Debris circus

Debris circus

頭の中に散らばっていた破片(debris)を改めて文章に書き起こし、オリジナルブログ小説としてサーカスの舞台に上げていきます。読みにくいものもありますが、お暇な時にパラパラとめくる感じででも読んでいただけたら嬉しいです……

 

254(前編)

 雨の季節が終わろうとしていた。
 ここ1ヶ月ほど居座り続けた前線は少しずつ北へと位置を移し始めていて、カンデシティーを当たり前のように覆っていた雨雲は徐々に隙間を生み出し始めていた。隙間からのぞく青い空は、まるで空色のカンバスに感性の趣くまま灰色を塗り重ねたモダンアートのように、塗り残された空色がバランスよく配置されていた。
 そのモダンアートの下、カンデシティーの真ん中を貫く3桁のナンバーを付けられた国道から、それをアンダーパスする産業道路へと下りて行く側道に面して、バイクショップ「コンステレーション」は存在した。二階建ての古い建物の一階部分にひっそりとあるその店は、大きなベニヤ板の手書きの看板を掲げた以外は何の装飾も無く、倉庫のような内装のままの店内に大型バイクばかりを並べた一風変わった作りだ。
 しかし奥に入ってみると小型のバイクや俗に言うファミリーバイクも何台かは置かれ、こまめな商いでも経営を支えている様子がみえる。店の中に人影は無く、前を走る国道の自動車のノイズだけが聞こえていた。

 コトリは「コンステレーション」に向かって自転車を走らせていた。ひょろりとした体に自分で適当に切りそろえたような“オカッパ”の黒い髪を揺らし、あちこちに油のシミの付いた白いTシャツを着て薄汚れたジーンズをはいていたが、そんな格好のことは全く気にしていない様子で、のんびりと自転車を進めてゆく。そして店の横手の路地に入って足を着かないまま自転車を壁に寄り掛からせると、前のカゴに入れていた紙袋を抱えて店の中へスタスタと入っていった。
 コトリは店内をぐるりと見渡して客の姿が見えないのを確認すると「ただいま!」と大きな声をだした。
「おう!コトリか?帰ったんならコーヒーを入れてくれないか?今、手が離せないんだ」TOILETと書かれたプレートの付いたドアの内側から男の大きな声が答えた。
 コトリは「うん。わかった」と答えると今入ってきた裏口のすぐ横にあるドアを開けた。ドアの中はキッチンで、手を洗うとやかんに水を一杯に入れて火をつけた。そして棚からコーヒー豆と電動ミルを出して豆を挽き始めた。湯が沸くとサーバーを保温プレートの上に置き、ドリッパーとペーパーフィルターをセットして粉を入れ、慎重にお湯を注ぎ始めた。
 いい香りが漂い始めたころドアの開く音がして、小柄だがガッチリとした男が顔を出した。男はそのままキッチンに入ると「いい臭いだな」と鼻をヒクヒクさせた。
「親父さん。臭いじゃなくて香り!それから手洗い!」コトリが慎重に湯を注ぐ作業を続けながら低い声で言った。
「いい香りだな」親父さんと呼ばれた男はニヤッと笑ってそう言い直すと流しで手を洗った。そしてコトリの抱えてきた紙袋から食パンを2枚取り出すとトースターに放り込んでレバーを押し下げた。親父はそのままキッチンを出ると店の一番奥にある大きなデーブルにセットされた木製の長椅子に腰をかけ、テーブルに置いてあった老眼鏡を掛けると新聞を読み始めた。
 目についた記事を幾つか読み終えた頃、キッチンからコトリが保温プレートごとサーバーを持って出てきて、テーブルの上のコンセントにセットした。もう一度キッチンに戻ると、たっぷりのバターとマーマレードを塗ったトースト、カップ、砂糖壺、ミルクピッチャーとスプーンをトレイに載せて出てきて、それをテーブルに並べた。
「じゃあ。少し遅いブレックファーストと行こうか」親父が声をかけると、コトリも親父の向かいに座り、コーヒーに砂糖を1杯半とミルクを入れた。
 親父はコーヒーだけをカップに注ぐと少し持ち上げ「いただきます」と言った。コトリもその所作をまねて「いただきます」と言うと食事を始めた。大きなテーブルに向かい合わせに座って黙って食事をする2人と前を走る国道の自動車のノイズが重なる。それはまるで古い短編映画のオープニングシーンの雰囲気だった。

 食事が終わる頃「コトリ?」親父が声をかけると(ウン?)という感じでコトリが反応し、パンをくわえたまま顔を上げた。「お前。ここに来てもうどれぐらいになる?」
「1年を少し過ぎたくらいだよ。ちょうど雨季に入った頃だったから……」
「そういやぁ……ずぶ濡れで店に入ってきたっけな。そして熱を出して倒れて、そのままここに居付いてしまったんだったな」
「ありがとう」コトリはここに迷い込んだ時のことを思い出してそう呟いたが、そのままコーヒーカップを口にあてたまま俯いていた。
「いや。そう言う意味で言ったんじゃない。ここんとこのお前の手つきを見ていて、ずいぶん進歩したもんだと思ってな。1年でこれだけ出来りゃあまあ大したもんだ」親父の目は孫娘を見つめるような目になっていたが、一瞬で職人の目に戻って続けた「……でだ、お前に1つ仕事を任せてみようと思ってな。さっき入ったばっかりなんだがピットを覗いてみろ」
「ピットを?」最後のパンを口に放り込むとコトリは立ち上がった。店の隅に設けられたピットの防音を兼ねた大きなドアを開けると、コトリは一瞬固まってから「かわいい!」と声を上げた。そこには真っ赤な中型のバイクが置かれていた。
「かわいい!……か」小さな声で呟いてから親父は立ち上がった。
「これ何?ずいぶん前のバイクだよね」
「MOTOAEROの254だ。どうだ?珍しいんだぞ」
「始めて見る!小さいエンジン!なのに4気筒?これ……」
「そうだ。231ccでOHC、市販では世界最小の4気筒エンジンだ。28馬力10500回転、車重は約120キロ、さっき届いたばかりなんだがまったく動かん。コトリ!これを動くようにできるか?」
 コトリは質問には答えず、ゆっくりと254のボディーを触りながら全体を舐めまわすように観察した。「120キロって軽いね。コントールしやすそう。車体は綺麗だよね。丁寧に保管されていたんだね。キャブレター……しかも4連……。電気系統はダメかな?セルしかないみたいだけどセルモーターは大丈夫かな?パッキンやホース類もそのまま使えればいいけど」
「今のバイクは半分程が電動だ。ガソリンエンジンの物でもまずインジェクションだしな。キャブの、しかもこんな小さな4連キャブの面倒が見れるか?」親父がコトリの丸まった背中越しに訊いた。
「やってみる!ううん。やってみたい!」コトリは真っ赤なタンクを撫ぜながら振り向いて親父の顔を見上げた。
「お前がここにやってきた時乗っていたバイクはお前の希望で治療代やらの為に売ってしまったな!」親父がそういうと、コトリはいまさらなぜ?という具合に首を傾げた。「いいバイクだった。高く売れたし治療代を払っても結構おつりが出た」
「わたし肺炎を起こしていたし、健康保険も無かったからお金もかかったし、納得してお願いしたんだから……」コトリは続けようとしたが親父の言葉が遮った。
「そこでだ。替わりにこのバイクをやろう」うっすらと笑いを浮かべながら親父はコトリの目を見つめて言った。「ただし動いたらだが。そして俺の出す条件をクリアーしたら……」
「クリアーしたら?」
「俺んとこで正社員として採用しよう。お前さえよければだが」今度は親父はニヤリとしながらそう言った。
「ほんとに?ほんとに?」コトリは目を大きく見開いてそう言うと「条件って?」と親父を見上げた。
 その時「なんだい。そのバイク?」大きな声にコトリと親父が驚いてピットの入り口を振り返ると、そこには背の高い男がピットの入り口の鴨居に頭をぶつけないように少し背なかを丸めて立っていた。
「なんだ。ヤキダマか。音も無くやってきやがって驚かすなよ」親父が振り返った。
 コトリはなんだか分からない気持ちがわき上がってきて、自分の言葉に少し軽蔑のニュアンスが入り込んでいるのを感じながら「仕方がないよ。ヤキダマは電動スクーターなんだから」と続けた。
「なんだよ。その言い方。僕だってバイク乗りだし客だよ。ここで買ったんだから」ヤキダマは少しむくれた口調だ。
「すまないな。許してやってくれ」親父は収めにかかったが、コトリは収まらない。
「わたし、スクーターは嫌いなんだ。おまけにヤキダマは免許がAT限定だし」
「僕の免許は放っておいてくれ。いまどきガソリンエンジンの、しかもクラッチの付いたバイクに乗ってる奴なんていないよ。電動か、HVやガソリンでもATだろ?」
「そんなことは分かってる。クラッチが無くたって許す。でも、スクーターは好きになれない」コトリが少し顔を赤くして突っかかった。
「コトリ、熱くなるな。言ってることが支離滅裂だぞ。それにヤキダマはお客さんだ」親父はコトリの頭をそっと押さえた。コトリは不満そうに少し唇を尖らせたが次の言葉を飲み込んだ。
「今日はコトリ、やけに突っかかってくるよな」ヤキダマの顔も不満げだ。
 親父が2人の顔を見比べた。「そりゃ。コトリがここに来た時の話が出ている時にタイミング良くお前が現れたからだ」
「そうだったのか?悪かったよ。急に声をかけたりして。ちょっと脅かしてやろうって思ったんだ」ヤキダマが謝ると「ごめんなさい。わたしも言い過ぎた」コトリは気まずそうに俯いてしまった。
「おまけにもっと大事な話も進行中だったのにぶち壊しやがって!」
「そうだ!親父さん、条件って?」コトリは懇願するような目つきだ。
「ちゃんと話をしてやろう。テーブルに来い。ヤキダマ。ちょうどいい。お前は立会人だ」親父は2人をテーブルに誘った。
「まあ、そこに並んで座れ」親父は2人を並んで座らせると「で、続きだ。あのバイク動くように直せたらコトリにやろう。そして俺の出す条件をクリアーしたら、俺んとこで正社員として採用しよう。と言ってるんだ」
「ほんとに?ほんとに?」コトリはまた目を大きく見開いてそう言うと「条件って?」と親父の顔を覗き込んだ。ヤキダマはもう一つ事情が呑み込めないのか黙って座っている。
「お前ら“600マイルブレンド”というのを聞いたことがあるか?」
 2人は顔を見合わせてから親父の方を見て同時に首を横に振った。
「俺が若い頃この店の先代にツーリングに連れ出されたことがあってな。行き先も告げられずに昼前になってから連れていかれたんだが、フリーウェイを150キロ以上で行けども行けども終わらないんだ。へとへとになってようやくたどり着いたのはウラスの珈琲屋でな」
「ウラスってここから500キロ以上ありますよ」ヤキダマが驚きの声を上げた。
 コトリは思い出したくないような出来事が頭の中に蘇り、気が遠くなりそうになるのを堪えながら喋ることもできずにいた。顔も血の気が失せて白い。
 親父はそんなコトリの様子を用心深く見つめていた。
「ようようたどり着いたその珈琲屋でコーヒーを飲んでいるとだな。先代は帰るというんだ。家でゆっくり風呂に入りたいってな。そしてその日のうちに帰ってきたんだ。カンデまでな」
「じゃあ往復1千キロを1日というか半日で?無茶苦茶だ」
「大陸のツーリングではこれぐらい当たり前だと言うんだ。何人ものつわものの名前を上げて説明されたがそんなもの憶えちゃいないさ。俺は途中で置いて行かれた。もうスピードも上げられなくなってな。帰ったのは真夜中だったよ。もうフラフラだったな」
「それで600マイルブレンドって言うんですか?」
「そうだ。先代の若い頃から伝わる伝説のツアーなんだそうだ。そうまでして飲む値打ちのある旨いブレンドコーヒーがあって始まったらしいんだが、店も無くなっちまったし今じゃ単なる肝試しみたいなものになってる」
 コトリは下を向いて固まったままだ。
「それで……だ」親父はコトリの肩に手を置いた。
 コトリはビクッとして顔を上げた。
「大丈夫か?」親父が声をかけると「うん」コトリは小さく頷いた。
「ピットの254を動くようにしたらコトリ、お前にやろう。そしてその254で600マイルブレンドを問題無くこなしたら正社員として採用しよう。無茶苦茶だがこれがこの店の採用試験だ。俺もそうだったしな」
「ウラス……でないとだめ?」コトリが細い声を出した。
「そうだな。悪いがそういう風に決まっている」
「ウラスって言ったら例の事故のあった町だよな」ヤキダマが口をはさんだ。
 ヤキダマの発言を見事に無視した親父は「どうだ。コトリ、やってみるか?」また俯いてしまったコトリに向かって挑発するように語りかけた。
 長い沈黙が続いた。ヤキダマも黙って見つめている。
 親父の目が孫娘を見つめる目になって何か言おうとしたその時「やってみる……ううん!やってみたい!」コトリが顔を上げた。血の気を失って白かった顔にはうっすらと赤みがさし始めていた。
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テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

