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Debris circus

Debris circus

頭の中に散らばっていた破片(debris)を改めて文章に書き起こし、オリジナルブログ小説としてサーカスの舞台に上げていきます。読みにくいものもありますが、お暇な時にパラパラとめくる感じででも読んでいただけたら嬉しいです……

 

プロローグ

  シスカは国境の丘から目を戻し、ゆっくりと歩き始めた。西側の丘には濁った灰色の空をバックに大きな赤黒い太陽が沈んでいく。夕日が稜線にかかるとたちまち光は弱くなり、それにつれて気温がぐんぐん下がり始めた。シスカは途中から急ぎ足になって、そしてついには小走りになって丘を下って行く。
 完全に暗くなるまでに町に戻る必要があった。

 *

 ヤマネ・ショウが自分の中にもう一つの人格を感じるようになったのは2カ月ほど前からだ。
 自分の記憶が途切れていたり、知っているはずの無い知識がいつの間にかあったり、消極的で恥ずかしがり屋の性格ゆえに非常に苦手としている歌を上手に歌っている夢を見たり(熱唱していたりするのはさらに驚きだ)機械をいじりまわしている夢を見たり……。
 夢は非常にリアルでその中の自分はあらゆる動作を軽々とこなすことができ、はつらつとしていてその身体能力は病弱な自分よりもかなりすぐれていた。
 精神障害かとも思ったがそれなりの人生でそんなに精神的重圧がかかったことなど思い浮かばない。医者に行くことも、友人に相談することも、まして両親に打ち明けることも怖くてできないまま時間ばかりが経過していった。
 今も授業の終わったチャイムが鳴ったのに気がつくまで記憶が飛んでいる。しかも几帳面な字体で授業のノートが取られている。
(僕の字じゃないし……)茫然として机の上のノートを見つめていると「元気ないね」と後ろから声がかかった。驚いて振り向くとクラスメートのシキシマが立っていた。
 黒い髪をショートにした黒い瞳を持ったかわいい系の顔立ちの女の子で、ショウにとって声をかける勇気のない分類の子だ。まあショウにとってはほとんどすべての人類が程度の差こそあれ声をかける勇気のない分類に含まれるのだが……。
 今まで話をしたことがなかったので(なんで僕なんかに声をかけてくるのかな)と思いながら「あっ。いや。」と返事はしたが、驚いてドキドキなのは丸わかりだ。
「どうしたの?もうみんな帰ったよ。当番済まして戻ってきたら1人でボーっと座ってるからびっくりしちゃった」
「え?みんな帰ったの?さっきチャイムが鳴ったのに」とショウが驚いて周りを見回すと本当にもう誰もいなかった。さっきのノートからまた飛んだらしい。
「だれも声をかけなかったの?チャイムが鳴ってからもう30分以上たってるよ。なんか最近おかしいね?具合悪いの?」
「うん。相当おかしいかもしれない」下を向きながら正直な気持ちを呟くと、シキシマは前の席の椅子を横に向け後ろ向けに座った。
「自分でもわかってるんだ。みんなも気持ち悪がってるよ。そのまま言うけど」シキシマはストレートな物言いをした。おとなしい印象だったのに、素はかなり積極的で押しが強くてストレートな感じだ。
「ごめん」こんなかわいい子に声をかけてもらうだけでもショウの心臓ははちきれそうだ。でもこの実直な態度に何となく頼りがいを感じてしまいショウは話し始めた。「あの。時々飛んでるんだよね。記憶が……」
「それって、何も覚えていないってこと?」シキシマが訊くとショウはうなずいた。
「飛んでるんだけどその間もちゃんと生きてるみたいなんだ。これ……」と机の上のノートを見せた。
 シキシマはノートを見たが意味が良く分からないようだった。「これって普通のノートだよね?」疑問符を含んで訊いてくる。
「でも、僕の字じゃない。ほら」ショウは自分の他のノートを広げてそばに置いた。机の上にあったノートの字は比較的小さめの几帳面な字だったが、横に並んだ他のノートにはあまり上手じゃない四角い字が並んでいた。
 シキシマは机の上のノートの他のページの字とも比較していたが「ふーん」と意味ありげに頷いた。
「わざと字体を変えて書いて私の注意を引こうとしてるとか?」シキシマは上目使いでショウを見た。
「そんなことしない!」ショウが激しく抗議すると「わかってる。悪かった。ごめん、ついね」シキシマは謝った。
 そして「ヤマネ君、私と始めてしゃべってるって思ってる?」と笑った。
「私何度かヤマネ君と音楽の話で意気投合してるんだよ。さっきの授業前の休み時間だってあなたと話をしていたんだよ」
「へっ?」ショウは驚いて声が裏返った。
「覚えてないんだ。面白かったよ。こんなに歌に詳しかったかなあって、U・B・Aの話とか……。で当番済ませて帰ってきたら全然違うでしょ。ボーっとして。どうしたのかと思って」シキシマはショウの目を見ながら話し続けた。
「でもそれってショウともう一人誰かが出てきてるって事だよね?」シキシマに訊かれて「そうかな?僕、そんなになるほど精神的プレッシャーなんかうけたことないんだけど……」ショウは見つめられるわ、自分が名前で呼ばれるわでまた舞い上がって鼓動が速くなった。
 シキシマは口元に指を添えてすこし考えていたが「それともショウが誰かの交代人格だったりして……私が休み時間に話したのが主人格かもね」と呟いた。
「なんで?」ショウはよくわからないまま否定したが、シキシマは大まじめだった。
「だって、何かで読んだんだけど交代人格もすごくリアルだって書いてあったから、それだったら主人格の世界に出現していない時も仮想世界で生きてるんじゃないかって思ったの。それに基本人格じゃないからプレッシャーも受けてないし……」
「やめてよ!それでなくても何か起こりそうなのに」
「ごめん。SFフェチのバカ女の戯言だから気にしないで」と言ったそばからシキシマは「でもほんとに何か起りそうだったら一番に言ってね」と、勝手な要求を付け加えた。
そして「とりあえず帰らない?もう遅くなってるよ」と話を終わりにした。

 教室を出て二人で歩いていると、ショウより小さなシキシマは、普通に歩くショウの後を少し大股で付いてきた。
「家はこっちだっけ?」ショウが訊くと「坂の上の交差点まではショウと同じだよ」と笑う。
 ショウは自分が今シキシマを独占している事に気づき、天にも昇る気持になった。
 ショウの気持ちなど全く意に介さないようにシキシマはずっと下を向いて考え事をしていたようだったが、ふと顔をあげてまた話しかけてきた。
「もしさあ。もしもだよ。ショウが交代人格だったとしてさ、人格的に統合するようなことがあったらこの世界は消えてしまうんだよね。私も消えてしまうことになるんだよね。ここは基本人格か主人格が作り上げた仮想世界ってことになるからね。そんなこと考えるとなんだか怖いよね」シキシマは考え考え話した。
「だけどここが基本人格か主人格の世界の情報で作り上げられているってことは、この世界のもののコピー元は必ず基本人格の世界にあるということにならない?」ここでまた振り向いたショウの目を覗き込んだ。
「もしショウが元の世界に復活したら私を探して!きっと私のコピー元が居る。それならショウの世界の中に残れるからさびしくないな。絶対だよ」
 ショウはほとんど理解できないままあっけにとられてシキシマを見つめていたが、なんとなくうなずいた。
「何の事だかわかってないな!変な女だと思ってるでしょう?まあいいや」シキシマは考えるのをやめたのか後ろに手を組んで、シキシマに合わせて少し速度を落としたショウに付いて坂を上った。
 3分の2ほど坂を登った時、シキシマはそのままショウに寄り添い、後ろに組んでいた手を解いてなんのためらいもなく手を繋いだ。
 顔から火を吹きそうになっているショウと繋がって坂を登り、交差点の横断歩道を渡ると「じゃあね!」シキシマは離した手を軽く挙げてあいさつして角を反対に曲がって帰って行った。
「うん。また」ショウは放心状態で制服姿のシキシマの後ろ姿を見つめていた。
 日々の生活はこの恋の始まりも含めて時の流れと共に順番に過ぎていき、そして続きもやって来るように思えた。

 しかし・・・・

(2013/02/17 序文の修正)
(2014/08/06 更新)

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テーマ : 自作連載小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 1 ---

 *

 目を覚ますとそこは見知らぬ部屋の中だった。
 ショウは周りの風景の違いに自分がどこにいるかわからず混乱した。
 そこは10平米程の部屋で、ショウは布団の中にいた。混乱したショウの頭はまず例の夢の延長であるという結論に達して覚醒を試みた。夢であるという考えを意識の中央に持ってきて、冷静に目覚めようと努力した。
(夢だ。夢だ。)呪文のように頭の中で唱えると少しずつ落ち着いて、部屋の中を冷静に観察することができるようになった。
 布団はベッドではなく部屋の中央、床の上に直接敷かれていて、足の有る方の壁にはチェスト・クローゼット・小さなオーディオセット・机が揃えられていた。机の上にはノートパソコンやヘッドホン・鏡の一部が見えている。
 頭の有る方の壁は全面シンプルな本棚で、そこには航空機に関する専門書や教科書の類、ノベルズや写真集の類、飛行機やヘリコプターのディスプレイモデルが割と雑に並んでいるのが見える。
 少年の秘密基地の様相を呈しているが、それぞれの物は所有者によって場所を管理され、それなりの秩序を保っているように思われた。
 右側は天井から床まで下がるカーテンで、もうその向こうは日が差しているようだ。たぶんカーテンの外はベランダだろう。
(何時だ?)枕元の目覚まし時計は午前8時、アラームのセットは午前10時になっている。
 ずいぶん寝坊だ。日付は12月20日金曜日で、はく息が部屋の中でも白いのに気づいた。
 左側は開放できるパーテーションになっていてその向こうは何か部屋があるのだろう。よくあるアパートの一室のようだが全く覚えがない。しかしこれは夢にしてはあまりにリアルすぎる。
 ショウの頭の中ではシキシマの言葉が繰り返されていた。『それともショウが誰かの交代人格だったりして……』
「ここは(基本人格の世界)?」思わず独り言で呟いてしまい自分でないその声に驚いた。
 急いで起き上りいつも夢で感じていたような体の軽さを感じながら、机から椅子を引き出して座り、上に置いてある鏡を覗き込んだ。

声が出なかった。
 鏡には自分でない誰かが写っていた。
 なんと女性だ。
 髪の毛はプラチナブロンドと言えば聞こえは良いが、ほとんど白髪に近いくらい色素が少ないボブだ。触ってみるとサラサラとして気持ちがいい。染めたり脱色したりしているわけではなさそうで多分天然なんだろう。
 肌は白い方ではあるが東域系のそれだ。強くつねってみるとやはり相当痛い。あとが赤くなった。
 目は右が黒、そして左は透き通るようなブルーだ。ショウは左右の目の色の違う人間を見るのは始めてだった。思わず目をしばたたいたが、やはりその不思議な組み合わせを持った顔がこちらを見て呆然としていた。
 彼女は基本東域系の作りだが、美人といえるくらいの整った顔立ちを持っており可愛さもあってその点ではショウ好みといえた。ただこの不思議な組み合わせはアンバランスで、ショウにとっては相当なマイナス評価だった。
 ショウはそっと自分の体を触ってみた。グラマーではなく少し細身に見えるがガッチリしている、しかし確かに男の体ではなかった。

