換され、お傍を離れなければならなくなりました。そして母親が亡くなって、ミク様は一層暗く落ち込まれました。この家を出られたと聞いて、かえってホッとしたぐらいだったんですよ」
「そうですか・・・」ジョゼは家に拘るミクの顔を思い浮かべた。
『帰りたい家があるってことは、あたしにとって凄く大切な事なの』ドイツの空港でも確かそう言っていた。
 女性は蔵から中庭に出て、その向こうのある一軒の家を見せてくれた。ミクは生まれてからポルトに旅立つまでここで育ったということだった。
 瀟洒な造りの可愛い感じの洋館だったが、ミュージアム付属のイベントホールを建設するために間もなく取り壊されることになっていて、中は家具も無くがらんどうだった。
『ポルトへ旅立つ直前のミクもこんな感じだったのだろうか』ジョゼはそんな事を考えた。

 話を終え試飲コーナーへ戻ると女性は深々と頭を下げて礼を言った。ジョゼも同じように頭を下げた。
「ミク様を幸せにしてあげてくださいね」最後にそう言われたジョゼは「わかりました」と答える以外、返答を思いつかなかった。
 女性はもう一度小さくお辞儀をするとドアの向こうに消えた。
 ジョゼは暫くそのドアを見つめていたが、やがて思い切ったようにクルリと向きを変えた。
 カウンターではエレクトラが小さなグラスを傾けている。
「帰ろうか」ジョゼはエレクトラの隣に立った。
「ずいぶん待たせたわね」ジョゼを見上げるエレクトラの頬はほんのりと赤く染まっている。
「ごめん。いろいろ聞きたいこともあったから・・・」ジョゼは素直に謝った。
「ミクの事なら一生懸命なのね」
「いや、そんなんじゃ・・・」
「オネエサン!このダイギンジョー、1本いただくわ。とても美味しい」エレクトラはジョゼの言い訳を無視して、試飲コーナーの女性に声をかけた。
 ジョゼは慌てて通訳をする。これくらいなら日本語でも大丈夫だ。
 ハーフサイズの瓶はケースに入れられ、きれいに包装された。
 エレクトラは包装してもらった大吟醸をぶら下げて立ち上がる。
「おっとっと」思っていたより床は下にあったらしい。エレクトラは少しよろめいた。
「どれだけ飲んだんだよ」ジョゼは彼女を受け止め、大吟醸の包みを取り上げる。
「だって美味しいんだもん。種類がたくさんあって迷っちゃったわ」エレクトラはジョセに体を預けて動かない。
 腕にかかる彼女の重さが少しずつ増していく。
「エレクトラ・・・」ジョゼがエレクトラを立たせようとした次の瞬間。
「大丈夫よ。これくらい」エレクトラはジョゼの腕をほどいて歩き出した。
「エレクトラ!」ジョゼはエレクトラの背中に声をかける。
 エレクトラは振り向きざまに答えた。「さあ、帰りましょう。これからドオトンボリへ行くのよ」そして笑顔になって付け加えた。「それからホウゼンジヨコチョーも。メオトゼンザイだったかしら?それも食べなきゃ。こんなに付き合ったんだから、あんたに奢ってもらってもばちは当たらないでしょ?」そう言うとさっさとミュージアムを出ていってしまった。
「しょうがないなぁ・・・」ジョゼは慌てて後を追った。
 エレクトラの足取りはしっかりしている。
 顔の赤みも消えている。
「ま、いっか」エレクトラは唇の端に力を込めた。


2017.02.01
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常 それぞれのロンド

それぞれのロンド

 ミクは小さな唸り声を上げて目を開けた。そこにあったのは見覚えのある自分の部屋の天井だった。
 公演の打ち上げを終えて夜遅くにミュンヘンのアパートに帰りつき、シャワーもそこそこに疲れた体をベッドに横たえた。そこまではなんとか憶えている。舞台のある日は何度も目が覚めることが多いが、昨夜は何も覚えていない。たぶん死んだように眠ったのだろう。
 ベッドの横に置いてある目覚まし時計の表示は、昼を少し回ったところだから、久しぶりにちゃんと眠れたようだ。
 今回の公演に対する観客の反応は上々だったし、与えられた評論家達の評価も概ね好意的だった。観客の興奮に押し上げられた自分は、まるで何かが取り憑いたように演技し歌い上げた。舞台が続いている間はその興奮は持続し、まったく疲労などを感じることは無い。だが興行が終わったとたん、その興奮は終わりを告げる。彼女は自分の体を自分自身に取り戻し、ただの人に戻るのだ。ただの人になれば、蓄積した疲労は倦怠感となって表面に現れてくる。
 ミクは再び眠りに落ちようとしたが、激しい欲求に邪魔をされた。
 両手を目の上に当てたまま、暫くの間じっと我慢をする。
 やがて彼女は諦めてゆっくりと体を起こした。