254(後編)

 レインウェアの隙間から浸みこんだ雨が体温を奪ってゆく。
 L型ツインの豪快なレーシングサウンドが響いているはずだがもう聞こえてこない。
 激しく降る雨の中コトリはDEZMO 720を走らせていた。いや正しくは走る720にしがみついていた。もう何時間になるだろう、やみくもにウラスの町を飛び出して夢中でアクセルだけを開け続け、ガス欠もリザーブになるまで気がつかないありさまだった。
 給油を除いてずっと走り続けている。
 激しい寒気をずっと前から感じている。昨日から何も食べていない。
 目までかすみだしたような気がしてフリーウェイを下りた。
 フリーウェイ沿いの国道を速度を落として走る。
 どこか雨宿りのできる所を探すが高架になっている場所が多くて見つからない。
 大きな橋を渡ったところで側道に入った。もう限界だ。
 さらに速度を落として止まろうとした時、道沿いの建物の庇の下に並んだ何台かの大型バイクが目に留まった。ベニヤ板の看板に「コンステレーション」の文字が見える。(バイクショップ?)ほとんど意識の無い状態で、並んでいる大型バイクの横に720を止めてサイドスタンドを立てるのが精一杯だった。数歩歩いて店の引き戸を開けたところで意識は真っ暗になった。

 目が開いた。コトリはいつもの寝袋の中に自分が居ることを確認すると、ホッとしたように表情を緩めた。(最近はこんな夢、見なくなっていたのに)確認するように上半身を起こして周りを見回す。外はもう明るい。
 店の隅に置かれた台の上で寝袋に入って寝るようになってもう1年以上経つ。見慣れた風景の中に自分が置かれていることに安心感を覚えながら寝袋を出た。そのままそっとピットを覗く。赤い254がコトリを迎えた。
 エンジンは一度バラして組み上げた。電気系統はチェックした。セルも回るようになった。燃料系の調整も終わったが夜遅くなったのでさすがにエンジンはかけられなかった。そっとエンジンを撫ぜながら「親父さんが来たら起こしてあげるからね」と囁くと着替えのためにキッチンへ入って行った。そこの一画がコトリのための更衣室になっていた。

「コトリ!おはよう。どこだ?」親父の大きな声が聞こえた。
「いるよ!」ピットから油のシミの付いた白いTシャツと薄汚れたジーンズのコトリが頭を出した。「あれ?もうこんな時間?」壁に掛けられた時計は9時を指していた。
「どんな具合だ?」親父はピットの中を覗き込んだ。
「たぶんかかるとは思うけど」
「やってみろ」
「うん」コトリは換気装置のスイッチを入れると、燃料コックを開けセルモーターを回した。何秒かセルモーターが回った後、あたりをはばからないエキゾーストノートが轟いた。親父はあわててピットのドアを閉じた。
 何回かアクセルをあおった後アクセルをアイドリングの位置に戻すとエンジンは不安定な息継ぎのあと停止した。何回かやってみるが結果は同じだ。
「生き返ったな。上手いもんだ。だが、やはり同調が取れてないな」親父が呟いた。
「取ってみる」コトリがバキュームゲージを取りに行こうとしたが、親父はコトリの肩に手を置き「まて。あわてるな!254は目を覚ました。次は俺達のブレックファーストといこうか」と言った。頷くとコトリはコーヒー豆を挽きにキッチンへ入っていった。

 親父とヤキダマは昼食を食べに小さな食堂に入っていた。コトリは店番だ。今頃254と格闘しているはずだ。いやデートの真っ最中というべきか。
「今朝254が目覚めた」定食を注文し終わると親父が口を開いた。
「エンジンかかったんですか?」
「ああ。上手いもんだよ。この分だと走れるようになるのも時間の問題だな」
「で、そのウラスへ行かせるんですか?」
「ああ。うちの採用試験は先代の頃からこれだからな。だが本当の行き先は隣町のマエハマだったんだがな」
「なぜウラスにしたんですか?」
「コトリがここに着いて倒れた時、お前と一緒にコトリを病院に運んだろ」
 ヤキダマは話の流れがよく分からないという風情で頷いた。
「その時俺はコトリの財布に入っていた免許証を見つけたんだ。その時はメモだけ取って戻しておいたんだが。あとで調べさせてもらった」
「コトリの素性をですか?」
「そうだ。意識が回復してから行くところがないとか、ここに置いてくれとか言い出すし。誘拐犯にはなりたくなかったんでな」
「で?」ヤキダマは先を促した。
「ウラスでの事故のことはお前知っていたな?」
「そりゃ。大きな事故だったから。普通知ってますよ」
「コトリの家はその事故現場の中心にあったんだ。事故で家族全員を失っている」
「えっ!」ヤキダマは言葉を失った。
「コトリはツーリングに出ていて助かったようだ。混乱してそのまま飛び出して来たみたいだな」
「失踪、ということですか?」
「いや。その辺が微妙でな。あの事故は1年たっても被害者のほんの一部しか身元の確認が済んでいない。だから、コトリは死亡の可能性の高い行方不明者になっている」
「じゃあ……」
「俺は転がり込んできた女を何も知らずにバイトとして雇っただけだ。免許証で身元も確認したが、そんな事故の被害者とは思いもしなかったということだ」
「それはまた無茶苦茶な理屈ですね」
「かまわん。責めは受ける。そんなにひどいことにはならんだろう。これがメモだ」親父はテーブルの上に小さな紙を広げた。
「へえ!サヤカっていう名前なんだ。どこかのお嬢様みたいだ。コトリって本名だと思ってました」
「頑なに素性は明かさなかったし、問い詰めたら自殺でもしそうな勢いだったからな。迷い込んできたコトリの様に見えて俺が適当にそう呼んだだけだ」
「生まれからいうと今22歳、ここへ来た時はちゃんと成人だったんですね」
「その点、抜かりは無い」
「抜かりって……」ヤキダマは呆れた顔になった。
「両親と兄と弟の5人家族で、コトリは真ん中の1人娘だ。まだ確認されていないが、状況から見てコトリ以外全員亡くなっている」わずかの間沈黙が支配した。そして「俺の想像なんだが、暖かい家庭で何の心配も無しに育った少し飛んだ娘だったんだろうなと思う」親父は静かに付け加えた。
「僕もそんな風に思います。少なくとも今みたいに暗くは無かったんだろうなと……」そしてヤキダマは確認を取るように訊いた「もう心の修復は済んでいると考えているんですか?」
「無制限に時間をかけるわけにもいかんし、ずっと見てきた俺の勘だ。」
「やはり無茶苦茶ですね」
「でだ。お前の仕事だが、コトリに付き添ってウラスまで往復だ」
「エエッ!付き添い。なんで僕が……」
「どうせ院生だしそろそろ夏休みだろう?お前、コトリのことが心配なんじゃないのか?」
 ヤキダマが何か言おうとしたその時、定食がやってきた。

 コトリはアイドリングを少し高くした状態で4連のバキュームゲージを見つめていた。調子を見ながらバタフライバルブの調整ねじを微妙に回していく。同調を確認すると2度3度と再調整を繰り返してから、アイドリングスクリューを通常のアイドリング回転数にセットした。小さな体に似合わないエキゾーストノートを出していたエンジンは、回転数をアイドリングまで下げ安定した。コトリは少し微笑むとアクセルを数回煽った。豪快なエキゾーストノートが響いた後エンジンは再びアイドリングになり安定した。何度もこれを繰り返し安定することを確認するとエンジンを止めた。あとは細かい調整をしながらボディーを組み上げれば走れるようにはなる。
 でも、連続で1000キロ走るためにはもっと整備や調整、さらには改造の必要もありそうだ。コトリは軽くため息をつくとピットを出て耳栓を外し長椅子に腰掛けた。
 親父さんから与えられた入社の課題は600マイルブレンドのクリアーだ。
 そのためには、ウラスの町へ行かなければならない。傷口は既にかさぶたに覆われている。周りから見れば治っているように見えるだろう。ただそれを剥がしてしまったら、中はどうなっているんだろう?
 そしてその後、きちんと住民票をこのカンデシティーに移して雇用の手続きができるようにしろと言われている。この様子だと自分の素性は親父さんにもう知られている。自分がどういう状態にあるのかはわかっているつもりだが、自分の住民票を触ることでどんな騒ぎが起こるんだろう?コトリの気持ちは不安でいっぱいだった。
 でも、コトリは旅立つことを決めていた。
 あの時は自分がどんな行動を取ったのか、どんな事が起こったのかよく覚えていない。まずウラスまでの往復をこなして自分の育った町をこの目で確かめよう。そしてもう一度ウラスの町へ行って再出発の手続きを始めよう。

 コーナーが迫ってきた。ブレーキングしながら4・3・2とギアを落とす。1段落とすたびにエンジンは悲鳴を上げる。減速で浮いたリアタイアが路面から途切れ途切れにホップするのがわかる。体重を右のステップにかけ左に移す。バイクは自然に左に傾きステップを路面にこすりながら左ヘと曲がり始めた。遠心力でダイアモンドフレームが変形する。コーナーの出口が見えた。アクセルを開けると今度は8千回転まで歓声を上げて加速する。間髪を入れずシフトアップ。あっという間に次のコーナーが迫ってくる……。
 サンライズドライブウェイのケーブル山上駅前の広場に254を止めてコトリはヘルメットを脱いだ。7月の日差しはレーシングスーツの上から燦燦と照りつけ走っていないと暑い。ファスナーを胸の下まで下ろし中にたまった熱気を逃がしてやる。
 早朝の山の木々は心の闇を吹き飛ばすくらい明るく輝き、吸い込む空気は肺の中に溜まった不安を排出する力を持っているかのように透明だ。空は雲の蓋が取れて突き抜けるように高く青い。
 コトリは両手を上にあげ肺一杯に空気を吸い込むと「ウ~ン」とはきだした。
(なんていう鳥なんだろう?)忙しくさえずる鳥の声が彼方から聞こえていた。それに混じって微かにモーターの音が聞こえ始め、黒いスクーターがコーナーを曲がって近づいてきた。スクーターを254の隣に止めるとヤキダマはバイザーを上げた。「早すぎるぞ!ちょっとは加減してくれよ」声は怒っていた。
「まだいっぱいには回していないよ。でもこの状態でもオイルハザードが点く。オイルクーラーを付けた方がいいかも」コトリはヤキダマのことは全く気にしていない様子で言った。
「そんなに飛ばして怖くないのか?」溜息をつきながらヤキダマが訊いた。
「きちんと曲がれるという確信はあるよ。でもサーキットじゃないからアクシデントの確率はずっと高い。そう言う意味での怖さはあるよ」コトリは興味なさそうに答えた。そしてヤキダマの少し怒ったような顔を見て「ヤキダマ。わたしって変?」と続けた。
 ヤキダマは少し戸惑った顔になったが「そうだな。普通の女の子では無いよな。その辺自覚、有るんじゃないの?でも全然問題無いよ」と言ってから「かわいいし……」と小さく付け足した。
 コトリは付け足された一言は無視して「普通じゃぁないよね」と呟いた。
「コトリ?」ヤキダマの呼びかけに(ウン?)という感じでコトリが反応し顔を上げた。
「僕は朝早くから引っ張り廻されてもうくたくただ。そこのベンチで休憩したい」
「いいけど。これぐらいでくたくたになるんだったら1000キロなんてとても無理だよ」
「その時は足手まといにならないよう頑張るよ」2人はすぐそこにある自動販売機で缶コーヒーを買うと、なんとなく並んで木陰にあるベンチに腰をかけた。2人の正面にはカンデの街並み、その向こうには大きな港、さらにその向こうには海が広がっている。コトリはキラキラ光る海や行きかう船をぼんやりと眺め缶コーヒーをゆっくりと飲みながら、無限の安心感を得たような気になっていつの間にか眠ってしまった。
 ふと目が覚めたコトリは自分の頭がヤキダマの肩に乗っているのに気付いた。
「ごめんなさい」
(わたし汗臭くなかったかな)そう思いながらあわてて頭を起こした。
「わたし寝てた?」
「少しの間ね」ヤキダマの顔が照れているように見えるのは気のせいだろうか。
「帰る?」ヤキダマの様子を気にしながらコトリは尋ねた。
「コトリさえ良ければ。僕はもう疲れが取れたよ」
「じゃぁ大丈夫だね。トロトロ走ってると置いて行くよ」コトリは勢いをつけて立ち上がった。