 今自分がどのような状態なのか、身の回りのほんのわずかな現実しか把握できていない。このまま夢から覚めるのならいいが、ずっとこのままならこの状態でこもっているわけにもいかない。もう少し把握する範囲を広げてみよう。
 ショウは妙に冷静な自分に驚きながら、そう考えてカーテンの隙間からそっと外をのぞいてみた。やはりすぐ外はベランダで少し雪が積もっている。
 この部屋は3階くらいだろうか、すぐ向こうは歩道付きの2車線道路になっていて見慣れた国産車が一台通り過ぎて行った。歩道より外側は雪が薄く積もっている。向かいはやはりアパートなので、ここは結構北にある団地の一角らしい。
 次は隣の部屋だ。そっとパーテーションに近づいて耳を当ててみたが、人の気配はないようだ。ゆっくりと扉を開けてみると、そこはダイニングキッチンだった。
 こじんまりしたシステムキッチンと真ん中に4人掛けのダイニングテーブルがおいてある。
 シンクの横の食器乾燥用のかごの中には茶碗・皿・箸等1人分の食器が伏せられている。シンクの向こう側には発泡酒の空き缶が2本置いてある。
 壁に同じカレンダーが2つ並んでかけてあるのが目について近づくと、予定表のように使われているらしくそれぞれ上の余白部分にアツコ・シスカと記入されていた。
 今日の日付12月20日の部分にアツコは{出張(マザー2)}となっていて14日から23日まで線が引かれていた。
 シスカの部分は{第二勤務}21日は{休}となっている。ということはショウの名前はシスカだということだ。じゃあアツコは誰だ。
 後ろに廊下があって玄関が見えている。廊下に入ってみると左はまずトイレ、次は家事室になっていて洗面所や洗濯機が見えている、奥の扉は開けてみるとユニットバスだった。
 廊下の右側は扉があって開けてみると、いかにも女の子の部屋らしい感じの部屋だ。暖色系の色を中心にまとめたかわいい印象の部屋で、黒を基調とした直線的なイメージのシスカの部屋とはえらく違う印象だった。壁際の本棚を覗いていると3枚の写真たてが並んでいるのを見つけた。
 ひとつはVサインを出している黒い髪を肩まで伸ばした女性と、少し離れて何か作業をしている30位の細身の男性が潜水艇と思われるものの前で写っている。女性は大きな黒い瞳のきれいな子だ。(これがアツコかな)
 ふたつ目はアツコとシスカが仲よさそうに並んで写っている。アツコは笑っていて、シスカは不本意にはにかんでいるように見える。後ろには船が写っているが舳先にはマザー2の文字がある。アツコの出張先(マザー2)ってこのことだろう。
 最後の大きな写真はマザー2をバックに20人ほどの男達と一緒に写っている集合写真で、シスカとアツコは最前列の真ん中ににこやかにしゃがんでいる。女性は2人だけだ。
 シスカの肩には隣の40位のオジサンの手がのっており、アツコは30位のガッチリとした目つきの悪いのが肩を組んでいる。アツコが若干迷惑そうな笑顔に見えるのは光線のせいではないだろう。
 シスカには大勢の仲間がいてそれなりの信頼を得ているのをうかがわせるような写真だ。

 ここで体が凍え始めていることに気がついた。だいぶ落ち着いてきて神経の高ぶりで感じなかった寒さを感じるようになってきたのだろう。
 急いで部屋に戻ってチェストをあさってパジャマから着替えた。(女って何をどう着てるんだっけ?)自分でない体に興味津々で作業が止まってしまったり、恥ずかしくなったり、ブラジャーに思いのほか手間取ったり、慣れない着替えに時間はかかったが乏しい知識を総動員して何とかした。
 下はジーンズ、上は厚手のセーターがチェストの上に畳んで置いてあったのでそれを使う。ショウの感想としてそれはシンプルに過ぎて、若い女性の服装としてはかなり物足りないような気がした。
(これからどうしよう)このままではどのように動いてもおかしいと思われそうだ。ショウはシスカではないし上手く化けることなんか不可能だ。でもどこかに消えてしまうこともしたくないという気持ちは心の中にずっとあって、逃げる気持にはならない。
 こんな気持ちになることはショウとしては初めてのような気がして、なんとなくわくわくするような不思議な感情の高ぶりを感じていた。

 と、そこにシンプルな携帯電話の呼び出し音がする。シスカのか?あわてて音の先を探すとチェストの上だ。発信者を見るとサエとなっている。(放っておこうか?)考えたが体が先に反応して着信ボタンを押していた。
「はい・・・」「シスカ?起きてた?」若い女の声だ。「うん」ととりあえずうなずくと「どうしたの?何かあった?」と言ったが、どうしていいかわからず無言の時間が過ぎてゆく(これは困った)。
「ショウ?」「エッ」いきなり名前を呼ばれて言葉に詰まった。
「ショウね」
「・・・・」
「助けてあげる。そこにいなさい」電話は切れた。


(2013/02/17 文章再構成)
(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 2 ---

 *

 サエは電話を切ると大急ぎで出かける用意を始めた。外は相当寒そうで、さっきの天気予報では寒波襲来を告げていた。防寒コートを羽織りふかふかの帽子を頭にのせると、自分の部屋を出て階段を下りた。
 サエの家は”19番”という食堂を経営していて階下はその食堂になっている。「かあさん、ちょっと出かけてくる」厨房の奥の小部屋でテレビを見ていた母親のシユに声をかけてからサエは玄間の方の出口を出た。
シスカのアパートはライトレールで停留所五つ目だ。サエは小走りで停留所へ急いだ。
 そう言えばここ二三日シスカの様子は変だった。サエの話を上の空で聞いていない時があったり、とんちんかんな返事が返ってきたりした。さっきのおびえたような受け答えはまるで別人で、とてもシスカとは思えない。そう、まるで12歳の時に出会ったショウのようだ。
 ライトレールの自動ドアが開くのを待ちかねたように停留所の低いホームに降りると、サエは道路を渡り小走りで商店の間を抜け団地の中へと入って行った。29と番号の振られた5階建ての建物の前で3階の窓を見上げてから一気に3階まで駆け上がった。鉄製のドアの前でいったん立ち止まり呼吸を整えてからゆっくりとインターホンを押した。部屋の中でインターホンが鳴っている。
 ドアの向こうで少し人の気配がしてからそっと鍵がはずされゆっくりとドアが開き、ドアチェーン越しに顔がのぞいた。そこに居るのはたしかにシスカだが、おびえたような顔はやはり別人のようだった。
「ショウ?・・・だね」
 サエはゆっくりと優しくそう言うと「私だよ。サエだよ。覚えてない?」と続けた。
「ここは寒いし、入れてくれないかな?」とサエが言うと、シスカはかすかにうなずきいったんドアが閉じられ、チェーンをはずす音がしてまたそっと開いた。
「入ってもいい?」と聞くとシスカは廊下の奥に引っ込んだので続けて入って念の為鍵を閉めた。


(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 3 ---

 *

 サエと名乗った人物は後ろ手にそっと鍵を閉めダイニングキッチンへ入って来ると、コートと帽子をテーブルの隅に置いて椅子に座った。真黒な長い髪は後ろでくくられ、切れ長の目からはそれにはアンバランスな大きな黒い瞳がのぞいていた。
 ショウも斜め向かいに座ると懐かしいような笑顔で話しかけてきた。
「驚かせてごめんね。私シスカが12歳の時、小さい頃のショウにあったことがあるの。シスカはあなたを知っていて、私はあなたの話を聞かされていたからあなたに会っても驚かなかったわ。私と遊園地で小さなジェットコースターに乗ったの覚えてない?」サエのアンバランスな瞳はショウをゆっくりと観察しながら懐かしそうに見つめていた。
 ショウは自分の記憶の中に幼い頃知らないお姉さんとジェットコースターに乗ったものがあることを知っている。ショウは少しはにかみながらうなずいた。
「ショウはシスカを知ってる?」ショウは首を横に振った。
「突然で驚いたでしょう?」ショウはかすかにうなずいた。
「そう。でもシスカはあなたのことをよく知っているわ。ずいぶん細かいことまで教えてくれたのよ」と大きな瞳でジッと見つめる。
(細かいこと?)ショウは恥ずかしさを感じながら、この人にならしゃべってしまってもいいような気がした。
「シスカさん……って知らないですけど、その、最近知らないはずの記憶や知識はずいぶん増えてるように思うん……です」
「そう。記憶は共有し始めてるのかな」とサエは小さな声で呟いてから「どんな記憶?」と聞いた。
 ショウはすこしの間躊躇していたが「よくあるのは……恥ずかしい夢なんですけど、ステージで歌を歌ってるんです。僕、歌はとっても苦手で歌うことなんかないんだけど、とてもリアルで熱唱してたりするんです。まるでプロ歌手のようでとっても気持ちいいんです」と途中から高揚感を思い出しながら興奮気味にショウは答えた。
「ふーん。実はシスカはプロの歌手なのよ」とサエは驚かせるように言ったが、ショウはやっぱりと思った。
 なんとなくそんな感じがしていたのだ。とりあえず驚いたように「えっ」と返事しておく。
「うそうそ、ごめんね。プロっていうわけじゃないわ。ていうか、うちの食堂でだけ歌ってる感じかな。それだけでは歌手とも言えないかもね。」サエはショウのとりあえずの返事に気が付いたのか、すぐに種明かしをすることにしたようだった。
(プロじゃなかったんだ)ショウはすこし残念に思った。
「あとどんな知識?」サエは続けて質問した。
 「あの・・・これも良く見る夢ですけど何かエンジンの整備をしてるんです。タービンを分解しても自分でもびっくりするぐらい手際がいいし良く知ってます」
「いまシスカはショウの後ろに隠れてるけどちゃんと頭の中にいるんじゃないかな?多分すべての行動を助けてくれると思うわ」サエはそう言うと「コーヒーでも入れよっか?インスタントだけど」と区切りをつけるように立ち上がった。

 まるで自分の家のように段取り良くコーヒーをいれながらサエは教えてくれた。
「シスカの本業はね。飛行機の整備士なの。主にヘリコプターの整備をしているわ」
「なぜ僕が夢で見るんだろう」ショウは独り言のように呟いたがサエには聞こえていて「ショウがこの世界でやっていけるようにシスカがそうしてるんじゃない?」と軽い調子で答えた。
「結構優秀な整備士さんだよ。お父さんにあたる人がヘリコプターのパイロットなんで、一緒に働いてるわ」
「お父さんにあたる人?」ショウは疑問を呟くとサエは「育ての親ってことね。キタハラっていうの、シスカを育ててくれたんだよ。シスカはその人をキタハラって呼ぶわ。覚えておきなさい。だからキタハラ・シスカというのがフルネームね。女性ってのはわかってるね。」と答えた。
 ショウはシスカの髪を指で絡めて見つめながら「本当の両親は?」と聞いたが「私はシスカの幼馴染だけど、そこは良く知らないの。あっ、砂糖はそこのポッドの中、ミルクは……」と流された。
 2人でコーヒーを飲んでいるとけたたましい目覚まし時計の音がした。「あっと」ショウはシスカの部屋へ入りアラームをとめた。
 サエは「10時起床にセットされているってことは第二勤務?どうする?15時には出勤しなくちゃならないよ」と聞いた。ショウは困惑した。
 その気持ちがそのまま顔に出たのかサエは「夢の話もあるしなんとかなると思うけど、今日のところは止めとく?混乱してるみたいだし、もう少し準備が必要かな。調子が悪いって連絡入れてあげようか?」といたずらっぽく笑った。
 ショウが目でうなずくと「そうしようか」とサエは携帯電話を開いてボタンをいくつか操作した。
「もしもし……キタハラ?私、サエ。あのね。シスカなんだけどちょっと調子が悪いみたいなんだ。私、呼び出されて来たんだけど。うん、でね。今日休ませてほしいって……うん……」しばらく会話を続けていたがついに「だ・か・ら・生理痛だよ。すごく痛いんだって。こんなことなったの初めてだから恥ずかしいって……うん……そう……わかった。じゃあ」と電話を切った。
「一丁上がり」サエは片目をつぶって笑ったが、ショウは思わぬ欠勤理由に自分が女性だったことを思い出し赤くなって下を向いた。
「ひどいようだったら病院行っとけってさ。すごく心配してたよ」サエはショウの顔を下から覗くようにして言った。ショウはますます赤くなってもっと下を向いてしまった。
「ごめんね。調子に乗りすぎた。他に何か訊いておくことない?」サエは反省したのか申し訳なさそうに言った。
 ショウはしばらく逡巡していたが「あの……アツコ……さんってどんな……」と聞いた。
「ああアツコはねフルネームはシマ・アツコ、シスカのルームメイト、潜水艇のコ・パイロットなんだよ」
「あ、写真見ました」勝手に部屋に入ったのがわかるなと思いながらショウが短く答えると、サエはチラッとショウの目を見てニッと笑った。
 そして「そう。きれいな子でしょ。シスカとアツコは専門学校で仲良くなった同級生で学生時代から2人でルームシェアしてたの。就職先も2人共このマサゴ市になったから、また2人で住んでるってわけ」と続けた。
 この際疑問は一つでも解決しておこうと思って「マザー2って?」と訊くと、
「ああ、並んで写ってる写真があったわね。マザー2はアツコの潜水艇の母船なの。いまアツコは潜水艇で海洋調査に出てるから、この船に泊り込みのはずよ」と言いながらサエはカレンダーに近づいた。
「エーット、23日まで帰ってこないわ。ちょうどいいわね。ちょっと出ない?町を歩きながらいろいろ説明したいこともあるし。連れて行きたいところもあるし」「……」ショウは町の中を見てみたい気持ちもあったが、自分の考えがまとまらず返事ができずにいた。
 すると「ねっ。そうしましょう。ここに閉じこもっていても進まないよ。さあ、支度したく」サエはさっさとシスカの部屋に入って行って「ショウ、来て」とショウを呼んだ。
 ショウが入っていくと「確かこれと……これだったかな。これを着て」と防寒コートとふかふかの手袋と耳まで覆う帽子を渡された。帽子は黒の太い毛糸で編まれたもので頭全体と耳を覆うようになっていた。
「あの、ちょっといいですか?」ショウが遠慮がちに声を出した。
「何?」サエが訊くとショウは恥ずかしそうに「ちょっと、トイレ」と言った。
「なんだ。行っておいでよ。場所はわかってるね。あっ、方法も……」ショウは小さくなって飛んで行った。
 用がすむとサエは着るのを手伝ってくれていたが、ショウが帽子をかぶると「シスカはね、髪を出さないんだよね」と髪を帽子の中に入れてくれながら言った。続いて自分も服を着ると「鍵はここね。財布はここ、身分証明とかが入ってるからちゃんと持って」とまるで自分の家のようにありかを教えてくれた。