 アパートの狭い部屋は混乱に満ちている。
 シーツや掛け布団はしわくちゃで、暫く洗濯もしていない。床の上には開けっ放しの大きなスーツケース、ボストンバッグ、脱ぎ散らかした服や下着、それに楽譜や本が散らばっている。天井付近にはロープが張られ、洗濯ものが干されたままになっている。
 ミクはその様子を目にして大きくため息をついた。そして、ベッドから足を下ろすと、床に置かれた物の間を飛び石のように伝ってトイレに駆け込んだ。
 用を済ませトイレを出たミクは、洗面台の鏡に映る自分の姿に驚愕した。昨夜手入をサボったすっぴんの肌はカサカサで、生乾きで寝てしまった髪はゴワゴワと逆立っている。髪を長く伸ばしていた頃には考えられないことだったが、ショートにしてからは手入れをサボることが多くなった。目はまるで死んだイワシの目のように生気がない。
 彼女は暫くの間鏡の前で固まっていたが、それどころではないことを思い出した。次の欲求を満たすため、そのままキッチンに向かう。
 そこにもまた目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。シンクは洗い物でいっぱいで、若干の腐敗臭まで漂っている。だが今はそれに構っている余裕はない。彼女は食器棚を開けてコップを取り出すと、それを雑多な物が積みあがった食卓に残された僅かな平場に置いた。
 冷蔵庫を開けて中を覗く。干からびた野菜、賞味期限をとっくに過ぎた食品のパック達、チーズはまだ食べられるだろうか?探していた水のボトルは扉に有ったが、水は一滴も入っていない。
「誰?空のボトルを仕舞ったのは?」どう考えても自分なのに、誰にともなく文句を言ってみる。
 ミクは横に並んだ牛乳パックを取り出して開封したが、鼻を近づけてすぐに顔をしかめ、元の位置に戻した。続いてその隣の牛乳のパックの賞味期限を確かめる。それはさっき開けたものと同じ日付だった。
 ミクは少しの間迷ってから、その隣のピルスナービールの瓶を取り出した。気持ちのいい音を立てて栓を抜き、それをコップに注いだ。琥珀色の液体の中では透明な泡が踊り、上層には真っ白な泡が層を成す。彼女はコップを目の前にかざして暫く眺めていたが、恐る恐る口を付けて少量を口に含んだ。確かめるように舌の上を転がしてからゆっくりと飲み込む。次の瞬間、彼女は一気にコップを空にした。さらに次の1杯ををなみなみと注ぎ、勢いよく喉の奥に流し込む。その様子はまるで3日間ほど灼熱の砂漠を彷徨った遭難者のようだ。冷たい液体が心地よく喉を通過し、喉の鳴る音まで聞こえてくる。
『プファー』彼女はテーブルの上に空のコップをタンッと置き、口を拭いながらまた大きく息を吐き出した。
 ようやく人心地がついたミクはキッチンを出て、ベッドの有る部屋に戻った。壁際に置かれたソファーには用途ごとに服が広げられていて座る場所がないし、日本のように床に座り込むわけにもいかない。しかたなく、さっき通った道筋を逆になぞってベッドの上に戻る。
 ミクはあらためて部屋の中を見渡し、3度目のため息をつく。このまえ掃除をしたのはいつのことだったろう?そうだ、ジョゼを公演に招待したときだ。公演の後このアパートに泊まるように誘ったのだ。その時はまだ部屋は整頓された可愛めの女子部屋で、彼を誘っても特に問題はなかった。それでも忙しい公演の合間を縫って、念入りに部屋の掃除をし食事も用意した。
 だが彼は来なかった。それ以来自分のモチベーションを維持し、自分のレベルを下げないようにする事だけで精一杯になり、それ以外のことには全く労力を割けなくなった。部屋は荒れるに任された。
 あの唐変木!!!鈍感!!!酔いが回ってきて、よけいに腹が立ってきた。ミクはベッドに体を投げ出し、俯せになって顔を覆う。一刻も早くポルトへ帰ってジョゼに会いたかった。自分の気持ちを伝えたかったし、彼の気持ちも確かめたかった。
 だが、そういうときに限って、やってみたかった役のオファーがかかってくる。気まずさも手伝って帰郷が延び延びになるうちに、ジョゼから「研修旅行に派遣される事になったんだ」と電話がかかってきた。
 ジョゼのドタキャンから少し気まずい雰囲気はあったが、2人はマメに連絡を取り合っている。ポルトで一人暮らしをしている祖母のメイコの様子を知らせたり聞いたりする事が、気まずい中でも2人の会話の動機になっていた。
「片言なんだけど日本語で観光客と会話してるから選ばれたみたいなんだ。ミクのおかげだ」
「よかったね!チャンスじゃない!行っておいでよ」肝心の件の修復は進んでいないけど、相談を受ければ、そう返事をする以外にミクに選択肢は無い。『今すぐに会いたい』そういう本心は言葉にならなかった。
「ありがとう。でもミクの休暇と重なったな。こちらへ戻る予定だっただろ?」ジョゼの気遣いが伝わってくる。
「またすぐに公演があるから、今回はあまり長い休暇は取れないの。その次はゆっくり帰れそうだから、その方が都合がいいわ。話したいこともあるし・・・」ミクは自分の気持ちに薄いベールをかけた。
「僕もミクとゆっくりと話がしたい。待っているよ」
 ミクが話したいことは決まっている。ジョゼもきっとその話なんだろう。その時は単純にそう思えた。だからお互いに頑張るように伝えあって電話を終えた。そんな思い出にふけっているうちにミクはふと思いついた。
『そうだ。ジョゼの研修旅行はどうなってるんだろう?』後で考えてみれば、そんな気持ちを起こしたのが失敗だった。