 寒気が入ってきたのだろうか。今朝、カンデシティーは靄の中に沈んでいた。「コンステレーション」の前の側道には254と、ヤキダマが親父から貸し出しを受けたEXP600が並んで止まっていた。EXP600はV4エンジンを積んだツアラーだ。ATであることは言うまでもないが。トルクもあり扱いやすくヤキダマには最適の選択といえた。254にはエンジンへの風を妨げない位置にオイルクーラーが増設されている。
 コトリとヤキダマはツーリングウェアに身を固め、フルフェイスのヘルメットを持って親父の前に並んで立っていた。
「みんな見送りに来たがったんだが、これは試験でイベントじゃないということで断った。早朝だしな、うっかりすると30人以上集まって大騒ぎになりそうだった」
「目立たなくていいよ」コトリがタンクに張り付けた腕時計を見た。
「そろそろだな。大丈夫か?」親父がニヤニヤしながら尋ねた。
「私と254は大丈夫だよ。オイルクーラーを着けたし耐久性は大丈夫と思う。EXP600も問題ないでしょう?一番の問題はやっぱり……」
「やっぱり、何だよ」不満げにヤキダマが訊いた。
「やっぱりヤキダマかな?」コトリが微笑んだ。
 ヤキダマはまるで珍しいものでも見るようにそれを見つめていた。
「コトリ。足手まといになりそうなら捨てて来い。ただしウラスではヤキダマの立会を受けるようにしろよ。立会人なんだからな。後は捨ててきてもいいだろう。お前の好きにしろ」親父はヤキダマのほうを向いて「バイクを置いて来たら実費はもらうからな。覚悟してかかれ。コトリを頼むぞ!」そして2人を見ながら「それから2人ともこまめに携帯で連絡しろ。余計な心配はしたくないからな。命を落とすな!じゃ。出発!」とゲンコツを上に突き出した。
「ありがとう」コトリは親父に抱きついてギューッと力を込めた。親父も両手をコトリの背中に回してから頭を優しく撫でた。コトリは暫くされるままになっていたが決心をしたようにパッと離れ、ヘルメットを被りバイクに跨った。
 ヤキダマも軽く手を上げ「行ってきます」と言うと同じようにバイクに跨った。
 豪快なそして静かな2つのエキゾーストノートが響き、2台のバイクはコトリの育った町を目指して靄の中へ消えていった。
 親父は孫を見つめる目になって2つの影を見送っていたが、ゆっくりと空を見上げてから店の中へと消えた。
 
 

254 enhanced

 この世のすべての光を吸収するようなつやの無い黒、そんな色がこの世に存在するならばそれはこの機体の色だ。レーダーの電波もほとんど反射しないこの特殊な機体、B94型戦略爆撃機ピースキーパーは、午前2時の闇に溶け込むように徐々に高度を下げて市街地の上空へと進入していた。信じられないことにコックピットには誰も居ない。誰も座っていないシートの前にある幾つものモニターには様々な図形や数字が表示され、一部は点滅を繰り返していた。
 このあまりにも静かな市街地直上の飛行は、真夜中の時間帯だったこともあって、下から見上げて不審に思う市民なども全く居ないように思われた。

 サヤカは急いでいた。もう午前2時が迫っている。サヤカは1週間の予定でバイク(オートバイ)で1人旅に出かけていた。もう1泊する予定だったのだが、気が変わってそれを切り上げ、休憩もそこそこにフリーウェイを飛ばして帰ってきたのだ。(そっと家に忍び込まないと父さんにお目玉を食らいそうだな。まいったなぁ。お兄ちゃんの部屋の窓からいれてもらおうかな)サヤカは物置にあるはしごを使って2階の兄の部屋から家に潜入する方法を考えながらフリーウェイを降り、愛車DEZMO720にもう一息の鞭を入れた。

 静かに飛行を続けるピースキーパーの胎内には、イルマ空軍が開発した新型爆弾「NAGI」が眠っている。この兵器はその威力を実験以外で見せつけることは無く、永遠に抑止力として眠り続ける……はずだった。しかし、無人のコックピットでは警報が鳴り始め、失速警報のシグナルが点滅し始めた。フルパワーの指示が発せられるがそれを実行に移す者は居ない。

 前方の信号が赤に変わった。(もう。こんな夜中に赤にしなくてもいいのに)サヤカは文句を口の中で唱えながら停車した。(いつもの角までいったら720のエンジンを止めて、押してガレージに入れなきゃ)家族や隣人を起こさないように配慮することを考えていたサヤカは、微かなジェット音に上を見上げた。人々の生活から夜空に漏れだす鈍い明かりの中を、黒い大きなエイのような物体がゆっくりと通り過ぎていくのが見えた。それはまもなく街並みの向こうに消えていった。

(何だろう?UFO?)サヤカがそう考えた次の瞬間、街全体が真っ白な閃光に包まれた。
この世が終わったかのような閃光が町を包み込み、少し遅れてあらゆるものを消し去った後の轟音と爆風がやって来た。体を低くして何とかバイクを転倒させずにやり過ごしたサヤカは、何が起こったのか分からず本能的に自分の家の方向にバイクを発進させた。
 その後のことをサヤカは途切れ途切れにしか憶えていない。閃光のあった方向の住宅街だった所には広大な空間ができていて、中心部は熱を持ち、すぐには近づくことができなかった。そこにあったはずの建物はすべて消えていた。
 サヤカはその空間を当ても無く長時間さまよった後、夜明けの薄明かりの中ようやく自分の家のあった場所を見つけることができた。そこはその広大な空間の中心で、足元には超高温で変質した瓦礫が広がっているばかりだった。昨日は家族全員がそこに居たはずだ……そう考えると一気に膝の力が抜けて座り込んだ。
 気がついた時、DEZMO720はフリーウェイを時速150キロで西へと向かっていた。サヤカは狂気を含んだ顔で彼720の背中にしがみついていた。

 すべてが終わり。幾つかが無から始まった。
 そして
 雨の季節が始まろうとしていた。

 ヤキダマはフェンスの前に立っていた。フェンスの向こうには広大な空間が広がっている。
 そこには建物は言うに及ばず、あちこちに生えている雑草以外立っているものは何も無い瓦礫の空間が広がっていた。
 フェンスには立ち入りを禁ずる旨を書いたプレートが風に揺れていた。
 ヤキダマの隣には、コトリがひょろりとした体に“オカッパ”の黒い髪を風に揺らして立っている。両手の指はしっかりとフェンスを掴んでいる。指先が白くなっているので力が入っていることが分かる。
 そんなコトリをさりげなく見つめながら、ヤキダマは鈍い疲労感を感じていた。早朝カンデシティーを出発してから550Kmを延々と時速120キロ以上で走行した。1時間以上走り続けないようにサービスエリアで休憩を取ったが、コトリは東へ進むにつれ無口になった。最初の休憩ではまだ笑顔をみせて冗談も言っていたのだが、2回目3回目と笑わなくなって、心ここにあらずの時間が長くなった。どんどん無口にそして表情が乏しくなってゆくコトリに昼食を進める機会を失ったまま、6時間以上をかけてウラスの街にようやくたどり着いたのだった。
 事故の現場に行くという予想はしていたが、実際コトリのバイクがそこに向かっていると分かった時にはやはり緊張したし心配もした。そこはサヤカ……今はコトリと呼ばれている……の実家の有ったところだ。事故の原因は、新型爆弾を積んだ最新鋭爆撃機の自動攻撃訓練中の墜落とされていたが、その“爆心地”の中心にあったコトリの、いや、サヤカの実家は跡形も無くなり、サヤカの家族も思い出もみんな消えてしまったのだ。なんの痕跡も残さずにだ。傍目にはきちんと現実に向き合っているように見える。しかし乏しい表情の内側が表面に出てくることはほとんど無い。あからさまにならないように気を使いながらヤキダマはコトリの様子を見守っていた。
 どれくらいそうしていただろう。コトリは指先に込めた力を緩め、フェンスから手を離すとヤキダマの方を向いて「行こうか……」と言った。
「いいのか?」ヤキダマはコトリの目を見つめて言った。
「……」コトリの唇は微かに揺れたが言葉にはならなかった。かわりに顔が僅かに上下に動いた。ヤキダマはコトリの顔を暫くじっと見つめていたが、彼女の唇がきつく結ばれるのを見るとゆっくりと頷いた。コトリはフェンスに背を向けると歩き始めた。
 そして振り返ることなくバイクのところまで一気に歩くと、ジャケットをはおりヘルメットを被りエンジンをスタートさせた。コトリのバイク、赤い254は直列4気筒の滑らかなエキゾーストノートを響かせた。ヤキダマはあわてて自分のバイクに跨るとエンジンをかけたが、ヘルメットを被ろうとしてあご紐を留めるのに手間取っていた。
 コトリはそれにかまわずバイクをスタートさせた。甲高い音を響かせて2速・3速とレッドゾーンまで加速していく。ようやくあご紐を留め終えるとヤキダマは大急ぎでコトリの後を追った。