(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 4 ---

「さあ行こう。靴はこれだよ」「あっ、そうそうこの自転車ね。シスカの通勤用なの」サエは玄関わきに置いてあった青いロードバイクを指して言ってからショウを玄関の外へ押し出した。
「このアパートの前の道を右へ真っすぐ行くと交差点があって、ライトレールが交差してるの。そこを過ぎて真っすぐ坂を登ったところが飛行場で、突き当たりの大きな格納庫がシスカの職場、シスカはいつもあの青い自転車で通ってるわ」
 サエは階段を降りながら手短に説明をすますと、ライトレールが交差する交差点に向かって歩き出した。
 並んで歩道を歩きながらショウはシスカの背がずいぶん高いのに気がついた。横を歩くサエの顔はずいぶん下に見える。「ここはどこかわかってる?」サエは見上げるように聞いてきたがショウは首を横に振った。
「ここはね、マサゴ市。キタカタ州って言えば場所はわかる?」ショウは地図を思い浮かべながら「国境の近くですか?」と訊いた。
「そう。ベクレラとの国境はすぐそこよ」手をポケットに突っ込んでいたので、サエはあごで前方を指した。
「この町の作法を教えとくわね。まずこの町は国境の緩衝地帯のど真ん中にあるの。だから国境特措法という特別な法律が決められているわけ。この町の周りは高さ3メートルのフェンスで囲まれていて、4か所ある門以外からの出入りは禁止されているの。特に警備員が居るわけじゃないから門からの出入りは自由なんだけど、フェンスの外側で何かあっても自己責任といわれるだけだから気をつけて。つまり命の保証は無いってことね」交差点に向かって歩きながらサエはとりあえず必要なことを教えてくれようと早口でしゃべっているようだった。
「国境から2Kmは非武装地帯で民間人の立ち入りは禁止なんだけど、その内側に設けられた緩衝地帯は特措法でも立ち入りが禁止されているわけではないの。緩衝地帯の中に町や農地が有るのと、表向き平和的に国境が維持されていることを対外的にアピールするためにこんな措置がとられているっていう話よ。だから、非武装地帯や国境にバリケードみたいなものは無くて簡単な標識が立っているだけなの。ただ非武装地帯に人が入ったり出たりしないよう国境警備軍が厳しく監視しているわ。つまり国境を越えて人や物が行き来しないようにね」
 サエがそこまでしゃべると交差点に差し掛かった。ライトレールの線路が走る広い通りが交差していた。
 真っすぐ行くと長い上り坂だ。緩やかなようだが結構距離がある。
 坂の上には大きな建物の上部が見えている。
 その上には灰色の雲で覆われた空が広がっていた。
「あの坂の上の建物がシスカの職場の格納庫よ。あそこまで毎日自転車で登って通ってるわけ」サエが見上げながら説明してくれたが、ショウはこの長い坂道を自転車で一気に上り切る自信はなかった。
 サエは道路を渡りライトレールの停留所の低いホームに上がった。ショウも続いて横に並ぶと、遠くから電車が近づいてくるのが見えた。
「とりあえず私の家へ来てもらうわ。試してみたいこともあるし」サエが謎めいたことを言って、ショウがそれについて尋ねる前に電車が滑り込んできた。

乗り込んだ電車は2両編成の窓が大きくデザインされた連接構造の低床車で、床は地面を這うように低く作られている。車内はほぼ座席が埋まるぐらいの混みぐあいだ。
 サエは2のボタンを押してからICカードを読み取り機にかざした。
 ショウはいいデザインだなと思いながら、何の気なしに運転席のすぐ後ろに立つと、後ろにいたサエが吹き出した。「シスカと同じだね。シスカもいつもそこに立つよ」
 電車はドアを閉じると出発の合図だろうかベルを2つ鳴らして出発し、次の停留所に向かって静かに加速していった。
 交差点の周りは店が密集していて商店街になっていたが、少し離れるとまた集合住宅が立ち並んでいる区画になった。
 二つ目の停留所を過ぎると周りは公園になり、その向こうに高いフェンスか延々と続いているのが見え始めた。
 フェンスは聞いた通り高さ3メートルほどで、目の細かいステンレス製の網で作られており、上部は乗り越えにくい構造にはなっていたが鉄条網を張り巡らすというような無粋な作りにはなっていなかった。
「あれが町を囲むフェンスよ」サエが他の乗客を意識してか少し小さな声で話しかけてきた。
「フェンスの中は、セーフティーゾーンだから24時間安全に過ごすことができるわ」
 サエの声はさらに小さくなった。
「だけど一歩フェンスを出るとそこは国境警備軍のテリトリーで、警備の為の銃撃などは普通に認められているの。パトロール隊は武器を持って動き回っているんだけど、昼間は農作業をする人やトラクターが居たり、車が結構頻繁に走ったりしていて、非武装ラインに近づかない限り人が歩いていても特に大きな危険が有るわけではないわ」
 サエはショウの襟を引っ張り耳のそばに口を近づけて続けた。
「でも夜間はナイトスコープを使って、見境なく撃たれるわ。日没から日の出まではフェンスを出ては駄目だからね。」
「絶対守ってね」最後は声が大きくなった。ショウは大きくうなずいて小さく「はい」と言った。

 3つ目の停留所を過ぎたとき、ショウは自分でも思ってもいなかった結果をまねく行動をとった。若干効きすぎた暖房のせいなのか、緊張のせいなのか、それとも他に理由があったのか自分でもわからないが、帽子を脱いでしまったのだ。
 なんとなく右手で帽子をとって左脇に抱え、フーッとため息をつきながら頭を左右に振ったのだ。
 プラチナの髪が左右に揺れる。
 サエはその瞬間ちょっとだけ目を見張ったが何も言わなかった。
 しかし周りの乗客の反応は違った。周りの乗客全員の奇異なものを見るような視線がシスカに集まった。
 しばらくして周囲の反応の変化に気づいたショウは、その変化がシスカに向けられたものだと気づいてあわてて帽子を元の位置に戻した。
 サエは何事もなかったようにシスカの前に立って乗客からの視線を遮り、帽子からはみ出た髪を直してくれた。
 しかしサエの身長はシスカには足らず、ショウは乗客の様子を見ることができた。
 視線はすでにシスカからは外れていて、何事も無かったかのようにみんなそれぞれの方向を向いていたが、気配はまだ向けられたままだった。
 ショウはあわてて運転席のほうから前を見るように乗客に背を向けた。
 ショウはまだ乗客の反応の変化の意味がわからず心臓は早鐘のように打ち続けていた。
(僕が何かおかしいことをしたのか?それともシスカが何か問題なんだろうか?)ショウは考えながら事が収まるのを待った。
 電車は4つ目の停留所を出発した。
「次で降りるよ」サエが耳元で囁いた。
 ショウにとって、多分サエにとってもそれは長い時間だった。
 長い時間を耐えた後、電車はようやく5つ目の停留所に滑り込んだ。
 錯覚だろうが自動ドアがシューと長い音を立てて妙にゆっくりと開くと、サエはICカードを読み取り機にかざした。
「いいよ」と言われてショウは何事もなかったかのように少しゆっくりと電車を降りた。電車はドアを閉じるとベルを2つ鳴らして出発していった。
「ごめんね。びっくりした?」サエがそっと声をかけた。
「ショウが悪いわけじゃないのよ。シスカのプラチナブロンドってベクル人のイメージがあるの」サエがすまなそうに言った。

 ライトレールが真ん中を走る道路の向こうは道路に沿った幅30メートルほどの細長い広場になっており、その向こうには例のフェンスが長々と続いている。
 少し先には4か所あるうちの1つであろう町の門が見えている。
 門と言ってもそこを通る道幅の分だけフェンスが途切れているだけのもので、装飾などは一切施されていない。
 フェンスの向こうには薄っすらと雪をかぶった丘陵地帯が続いている。
 そしてその道の反対側は商店街になっている。
 車の切れ目を待って商店街の方へ道路を渡ると、サエは少しずつ話し始めた。
「先の大戦で同盟国だったイルマとベクレラの2つの国は一緒に戦勝国になったんだけど、お互いにこの島の領有権を主張して、戦勝国同士で大戦後にさらに戦争をしたっていうのは知識として持ってる?」
 サエは確認を取るように聞いてきた。ショウは記憶にあったのでうなずくとサエは続けた。
「ようやく大戦が終わったのにまだ長引く争いに国力を使い果たして、今のこの国境線でお互いに仮に納得して、とりあえず矛をおさめたのが今の状態でしょ。イルマ人、特にここの住民としては、ベクル人に対してわだかまりが無いと言えばうそになるわ。もう20年も前の話なのにね」サエは自分の本心を吐露しているのか少し苦しげに見えた。
「やっと平和になったのにまだやるのかってね。でも向こうも同じように思ってるんでしょうね。意地と面子だけで争ってるようなもんだと私は思うわ」サエは道路に沿って歩きながらしゃべり続けた。
「私たちイルマ人の髪はほとんど黒かそれに近い色でしょ。でもシスカのプラチナブロンドはベクル人の特徴と同じなの。ベクル人にはブロンドの人の割合が結構多いから、ブロンド・イコール・ベクル人という意識を持ってる人がほとんどなんだよね。だからさっきみたいな反応が起こるわけ」
 ショウは帽子をかぶった時のサエの仕草を思い出しながら「シスカが髪を出さないのはそれで?」と訊いた。
 サエはシスカの気持ちを考えているのか間を置いた。
「そうね。無用なトラブルを避けたいんじゃないかな」そして気持ちを切り替えるように、「お互いにこの島を自分の領土と主張してるんだけど、本音は今の国境線を何とか落とし所にして、平和条約の締結にこぎつけたいというところなんじゃないのかな?」と話しながら「こっちよ」と角を曲がった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 5 ---