 ジョゼは今、とある有名ポートワイン会社の企画した日本グルメ研修に派遣されて日本に居る。教えてもらった日程では金沢辺りに居ることになっているが、どんな様子なんだろう?ミクは仰向けになると体を起こし、サイドテーブルに置いてあったラップトップPCを太ももの上で広げ、電源ボタンを押した。
 起動を待ってブラウザを開き、その有名ポートワイン会社のホームページに入り、研修旅行の広報ページを開く。そこには研修の目的や意義などのページの他に、研修の様子を写真や動画で紹介するコーナーも設けられている。トップページには研修に参加したメンバーの集合写真が掲載されていた。
 個人をはっきりと特定できないように配慮されているのだろう、解像度はあまり高くないが、ジョゼを見つけるのは簡単だ。すらりとした長身の彼の頭は、他のメンバーより上に飛び出していて、いつもの優しい顔で笑っている。下へスクロールすると、研修や講習の様子や観光地を回り日本文化に触れる様子などが次々と表示される。画面をスクロールさせながらそれを順番に眺めていたミクの手が止まった。最初のページに戻る。
『やっぱりそうだ・・・』
 トップページの集合写真、ジョゼの隣には明るい茶色の髪の女の子が写っている。表情が生き生きとしていて明るそうな子だ。ジョゼと同じか、少し年下に見える。
 再び下にスクロールしていくと、ジョゼの隣には全て彼女が写り込んでいる。楽しそうに、時には体を寄せるようにして写っている。ジョゼの方は迷惑そうな顔をしている時もあるが、自然な笑顔を向けている時もある。後ろ姿の写真でも、ジョゼを見間違えるはずはないし、やはり横に並んでいるのは彼女の後ろ姿だ。
 ミクは体を反らし、ベッドに身を投げ出した。太ももの上に置いていたラップトップPCが体の横にずり落ちた。
 彼女は今日明日の内に劇団の事務所に顔を出すつもりだった。次の公演の打ち合わせや、新しいオファーの確認をする必要がある。
『明日にしよう・・・』彼女はまた両手で顔を覆った。
 胸の辺りやその少し下に締め付けられるような感覚がある。
『この感覚は何?』わかってはいたが、ミクは自分に対して問いかけた。


2017.03.09
2017.04.16 ミクがあまりに可哀想なのと整合性の観点から、アパートの散らかり具合を修正
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

絵夢の素敵な日常 ハニ・・・フラッシュ

ハニ・・・フラッシュ

「あんたがミク・エストレーラ?」ブロンドの女が声をかけてきた。低いトーンの気怠げな声だ。ミクの顔を覗き込み、透き通るような碧眼で睨み付けてくる。サンディブロンドの髪はミクと同じボブにカットされていたが、ミクよりもだいぶ長く、肩先で優雅に揺れている。同い年くらいだろうか?端正な顔に残るニキビの跡が青春の名残を感じさせる。
 ミクは気押されないよう、まず気持ちを落ち着かせた。