 事故のあった住宅街は台地の上に広がっている。そこからフリーウェイのインターチェンジへ向かうには、台地から平地へ急激に下って行く2箇所のヘアピンカーブを抜けなければならない。ヤキダマは台地の端にたどり着くとバイクを道の端に寄せ下を覗いた。ここで道は90度右に曲がって坂を暫く下ると最初のヘアピンがある。そこで180度方向を変えてさらに下って、ヤキダマが覗いている場所の真下辺りで2つ目のヘアピンに達する。そして再び180度方向を変え、暫く直進してから緩やかに90度カーブを描いてインターチェンジの方面へ抜けてゆく。いま、真下の2つ目のヘアピンカーブをコトリの赤いバイクが抜けていった。車体を右に大きく傾け高速で安定したコーナリングを済ませたそのバイクは、甲高い排気音を響かせながらその次の緩やかなカーブをなぞった。その遙か向こうには午後の日差しを受けて晩夏色に輝く大洋が広がり、その向こうには真っ白な入道雲が立ち上がろうとしていた。走り去るバイクからそのまま目線を上げて雲を見上げていたヤキダマは、ふと空から目を離してあわててバイクをスタートさせた。
 ヤキダマはインターチェンジからフリーウェイに入ると、スピードメーターを時速130キロに合わせ走行しようとした。コトリだったらたぶん140キロ程度で走っているだろうと想像したが、疲れを抱えた体では安全性から考えても自信が無かった。今のスピードでも一旦ハンドルから手を離すと、風圧の影響を受けて手をハンドルに戻すのにかなりの力を必要とする。そのうちにこのスピードにも絶えられなくなって、もう少し速度を落とさざるを得なくなった。気持ちは焦っていたが体が、そして精神が弱っていた。
 給油をするサービスエリアはあらかじめ決めてあった。254とヤキダマのバイクEXP600の航続距離を考えながら給油の出来るサービスエリアを決めておいたのだ。万が一相手を見失ってもここで出会える作戦だった。復路での最初の給油ポイントが迫っていた。ヤキダマは減速レーンに入るとスピードを落としサービスエリアへ入っていった。駐車場をざっと流しながら254の姿を探すが見当たらない。もうすでに給油を終え出発したのだろう。バイク駐車場に600を停めると建物の中のコンビニに飛び込んだ。腹ペコだった。サンドイッチと缶コーヒーを大急ぎでお腹に詰め込み、親父とコトリに現在位置と時間を簡単に記したメールを発信しながら給油しすぐに出発した。
 復路2つ目の給油ポイントにも254は見当たらなかった。長い長い1日だった。おまけにまだまだ終わる目処は立たない。疲労は重たい塊になって体内に蓄積し、眠り込んでしまいそうだった。時速100キロ以上の風圧もなかなか目を覚ましてくれない。
(600マイルブレンド、これがどれだけバカげたことか想像してみたらいい。たった1杯のコーヒーの為にカンデからウラスまで1000キロ以上を往復するんだ。今回は一応の目的はあるが、何も1日で往復する必要なんか無いんだ。誰でもいい、やってみろよ。走ってみればどれだけバカげた事か分かるだろう)
 道路情報の大きなモニターに事故の表示がないことを確認し、目覚ましのブラックコーヒーの缶を開けた。休憩もそこそこに給油をしながらメールを発信し出発した。最後の給油ポイントまで止まらないつもりだった。
 コトリは本当にこのフリーウェイを走っているのだろうか?どこか別の方向へ飛び立ってしまったのではないだろうか?あそこに行って、あの風景を見て普通の精神状態であるはずが無い。先に行かせるんじゃなかった。ウラスでもっとしっかりと捕まえておくんだった。事故があったときのように思いもかけない方向に飛び立ってしまったら、僕にはもう二度とコトリを捕まえるチャンスは無いんじゃないのか?自然界に飛び立った小鳥には自由は与えられるが、常に危険が付きまとう。1人で飛び立ってしまったら、僕はもう守ってやることは出来ないのだ。
 ヤキダマの朦朧とした頭の中では、エンドレスに繰り返される思考に重なって非常警報も響いていた。それは高回転でまわり続けるエンジン音だったのかもしれないし、ヘルメットをかすめる時速100キロ以上の風の音だったのかもしれない。夕方が近づいて暗くなり始めていたが、ヤキダマの判断力はかなり低下していた。
 ふと気付くと3つ目、最後の給油ポイントが迫っていた。ヤキダマは減速を始め、ゆっくりとサービスエリアへと入っていった。今回も駐車場をざっと流しながら254の姿を探すが見当たらない。バイク駐車場にも停まっていない。親父からもコトリはまだ到着していないとのメールが入っていた。
 最後の期待を裏切られたヤキダマは、ショップエリアの端に設けられた大きなソファーに座り込んだ。暫くそうして下を向いていたが、我慢できなくなって、背もたれに大きくもたれかかった。そうしてから目を瞑り、眠りの世界に落ちようとした。
 その時、両方の頬に冷たい感触を感じてヤキダマは飛び起きた。目を開けると目の前にコトリの顔があった。ヤキダマは暫く呆然とコトリの顔を見つめていたが、思いついたように「コトリ?」と言った。そして両手をコトリの背中に回すと引き寄せ、グッと抱きしめた。コトリは目を見開いたが、そのままヤキダマの上に倒れこんだ。そしてそのまま暫くじっとしていたが、ヤキダマが涙を流しているのを見るとその涙にそっと唇を触れさせた。
「どこを走ってたんだ。駐車場にもバイクは無かった」
「給油してガソリンスタンドに停めて、ずっとこっちを見てたんだ。600が見えたから……」
「心配したよ」
「そう?でも普通に走ってきたんだよ。ヤキダマの位置はメールで分かってたし」コトリはこともなげに言った。
「僕には何も分からなかった」ヤキダマは抗議の声を上げた。
「ごめん。走るのに夢中になってた」
 ヤキダマは少しの間コトリの顔を見つめた。「大丈夫なのか?」
「何が?」コトリはキョトンとした顔で答えた。「私のことを心配してた?」
「当たり前だろ。どこかへいってしまったのかと思った」
 コトリはヤキダマの耳元に口を近づけて「ありがとう。私、このまま進んで行こうと思う。ここまで走ってきてやっとそう思った……上手く進めるかどうか分からないけれど……」と言った。ヤキダマはもう一度コトリを抱きしめ、その存在をしっかりと確認してからそっと横に座らせた。
 並んで座りながらコトリは「親父さんに連絡を入れなきゃね。ここまでたどり着いたらあと少し休憩しても安全運転で間に合うよ。もっとも254はオーバーヒート気味だから、安全運転じゃないと走れないんだけど」
「調子が悪いのか?」ヤキダマが心配して訊くと「大丈夫。充分走れるよ。ほら。これ。飲んじゃおうよ。喉が渇いた」コトリは持っていたサイダーの瓶をもう一度ヤキダマの両頬に当てた。ヤキダマの涙は瓶に付いていた水滴で帳消しになった。
「冷たくて気持ちいい。僕もカラカラだ。飲もう」ヤキダマはコトリの分もキャップを開けるとコトリに手渡した。
 2人はサイダーを一気に飲み干した。飲み終えると2人はソファーに背中を預け、そして何気なくお互いに寄りそった。お互いがお互いを意識の中に置いたその時、2人同時に大きなゲップが出た。
 2人は暫く顔を見合わせていたが、やがて同時に笑い始めた。


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720(Seven two zero)

 Stella/s
 コーナーが迫ってくる。ギアを4・3・2と落として急激に減速する。ギアを落とすたびに、L型ツインエンジンは、レッドゾーンまで回転を上げて独特の唸りを上げる。リアタイヤの暴れが収まってから、体重を右のステップにかけ体を左に移す。バイクは自然に左に傾きコーナリングを始める。インに入りステップを路面にこすりながらカーブをなぞる。遠心力でフレームが変形していく。コーナーの出口が見えた。アクセルをさらに大きく開けるとレブメーターはレッドゾーンまで跳ね上がり、L型ツインは歓声を上げる。間髪を入れずに3速へシフトアップしてレッドゾーン、そして4速。あっという間に次のコーナーが迫ってくる……。

 サンライズドライブウェイのケーブル山上駅前の広場に深紅のDEZMO720を止めて、サイドスタンドを降ろす。ヘルメットを脱ぐとサラッとしたオカッパの髪が流れ出す。真っ黒なその髪には所々に白いものが混じっている。冷たい空気と静寂が頬と耳を“キンッ”と突き刺し、ゆっくりと空を見上げると、吐いた息が白くなって昇って行く。
 3月とはいえ山上はまだ寒い。日差しはあるがカラッと乾燥した空気が頭上を覆い、遥か上空には何機かの飛行機が自らの軌跡を描く。さらに抜けるような青い空がその上を支配する。
 もう朝遅い時間だというのに、この気温ではバイク乗りの姿は見えない。静まり返った広場には観光客の車が少し止まっているだけだ。バイクにまたがったまま大きく伸びをすると、微かに聞こえ始めたエンジン音の方向に顔を向ける。音はどんどん大きくなり、やがてコーナーを曲がって1台のバイクが現れた。黒のEXP600だ。600はCVT独特のエンジン音を響かせながらDEZMO720の隣に並んで停車した。
 バイザーを上げて「相変わらず速すぎるぞ。コトリ」ヤキダマが声をかけた。
「つい……ね」コトリは愛おしげに深紅の燃料タンクをポンとたたいた。
「この子はデスモドロミックだからパワーバンドが広いもの。高回転まで回してもバルブサージングを起こさないし、旧型よりボアが大きい分高出力で、ブレーキもフレーム強度も節度があるから、ちゃんと乗り込んだらもう少し速く走れるよ」コトリがこともなげに答えた。
 楽しげに分析するコトリに呆れたのか、ヤキダマは両手をお手上げにして上を向いた。
「なに!それどういう意味?」コトリは少し怒った声を出したが顔は笑っている。
「どういう意味って、そのままの意味さ。呆れてるんだよ」ヤキダマは手を上に上げたまま答えた。
「やっぱり、わたしって変?」
「ずっと前に、そんなこと言ってたことがあったよな?」
「そう?覚えてない」
「確かに、普通じゃないよ。でも問題は無い。かわいいし……」ヤキダマはその時のことを思い出しながら、その時の台詞を繰り返した。
 コトリは含羞むような笑顔になると、それを見られないように空を見上げた。
「コトリ?」ヤキダマの呼びかけに(ウン?)という感じでコトリが反応し顔を戻した。
「コトリはよくそうやって空を見上げているよな」
「だって、わたしの家族がいるんだもの……」コトリはまた空を見上げて小さな声で言った。
「ごめん」ヤキダマはしまったという顔で謝ると話題を変えた。
「ところで、僕はもう凍えそうなんだけど?」
「そう?わたしは大丈夫だよ」コトリはとぼけた表情だ。
「女性は皮下脂肪が多いからそうかもしれないけど、僕はもう我慢できないよ。寒い寒い」ヤキダマは腕を抱え込むと情けない顔をした。
「じゃぁ。駅のカフェに入ろうか?」
「そうしよう、そうしよう」2人はケーブル山上駅のエントランスにある小さなカフェに入っていった。
 景色の見下ろせる窓際に向かい合わせに座り、熱いコーヒーにモーニングセットを付けてオーダーすると、2人は改めて顔を見合わせた。すぐに目を泳がせたコトリは窓の外を向いて「綺麗……」と言った。窓の向こうにはカンデの街並みが、その向こうには大きな港、さらにその向こうにはキラキラ光る海が広がっていた。
「裁判、終わったな」ヤキダマがポツリと言った。
「うん。5年もかかったけど、やっとね……」コトリは窓の外を見つめたまま呟くと、ヤキダマの方を向いた。そして「長い間かかったけど、色々とありがとう」と伏し目がちに礼を言った。今日はそれが言いたくてヤキダマを誘ったのだ。
「僕は何にもしてないよ。あまり役に立たなかった。ごめんな」
「そんなことない。ずいぶん助かったよ……」コトリは顔を上げた。
「ヤキダマにも親父さんにも感謝してる。あの時、背中を押してもらわなかったら、今でも闇の中に居たのかもしれないもの。ずっと隠れたままじゃあ何も進まなかったし、どこにも行けなかった。そう思うと荒っぽかったけどあれが正解だったと思う」
「そうだな。たしかに無茶苦茶だったよな。でも600マイルブレンドで1日に1000キロ走ってからもう5年になるのか」
「ううん、あと少しで6年たつよ」
「そうか。あのツーリングも大変だったけど、あの後、コトリが住民票を移しに行ったら大変な騒ぎになったよな。“行方不明の女性生存!”なんて大見出しで」
 コトリは伏し目がちに座っていたが顔は笑顔だった。ようやくこの話題を過去のこととして認識できるようになってきた。ヤキダマはそのことを心得て喋っているようだ。
「事故の原因は結局うやむやにされてしまったな」
「でも、わたしが事故の目撃者だったから、明らかになったこともずいぶんあったみたいだよ。国防省や空軍はもっと隠しておきたかったみたいだったもの」
 ヤキダマの顔が心配そうになった。
「大丈夫だよ。ヤキダマに言われた通り無茶はしてないから。見たことをそのまま答えただけ……」
「だったらいいんだ」
「いろんな人が情報源としてわたしを利用しようとしたけど、ヤキダマや親父さんや店の常連さん達がいてくれたおかげで、なんとかここまでこれたと思ってる。わたし1人だったら、もうわたしは生きていないかも……」
「そんな……」ヤキダマの顔は悲壮になった。
「大丈夫。もうわたしは普通の女の子だよ。マークも外れてるし」
「マークされてたのか?」
「スギウラ先生が教えてくれんだけど、そうらしいよ。わからなかったけど。でも、わたしを消すのは簡単だよ。バイクで走ってるところをチョンと……」
「やめてくれ!」ヤキダマの声が響き、コトリは喋るの止めた。
 暫く店の中を静寂が支配したが、そこにモーニングセットが運ばれてきた。店員が去るのを待ってからヤキダマは顔を硬くして「じゃぁ。もう大丈夫なんだな?」と訊いた。コトリはゆっくりと微笑むと「うん。もう普通の女の子だよ。あ、もう“子”じゃないよね?」と言って少し首を傾げた。
 ヤキダマは顔を上げて笑顔を見せると「女の子でいいよ!さぁ食べてしまおう。なんなら追加注文してもいいよ」と言った。
「じゃぁ。ミックスサンドを追加して2人で分けない?なんだか少し足りないような気がする」コトリはさらりと言った。ヤキダマは店員を呼んでそれを注文すると「さあ食べよう」と熱いコーヒーを喉に流し込みトーストにかぶりついた。
 食事を進めながらコトリはヤキダマの顔をそっと観察していたが、頬の筋肉が少しゆるんだような気がして「人心地が付いた?」と声をかけた。
「うん。やっと少し暖まった」ヤキダマは答えたが、すぐにコトリの目を見つめて「ずっと気になっていたんだ。コトリの状態が。国防省は巨大だし、コトリは小さいし……。でもやっと少し安心した」と続けた。
「ありがとう。ずっと気にかけてくれてうれしい」コトリは聞こえないぐらい小さな声で呟いた。
 ヤキダマは聞こえていたのかコトリに微笑みを返すと「コトリ、いや、サヤカに相談があるんだ」と言った。コトリはちょっと目を見張ったが小さく頷いた。