 曲がった先はアーケードの架かっている歩行者専用道路で、200メートル程続く商店街になっていた。
 商店街のアーケードの入り口から振り返ってみると、道路を挟んで正面に町の門があった。
 サエは19番と書かれた看板の横の路地を入っていき、そこにあったドアを開けた。
「入って」とショウを入れてから自分も入ってきた。
「ただいまー」と奥に向かって声をかけてから服を片付けた。
「こっちに来て」と連れて行かれたのは食堂のホールだった。手前の厨房との境にはカウンターが設けられ、その向こう側にはテーブルやいすが並べられていた。
 その片隅に小さなステージというか段差があり、ちょっとしたパフォーマンスができるようになっていた。ショウは何となく覚えのある場所のような気がして眺めていた。
「ここは狭いけどシスカのメインステージなんだよ。ちょっと待ってね。用意するから」サエはまわりにつんであるオーディオ機器のスイッチを入れていった。
「OKシスカ。何か歌ってみてよ」ショウはシスカと呼ばれて他人事のように構えていたが、自分のことだと気がつくと「エッ。僕?」と慌てた。
「他に誰がいるのよ。ちょっと試しにやってみて、アカペラだけど少しエコーかけといたわ」
「ぼ・僕、歌なんか歌ったことないから」
「夢で熱唱してたのは誰?そこでは何を歌ってたの?やってみないと!夢の通りやってごらん。あなたはシスカなんだから」サエにそう言われても躊躇していたが、長い緊張の末ついにショウは顔を上げた。
 誰か別の意思が自分を突き動かしている(シスカ?)
 自分が自分でないような気がして、夢で見たのと同じようにステージに近づいてマイクを握った。
 目を瞑って夢の中の世界を必死に思い出す。
 緊張感と高揚感が胃袋の下から突き上げるように全身を押し上げ、しばしの恍惚の中に母の面影を見たような気がしてショウは歌い始めた。
 小さいころよく聞いてすっかり覚えていて、今は忘れてしまっていたように思っていた歌を。
 シスカの喉から出る歌声はシスカの体のつくりに絶妙に反響し、ショウにとってとても気持ちの良い声だったうえに、音域も声量もあるので思う存分感情を歌に乗せることができた。
 歌い終わると急に羞恥心と郷愁と涙が同時に湧き上がってきてたまらなくなって、ショウは目をつぶったまま座り込んでしまった。
 拍手が沸き起こった。涙がいっぱいになった目をそっと開けると、厨房の奥から女性がこちらに向かって歩いてきて、涙をボロボロこぼしたまま座り込んでいるシスカの横にいっしょに座ってそっと肩を抱いてくれた。
 サエが「かあさん」と驚いたように声をかけると「驚いたのはこっちだよ。シスカがこの歌をこんなに感動的に歌うなんて」と涙声になった。 
「この歌って?」サエが尋ねると「ベクレラの子守唄さ。シスカはそれをベクル語で歌ったのさ」「いい声が出ていたよ。私は人間がこんな声で感情豊かに歌うのを聞いたのは初めてだよ。この歌にシスカの声がこんなに合うなんて驚いた。すばらしいよ」と涙をこぼしながら言った。
「でもなぜシスカがこの歌を?私もすごくいい歌だと思ったけど、いつものシスカの歌ではないわ。ショウのせい?なぜベクレラ?なぜベクル語?感動と疑問でいっぱいだわ」歌わせた張本人のサエが一番驚いた様子で、自然と声が大きくなった。
 ショウはシスカとしてまだひざを抱えて座り込んでいた。
 抗いがたい激情で肩が震えていた。
 涙が止まらなかった。

 *

「かあさん、シスカがいなくなった」サエは母親のシユ部屋のドアを勢いよく開けて叫んだ。
「えっ。一緒にいたんじゃないの?」シユはテレビのボリュームを下げながら言った。
「すごく興奮してるみたいだったからそっとしておいたほうが良いかと思って一人にしておいたの」
「そしたらいなくなったって?別に子供じゃないんだからそんなにあわてなくたって」
「いま、シスカはちょっとおかしいのよ精神的に。さっきの歌だっておかしかったでしょ?」
「そりゃまあ、シスカがあんな歌を歌うとは驚きだったけど。いったいどうしたんだい」
「私もよくわかんない。どこいったんだろう?あんな状態で。心当たりを当たってみる!かあさん留守番しててくれる?」
「いいさ。どうせこれから仕込みをしなきゃならないからキッチンにずっといるさ」
「悪いけど店をお願い。もしシスカが帰ってきたら電話頂戴」サエは早口でそれだけ言うと大急ぎで出かける支度をして玄関の方の出口を出た。
「くそ!シスカに携帯を持たせなかった」サエはチェストの上にあったシスカの携帯を思い出しながら舌打ちした。念のためにシスカの携帯を鳴らしたが呼び出し音を20回聞いてからあきらめて切った。
 商店街に出てアーケードの入口のほうを見ると正面に町の門、その向こうに薄っすらと雪をかぶった丘陵地帯が続いている。サエの脳裏に暗い記憶がよみがえってきた。


(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 6 ---

 *

「もう帰ろうよ!」サエは心配そうにあたりを見回しながらシスカの肩を触った。大きな赤黒い夕日が西側の丘の方向に濁った灰色の空をバックにして沈んでいこうとしていた。
 シスカは国境の丘の方を向いたまま押し黙っていた。
 いつもは強く吹く風が今日は珍しく凪いでいた。
 動く物の無いこの丘で空気まで静止しているという状態は、この場所に音の無い世界を作り出していた。
 国境の丘と丘の間の谷間には、向こうの町の明かりが輝き始めていた。
 昼間は小さく霞んで見えにくいのだが暗くなるとはっきりと人々の暮らしを感じることができる。
 サエとシスカは18歳、高校3年生の同級生で、小学校3年生のころシスカが編入してきてからの付き合いだった。
 小さいころからそうだったように、シスカが涙を見せないようにしているのがわかったので、サエはそれが乾くまでしばらく待ってやろうと思った。
 それが悪い方へ転がる要因の一つだったのは後になってからわかったのだが、その時はそこまで深刻には考えていなかった。
 それよりもサエは今日学校であったことを思い返していた・・・・なぜそこまで話が展開したのか思い出せない。
 きっかけは些細なことだったのだろう。シスカの容姿のことでクラスメートと一悶着あったのだ。
 普段は暗黙の了解のようなものが有って、誰も触れないシスカの髪・目・肌のことで、なぜそんな組み合わせなのかと揉めたのだ。髪やそのブルーの左目は国境の向こう、ベクレラの民族のものじゃないのかというのだ。
「シスカのせいでは無いし、誰もそんなことわからないし答えられないよ」サエは抗議したが聞き入れられず、シスカは唇をギュッとかみ締めてその尋問に耐えていた。
 きっかけを作ってしまっただけの意地で追求を止められないクラスメートに、ついに追い詰められたようにシスカはその場から逃げ出した。
 そしてそのまますべてを振り払ってここまでやってきてしまったのだ・・・・。
 夕日はいよいよ丘の上端の部分に一筋の光を残すだけになり、濁った灰色の雲に反射するわずかな光が弱々しく地面を照らしていたが、ついに一つの点になってまもなく消えた。
 向こうの町の明かりはますますはっきりと輝き始め、気温はぐんぐん下がり始めたがシスカはまだ動かなかった。
 2人は学校の制服である厚手のコートを着、帽子をかぶっていたが、本格的な防寒服のようにここでの寒さに耐えきれるものではなかった。
「シスカ!」切羽詰まったサエの声にシスカはハッとなって、暗さにまぎれて自分の袖で顔をぬぐってからサエの方を向いた。
「やばい、帰ろう!」いよいよ暗くなっていた。国境から2Kmは非武装地帯とされ民間人の立ち入りは禁止されているが、その内側に設けられた緩衝地帯については立ち入りが禁止されているわけではない。
 しかし夜間はナイトスコープを使って、かなり見境なく射撃を加えられる。
 このような事情は一般市民にも徹底的に周知されていて、町の住民がそのような時間帯にセーフティーゾーンを出て自己責任でうろつく事は無いと考えられていた。
 しかし今、私たちはそこに居る……サエはそう考えて胃袋がグーッと収縮し鼓動がさらに速くなるのを感じた。
 ここに来るときはシスカの後を夢中で追いかけて止めるのに精いっぱいだったので、ここまでの道のりを覚えているわけではない。走りながら帰っていくシスカの後をついて行くのがやっとだった。
 と、シスカが少し速度を落として手を差し出してきた。いよいよ暗くなってきたので手をつないで走ることにしたらしい。そしてまた走り始める。ずいぶん走って呼吸が苦しくなってきたのにシスカは走り続ける。まだ町の門にたどり着けない。
 はた、とシスカの足が止まった。
「ここ、どこだろう?」
「えっ!」サエが腰を折り膝の上に手を置いて荒く息をしながら「迷ったの?」と尋ねると、シスカも荒い息使いで「ごめん」と言った。
 あたりはもう方向感覚を失うほどの闇だ。
 サエは言い知れぬ恐怖と、恐ろしいほどの寒さを感じてその場から動けなくなってしまった。
 その時「アツッ・・」サエは胸の辺りに痛みを感じ、そんなはずは無いと思いながら声を出した。
「どうした?」シスカが声をかけてきたがサエは意識のうすれを感じシスカにゆっくりと寄りかかった。
「サエ!」シスカの声が聞こえるが意識はどんどん低下していく。体重をかけるとあわててサエを支える手を感じる。
「どこをやられた?サエ!」「・・・痛い」そう言ったまま意識が落ちていく浮遊感を感じていると、軽い咳きと共に口の中に暖かい液体が上がってきた。
「撃つなーーーーーーーーーー!」薄れゆく意識の中で聞いたシスカのその声は、このまったく音の無い丘陵地帯に響き渡っていった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 7 ---

 *

 気が付くとサエは町の門を走り出て道路をたどり、そこからわかれた丘へと続く道を登り始めていた。
 確かこっちだったと、何度か来たことのある丘への細い道をたどる。
 道は枯れ木のようにくねくねと折れ曲がり枝分かれし、何度も立ち止まって思い出しながら進んでゆく。
 丘を回り込みアップダウンを繰り返すと町はすっかり丘の影になり見えなくなった。
 この土地は冬の間気温が低く風が強い日が多いせいか、背の高い木は生えておらず草原のような風景が単調に広がっている。
 雪はまだ少なく歩くのに不自由は無いが、目印の町が見えなくなると単調な草原の丘の重なりあいになり、注意して歩かないと方向を見失う。
 初めのうちはまだ時間は充分にあるから焦らなくてもいい、と自分に言い聞かせ慎重に方向を確認して歩いていた。しかし数か所の丘でシスカを見つけることができず、徐々に夕方が迫ってきて自然と早足になってよけいに息が切れてくる。
 行きつ戻りつしながらいくつ目かの丘の頂上に続く道へと入り、心臓は酸素不足で心は心配ではちきれそうになりながら丘を登って行った。
 シスカがこの丘に居るという保証は何もない。
 あれからシスカはこの丘陵地帯に時々足を運んでいたが、トラウマもあってサエが付き合うことはまれで何箇所かあるシスカの丘全部の場所を把握しているわけではない。
 ショウがこの丘を知っているわけは無く、疲れ果てたサエはシスカがここ来ている可能性は無いような気がしてきた。
(何で丘に行ったと思ったんだろう?)時間を無駄に消費してしまった罪悪感に苛まれながら、ここを最後にして引き返すことに決めて一歩ずつ歩を進めた。
 丘の頂上が近付いて視界が開けてくると、頂上の平らな部分の反対側に小さく人影が見えた。
 シスカがどのような状態なのかわからないので、大声で呼びかけたいのをこらえて早足に近づいてゆくと人影はやはりシスカだった。

 シスカは国境の丘の方を眺めていた。腕を前に抱え、寒さで凍りついたようにじっと固まったまま立っていた。
 暗くなり始めた国境の丘と丘の間の谷間には、小さく向こうの町の明かりが輝き始めていた。
 西側の丘の方向には、濁った灰色の空をバックにして大きな赤黒い夕日が沈んでいこうとしていた。
 あの時と違うのは風が有ることだ。強くはないが一定の冷たい風が着実に体温を奪ってゆく。そして、流れる風が丘に自生する低い植物群の間をすり抜ける際に発生させる音が、どこかの大陸の呪術師が使う楽器の音のように響いていた。
 サエはシスカの横にそっと並んで立った。シスカはサエを無視するように真っすぐ向こうの町の明かりを見つめていたが、その頬には涙が伝っていた。
 ゆっくりとシスカの口が開いた。
「ここで僕の涙の乾くのを待っているうちに日没を過ぎてしまったんですよね?」
 サエは驚いて一瞬固まった。
「なぜ?それを?」サエはどちらに尋ねればよいのか迷いながら訊いた。
「僕はまだショウです。でもシスカのことも思い出してきてます。サエに話したいことがあるんですけど、帰りながらでいいですか。」シスカははっきりとした口調で答えた。
「そうだね。またやられたら嫌だし。帰ろう。今日は風が有るからシスカの声も届かないよ」サエはショウの言葉の中にシスカを感じたのでシスカに対するつもりで応えた。
 憶えが有るのかシスカは「そうですね」と返事をし、二人は踵を返して歩き始めた。
「サエ、僕は食堂で1人で座っていた時、シスカの記憶がつながっていくのを感じたんです」
 シスカは歩調を速めた。
「小学校3年生の時、本土の小学校に編入してサエと出会ったこと。小学校5年生の時一緒にキタカタ州に引っ越してきて髪や目の色でいじめられたこと、サエと一緒に泣いたことや怒ったこと、そして高校時代のあのサエの撃たれたときのこと、全部思い出しました」
 ショウのあの遠慮がちな喋り方は影をひそめ、シスカの力強さが少しだけ顔をのぞかせていた。
「でもシスカの記憶にもなかったキタハラと出会う前のこと、それは僕の中にあったんです。多分……」シスカはここで遠い目をした。
「それはこの丘にきて思い出しました。シスカが思い出そうとしてここにきて何度もチャレンジしてできなかったこと……」
「それって、どんな?」それは育ての親のキタハラ夫妻でも知らないことだったのでサエが思わず尋ねると、「今ここでは言いたくないです」シスカの毅然とした返事が返ってきた。
 気温がぐんぐん下がり始めたので、途中から2人はさらに急ぎ足になって、町に向かって歩いていった。
 早く帰らないと明度が落ちてしまう。暗くなったら下手を打つと命を落とす恐れがある。
 何もない丘陵地帯の中の地道を小走りになって急ぎ、真っ暗になる前にようやく町の入口の門の前までたどり着いた。
 ここまで来ると門を照らす照明や町の窓々に灯る明かりでようやく足元が見えるようになり、2人は小走りから急ぎ足になって門を入った。