 ミクは午前中、自分の所属する劇団の事務所に顔を出していた。
 古ぼけた建物にあるその事務所は、専有面積も必要最小限しか無く、見栄えも使い勝っても相当に悪い。おまけにミュンヘンの繁華街から外れた少し不便な所にある。
 それは何よりも賃料の安いことが優先された結果だったが、そこは劇団の運営拠点であるだけでなく、所属する団員たちのマネージメントも行う、いわゆるエージェンシーの様な機能も合わせ持つ場所だった。
 主宰であるハンスはまだ前の公演の後始末で事務所には居なかったが、次の公演の打ち合わせ、音楽稽古や立ち稽古のスケジュールの確認、そして新しいオファーも有ったのでそれについての連絡、手続き、慌ただしく時は過ぎて行った。
 ようやくデスクワークから解放されたのは、正午を少し回ったころだった。ミクはサンドイッチでも頬張る事にして、繁華街まで歩いてカフェに入り、ハムを挟んだバゲットサンドとミルクコーヒーを注文したところだった。

「ええ、そうですが。何か?」ミクは顔を上げ視線を合わせた。
「思っていたよりも華奢だね。もっと大きいと思ってた」女はずけずけとした物言いをした。
「ずっとこんなですけど?」
「舞台と比べてってこと。メイクも違うし、全然印象が変わるね」
「舞台を観ていただいたんですか?」ひょっとしてわたしのファン?ミクの心はほんの少し浮き上がった。
「舞台だともっと大きく見えた」ミクの様子には構わず女は話を続ける。
「ありがとうございます。でも、それって、誉めていただいてます?」
「フフッ」女は笑みを漏らした。睨み付けるようだった顔は、一瞬で可愛らしく変化した。
 ミクも笑顔で見つめ返す。
 暫く無言で見つめあってから「私はハンネローレ・クラーナハ。ここに座ってもいい?」女は向かいの席を指差した。
「かまいませんよ。ぞうぞ」ミクは警戒心を解くことにした。
 女が腰掛けるとウェイターがやって来る。
「ミク・・・と呼ばせてもらっていい?」
「ええ」ミクは簡潔に答える。
「じゃぁミク、ミクは何を頼んだの?」
「え?わたし?」
「そう、ランチにするんでしょ?」
「ええ、わたしはバゲットサンドとミルクコーヒーを・・・」
「じゃ、私も同じものを・・・」女はウェイターを見上げる。
「畏まりました」ウェイターはにこやかに頭を下げるとテーブルを離れた。ミクはウェイターの様子を目で追っていたが、すぐに女の方に向き直った。
「クラーナハさん?とお呼びすればいいですか?」
「友達にはハニって呼ばれてる」
「それなら最初に戻るけどハニ」ミクはここで口調を戻し「何か?」と改まった声で言った。
「フフッ」ハニはまた笑みを漏らした。
 ミクも笑顔で見つめ返す。
「舞台を見せてもらったんだけど・・・」ハニは舞台のタイトルを言った。この前の公演だ。
「それはありがとうございます」今一つハニの意図が分からなかったが、ミクはとりあえず礼を言った。
「とてもよかった」
「わたしに感想を伝えにいらしたのですか?」ミクの声は皮肉を帯びる。
「それもある。それもあるけど、兄者が見初めた女がいったいどんな女なのか、それを見ておきたかったというのが本命」
「兄者って?」
「ハンス・ガイテルは私の兄なの」
「ハニはハンスの妹さんなの?」ミクの声は裏返った。
「父親は違っているけれどね」ハニは少し顔を歪めて言った。
そう言われればハニの髪と虹彩はハンスと同じ色だ。「そう・・・」ミクは改めてハニの顔を観察した。
「そんな目でじろじろ見ないでよ」
「ごめんなさい。だって・・・それに見初めただなんて・・・」
「兄者があんなに熱く語るなんて、めったにないからね。それにミク、あんたは兄者を見事に振ったそうじゃない」
「だって・・・」ミクは言葉に詰まった。
「フフ、気にしなくてもいいよ。兄者は惚れっぽいからね。あんたの才能に惚れたのか、あんた自身に惚れたのか、自分でも区別がついてないんだよ。でも、あんたに肘鉄を喰わされてもまだコンビを続けてるってことは、いま兄者はあんたの才能に一点張りだっていうことなんだ。だから、私はそのあんたの才能っていうのを見ておきたかったんだ」
「そんな、才能だなんて・・・」
「そういうのを“謙遜”っていうんだろ?それとも“遠慮”?日本人がよく用いる表現らしいね」ハニはミクの言葉を遮った。
「ケンソン?エンリョ?」ミクの頭は日本語に切り替わらない。