「コトリ!おはよう。どこだ?」定休日明けのバイクショップ“コンステレーション”に親父の大きな声が響いた。
「いるよ!」キッチンのドアから油のシミの付いた白いTシャツと薄汚れたジーンズのコトリが頭を出して、またすぐに引っ込んだ。「あれ?もうこんな時間?」キッチンからコトリの声がする。壁に掛けられた時計は9時を指し、コーヒーの香りが漂っている。
「用意は進んでるのか?」親父はキッチンに向かって声をかける。
「大丈夫だよ。ピットを覗いてみて」声だけが聞こえる。
 親父はピットのドアを開けて中に入って行った。「おお!立派なもんだ。生き返ったな。とても中古とは思えんぞ」ピットから親父の声が響く。「でしょう?後でエンジンをかけるけど、先に朝ごはんにしない?」コトリの声が響いた。
 親父は「おう。そうしてもらおうか」とキッチンに声をかけた。そして、店の一番奥にある大きなデーブルにセットされた木製の長椅子に腰をかけ、テーブルに置いてあった老眼鏡を掛けると新聞を読み始めた。
 目についた記事を幾つか読み終えた頃、キッチンからコトリが出てきて、たっぷりのバターとマーマレードを塗ったトーストと大きなサラダボール、それにハムエッグとホットコーヒーのセッティングを済ませた。
「じゃあ。少し遅いブレックファーストと行こうか」親父が声をかけると、コトリも親父の向かいに座り、コーヒーに砂糖を1杯とミルクを入れた。
 親父はコーヒーだけをカップに注ぐと少し持ち上げ「いただきます」と言った。コトリも「いただきます」と言うと食事を始めた。
「見事なもんだ。驚いたぞ。ここに来た時は動くかなと思ったけどな。金にあかせて買ってみたものの乗りこなせないで、5年以上放置されていた車体だったからな」熱いコーヒーをゆっくりとすすりながら親父が言った。
「全部ばらして組み直したもの。けっこう大変だったよ」
「コトリが前に乗っていたバイクだから思うところもあっただろ?」
「親父さんは720だから引き取って来たんじゃないの?」
「ばれたか?」親父は相好を崩した。「で、昨日は試運転に言ってきたんだろ?」
「うん。いい走りだったよ。わたしが欲しくなっちゃった。でもこの子はダッシュ7だから、やっぱり前乗っていたのと同じダッシュ5がいいかな。少し扱いにくいところがある方が面白いもの」コトリは少し遠い目をした。
「そうか……で、だれと一緒だったんだ?2台で出かけたと聞いたぞ」親父はそこにはあまり触れずに話題を変えた。
「え?」コトリの顔が赤くなった。あわててパンを口に入れて下を向く。
「あの……ヤキダマを誘ったの。ちゃんとお礼を言いたくて」
「そうか。やつは何か言っていたか?」
「あまり役に立てなかったって謝ってた」
「やつらしいな。ずいぶん動いてくれたんだぞ」
「わかってる。だからちゃんとお礼が言いたかったんだ」
 大きなテーブルに向かい合わせに座って2人の会話は続いた。
 食事が終わる頃「親父さん?」コトリが遠慮がちに声を出した。
「なんだ?」孫娘を見る目になって親父が応えた。
「ちょっと、相談があるんだけど……」
 親父は座る位置を変えて少し身を乗り出した。

 午後の“コンステレーション”の前にはたくさんの大型バイクが整然と並んでいる。店に来た者はこの位置にきちんと整列して駐車する決まりになっている。店の中は男どもと数人の女性でごった返している。中には親父とヤキダマの姿も見える。
「そろったようだな?みんな!引き渡し式を始めるぞ!」親父が店の中を見渡しながら言った。
「オォ!」歓声が上がり拍手が湧き起こった。「スギウラさん、ここに立ってくれ」親父が指示を飛ばす。スギウラと呼ばれたツーリングウェアに身を包んだ女性がみんなの真ん中に立った。「いいぞ!コトリ、ここへ出してくれ」親父が声をかけると、ヤキダマがピットのドアを開け、コトリが深紅のバイクを押して現れた。響めきの中、女性の前に720を止めると「いかがですか?スギウラ先生」とコトリが少し自慢げに言った。
「すごい!」女性は驚きの声を上げた。「これがあの埃まみれだったバイク?」とコトリの方を向く。「ええ!ご注文のDEZMO720ダッシュ7ですよ。エンジンをかけてみましょうか?」女性が頷くのを待って、コトリはイグニッションを入れセルモーターを回した。辺りをはばからない大きなエンジン音が響き、コトリのアクセル操作によって軽やかに回転を上げる。コトリは途中で女性にハンドルを預けた。女性は暫く調子を見たあとエンジンを止めた。
 周りから拍手と歓声が巻き起こった。「ありがとう。コトリ!最初はあんなに埃まみれだったから、新車にしようかと思ったんだけど、コトリにまかせてよかった。本当に新車みたい。でもDEZMOは構造が複雑で、新車でも不安定なところがあるから、コトリのチューンだと新車より安心感があるわ。これからもこの子の面倒を見てくれるわよね?」
「もちろんです。スギウラ先生。次の定例ツーリングは私も254でお供します。初の長距離ですからね」
「ありがとう。コトリ、でも先生はやめてくれない?」
「え、でも裁判でもずっとアドバイスをいただいていたし……」
「あれは私の仕事としてやったことじゃないから、あなたを娘みたいに思ってるの、だから先生なんて言わなくてもいいから……あ、娘じゃないわ。妹、そう妹みたいに思ってるんだから」
 一同がどっと笑った。
 一応の儀式は終わり、常連達は720を店の表に引っ張り出してバイク談義に花を咲かせる。コトリとヤキダマがキッチンからアフタヌーンティーの紅茶セットや軽食や菓子を運び出して、コトリが寝床として使っている台の上に並べた。
「親父さん、コトリのチューンが受けられるなら、みんなここで中古バイクを買うぞ。わざわざ新車を買うより経済的だし、コトリにまかせておけば安心だしな」ひげだらけの大男が言った。「コトリはずっとここでバイクの面倒を見てくれるわね?親父さんではちょっと心配になってきたもの」スギウラさんが言った。
「そりゃどういう意味だ?まぁ、ちょっと老眼が進んでるんだが」親父が言うと笑いが巻き起こった。周りからは「コトリはずっとここにいてくれるよな?」と声が上がり、みんなの視線がコトリに集まった。コトリはみんなの迫力に圧倒されている。
 頃合とみたのか親父が声を出した「ちょっとみんな聞いてくれ!重大発表だ!」親父はヤキダマとコトリの方をチラリと見てから「ヤキダマ、発表しろ!」と言って目配せした。
 ヤキダマは「エッ!」と暫く固まって親父を見ていたが、やがてコトリの方を見た。
 コトリも突然のことに驚いていたが、少し間があってから小さく頷いた。
 「あの……」ヤキダマは覚悟を決めたように喋り始めた。「あの、突然の事なんですが親父さんの命令なんで、ここで発表してしまいます。僕と、コトリは結婚することにしました。だから、コトリはずっとここに居ます」
 一瞬の沈黙の後“コンステレーション”は大きな歓声と拍手に包まれた。やがて拍手は「キーッス、キーッス」という小さなかけ声と手拍子に変化し、それはだんだん大きくなって収まらなくなった。店の前を通る側道で信号待ちをする車からもたくさんの視線が集まってくる。
 ヤキダマはコトリに近づきそっと頬を触った。コトリは覚悟を決めて、目をつぶってそっと頬を出した。その直後、ドォ!!!っと大きな歓声が上がった。コトリは唇に手を当てて顔を真っ赤にしている。ヤキダマはそのまま両手でコトリを抱え上げるとクルリと1回転した。ふわりと浮き上がったコトリは驚いたが、サヤカが大空からよく見えるように抱えあげられている事がわかると、笑顔で大空に幸せの報告をした。

2013.05.23

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1006(ラグランジア)

1006(ラグランジア)

 マシロ川は首都シンキョウの外縁に沿ってイルマ最大の平野を流れ、ウラスの町外れの住宅街の広がる台地を回り込んでから海にそそぎ込む。平野部を流れる川の特徴として、川幅は比較的広く、流れは緩やかだ。その堤防上を伸びるサイクリングロードは、勾配の小ささもあって市民に好評で、多くの自転車が行き来する。さらに河川敷は市民の憩いの場としても機能し、遊水地を兼ねた草原や運動場が広がり、水辺には背丈ほどもある葦が茂っている。河口からゆっくりと吹き上がって葦を揺らす仄かに潮の香りを含んだ川風や、灰色の雲の間に顔を出す鮮烈な青い空は、薄い雲の向こうに隠れている高度を上げた太陽と共に、雨の季節の終わりを告げていた。