 町の中は仕事を終えた人々が大勢歩いていたが、あまりの気温の低さに追いたれられるように白い息を蒸気機関車みたいにまき上げながら、ほとんどは大きなアーケードに飲み込まれ、一部は自宅へ帰ってゆくところだった。
 「シスカ、サエ、何してるんだ!」サエが振り返るとそこにはキタハラが立っていた。キタハラはシスカより若干背の低いガッチリした感じの40位の無精ひげの男で、シスカの育ての親だ。
 サエはシスカの反応が気になってじっと様子を見ていたが、シスカに混乱している様子は無く打ちとけた様子なので少し安心した。
「今日は体調不良だったんじゃなかったのか?」「ちょっと町の外を散歩していたんです」シスカは記憶が戻っているのか何気なく答えたが、サエは言葉遣いにひやりとした。
キタハラは大きく眉の間に皴を作り「また町を出たのか、命を落とすぞ。サエが迎えに行ってくれたのか?生理痛はどうした?明後日の勤務に現れなかったら俺が迷惑するんだぞ。代わりの整備士なんかそんなに簡単に捕まらないってことぐらいわかってんだろう」と一気にまくし立てた。
「ごめんなさい、どうしても夕日が見たかったんです」シスカはそうしゃべったが、キタハラはまた眉の間に皴を作り「どうした?お前ほんとに大丈夫なのか?」と訊いてきた。
(うわ!まずい)しゃべろうとするシスカをそっと抑えてサエが替わりに答えた。
「シスカ、ちょっと今日は不安定みたいなの。許してやって」キタハラはまだ怪訝そうな顔をしていたが「そうか……」と頷いてくれた。
 サエは「キタハラ、うちの店で晩御飯食べてかない?今からシスカと帰るところだったの」と水を向けると「そうだな。このまま帰るつもりだったんだが、どうせ晩飯を食べなきゃならんしな。ちょっと寄らせてもらおうか」と言った。

 3人は人波に逆らわずアーケードに飲み込まれ、19番と書かれた看板の下にある小さなくぐり戸を開けた。
 カウンターを含めて30席ほどの小さな店で、豊かな漁場に囲まれた地方の郷土料理が美味しいと評判が口コミで広がり、ようやく安定した経営ができるようになってきたところだった。
 中ではもう20人ほどの客が食事をしており、「ようキタハラ久しぶりだな」「サエちゃんこっち来てくれよ」などと口々に声をかけてきた。最後に入ってきたシスカを見つけると「シスカ!1曲頼むよ!」と声もかかった。
 サエが「後でね」といなしながらキタハラの席を確保し厨房に声をかけた。
「かあさん帰ったよ。シスカ見つかったよ」
「ああ、お帰り。シスカも、よかった。心配してたんだよ」シユは忙しく立ち働きながら厨房から出てきてシスカの顔を確認して、また仕事に戻った。
 サエはキタハラとシスカの防寒コートと帽子をハンガーに掛け、自分の物を奥の部屋に放り込みながら「キタハラはわかったんだね?」と訊いた。
 シスカは「はい。覚えてます。僕の育ての親ですから」と言った。
「あぁ。その、です・ますと僕はやめた方がいいかも」サエは笑いながら指摘した。
「うん。覚えてる。私の育ての親だから」シスカは照れくさいのか少し下を向いて言い直した。
「65点、可というところかな。さあお店、手伝って」
「でも、帽子は……?」心配そうにシスカが訊くとサエは「なんだ。まだ所どころ繋がってないみたいだね?この店は大丈夫。みんなわかってるから」とシスカを引っ張って行った。
 2人はそれから2時間ほど店を手伝った。ショウはシスカとして気を使わない楽しい時間を過ごしたようだった。
 午後8時を過ぎた頃夕食を食べる客も回転して、少しお酒が入った客がくつろぎ始めた。キタハラも食事を終えて少し酒が入ってシユや飲み友達と話し込んでいた。
 手が空いてきたサエは小さなステージというか段差の横に置いてある小型のキーボードの前に座って軽い音楽を弾き始めた。何曲か弾いて軽く拍手を受けた後マイクを持って「シスカ!歌って」と軽い調子で言った。そして出口に一番近いテーブルにいつものトマトピューレの空き缶を置いた。
 客はいつものように少し湧いて歓迎の軽い拍手が起こった。シスカは厨房の中でゴソゴソしていたが、名前を呼ばれて顔を上げた。そして拍手を受けて戸惑っている様子だった。
 シユに背中を押されて厨房を出てきたが、セーターとジーンズにエプロンという自分の格好を見下ろして(これでいいのか?)というふうにサエを見た。
「いいよ!シスカ。早く」サエに呼ばれてエプロンを外し、おどおどとステージに近づいてくる様はショウのキャラクターだ。
「サエ、僕は何を歌うの?」マイクを切って小声で打合せだ。
「シスカのナンバー思い出さない?」サエは楽譜ではなく歌詞カードの方を見せた。
 シスカはカードを見ていたがちょっと考えてから「これかな?」と古い映画のテーマを指差した。
「歌えそう?」
「たぶん。これですね?」と軽くメロディーを口ずさんだ。
「そうそう。じゃいくよ」とサエは伴奏をスタートさせた。
 シスカはピタリと歌い出しをあわせて歌いだした。
 その柔らかい声はその柔らかさを保ったまま力強くまた優しく美しく、これまで聴いた事のあるシスカの歌声を超えて観客を優しく包み込むように響いた。少なくともサエにはそう聞こえた。
 2曲目3曲目と1曲ごとに打ち合わせをしながらシスカは歌ったが、1曲ごとに拍手は大きくなった。3曲目が終わったとき大きな拍手が起こる中、シスカは打ち合わせをせずマイクを構えた。そしてアカペラで歌い始めた。
 その歌は家族をテーマにしたシンプルなメロディーの曲で、頭の芯が懐かしい思いで満たされる。そんな印象の曲だった。
 シスカの声はその曲に良くマッチし、声の特性をすべて使い切るように表現した。1番・2番と歌い3番に差し掛かったとき内容がわからなくなった。
 ベクル語だ、シスカはまたベクル語で歌っているのだ。
(そうだ本来この言葉で歌われる歌なんだ)サエはそう思いながら恍惚感の中に浸っていた。
 歌が終わってシスカは深々とお辞儀をした。
 プラチナの髪が揺れる。
 食堂は静寂に包まれた。
 数秒の静けさの後、大きな拍手と歓声が沸き起こった。
 たった20人ほどの客だがみんな泣いている、笑っている、歓声を上げている、手が赤くなるほど拍手している。感動が食堂を包んでいる。
 キタハラは最初放心したようにシスカの歌を聴いていたが今は難しい顔をして黙って座っている。
 シスカはもう一度お辞儀をするとそのまま奥の部屋へと引っ込んだ。
「ブラボー!」
「すごい!いい歌ね」
「いつの間にあんなにうまくなったんだ」客の問いかけに「今朝からよ」サエは軽く突っ込んだ。
 客が次々感想をサエに伝えにきた。そして次々トマトピューレの空き缶にお金を入れていく。札を入れる客も多い。こんなことは初めてだ。そのうち「アンコール」の掛け声がかかって収集がつかなくなった。
 サエは奥の部屋へシスカの様子を見に行った。
「シスカ!アンコールだって」声をかけながら部屋を覗くとシスカはひざを抱えて背中を向けていた。
「シスカ」肩に手を置いて顔を覗くとやっぱり泣いていた。
「ちょっと無理?」声をかけると「大丈夫です。でも少し待ってください。ドキドキしてる」シスカは笑顔を作って答えた。
 サエは「じゃ。落ち着いてからでいいから顔を出して」と言うと棚からタオルを出して渡して食堂へ戻った。
 アンコールの掛け声を少し待つように抑えていると奥からシスカが顔を出した。
 するとまたどっと拍手が起きた。シスカはおどおどとショウのキャラクターでステージに立った。目は少し赤くなっているがとにかく涙を抑えたようだ。
 そっとマイクを取ると打ち合わせに近づこうとしたサエを手で制して正面を見つめた。
 客が落ち着いて自分に集中するタイミングを計っている。
(したたかにやってる)サエが感心していると、シスカはアカペラで歌い始めた。
 例のベクレラの子守唄だ。今度はイルマ語で歌っている。観客は静かに聞き入っていて、そこにシスカの声が気持ちよく響いている。そして2番はベクル語になった。
 そして静かに歌い終えるとシスカはまた深々とお辞儀をした。
 大きな拍手と歓声がシスカを包んだ。シスカは頃合を見てマイクを口元に持っていった。
 拍手が鳴り止む。そのタイミングでしゃべり始める。
(シスカになってる)サエはにやりとした。
「今日は僕の歌を聞いていただいてありがとうございました。今日はいろんな事が起ったものですからとても疲れています。こんなに喜んで頂いてもう少し歌わなくてはいけないんでしょうが、今日はこの辺で終わりにさせてください。ごめんなさい」もう一度深々とお辞儀をしてそのまま奥の部屋に引っ込んだ。
(相変わらずボクなんだ)サエは今度は苦笑いした。
 もう一度大きな拍手が起きたが、気心の知れた客なのでそれ以上アンコールを無理強いすることはなかった。
「ベクル語が上手ね。シスカはやっぱりあっちの血を引いてるの?」
 感想を伝えにきた客の声の中にこの質問を聞いて、にこやかに応対していたサエは固まった。
「あっ。ごめんなさい。失礼な質問だったわね」その女性はばつが悪そうに自分の席に戻っていった。
 サエはその女性の後ろ姿を見つめながら、その質問は自分がシスカに対して一番に投げかけたかった質問だったことに気づいていた。
 客が落ち着いて自分の席で談笑を再開したころ「ご苦労だったな」と声をかけられ振り返るとキタハラが立っていた。
「えらい生理痛だったようだな」と皮肉たっぷりに言われてサエは苦笑した。「ごめん。でもシスカずいぶん混乱してて……」
「シスカでなくなってたのか?」キタハラは心当たりがあるように尋ねた。
「うん。まあ」サエはあやふやに答えた。
「シスカは家に来たときずいぶん不安定だったんだ。ほとんど破綻していたといってもいい。フラッシュバックを起こして暴れたり、急にいい子になったり、別の子になったり、幼児帰りを起こしたり、俺たちに馴染むまでずいぶん時間がかかった。少しずつ馴染んではくれたが普通に生活できるようになったのはサエ、お前に出会う少し前だ。」キタハラは遠い目をした。
「今までシスカはあんな声で歌ったことは無い。ベクレラの歌も歌ったことはない。ベクル語は最初しゃべっていたが通じないとわかると二度としゃべらなかった。一言だってだ」一瞬溜めてから「何があったんだ。サエ」とキタハラは真剣な目つきでサエの目を見た。
 サエは観念して今日起こったことすべてを話した。キタハラを店に誘った時点ですでにそうするつもりだったかもしれない。
「今はそのショウがいると思うんだけど、もうシスカとの境目がわからなくなってきているみたい。それにシスカの記憶にもなかったキタハラと出会う前のことも思い出しているみたい。多分それは物心付いてからの記憶のことだと思う」と最後に付け加えた。
「ムウ……。俺たちもそれを尋ねなかったし。シスカもしゃべったことは無い」
「一応訊いたんだけど『今ここでは言いたくないです』って言われたわ」
「シスカとショウに任せるしかないのかな。ありがとう。すまなかったな。今日は任せたぞ」キタハラはサエの頭をポンと軽くなぜてから大きな札で食事代を払い、釣りを全部トマトピューレの缶に入れてから家に帰っていった。
 サエが奥の部屋を覗いてみると、シスカは膝を抱えた状態のままパタリと横に倒れてぐっすりと眠りこんでいた。
 一日でこんなにいろんなことが起こったので疲れ果てたのだろう。また泣いていたのか目元は泣きはらしたままだが、こんなにシスカの涙を見たことは無い。
 ショウが涙もろいんだろうなと思いながら、シスカの上に分厚い布団をそっと掛けた。
「サエ」シスカの声がした。
「起きてたの」サエはシスカの顔を覗き込んだ。
「シスカになると、僕は消えてしまう?すごく怖い……でも僕はシスカにすごくわくわくしてる……消えるって死ぬのと同じ?」子供のように口の中でモゴモゴ言ってまた寝息を立て始めた。
 肩の上にやさしく手を置いて静かな寝息の揺れを感じながら、シスカとショウの今日の混乱と動揺を思いやり、それからそっと電気を消した。
 シスカとショウそしてサエの長い長い一日はようやく終わったようだった。