「普通こんな話の流れなら、自分の才能について訊いてくると思うんだ。『私の才能をどう思う?』ってね。でもあんたはそうじゃなかった。自分に才能なんて無いというような言い方をした」
「だから謙遜?」
「そう。もちろん誰だって謙遜したり遠慮したりすることもあるさ。だけどあんた達はそれが強すぎる傾向がある。だからそれで損をすることもあるって兄者が言ってた」
「・・・」
「ミク、兄者を振ったのはなぜ?」ハニは単刀直入に迫ってきた。
「なぜって・・・」
「返答によっては怒るよ」
「そんな・・・」
「意中の人が居るってこと?」
「・・・」ミクの顔がほんのりと赤くなる。
「当たりか・・・」ハニはしてやったりの顔をした。
 その時トレイを持ったウェイターがやって来た。注文していたバゲットサンドとミルクコーヒーを2人分テーブルに並べ、2人に笑顔を向けると軽やかに戻っていく。ミクの視線は彼の様子をずっと追っている。
 ハニは頬杖をついてそれを眺めていたが「ふーん」と意味深な声を出し、唐突に「でさ、その意中の人ってポルトの人?」と訊いた。
「え?・・・まぁ」ミクは不意を突かれ曖昧に返答する。
「幼馴染とか?」ハニは舐めつけるようにミクを見る。
 ミクは無意識にだが微かに頷いた。
「ウェイターさんなのかな?」
 ミクの顔が赤みを増す。
「ごめんごめん。でもこれは記事にはしないから」もう十分と判断したのかハニは頬を弛めた。
「え?」ミクが顔を上げる。
「実は私はライターなんだ。小さなコラムも持っている」ハニは結構有名な音楽専門誌の名前を挙げた。
「ええっ!」ミクは驚きの声を上げる。
「驚かせてごめん。でも安心して。今の話は今回の記事にはしない。身内が絡むことだしね。でも将来に渡って使わないという保証はしない。なりゆきによっては面白く使えそうだしね」
「そんなぁ・・・」
「大丈夫だよ。ウチはゴシップは扱わないから。だけどミクについてコラムは書かせてもらうよ。大先生のコラムでなくて申し訳ないけど、良い記事が書けそうだ」
「わたしなんかがコラムになるの?」
「ほら!それが謙遜だっていうの!」
「・・・」ミクは少し視線を下げる。
「ミク、あんたの演技はよかったよ。それが私の素直な感想。だからそれをコラムに書かせてもらう。それだけだ。謙遜や遠慮なんてしなくていい。ミクはもっと注目されてもいいはずだ」
「ありがとう」
「もっと自信を持つべきだよ!」
「ハニ」ミクは顔を上げた。
「で、彼にはもう告白した?」ハニはトーンを変え、ミクの顔を覗き込む。
 ミクはいっそう赤くなった。
「まだ・・・か、こりゃ兄者が絆(ほだ)されるはずだ」ハニは小さく溜息をついた。そして「ミク、謙遜や遠慮は時として美徳になるけど、それで損をすることもあるんだよ」と告げた。
「・・・うん」もうグズグズするのは止めよう。ミクは突然そんな気になった。
 たしかジョゼがポルトに戻るのは4日後のはずだ。今日確認した自分のスケジュールだと音楽稽古と立ち稽古の間に3日連続の休日がある。そこでポルトに帰ろう。あとでジョゼに電話を入れてそう伝えよう。そして家に帰ろう・・・うん!決めた!
 ミクが顔を上げるとそれを待っていたようにハニが口を開いた。「よしっと。さあ、コーヒーが冷めてしまうよ。食べようよ」
「ええ」ミクはコーヒーを口元へ運びながら窓の外へ目をやった。
 ミュンヘンの町は午後の経済活動を始めようとしている。窓ガラスの向こうを大勢のビジネスマンが通り過ぎる。通りには栃の木が秋風に葉を揺らし、その向こう、重々しい建物の間には抜けるような青空が広がっている。
 こんな気持ちになったのはいつ以来だろう?ミクは大きく息を吸い込み、そして大きく吐き出した。そのまま視線を戻すと、目の前ではハニが大口を開けてバゲットサンドを頬張っている。ハニは見つめられているのに気が付くと、少し恥ずかしそうに顔をしかめてから、ミクに向かって『早く食べろ』と合図を送った。
 ミクはとりあえず新しい友人とのランチを楽しむことにした。

2017.04.16
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
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こんにちは!サーカスへようこそ! 二人の左紀、サキと先が共同でブログを作っています。

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