 サヤカは力強くペダルを踏み込んだ。
 最新型の小さな赤いロードバイクはパワーアシストが付いているので勢いよく加速する。
 左胸にワンポイントのマークの入ったTシャツに細身のジーンズを履いて、短めにカットされた黒い髪を風に揺らしながら、軽やかに川沿いの道を上流に向かって進んで行く。
 今日の授業は午前中で終わった。誕生日のプレゼントとしてこの小さなロードバイクをもらっていたサヤカは、午後の空き時間がたまらなく勿体なくなって、昼ご飯もそこそこに家を飛び出してきたのだ。サヤカはこの春小学5年生になったところだったが、小さい頃から乗り物を操るのが大好きで、三輪車を早々に卒業して自転車を買ってもらうと、あっという間に乗りこなせるようになった。暫くはそれがお気に入りで乗っていたのだが、やがて体に比して小さくなり2台目を買ってもらい、それにもずいぶん乗ったのだが本格的な物が欲しくなって、このロードバイクを買ってもらったのだ。大人用に比べるとまだ一回り小さい子供用で、それでも細いタイヤと軽い車体、目立たないように内蔵されたパワーアシストを備える本格的な物だった。
 ウラスの台地を回り込むとやがてサイクリングロードはカツネ区に入り、マエハマの町に沿ってマシロ川を遡って行く。堤の内側には、低層のビルや家並みの新旧入混じった下町の風景が続いている。
 地方から金を稼ぐために出てきた人々は、家賃の安いこともあって、まずこの町に居を構えることが多い。低層の賃貸マンションに押されてはいるが、まだまだ木造の長屋やアパートが幅を利かせているし、川には渡し船の乗り場などもあって、のんびりとした雰囲気を醸し出している。
(次来た時はあれに乗ってみよう……)そんなことを考えながら自転車を進めていたサヤカの耳に、上って行く川風の一瞬の揺らぎに乗って何かの調べが届いた。(何だろう?)彼女は不思議に思って自転車を止め耳を澄ませた。
 ロードバイクは渡し船の乗り場を通り過ぎて、その上流にある川の中につきだした施設に差し掛かっていた。それは川幅の4分の1ぐらいの位置の川の流れの中に立つ、臙脂色に塗装されたとんがり帽子の屋根を持った石造りの四角い塔で、堤防の上からそこに向かって橋のように通路が延びていた。通路の下には太いパイプが通っていて、真っすぐに塔の中階部分まで伸びている。パイプはそのままタワーの中に吸い込まれているが、通路はそのままタワーを一周するテラスに繋がっている。今も微かに途切れ途切れに聞こえてくる調べは、その塔の向こう側のテラスから聞こえてくるように思われた。
 橋のような通路は「立入禁止」の札と共に金網の扉で塞がれていたが、その端の一部分がちょうど人が1人通れる位破れている。サヤカはその扉の前で暫く躊躇していたが、やがて自転車のスタンドを降ろしロックをかけると、その破れ目を、服を破かないように慎重にくぐり抜けた。
 通路はこの施設の点検のために設けられているのか、歩く部分は隙間の開いた板張りで両側の手摺も簡易な作りだった。塔の方へ進むにつれて地面が下がるので、河川敷の部分まで進むと、板張りの通路の下には5メートル程の空間が広がることになった。
 サヤカは高い所が苦手という訳では無かったが、それでもこの下の見える簡易な作りの通路にはおっかなびっくりになってしまい、両の手で手摺を掴んでゆっくりと進んで行った。微かに届いていた調べは、丁度塔の陰になってしまったのか、それとも奏でるのを止めてしまったのか届いてこない。下にあった地面は水面へと変わり、通路はさらに高さを増した。サヤカは通路の板の強度を確かめるように、一歩づつそっと足を踏み出しながら進んでいき、ゆっくりと塔の壁にたどり着くとテラスに入り最初の角を曲がった。
 今度ははっきりと調べが聞こえ始めた。一休みしていたのだろうか……始まった演奏はギターのものだった。リズミカルな前奏の後、今度は歌声がそれに乗って響き始めた。女性の声だ。サヤカは前進することを忘れてその歌声に聞き入った。その柔らかい声は、その柔らかさを保ったまま力強くまた優しく美しく、包み込むように響いてくる。歌詞は紫陽花をヒロインに見立てたもので、紫陽花は自分の持つ花言葉と自分の気持ちとの乖離に心を惑わすという内容だった。揺れ惑う少女の気持ちを綴ったその歌は、少し大人っぽいものに興味を持ち始めたサヤカの心にすんなりと入り込んで共鳴した。サヤカは曲が終わるまで塔の壁にもたれてじっと聞き耳を立てていた。暫く間が開いてまた初めから演奏が始まると、サヤカはまた通路を進み始め二つ目の角に近づいた。そして気づかれないように用心しながら、塔の角からそっと顔を出した。
 思った通りテラスは塔をぐるりと一周していたが、川に面した側のテラスの中央には、舳先のようにさらに川に向かって張り出した部分があった。その先端に、学校の制服だろうか、シンプルなデザインの白いワンピースを纏った、サヤカと同じ年ぐらいの2人の少女の後ろ姿が見えた。
 彼女らはその舳先に仲よさそうに並んで腰かけ、手摺の大きく開いた隙間から足を外に放り出し、歌に合わせて揺らせていた。こちら側に座ってギターで伴奏している少女は、スラリとした体に肩より長く伸ばした黒い髪を後ろで1つに束ねていた。そしてその向こうに座る、痩せすぎぐらいに見える少女を見て、サヤカは少し驚いた。髪が真っ白だったのだ。その肩に届かないくらいに短めにカットされた髪は、雲間から顔を出した太陽の光にキラキラと輝きながら川風に揺られている。その白で統一されたような格好はアクセントを欠いていたが、一方汚してはいけないものの様な清純さを感じさせた。(天使みたい……)サヤカが抱いた感想のままに、その白い髪の少女の声は美しく響いていく。少女が伸びやかにフルコーラスを歌い終えると伴奏のギターも静かに演奏を終えた。
 暫くの間押し黙ったまま2人は川面を見つめていが、やがて静かな声で会話を始めた。黒い髪の少女は向こうを向いていたので何を話しているのかまでは聞き取れない。だが、その身ぶりや手ぶりから何か明るい話題を面白おかしく話しているように見える。一方、白い髪の少女は横顔がこちらから見える形になったので、その表情を読み取ることが出来る。彼女は少し硬い表情でその話を聞き、そのまま表情を変えずに短く返事を返している。
 そんなアンバランスな会話が暫く続いた後、白い髪の少女の顔がふと動いてサヤカの方を見た。秘密の演奏会をこっそりと覗いているような、後ろめたい気持ちを抱いていたサヤカは急いで壁の影に隠れようとした。しかし、彼女と目が合った瞬間、軽い驚きと共にサヤカは動きを止めた。(片方だけなんだ)白い髪の少女の左の目は、差し込んでくる太陽光線を反射して明るいブルーに輝いていたのだ。
 白い髪の少女の視線の変化に気が付いた黒い髪の少女が振り返った。
「だれ?」黒い髪の少女の声が響いた。
 サヤカは覚悟を決めて壁の影から出た。「ごめんなさい。隠れるつもりはなかったんだけど……」
「風紀委員……?そんなことないわよね?」黒い髪の少女が不安そうに訊いた。
「わたし?違う違う。そんなんじゃない。わたし、ウラスから来たの」サヤカは慌てて説明した。
「ウラスから?」黒い髪の少女が驚いた顔をしたので、サヤカは「自転車でね。サイクリングロードを走ってきたんだ。そこを通りかかったら歌が聞こえたから……上手だなって思って」と付け加えた。「そう……」黒い髪の少女はそう言ってサヤカの顔をじっと見つめた。そして「どうだった?この子の歌」と白い髪の少女を振り返ってから言った。
「すごく、上手だったよ」サヤカは自分の気持ちを素直に言った。
「ありがとう」黒い髪の少女は礼を言ったが、白い髪の少女は彼女の陰に隠れるように体の位置をずらせた。一言も発せず。顔はさっきからずっと川面を見つめたままだ。
「すごく上手でしょ?でもね、この子、人前では歌わないんだ。ここでこうやって歌うだけ。私の伴奏でね。この子にとってこれまで私以外に観客は居なかったから、あなたは初めての本当の観客なの。だから、どうだったのか、すごく訊きたかったって訳。それにね。さっきの曲、私が作ったんだ」黒い髪の少女はそう言って笑った。
「紫陽花の曲?」
「うん」
「とっても良かったよ。紫陽花の気持ちがわかるもの……何だか自分が紫陽花になったみたい。歌も気持ちが込もっていて、すごく良かったよ」サヤカは白い髪の少女を覗き込むようにして言った。
 白い髪の少女は川面を見つめたまま「ありがとう……」と小さな声で言った。
「私はソングライターを目指してるんだ。だけど今はこの子に歌ってもらうためにだけ作ってるの。この子は人前では歌わないけど、すごく上手に歌ってくれるわ。だから、誰も聞いて無くても、それだけでもやりがいがあるし練習になると思ってる……でもね!1人でも観客が居て、良かったって言ってもらえるとやっぱり嬉しいな」
「あなたは歌手を目指してるの?」サヤカは白い髪の少女に尋ねた。彼女は焦茶と青の色違いの目を大きく開いてサヤカを見つめたが、やがてゆっくりと微笑むと少し俯いて顔を左右に振った。
「この子は恥ずかしがり屋なんだ。でも、上手だからなれると思うんだけど」黒い髪の少女はギターをかかえなおしながら言った。「そろそろ時間だから、私達はもう1曲だけ歌って帰るよ。聞いてくれる?」
「それなら、もう一度紫陽花の歌が聞きたいな。いい?」
「うん!いいよ。じゃあここに座りなよ」黒い髪の少女が2人の間を開けてくれた。サヤカはそこへ座り、少し怖かったが2人と同じように足を外に放り出した。
ラグランジア

 左側で前奏が始り、やがて右側で白い髪の少女が歌い始め、サヤカは少し恥ずかしさを感じながら伸びやかな歌声に引き込まれていった。
 寄り添う肩から伝ってくる声帯の振動は、サヤカの脳に鮮やかに刻まれていった。
 足元に拡がるマシロの流れは、雲間から顔を出した太陽で輝きを増した。

「コトリ!じゃないサヤカ!ここに居たのか」バイクショップ・コンステレーションの裏手に置いてあるベンチに腰かけていたコトリに、ヤキダマが声をかけた。雨の季節特有の優しい雨が降っていたが、ベンチの上には庇が伸びていて、雨をしのぎながら夕涼みをするのには都合のよい場所だった。
「コウキ、無理に本名で呼ばなくてもコトリでいいよ。わたしもヤキダマでいくから」
「僕もサヤカには本名で呼ばれたいからね。そのうち慣れるさ。店の常連さんも親父さんもみんな“コトリ”を使うから寂しくは無いだろう?」ヤキダマはコトリの隣に座った。
「そりゃぁ、そうだけど」
「で、こんな所でなにをしていたんだ?」
「あれを見ていたんだ」コトリは向かいの家の小さな庭を指さした。
「え?あれって紫陽花?」
「そう。小さい頃のことを思い出してたの」コトリは物憂げに言った。
 ヤキダマは少しの間黙ってコトリを見つめた。
「あ、平気だよ。友達が作った“紫陽花の歌”っていう歌を聞かせてもらった時のことを思い出してた」コトリは照れくさそうに微笑むと、遠慮がちに頭をヤキダマの肩に乗せた。
「どんな歌?」ヤキダマはコトリの肩をそっと抱いた。
「ほとんど覚えてないんだけど……」コトリは印象に残っているフレーズを口ずさんでから、ヤキダマにも聞こえるようにワンコーラス歌った。
「へえ!いい歌だな。メロディーもいいけど歌詞が面白いよ。それだけしか憶えてないの?」
「5年生の頃だもの憶えてないよ」
「5年生の頃?友達って5年生の子が作った……ということ?」
「たぶんそうだと思う。学年は聞かなかったから、でも同い年位だった」
「へぇ。すごいなぁ。相当おませさんだな」ヤキダマは感想を言ったが、それはコトリも含めてのことのようだった。
「ヤキダマ。何か用事があったんじゃないの?」コトリが話題を変えた。
「あ、そうだ。結婚式のことなんだけど……ちょっといいかな?」
「またドレスの話?」コトリの顔が少し赤くなった。
ヤキダマが黙っているので、コトリは立ち上がった「じゃぁ、中で」
2人は並んで店の中へ入っていった。
 紫陽花は優しい雨を全身に受けて生き生きと輝いている。
 雨の季節はまだ始まったばかりだった。

2013.07.13 TOM-Fさんに……
本作品に使用されているイラストの著作権はユズキさんに有ります。

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8767 Commontern (前編)

 まもなく国境だ。
 丘の間をいくつものS字カーブで抜け、アップダウンを繰り返し、かれこれ1時間以上走り続けている。ペースは落としてくれているのだろうが、ついていくのが大変だ。「ほんと、好きだなぁ」ヤキダマは右に左に車体を傾けてコーナーを抜けて行く深紅のバイクのお尻を眺めながらヘルメットの中でつぶやいた。
 と、前のバイクがスピードを落とした。右手をアクセルから離して軽く手を上げている。休憩の合図だ。
 前方に信号機があることを示す標識が右側を通り過ぎ、ヤキダマもそれに合わせて速度を落とした。
 やがてセンターラインを挟んで隣り合っていた対向車線が離れていき、走行している車線と交差して十字路になっている地点に差し掛かった。十字路には信号機が立っていて赤が点灯している。国境を示す標識が交差点のすぐ横に立っているので、青になったらそのまま国境を越えることができるようだ。深紅のバイクはその手前に設けられたパーキングスペースに停車し、ヤキダマも続いて自分のバイクを横に並べた。
 深紅のバイクのライダーはサイドスタンドを下ろすとエンジンを止めヘルメットを脱いだ。サラッとしたオカッパの髪が流れ出す
「相変わらずコトリは速いな」ヤキダマはヘルメットを脱ぎながらコトリに声をかけた。
 コトリは頭を振って髪の毛の形を整えると、ヤキダマの顔を覗きこんで「走りすぎたかな?大丈夫?」と訊いた。
「大丈夫さ!僕だって600マイルを1日で走った事があるんだからな」ヤキダマは少し虚勢を張った。
「いつのことだと思ってるの?あれから6年以上たってるんだよ」コトリはそう言って小さく笑った。