(2013/02/17 文章再構成)
(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 8 ---

 *

「メインタンクブロー」
 チーフパイロットのキリュウが声を上げたのでコ・パイロットのシマ・アツコも復唱してブローの操作を行った。潜水艇はゆっくりと浮上のプロセスに入って人間世界への帰路に着いた。
「シマ、深度計とジャイロから目を離なさないように。それから100メートルを切ったら10メートルごとに深度を読み上げてくれ。あと、シマのマイクをマザー2にも繋いでおいてくれ」
 キリュウは背だけは高いがヒョロッとした体型の男で、指示を出しているくせになんとなく自信なさげに聞こえるしゃべりくちで指示してきた。
「了解、マザー2に接続します。マザー2?こちらWR2現在深度360」アツコは計器を凝視しながらハキハキした口調で現在の震度を読み上げ、母船のマザー2からは復唱があった。
 彼女は新人のコ・パイロットでまだ深海への潜航は5回目だ。研修を終え半年前の人事異動で配属された。女性で潜水艇に乗るというのは非常に稀だが、高分子吸収素材の発達によって女性にも無理なく搭乗することが可能になったのだ。もちろん男性にも恩恵があるのは言うまでもないが。
 彼女は黒い瞳と肩までかかるストレートの黒い髪を持った小柄な体格で、小柄という点では潜水艇乗り向きといえた。
 アツコが「300」と声をかけると、キリュウが「浮上時には少し揺れます。しっかり構えておいてください」と3人目の乗員、エネルギー会社の開発部研究員に声をかけ「シマもだ」とアツコにも念を押してからコントローラを握った。
「250」アツコのカウントが入る。
「マザー2こちらWR2順調に浮上中、位置確認は大丈夫か?・・・・」
「任せとけ、位置は補正中、浮上までには完了する。波は1.0メートル、風弱し、回収に差し支えなし、そのまま浮上せよ」キリュウの問いかけに微妙な間を置いてプロジェクトリーダーのクラモチの野太い声が返ってきた。
「200」アツコは読み上げたが、キリュウはアツコの行った操作を確認しているのかパネルを覗いている。
 アツコは他の機器のチェックを済ませ「マザー2?現在深度100」の声を上げた。
「こちらマザー2深度100了解、回収シークエンス・ステップ1に入る」「90」アツコはカウントを続けた。
「80」「70」「60」「50」
 そのとき激しい衝撃と大音響を感じ、「キャ―――――」アツコの長くて甲高い悲鳴とともに3人は耐圧球の天井壁に叩きつけられた。
 そして何が起こったのか考える暇もなく照明が消えた。
 薄れてゆく意識の中で「緊急浮上!エマージェンシーブロー!」キリュウの叫び声が聞こえた。
「シマ!研究員!大丈夫か?」声をかけられて意識が戻ってきた。
「水漏れは無いな。シマ!動けるか?マザー2を呼んでくれ!」アツコは頭を振りながらよろよろと起き上がると通信装置に向かったがすぐに電源が入っていないことに気づき、電源が入らないのを確認して「艇長!通信装置死んでます」と報告した。
「わかった。電源がお釈迦のようだ。エマージェンシーブローは失敗した。非常バラスト系だけは生きてるな。艇はわずかに沈降している。毎秒0.2メートルといったところか?浮力材に異常は無いようだ。バランスもOK。二人とも自分の体を確認して、怪我は無いか?」キリュウはアツコにも聞こえるように現状をしゃべってくれてから訊いた。
 非常バラスト系が生きていることにほっとしながら、アツコは自分の体を確認してから研究員の確認を手伝って報告した。
「艇長、私は大丈夫ですけどナトリさん頭から血が・・・・」
キリュウはあまり時間がないと判断したのか、本当にとりあえずという感じで「ナトリさん、とりあえずそこのタオル自分で当てといてください」と指示してから「シマ、非常用バラストを捨てて緊急浮上しよう。電力無しでいつまでもここに居たら危ない」と本題をつけくわえた。
「了解」とアツコが返事をすると、キリュウは腹に力を入れた声で叫んだ。
「2人とも揺れるぞ。掴まれ!バラスト投下!
クラモチ!
どいてろよ!」

 *

ドシャ―――――ン、水と空気が激しく振動するような大音響とともに巨大な水柱が上がり、船が大きく揺れた、
 クラモチは操作板につかまりながら「どうした――?各部署現況を報告しろ!」とわめいた。
「第1デッキ、船尾水中で大きな爆発が有りましたー!被害は調査中!」
「第2デッキ、同じく!」
「操舵生きてます!」
「コントロールルームの機能は大丈夫です!非常電源作動しました!」
「機関室、大量浸水中だが機関は稼働中、3分は動けるぞ!」各部署から報告が入り始めた。
 クラモチは船が動けるという報告を聞いてすぐマイクに向けてどなった。
「船長!WR2の上をクリアーに保て!緊急浮上してくるぞ!機関室、5分は持ちこたえろ!水密扉の閉鎖は機関長に任せる。イシダ!救難要請を入れろ。爆発と浸水と機関停止だ。超特急だ。モニター、WR2と連絡は?」
「途絶えています」モニターの返事は簡潔だった。
「ソナー、WR2の様子はどうだ?」
「姿勢は正常。わずかに沈降しています。毎秒0.2メートル」
「よし、コバヤシ、本部に緊急連絡しておけ」クラモチは質問と指示を次々と繰り出した。
 さらに各部署からの報告が続き、おおむね無事のようだと安心し始めたとき矢継ぎ早に致命的な報告が入った。
「第2デッキ、ハンガーが損傷!WR2の収容は不可能!足が1本おれちまってる」
「第1デッキ、小型艇4隻とも損傷!航行不能」
「ソナー、WR2緊急浮上中!浮上まで後10秒、浮上域クリアー」
「クソ!来るぞ!船長、浮上確認しだい接近しろ!」クラモチはどなったが機関長の声が重なった。
「機関停止、もう無理だ。水密扉を閉じる。沈んじまう!」
「5分持たせろと言ったはずだ!」クラモチが食い下がったが、機関長に「死人が出ちまうよ!3分と言ったじゃねーか」と片づけられた。
「リーダー、WR2浮上。右舷後方100メートル」ソナーの報告が入る。
「コバヤシ、本部に追加報告を、爆発のことは伝えたな。今度はどちらも動力を失ってWR2を収容できずに流されていると言え。超特急だ。あっちも電源が無いんだろう。こっちの状況を伝えて本部長の判断を仰ぐと言え。畜生、手も足ももがれたか・・・・」クラモチは携帯電話を取り上げると、ハンドフリー用のイヤホンを耳に突っ込み、「俺は現場へ行く。イシダ、代わりに指揮を取れ、俺の携帯もグループ通話にしておくから。それからモニター、WR2と連絡を取れ。もう携帯が使えるだろう」
「今呼び出し中です!」とモニター。
「よし!すぐ戻る!」指示してからクラモチは勢いよく立ちあがった。
 大きな熊のような体型に似合わず豹のようにラダーを飛び降り、第1デッキで小型艇を確認し、第2デッキでハンガーの状態と、負傷者と船体の破損状況を確認したクラモチはそれこそ熊のようにうなり声をあげた。
「う――ん。いったい何が爆発したんだ?死人が出なかったのが不思議なくらいだな」
「わかりません。機雷に触れたみたいでした」
「機雷か、よし、何が爆発したか調査を始めてくれ」クラモチは甲板長に指示を出すと、今度はラダーを飛び上がるように登ってコントロールルームへ帰って行った。
「イシダ、WR2の位置は?」ドアを開けるや否やクラモチは次々と質問を浴びせる。
「右舷後方100メートル、あまり変わりません。同じように流されているようです」
「救難要請は?」
「軍への要請は拒否されました。沿岸警備隊が向かってくれていますが、遠いので到着に3時間といったところです」
「機関室はどうだ?」
「水密扉の閉鎖はうまくいったようです。軽傷が3名、重傷が3名いますが命に別状は無し。沈没の心配は無いと言っています」
「コバヤシ、本部の反応は?」
「マザー1をこちらに振り向けるそうです。到着時刻は追って知らせると。それから本部長は民間のヘリを手配すると言ってました。時間が無いのでとりあえずヘリを使ってゴムボートを運んでくる算段のようです。それで何とかしてWR2と乗組員を回収しろということです」とコバヤシが報告した。
「モニター、WR2はなんて言ってる」
「お客が頭に軽傷だそうですがとりあえず全員無事。衝撃で電気系統全部がだめで、まったく動けないが沈没の心配は無いと」
「アッちゃんは無事だったんだな」クラモチはコントロールルーム全員の期待を裏切らないように、乗組員全員ではなくアツコの心配だけをした。そしてこれからの方針を伝えた。
「よし、ヘリを待とう。WR2にはそのまま待機と伝えろ。各部署はリーダーの指示で復旧を急げ。俺が本部長と話をする。繋げ!」


(2014/08/06 更新)
テーマ : BL小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 9 ---

 *

 シスカは鏡の中の自分と向き合っていた。朝食後(といっても今日は第二勤務なので昼食後と同じだ)のルーチンだが化粧というわけではなく、主にUVカットを目的としている。肌の強い方ではないシスカはそうそう手を抜くわけにはいかないのだ。
 作業をこなしながら、シスカの頭の中にはなぜこんなだろう?という気持ちがわきあがってくる。きれいな顔なのに自分でも好きになれないのは、バランスを欠いた組み合わせであると同時に非常に目立つからだ。
 どういう遺伝子が組み合わさるとこんなことになるんだろうと疑問に思うが、ある程度記憶が戻ったとはいえ両親を憶えていないシスカには自分で答えを得ることは不可能だった。またサエはもちろん、育ててもらったキタハラ夫婦でさえシスカの両親を知らないので解答はさらに絶望的だった。
 今日は本来休日なのだが、昨日は例の生理痛で休んだので“第2勤務でいいから出て来い”というメールが今朝キタハラから入った。そのメールの指示に従って、今朝は定時に起きてサエの家から出勤の用意のためにアパートに帰ってきていた。
 そしてルーチン作業の最中というわけだ。
 キタハラにはサエからすでにシスカとショウの事情について話されているので、出勤に特に不安は無い。
(こんなものかな)と思いながら洗面所から短い廊下に出た。
 正面はルームシェアしている友人の個室、左は玄間、右は共用のダイニングキッチン、そこに入って左側がシスカの個室だ。自分の個室に入って支度を終えて、携帯電話の方をちらりと見やると同時にシンプルな呼び出し音が鳴った。
 表示を見るとキタハラからだ。心を落ち着かせ「はい、キタハラです」と事務的に電話に出ると電話の向こうから「体は大丈夫か?すぐに格納庫に来れるか?緊急招集だ。第1級特別手当!」と思わず電話から耳を離したくなるような大声が飛び出した。
「すぐ行きます」と短く答え、電話を切ると大急ぎで防寒コートをひっかけ、帽子をかぶり例の髪を押しこむ作業をし、今朝一生懸命チェックした荷物をひっつかんでアパートを出た。
 年末祭直前の土曜日の町は買い物客で賑わっていた。その賑わいを冷ますような厳寒の空気の中を青いロードサイクルで飛ばすと、防寒コートを着込んでいるにもかかわらず鼻や手が千切れそうに痛んだ。
 空はこの時期にしては珍しく晴れわたっていて、真っ青なドームをカラカラに乾燥した空気が支えていた。シスカは体が軽いし息も苦しくないなと思いながらペダルに力をこめた。