 もう新婚旅行に出てから1週間になる。どこにしようか?とヤキダマがコトリに尋ねたとき、彼女はヤキダマに任せると言った。しかしそれにはバイクで行けたら最高だな、という付帯意見が付いていた。ヤキダマがその意見を無視するはずも無く、自分の希望と上手く付き合わせてひねり出したプランは、フェリーを使ってベクレラの大陸側に渡り大自然を満喫し、その後オルガノ島へ渡り南下、国境を越えてキタカタへ入り、キタカタ最南端の街からまたフェリーを使ってカンデまで帰るというツーリングプランだった。
「国境を見に行こう」ヤキダマがそう提案した時、実はコトリは一瞬静止した。そして静かに頷いたのだ。スケジュールの関係でベクレラからイルマに向かって国境を越えることになった時も「方向は関係ない」という返事だった。
 国境が開放される前、ベクレラとの国境紛争を抱えていたあの時代、軍は国境を守るために強大な権力を持っていた。
 先の大戦でイルマを戦勝国に導いた功績も相まって、軍は敵国ベクレラに対して大量破壊兵器NAGI、そしてB94型戦略爆撃機ピースキーパーと矢継ぎ早に開発し、実戦に投入しようとしていた。
 国境紛争を優位にするために開発されたその新兵器の実戦投入テスト中の事故、それがコトリの家族全員の命を奪い、跡形も無く蒸発させるという結果をもたらしたのだ。
 軍の激しい抵抗があったと噂されてはいるが、ベクレラとの国境紛争が両国の痛み分けという形で平和裏に終結した現在、この開放された国境を見てみたい、通過してみたいとコトリが考えるのは当然と思えた。
 感情を表に出さず静かに頷く顔を見てヤキダマは、コトリの思いをくみ取ることができたような気がしてとても嬉しかった。
 国境はパーキングエリアの先、信号機のある交差点の中央を左右に横切っているはずだ。以前は国境軍に守られ、国境警備隊によって厳重に警備され、何人も通過することができなかった国境は、現在は簡単な標識によって存在を示しているだけで、信号が青になれば自由に何の障害も無く通過できるのだ。

 小さく笑ったコトリは続けて顔を上げると国境線の方をぐるりと見やった。このあたりは冬の間気温が低く風が強い日が多いせいか、背の高い木は生えていない。ただ若草色の丘の連なりが彼方まで続いているだけだ。その中をイルマの方から国境線を越えて大型トラックや乗用車の列がやってくる。信号が変わると今度はベクレラの方から大型トラックや乗用車の列がイルマの方へと国境を越えて行く。コトリはそんな様子を長い間ただ黙って眺めていた。
 ヤキダマはそんなコトリの隣に立ち、時々コトリの様子を気にかけながら国境線を眺めていた。
「国境だから信号機があるのかな?」ヤキダマは何気なく疑問を口にした。
「国境としてはこの信号機すらもう必要ないみたいだよ」コトリが答えた。
「じゃぁなぜなんだろう?」
「ヤキダマ、ここまで道路のどちら側を走ってきた?」コトリがヤキダマの方を向いてまた小さく笑った。
「え?あ!そうか。国境で右側通行から左側通行に変わるのか」
「そう。だから車線が交差していて、そのために信号機があるの」
「右側通行だからということは知識としてあっても、国境で切り替わるなんてこと、気にしたこともなかったな」
「あっちはイルマだからね」コトリは優しい感じでそういうと空を見上げた。
 それはコトリが亡くなった家族の事を想っている時の仕草だったので、ヤキダマはただ黙ってコトリの好きなようにさせていた。
 空は抜けるように青く、果てしが無かった。はるか上空では小さな鳥が速い調子で鳴き声を上げていたが、信号が変わると自動車の音にかき消された。自動車が走り去るとまた鳴き声が聞こえ始める。静かだ。やがて小鳥は急降下して若草色の草原の中に消えた。
「行こうか」コトリがヤキダマの方を向いた。
「いいのか?」相変わらずワンパターンだな・・・そんなことを考えながらヤキダマはバイクに跨った。



 ヤキダマはピットのドアの前で立ち止まると暫く躊躇してから、やがて覚悟を決めてドアをノックした。
「ヤキダマ?」コトリの声がする。
 相変わらず“ヤキダマ”だ。本名で呼び合うという試みは、暫くするとまた元に戻ってしまう。「うん」ヤキダマは少しはにかみながら返事をした。
「どうぞ、入って。いま、誰もいないから」
 ヤキダマは深呼吸をするとドアを少し開けて部屋に入った。
 ピットの中には真っ白なドレスをまとったコトリが座っていた。店の常連が特別に用意してくれたドレスだ。
 化粧も髪のセットもすっかり終わって、後は立ち上がるだけになっている。
 コンステレーションの常連には美容師や理容師、コーディネーターもいる。そいつらにスギウラ先生まで加わって、よってたかってコトリをメイクアップしたのだ。スギウラ先生はコトリが世話になった女性弁護士で39歳独身、もちろん店の常連だ。
 ほっそりとしたコトリの体には、生地の良さを生かしたシンプルなドレスがとてもよく似合っていた。何度か試着しているのを傍で見ていたが、今日のコトリは全然違って見える。白い物が混じっていた髪は黒く染めたのだろうか、白い髪飾りがその若々しさをいっそう引き立たせている。
「・・・綺麗だ」口の中で呟いたつもりだったが口に出ていたようだ。コトリの頬がほんのりと染まる。
「ありがとう」コトリが微かに頭を下げ、そして小さいがはっきりとした声で続けた「わたしがこんな格好ができるなんて夢にも思わなかった。ヤキダマがここまで連れてきてくれたんだよ。あの高熱で焼かれたわたしの家から・・・」
 ヤキダマは一瞬、初めて出会った時の全てを拒否するようなコトリの顔を思い浮かべた。「僕こそ礼を言うよ。僕と出会ってくれてありがとう。本当にうれしいよ」
「わたしも嬉しい」コトリは顔を上げた。
 あの時とは違う、全てを受け入れてくれたコトリの顔が目の前にある。
 2人の目があった。
 ヤキダマは姿勢を低くするとゆっくりと顔を近づけた。
 そして自分の唇をそっとコトリの唇に重ね合わせる。軽く触れるぐらいに。
 一瞬でコトリの息づかいと体温を感じとると、ヤキダマは唇を離した。
「じゃ、そろそろ行くよ。またあとで・・・」
「うん」コトリは頬を染めたまま頷いた。



 ヤキダマとコトリは国境を越え、夕方マサゴの街に入った。予約しておいたホテルは街の外れに最近建てられた近代的なもので、2人が想像していたよりずっと居心地が良さそうだった。
 ヤキダマはチェックインの手続きを終えると、フロントクロークに声をかけた。「このあたりで夕食のとれる店はありますか?」
「当ホテルのレストランもございますが?」フロントクロークは如才なく返答を返したが、ヤキダマは「地の料理が食べたいんです。お勧めの店を紹介してもらえませんか」と言った。
「そうですね。地元の人がよく通うお店があるのですが、そこをご紹介しましょう」そう言うとフロントクロークは簡単な地図を書いてくれた。徒歩で10分かからないということだった。
 バイクを指定の駐車スペースに移すと2人は一旦部屋に入った。そしてシャワーを浴び、暫くくつろいでから紹介された店に向かった。ホテルを出て少し歩くと通りに出る。通りの一方は街の外へ向かって伸びており、反対側には大きな交差点が見えている。2人はその大きな交差点に向かって並んで歩き始めた。
 ヤキダマがフッと立ち止まった。コトリもそれにつられて歩みを止める。
「ここにフェンスと町のゲートがあったんだ」ヤキダマが記念碑の様な物に書かれた文字を読みながら言った。
「フェンス?ゲート?」コトリがそっと寄り添う。
「そう、まだここが国境の緩衝地帯のど真ん中だったころ。セーフティーゾーンと緩衝地帯を区切っていたフェンスがここにあったんだ」
「聞いたことがある。夜間にフェンスの外側に出たら国境警備隊に狙撃されるって・・・」
「国境紛争のあったころは、ここより外側を夜間にうろついたら射殺されても文句が言えなかったんだ」
「でもわたし達の泊まってるホテル、ここより外側だね」
「紛争が終わってフェンスが撤去されてから街が広がったみたいだな」
「だからあんなに新しいんだ」
「ええっと」コトリが納得したところでヤキダマはさっき書いてもらった地図を取り出した。
「こっちでいいみたいだ」ヤキダマは交差点に向かって歩き始めた。
 交差点では、路面電車の線路が走る広い通りが交差していた。歩行者用の信号は赤で、真ん中をモダンなデザインの電車がゆっくりと通り過ぎて行く。通りの向こうはアーケードになっている。
 信号が青に変わった。
 2人は横断歩道を渡りアーケードの中へ入って行った。アーケードは歩行者専用道路で、200メートル程続く商店街になっていた。
 ヤキダマは地図を見ながら“19番”と書かれた看板に近づいた。

8767 Commontern (後編)へつづく
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8767 Commontern(後編)



 バイクショップ・コンステレーションの店内は常連客でいっぱいだ。店の前の駐車場はおろか、道路にもはみ出さんばかりの勢いだ。驚いたことに全員がフォーマルだ。普段のむさ苦しい格好が想像できないほど、今日はきっちりと決めている。
 ヤキダマはコトリがいつも寝床にしていた台の上に立って、花嫁を待っている。横には立会人のスギウラ先生が並んでいて、台のすぐ前にはヤキダマの両親や妹のコダマの顔も見える。コダマはチラリと腕時計を見るとピットのドアに駆け寄った。そして中を覗いてからヤキダマの方を向いて指でOKのマークを作った。
 コダマがピットのドアをゆっくりと開けた。ピットの中にはタキシードに身を固めた親父さんと真っ白なドレスのコトリが並んで立っている。
 お祝いのコーラスが響き始めた。常連客の中でコーラスの経験のある連中が歌ってくれているのだ。
 親父さんが一歩を踏み出し、コトリがそれにつられてピットを出ると大きなどよめきが起き、続けて拍手と歓声が巻き起こった。フラッユが光る。撮影しているのはプロのカメラマンだが、彼も店の常連だ。コダマはそのままコトリの後ろに付き添う。
 俯き加減にゆっくりと歩を進めるコトリは美しかった。真っ白なドレスは、フォーマルで固めた連中の中で華やかに輝いた。胸の前に捧げたブーケが彩りを添える。これも常連客のフラワーデザイナーが作ってくれたものだ。
 髪飾りの下で揺れる黒い髪、ふわりと動く滑らかな生地は光線を複雑に反射し屈折させ、ヤキダマの目にはまるで妖精のように見えた。
 コトリが進むのに合わせるように周りの人々の視線が移動する。そして笑顔も移動する。コトリはもう俯いてはいなかった。視線を上げ、真っ直ぐに前を見つめ、ほんの少しだけ笑顔を見せた。そしてヤキダマの顔を見上げ本当にニッコリと微笑んだ。こんな風に笑うんだ。ヤキダマにとってそれは初めての経験のように思えた。ヤキダマが笑顔を返すと、いっそう拍手が大きくなった。
 親父さんはコトリをヤキダマの隣に並ばせると、ニヤリと意味深に笑ってから台を降りていった。ヤキダマはコトリを見つめ、コトリはヤキダマを見つめた。拍手と声援はさらに大きくなった。
「静かに!」スギウラ先生の声が響くと周りは水を打ったようになった。
 怒ると怖いスギウラ先生の開式宣言が始まった。



 ヤキダマは少し腰をかがめて“19番”と書かれた看板の下にある小さなくぐり戸を入った。コトリも少し遅れて入ってくる。くぐり戸の中はカウンターを含めて30席ほどの小さな食堂で、数人の客が食事をしている。厨房では大柄な女性がフライパンをあおっていて、ホールでは“アネゴ”風の若い女性と、もう1人高校生位の少女が働いている。
「いらっしゃいませ~」アネゴの方が声をかけてきた。真黒な長い髪は後ろでくくられ、切れ長の目からはそれにはアンバランスな大きな黒い瞳がのぞいている。案内された席に着き、地の食材を食べたいというリクエストを伝えると、おまかせコースというのを勧められた。それを注文すると厨房から顔を出していた大柄な女性が親指を立てて『美味しいよ!』という風にニッコリと笑った。アネゴが“かあさん”と呼んでいたので、多分この女性の母親なんだろう。ヤキダマはそう推測した。
 次々と出される料理はとても美味かった。コトリは普段そんなにたくさん食べないのだが、今日は全ての料理を完食した。そして「美味しい」を連発した。ヤキダマはペースを合わせて食べながら、そんなコトリの様子に満足していた。
 食事を終え、地酒をちびちびやりながら食後の時間を楽しんでいると、少しずつ食堂が混雑し始めた。「いつまでも席を占領しているわけにも行かないな」ヤキダマはコトリに声をかけると立ち上がってレジに向かった。
 レジにはアネゴの方が座っていた。たしかキッチンの女性にサエと呼ばれていた。
「お帰りですか?」サエと呼ばれていた女性はとがめるような様子でいった。
「混み始めたようだし、いつまでも席を占領しても悪いから……」
「お気遣いありがとうございます。これから小さなコンサートがあるので、それを目当てにお客さんが増えてきてるんですよ。よろしかったら、カウンターに移られますか?そこでしたらゆっくりしていただいても大丈夫ですよ」帰るのはまだ早いですよ。サエは言外にそう言っていた。
「そうさせてもらおうか?」ヤキダマはコトリを見た。コトリが頷いたので「じゃあ、そうさせてもらおうかな」2人はカウンターの端の席に移り、地酒と肴の注文を追加した。
 暫く飲んでいるとくぐり戸が開いた。入って来たのは若い女性だったが、その姿を見てヤキダマは驚いた。髪が真っ白だったのだ。
「シスカ!聞かせてもらうよ」「いつものやつ、頼むよ!」客が口々に声をかける。シスカと呼ばれた女性はそれぞれに笑顔で応え、ヤキダマ達の方をチラリと見てからホールに居た少女に「サヨちゃん、冷たい水をもらえるかな?」と声をかけ、奥へと入っていった。「は~い」少女は明るく返事を返した。
「オッドアイなんだ」ヤキダマはそう言いながらコトリの方を向いたが、コトリは女性の入っていったドアを見つめたまま固まっている。
「どうした?」ヤキダマが問いかけるとコトリは「ううん、何でも無い」と首を振った。「ならいいけど……」そう言いながらヤキダマはシスカという名前に覚えがあるような気がして首を傾げた。
『そうだ。あの油田爆破テロの被害者の中にたしか……』ヤキダマはそこで追求を止めた。コトリがヤキダマの方に視線を戻したからだ。
 サエは小さなステージの横に置いてある小型のキーボードの前に座って軽い音楽を弾き始めた。何曲か弾いて軽く拍手を受けた後、マイクを持って「シスカ!歌って」と軽い調子で言った。そして出口に一番近いテーブルにトマトピューレの空き缶を置いた。
 奥の戸が開いてシスカが出てきた。シスカはゆったりとしたマリンブルーの衣装で、小さなステージに上がった。そして白い髪を揺らして深々とお辞儀をする。イヤリングがキラリと輝いた。
 ドオッと歓声が上がり、拍手が起こった。

 思っていたより遙かに素晴らしい歌声だった。北の果ての町でこんな歌声が聞けるとは予想していなかった。心の琴線を直接振るわせるような歌声は、ヤキダマの胸を感動でいっぱいにした。
 何曲か歌い終わり拍手が収まると、サエがマイクを持った。「いつものようにリクエストがありましたらお受けします。手を上げてください」
 何人もの手が挙がったが、ヤキダマはコトリの手も挙がっているのを見て目を丸くした。観客の様子を見渡していたサエは、「カウンターの女性の方、常連さんじゃないですよね?何かシスカにうたって欲しい曲がありますか?」とコトリを指名した。ヤキダマはまだコトリを見つめていたが、コトリは(まかせて)という風に頷くとキーボードの女性の方を向いた。
「わたしでいいですか?では、紫陽花をモチーフにした少女の歌、ありましたよね?それをお願いします」コトリは悪戯っぽい笑顔でリクエストした。
「紫陽花……ですか?どうしてこの曲を?」サエが驚いた顔で答えたが、シスカの顔も驚きでいっぱいになっていた。
「え?紫陽花って、この2人があの時の?」ヤキダマも驚いてコトリの顔を見た。
「うん、彼女の顔を見てあの時の子だってわかった。そして歌声と演奏を聞いて間違いないと思った」コトリはシスカの方を見た。
「ひょっとしてあなたはあの取水塔で出会った自転車の女の子?」サエが訊いた。
「はい。リクエストに答えていただけますか?」コトリが尋ねる。
 サエは観客に向かって言った。「偶然なんですが、彼女は私とシスカの幼馴染みです。リクエストいただいたのは私が昔作った“紫陽花の歌”という曲です。懐かしいなぁ。シスカは覚えてる?」
「もちろん。出会った時のことも、曲も」シスカが即答した。
「じゃ、リクエストをお受けしますが、小さな条件を付けてもいいですか?」今度はサエが悪戯っぽい笑顔になった。
「え、どういう?」コトリは少し引いた顔をになった。
「コンサートが終わってから少しおしゃべりをしない?時間はある?」サエが尋ねる。
 コトリはヤキダマを見上げ、ヤキダマが頷いた。
「ええ、喜んで!」コトリが嬉しそうに条件を飲んだ。
「では、リクエストにお応えして、ここでは初公開の曲です。紫陽花の歌」サエがキーボードの演奏を始め、大きな拍手が巻き起こった。
 シスカが深々とお辞儀をした。白い髪がまるで振り子のように揺れた。



 スギウラ先生がヤキダマとコトリの結婚成立を高々と宣言した。
 バイクショップ・コンステレーションの店内は、また拍手と歓声でいっぱいになった。そして、お約束通りそれはやがて徐々にキッス!キッス!のかけ声に変わっていった。
 ヤキダマはコトリに近づき両手をコトリの両頬にそっと当て、コトリは覚悟を決めたように目をつぶる。その直後、ドォ!!!大きな歓声が上がり、やっぱりコトリは頬を赤く染めたまま俯いた。
 ヤキダマはコトリの腕を取って自分の肘を絡めると並んで台を降りた。皆が道を開けてくれる。2人はゆっくりと歩いて店から駐車場へ出た。並んで歩く2人に花びらや紙ふぶき、お祝いの言葉や歓声が降り注ぐ。そしてその歓声の先には、深紅のバイクと親父さんが待っていた。「コトリ!新婚旅行、バイクで行くんだろう?コイツは俺からの結婚祝いだ。受け取ってくれ」
 コトリはヤキダマの元を離れ、バイクに駆け寄った。ブーケも傍に居たスギウラ先生に預けてしまう動揺ぶりだ。
「DEZMO720……」コトリはバイクのボディーにそっと触ってロゴを確認する。「それもダッシュ5、ここへ来た時に乗っていたのと同じ……」両手でグリップを握ってみる。
「探すのが大変だったぞ。自分で心ゆくまで整備して出かけてくれ。状態はかなり良いはずだ」
「親父さん……ありがとう」コトリは親父さんの胸に飛び込んだ。
 また皆の歓声と拍手が湧き起こった。
 やがてヤキダマの周りに男どもが集まり、ヤキダマを連れ去ると胴上げを始めた。「わっしょい!わっしょい!」ヤキダマの体が高々と2回、3回と宙に舞う。
 ポカンとその様子を見ていたコトリの周りに、今度は女性陣が集まった。そしてコトリをそっと差し上げると「わっしょい!わっしょい!」ヤキダマの場合とは違ってかなり優しい胴上げだったが、コトリはふわりと3回宙に舞った。
 コトリは事故で家族全員を失っている。その家族の事を想う時、コトリは必ず空を見上げる。そのことを胴上げをしてくれている連中は知っているのだろう。
 コトリの上には青空が拡がっている。
 コトリは笑顔で幸せの報告をした。

「これをどうしろって言うのよ」スギウラ先生はブーケを手に困った顔をした。


おしまい。
2015.01.16
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166 (254シリーズ番外)

 アオイはコインパーキングに車を止めると国道の方に向かって歩き始めた。
 雨の季節はまだ終わっていないというのに太陽は激しく照り付け、いっそう不快指数を上昇させている。『バイクだったら地獄だわ』アオイは自動車のクーラーにほんの少し感謝した。
 アオイは仕事での移動にはほとんど自動車を使う。今日も仕事の合間にちょっとだけそこに立ち寄るつもりだった。
 国道に突き当たり角を左に曲がると「バイクショップ・コンステレーション」と手書きで書かれた大きなベニヤ板の看板が見えてくる。二階建ての古い建物の一階部分にあるその店は、看板を掲げた以外は何の装飾も無く、店の前にはMOTOAERO254という中型のバイクと、DEZMO720ダッシュ5という大型のバイクが、真っ赤なボディーを仲良く並べて止まっているだけだ。
『居るわね』アオイは2台のバイクの間を通って店内に入った。
 店内は倉庫のような内装のままの店内に大型バイクばかりを並べた一風変わった作りだ。オイルの臭いを嗅ぎながら店の一番奥に向かうと、そこには大きなテーブルが置かれている。テーブルに人影を認めたアオイは「こんにちわ~」と声をかけた。
 人影は動かない。アオイはもう一度「こんにちわ~」と声を出した。
 人影はこちらを向いているが、視線はラップトップパソコンを覗き込んでいる。そして耳にはイヤホンが差し込まれている。
 ふ・・・軽くため息をついてアオイはその人影の横に立った。耳の傍に口を近づけて「用心が悪いわよ。コトリ」と声を張る。
 コトリは顔を上げ「あっ」と声を上げた。そして慌ててイヤホンを外し「スギウラ先生!いらしてたんですか」と言った。
 アオイはコトリの顔を見て驚いた。「どうしたの?」目が泣き腫らして赤くなっているうえに涙の痕まである。
「あ、なんでもないんです」コトリは慌てて両目を拭った。
「何があったの?そんなになっちゃって。良かったら聞かせてくれない?まさかヤキダマが原因?」
「違います。違います」2回も不定するところが怪しい、アオイは職業柄そういうところに変にこだわる。
「本当に違うんです。スギウラ先生。説明しますから」コトリは懇願するような眼つきをした。
「わかった。話は聞かせてもらうわ。でも、その前に“先生”はやめて。約束でしょう?」
「あ、すみません。スギウラさん」
「アオイって呼びなさい」この際そう呼ばせてしまおう。アオイは威圧的に言った。
「はい・・・アオイさん」コトリが戸惑いながらそう言うとアオイはようやく笑顔を見せた。
「それでいいわ。じゃぁ、説明を聞かせてもらおうかしら」
「これを見ていたんです」コトリはラップトップの画面をアオイの方に向けた。
「なにこれ?テレビの番組?」アオイはコトリの隣に腰掛けた。
「ええ、ずっと前にハイビジョンで放送された番組のオンデマンドなんですけれど」
「へぇ、バイクの番組?」
「そうなんです。166というレーサーを観客の面前で1つ1つ分解していく趣向なんです」
「おもしろいわね」
「でしょう!特にこのバイク、250ccで6気筒なんです。50年以上前に彗星のように登場して、世界GPで10戦全勝した伝説のレーサーです」コトリの声は勢いを取り戻した。
「6気筒!あなたの254は、たしか231ccで市販では世界最小の4気筒エンジンだったわね、28馬力10500回転だったかしら」
「ええ、この166は世界最小の6気筒エンジンで、18000回転で60馬力以上あります。4連キャブでも大変だったのに6連キャブって、そんなのまるで精密時計ですよ。キャブの同調や点火のタイミングや、性能を維持するだけでも大変だったろうと思います」
「うん、確かに凄いけど、この番組がどうしたって言うの?」
「ああ、それはここです」コトリはジャックからイヤホンを引っこ抜きマウスを操作した。「行きますよ」
 番組なかではゲストがエンジンをかけてほしいと促している。メカニックが数秒間でしたら・・・と応じる。
 スターターが繋がれエンジンが始動した瞬間、乾いた爆音がスタジオをゆるがせ、ゲスト達が驚いている様子が映し出される。耳に手を当てているゲストもいる。全員が放心したように166を見つめる。何回かアクセルが煽られ、レブメーターの針は16000から18000辺りでダンスを踊る。そしてイグニッションオフ。
 エンジンは停止した。
「・・・」アオイはコトリの方を見た。
『でしょ?』そう語りかけるコトリの目にはまた光るものがある。
「すごい、たしかに・・・」アオイが小さな声で言った。
 コトリはまた目元を拭った。

 
2016.07.12


追記:
コトリがオンデマンドで見ていた番組はこれです。

https://youtu.be/S7Eh8stZsf8



2時間近くある長い番組ですので、興味ある方以外には退屈なだけかもしれません。でも艶やかなエンジン内部、光るカムシャフト、小さなピストン、6連キャブ、連なるギア、怖ろしいほど美しかったです。ガソリンタンクの赤い塗装や6本マフラーの曲線も美しいです。メカに弱いアナウンサーのハチャメチャコメントも楽しいですよ(きっとわざわざそういう人を当てています)。
エンジンをかけるシーンは10分50秒あたりからです。
ほんと、あの音はたまりません。速さだけを求めた結果出てきた純粋な音だと思います。ま、このバイク全体がそうなんでしょうけど・・・。
 
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