 家並みを外れ、息を切らしながら緩やかな長い坂道を登り切ると、大きな倉庫のような格納庫が正面に見えてきた。自転車のまま車庫の中に入って足をつくと、「体調はどうだ?気分はいいか?」キタハラの大きな声がした。
 気分はいいか?と言う問いの中には“精神的に”という意味が含まれているのがわかったので「はい。大丈夫です。気分もすこぶるいいです」シスカは息を切らせたまま答えた。
「だいぶ印象が変わったな……」とキタハラは困ったような感じになったが「よし。じゃあ行こうか。自転車はその隅に置いておけ」とシスカは息を切らしたままブリーフィングルームへ連れて行かれ、待ち受けていた運行部長からブリーフィングを受けた。
「今日の任務は潜水母船のマザー2の海難救助だ」
「マザー2ですか?」知っているマザー2だったのでショウが驚くと、運行部長は“ですか?”に一瞬怪訝な顔をしたようだったがすぐ元の顔に戻り「マザー2で爆発があり、エンジン停止のため潜水艇が回収不能になった。母船も潜水艇も動けなくなっている。マザー2はけが人が出ているらしいが、潜水艇は緊急浮上していて乗組員も無事らしい。回収作業用にゴムボートを持ってこいと言ってきている。うちは慣れているから選ばれたそうだ」と早口で続けた。
 無事らしいという報告にシスカはホッとして顔にもその表情が出たが、運航部長はそれには構わず続けた。
「ゴムボートはキャビンに積み込んである。これを下ろす必要があるからヘリポートに降りることになるが、気象条件は良好なので可能だろう」
「本日、機長はキタハラ・ロク、整備士としてキタハラ・シスカが同乗。飛行コースは……」
 シスカの整備センスの良さに目を付けたキタハラは、社内に手をまわして、しばらく前から自分の機をシスカに任せていた。
 天候などの細かい説明が続き、質疑応答の後ブリーフィングは3分で終了した。
 すでに強力なエンジン付きの大型ゴムボート2隻が空気を抜かれた状態で、シートを一部はずしたキャビンに積み込まれていた。
 機体に向かいながらキタハラが「シスカ、俺の後ろに付いて真似をしてみろ」と言って、持っていた2部のファイルのうち1部をシスカに渡した。
 そして機体の周りをクルクルと動き回りながらあちこちを指でさして、あるいは触ってチェックしていった。シスカは後ろにくっついて後から真似していたが、キタハラが何をしているのか手順まで十分理解している自分に驚いていた。
 キタハラは真似をして指差し呼称するシスカの様子を時々振り返りながら黙って見ていたが、途中からシスカをグイと前に出し自分は再度確認する側に廻ってくれた。シスカはいつのまにか自分の判断でチェックを進めることができていた。
「シスカこのファイルが何か分かるか?」一通りチェックが終わるとキタハラは尋ねてきた。
「チェックリストです」シスカは当たり前のように答えた。
「じゃあ、もう一度最初から機体チェックをやりなおしてみろ。少しだけ時間をやる」キタハラはシスカの肩にポンと手を置いて励ますように言った。
「はい」シスカは機体の周りを今度は慣れた様子で回りながらあちこちを指でさして、あるいは触ってチェックしていった。やはりキタハラはシスカの後ろで再度確認しながら付いてきた。
 チェックを終えるとキタハラは「意識と知識がうまくつながってきてるみたいだな」とホッとした顔をした。
 次に機体に乗り込んで、シスカにチェックリストを読み上げさせながら消化していった。
 チェックリストを読み上げるシスカの様子を見ながらキタハラの顔は一瞬だけ微笑んだ。
 すべてのチェックリストを消化すると、キタハラのAW289はあわただしく飛び立った。
 
 AW289は海の上を国境線に近づきすぎないよう、許可された空域をほぼ最高速度で東へ飛んでいた。
「キタハラ、僕、やっぱり変ですか?」シスカはようやく言葉を出すことができた。ヘッドホンを経由すると少しは言い易い。
「いいさ。お前のせいじゃない。だいぶ印象が変わったがすぐ慣れるさ」
「変わりました?」
「何年親代わりをやってきたと思ってるんだ?お前は忘れてるんだろうが、俺たちは小さいころのショウにも何度か会ったことがあるんだぞ。その後は出てこなくなったから俺たちはシスカと一緒になったと思ってた。無理して上手くやる必要は無い。シスカもショウも俺たちの子供だ。」
「ごめんなさい」シスカはあやまったが、キタハラは檄を飛ばした。「もうあやまらなくていい。意識と知識はつながってきてるから自信を持って受け答えしろ。自信なさそうな態度をするな。自信を持て、うまくいく。俺が保障する。わかったか、シスカ!」「はい!」シスカは覚悟を決めてうなずき、キタハラは親指を立てて初めてニヤッと笑った。
「シスカ、この辺の空域は軍により厳しく制限されていて慎重な操縦が要求される。海の上には標識もないからGPSだけが頼りだ。もし非武装地帯に近づこうものならあっという間にお陀仏だ。通いなれた道のりだがそれなりに気は使う」キタハラの一応の説明はここで途切れた。
 彼方に小さくマザー2のオレンジの船体が見え始めたのだ。
「キタハラ!見えました」シスカが叫んだ。「わかってるよ。ゆっくり行こうや」キタハラは徐々に速度を落としながら大きく右舷から回り込んでゆっくりと接近した。
 マザー2の船尾側は爆発の影響かあちこちがヘシャゲたり吹っ飛んでいたりして酷いものであったが、ヘリポートの有る船首側はブリッジの影になったのか無事であった。
 キタハラの指示でシスカが「マザー2こちらOS1036ご機嫌いかが?ちょっと早いけど年末祭のプレゼントを持ってきました」と無線で呼びかけると、「シスカか・・・どうした?今日はやけによそよそしいな」とクラモチの声が返ってきた。
 シスカはなんとかうまく言えたのでほっとしていると、親しげに続けて呼びかけてきた。
「こっちは手も足ももがれてるんだ。遊んでないでさっさとヘリポートに降りてくれ。うちの若いのを貸すからプレゼントを降ろしてくれ、ありがたく頂戴する。WR2も電源を失って限界が近いから、できるだけ早く回収してやりたい。」
「すぐに降ります」少し自信を得てシスカが答えると、キタハラはまたニヤッとしてからAW289をゆっくりと船首にあるヘリポートへと近づけていき、少しもふらつくことなくホバリングしてそのままスッと着船した。

 ローターが回転を落としシスカがサイドのドアを開けると、作業員が駆け寄ってきた。
 搭載された大型の荷物は手早く降ろされ、エアーコンプレッサーに接続された。エアーが入ると大型の荷物は大型のゴムボートに変身し、続けて降ろされた強力な船外機が取り付けられた。
 もう1隻も同じように組み立てられた。2隻のボートは早速クレーンで吊り下げられ海へと降ろされ、作業員が乗り込むとそのうちの1隻に、マザー2に設置された制御ドラムから引き出された高張力ロープが繋がれた。シスカはコ・パイロットの席で待機し、キタハラは作業の様子を確認するために機外に出て行った。
 きびきびした作業に目を奪われていると「シスカ、ドクターの判断で念のため精密検査を受けた方が良い者をお前のヘリで中央病院へ運ぶことになった。シマも一緒だ、よろしく頼む」とクラモチから連絡が入った。
「了解。シマは……?」シスカは一番訊きたかったことをやっと訊くことができた。「ぴんぴんしてるさ。念のためだ。それから乗せる人数の打合せをしたい、固定作業が終わったらキタハラと一緒にコントロールルームまで御足労願いたい」
「了解」シスカはそう答えるとキタハラに声をかけに行った。エンジン音がしたので海面を見降ろすと、ロープを曳いたボートがWR2に向けて発進していくところだった。
「キタハラ、クラモチさんからの連絡で、ヘリでけが人を運ぶことになったみたい。すぐにコントロールルームまで一緒に来てくれって……」シスカは発進していったボートを見やっているキタハラに声をかけた。
「お前も一緒にってか?クラモチは記憶にあるな?」シスカがうなずくと「わかった。一緒に来い。俺がカバーするから適当にしゃべっておけ。気を使うやつじゃないからそんなに緊張するな。いずれは顔を合わせにゃならん」と言った。

 コントロールルームにはキタハラが先に入った。部屋の中には数人の男が居て、その中の30歳くらいの190センチはあろうかというガッチリとした目つきの悪そうなのが「ご苦労さん。遠路はるばるすまないな」と声をかけてきた。「なんの、こっちも仕事さ。ご用命感謝しますよ。クラモチリーダー」キタハラは軽く流して答えた。
「シスカ、今日はなんだかおしとやかだな?」クラモチはシスカにも声をかけたが、シスカは緊張で張り裂けそうになりながらやっと笑顔だけを返した。
 キタハラは「シスカは最近不安定なんだ。今日も気分転換で連れ出したようなもんだが、任務に支障が出るようなことはないから勘弁してくれ」と渋い顔で言った。
 クラモチは「不安定?信じられんな。何か俺のこととんでもなく怒ってるとかじゃないよな?」とシスカを見た。
「違います」シスカはあわてて首を横に激しく振った。(そんな怖い顔で絡まないで)シスカは緊張で立っているのもつらくなってきた。
 クラモチは疑問だらけの顔をしていたが「まあキタハラがそう言うならかまわんが」とその場は納めてくれた。話はヘリコプターに乗せるけが人の人数の打合せに入っていった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

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 緊急浮上してからどれだけたったろうか、電気を失った耐圧球の中は相当に冷えていたので、シマ・アツコとナトリは背中と背中をくっつけて毛布を巻き付けブルブル震えていた。
「どんどん冷えてきますね」アツコは愛想よく声をかけたつもりだったが声は細かく震えた。
 ナトリは申し訳なさそうに「すみません。くっつかせてもらって……」と言った。
「いえ。こうしないと私も凍えますから」少し事務的に答えてから「正面というわけにはいきませんけど・・」と付け加えた。
「いや・・」ナトリは返事に困って下を向いたがアツコの背中は少し暖かくなった。
 ハッチを閉める音がして、マザー2と携帯電話で話をするためセイルに出ていたキリュウがラダーを下ってきた。
「シマ、ヘリが到着した。ボートを運んできてくれたそうだ。これからそのボートを使ってロープをこっちへ渡してくる。受け取って繋がったらマザー2から引っ張ってくれる。君らはボートで回収だ。それでやっとこの寒さからも解放ですよ」最後が丁寧になったのはナトリに案内したからだ。
 こわばる口でそういうと「俺がロープを受け取って接続するから、ここで待機してください。シマもだ」とまたラダーを上がっていこうとする。
「待ってください。私が受け取ります。艇長ずっと上だからもう低体温ですよ」アツコが言ったが、「俺が艇長だ!」キリュウは一喝して上がっていった。
「細くて弱っちそうなんですけど、結構頑固なんですよ」アツコはナトリに言った。
 しばらくすると船体に振動が伝わってきた。アツコはボートが横付けされてロープの接続作業が行われている様子を想像しながらナトリと二人かたまっていた。

 *

 キリュウがセイルに出るとゴムボートが近づいてくるのが見えた。手を挙げると、向こうも手を挙げて応え船体を横付けにした。1人が艫綱を持ってこちらに飛び移って固定すると舳綱も固定した。
「お待たせ、キリュウ。体は大丈夫か?動けるか?」よく知った顔だが名前は覚えていない。
「ずいぶん待ったよ。寒くて寒くて。下に女性とお客が待ってるから、そちらを回収してやってくれないか」
「あとちょっと待ってくれ、牽引用のロープをつないでセッティングしてしまうよ」すぐにもう1隻のゴムボートが横付けされ、それから牽引用の高張力ロープが降ろされて、船首にあるビットに固定された。
「これで準備完了だ。下に居るお2人さんにも声をかけて戻ってくれ」
「いや、俺はこの船と一緒に回収されるよ。あとの2人を連れて引き上げてくれ」
「そのままキリュウの意見を採用できないな。リーダーに確認する。ちょっと待ってくれ……こちらイノウエ……」携帯電話を開いて連絡をしている相手はたぶんクラモチだ。
(そうそうイノウエだった)とキリュウは思い出しながら話の成り行きをうかがっていると、雲行きがおかしい。何か揉めている。
 イノウエはこっちを向いて携帯電話を差し出した。「リーダーだ。替われと言ってる」携帯電話を受け取って耳にあてる。「キリュウです。」
「こら!ゴネてないでとっとと帰ってこい。充分低体温だろうが!」野太いクラモチの怒鳴り声だ。
 キリュウは黙ってなにも答えずにいた。しばらくクラモチは何かしゃべっていたが、「わかった。わかったよ。相変わらず頑固だな!」イノウエと替わってくれと言った。
 しばらくイノウエとしゃべっていたが話は終わったようだ。携帯電話をたたむとイノウエは言った。「俺とキリュウで残れと言ってる。後2人は引き上げるようにということだ」
「わかった。2人を呼んでくる」キリュウはいったんハッチの中に入ってラダーを降りた。
「シマ、ナトリさんとボートでマザー2に引き上げてくれ」
「艇長は一緒じゃないんですか?」とアツコが詰め寄ってきた。
「俺はこの船と一緒に回収される」当然の成り行きと言う顔で答える。
「そんな。ずっと船外に居て冷え切ってるから無理ですよ。一緒に引き上げてください」
アツコは食ってかかった。
「艇をこのまま放って帰るわけにはいかないよ」
「だったら私が残ります。私の方が体型的にも寒さに強いと思います」
「艇長は俺だ」
 2人は言い争いを続けながらナトリを伴ってデッキに出た。
 デッキでも言い争いを続けているとイノウエがうんざりした顔でこちらを見ている。
「これ以上無駄な時間は取れない。ここは俺に任せて引き上げてくれ。俺の命令が聞けないなら次からはコパイロットは別の人間にやってもらうよ」最後にキリュウがそういうとアツコは黙ってしまった。
 その頃合を見てイノウエは言った。「じゃあ2人ともこちらの船に乗ってもらおうか、1隻はここに置いておく」アツコは黙って唇をかんでいたが突然キリュウにハグをした。
 キリュウはびっくりした顔になって棒のように立っていた。
 しばらくしてアツコはキリュウから離れると「おまじないです!」といってニコッと笑って、ゴムボートに乗り込んだ。そしてキリュウとイノウエを残してゴムボートは引き上げていった。
 携帯電話でウィンチと打ち合わせをしたイノウエは「よーし牽引を開始してくれ」と指示を送った。ロープが張っていくのを確認してから、残ったゴムボートの中から大きな防寒コートを引っ張り出して「キリュウ、これを着ろ。相当冷えているはずだ。」と放った。
「ありがとう。まるで俺が残るのがわかっていたようだね」とキリュウが言うと「リーダーだ」とイノウエが短く答えた。キリュウはコートを着ながらポケットの中に使いきり懐炉が入っているのを発見して、よけいに苦虫を噛み潰したような顔になった。
「それから、ホレ・・・」とイノウエは魔法瓶から熱いコーヒーを注いで渡した。WR2はゆっくりとマザー2の方へと近づいていった。

 *

 ゴムボートは速度を上げてマザー2に近づいて行く。
 アツコは渡された防寒コートにくるまりながら、やっと人心地がついて緊張が解けたのか体の震えが収まるのを感じていた。ボートは速度を落としマザー2の船尾ゲートに接舷した。
 ゲート付近はひどく破損していたが接舷した部分だけは片付けられていた。
 アツコはナトリとタラップを上りながら顔を外側に向けWR2がロープにひかれてゆっくりと近づいてくるのを確認してから甲板に上がった。
 そのとたん大きな歓声に迎えられ2人は大勢の人に囲まれた。たくさんの知った顔がこちらを見て歓迎の意を示している。一番手前に居た甲板長に先導され、どさくさまぎれに抱きついてくる野郎どもをはねのけながら医務室へ向かう。
 簡単な診察をすませるとクラモチからアツコとナトリにすぐにコントロールルームに上がるよう指示が来た。二人で三階層を登り、アツコはコントロールルームのドアを警戒しながら開けた。
「無事だったか」クラモチがかけ寄ってきたがハグされる前にサッとナトリの後ろに回避した。
 アツコは簡単に爆発時の潜水艇の状況を説明した。「さすがアッちゃんだな、いい判断だ」クラモチが言ったが「すべて艇長の指示で動いただけです」とにべもなかった。
 クラモチとはこのコントのようなやり取りがお約束になっている。
 クラモチは表情を切り替えて指示した。「ナトリ研究員とシマはドクターの判断で念のため精密検査を受けた方が良いとのことだ。他のけが人と一緒にヘリで中央病院に行ってもらう。いいな」
「わかりました」アツコは答えながら部屋の隅にキタハラの顔を見つけていた。
「リーダー、ヘリはキタハラさんのですか?」と訊きながらキタハラの後ろに隠れるようにしているシスカの横顔も見つけた。
「そうだ。すぐに向かってくれ。他のけが人は待機中だ。急げ!」
「はい」アツコは返事しながらシスカに近寄った。
「シスカ!一緒に来てたんだ」声をかけると一瞬アツコを見てから微妙に視線を外し「無事で良かったね」と言った。
「エッ?」予想外の反応にアツコの返事も変なものになったが「さあヘリへ急いでくれ」というキタハラの言葉におされてその場はそのままになってしまった。
(シスカどうしたんだろう?)アツコは疑問と不安を抱えたままヘリコプターへ急いだ。シスカはその隊列から少し遅れてついてくるようだった。

 *

 ゆっくりと、責任を持たされた立場のものにとっては本当にゆっくりとWR2が近づいてくる。キタハラのヘリコプターはキリュウを待ちきれずしばらく前に出発した。
 クラモチはコントロールルームの窓からそれを見ながら、イライラする気持ちを抑えるように冷めたコーヒーをゆっくりと飲み込んだ。
 さらに長い時間が経過してからWR2は慎重にマザー2の船尾ゲートに接舷した。WR2から降りてきた2つの人影はたちまち多くの人々に囲まれた。
 やっと1つの項目をクリアーしたが、これからこの船が母港に接岸するまでの膨大な作業量を思うと、クラモチは憂鬱な気持ちになるのを抑えることができなかった。

 *

 キリュウはタラップを上がりながらふと見上げた。たくさんの知った顔がこちらを見て歓迎の意を示している。
(ああ、何とかたどり着いた)と思った瞬間世界が急に夕暮れになったように感じて、まずい、ちょっとカッコ悪いぞ。俺、気を失いかけて・・・「おい!キリュウ!」すぐ後ろからタラップを上がっていたイノウエは倒れてきたキリュウを支えながら叫んだ。
 出迎えムードだったまわりは一瞬で大騒ぎになった。

 *

「何で俺達が2往復なんだ?」マザー2の負傷者達を中央病院に送り届けた後、格納庫に戻ってきたキタハラらに、運行部長からマザー2への2往復目の飛行プランが伝えられた。
「追加の急病人が出たらしい。ちょうど運用中で飛び立てるチームが君達だけ、というだけのことだ。すぐに給油を済ませて出発してくれ」
「そんな!」キタハラはわめいたが「第1級特別手当付与」と付け加えられてしぶしぶうなずいた。
「まず中央病院に寄って、医者と第1便で来ていたマザー2の看護師の2名を拾ってくれ……」シスカが対応できるようになっていたのでブリーフィングを例のごとく3分で終了させ、いつものようにあわただしく給油と機体チェックさらにチェックリストを消化してキタハラのAW289は再び飛び立っていった。

 *

「他に聞いておくことはないか?」クラモチは尋ねたが「今のところ順調です」とコバヤシは答えた。沿岸警備隊の中型巡視船がマザー2に到着してすでに30分はたっていた。
 すでにマザー2での対応はおおかた終了していたので、巡視船がすることは特になく警備のためだけに横付けされているようなものだった。
 けが人や体調の良くないものはすでにヘリコプターで中央病院に搬送されていたし、破壊された船体の応急処置もほぼ終了し、まもなく到着する予定のマザー1を待つだけになっていた。
 マザー1のハンガーを使用してWR2を収容し、そのまま曳航してもらって母港に帰る段取りが整えられていた。
 段取りがうまくいかなかったのは、急病人が発生しさらにヘリコプターの到着をも待たなくてはならなくなったことぐらいだ。
「キリュウのやつ、わがままばかり通した挙句これだ。もっと強引にやる必要があったかな?コバヤシ」何杯目かの冷めたコーヒーに口をつけながらクラモチは訊いた。
「リーダーの指示を聞かないのは組織としては問題です。潜水艇に責任を感じるのはわかりますが、結果がこれではキリュウの責任問題として取り上げる必要が有ると思います」
「厳しいな。まあそう言うな。俺も最終的に折れてるんだから俺の責任でもあるしな……」クラモチは頭をかきながら少し言い訳がましく言った。
「シマはどうだ?コバヤシ」
「順調に成長していると思います。今回の対応もしっかりしたものです」
「そうだな。女ということで少し気になっていたんだが判断や対応は的確だ。このまま育てようと思う」クラモチはニヤついたが、ふと顔を上げた。
 かすかにヘリコプターのローター音が聞こえ始めていた。
「マザー2こちらOS1036ご機嫌いかが?」
「シスカか?マイク替われ」クラモチはシスカだとわかるとマイクを取り上げた。
「シスカか?2往復も悪いな。聞いているとおり急病人だ。大急ぎで頼む」
「了解。すぐに降ります」
「恩にきる」マイクを返しながらクラモチは「何か調子がくるうな」と付け加えた。
 夕暮れの迫る中AW289はスムーズに着船した。
 AW289はただちにマザー2の看護師を降ろし、担架ごとキリュウを乗せると医師の診察を受けさせながら全速で飛び立っていった。


(2014/08/06 更新)
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 彼はまだ新入りで、背だけは高いがヒョロッとした体型の男だった。この就職難の時期、あちこち受験してようやく国境警備隊員として採用されたのだ。専門学校で学んだことを生かせる職では無かったが、この際贅沢は言っていられなかった。
 スナイパーとして適性試験をパスし厳しい訓練を受けた後、何回目かのパトロールに参加して、今しがた夕日が沈んでいったところだった。
 急速に暗くなってゆく丘陵地帯に、仲間の隊員と一緒ではあったが取り残されたような不安な気持ちがいっぱいになっていた。いつもは強く吹く風が今日は珍しく凪いでいた。
 動く物の無いこの丘で空気まで静止しているという状態は、この場所に音の無い世界を作り出し不安な気持ちをさらに大きくさせていた。
「全員ナイトスコープを装着」隊長の指示でスコープを装着すると、闇の中に風景が浮かび上がった。1つの隊は5名で構成され、隊長を始め全員がスナイパーだ。国境線に近づくものを容赦なく狙撃していくのが任務だった。
 特に向こう側から越境してくる者に対しては厳しい対処を求められていた。国境に一般市民が近づかないように牽制し、また向こう側からの侵入も阻止し国境が平和に維持されているように見せる。それがすべてだった。
 新入りの彼は、ナイトスコープで監視を続けながらふと動くものが見えたような気がした。「隊長。23度、何か動くものが……」
「23?見えた、2人だ。南に向かっている。北からの進入かな。ミヤシタ、2人を確認できるか?」
「確認できます」
「狙撃する!ミヤシタ、右の1人の足を狙え。もう1人が逃げるようなら新入り、お前が追射しろ。サヌキ!カバーに入れ。新入り!サヌキがカバーするから、訓練どおり落ち着いてやってみろ。狙撃用意!」
「はい!」新入りはドギマギしていたが訓練どおり呼吸を整えようやく体制が整った。
「狙撃よし」隊長の声を待ってミヤシタは引き金を絞った。
 発射音がして1人がゆっくりともう1人に寄りかかってから倒れた。もう1人は逃げ出す様子はない。
 射撃をしなくてもよさそうな状況にホッとしていると「撃つなーーーーーー!」その声はこのまったく音の無い丘陵地帯に響き渡りチーム全員に聞こえた。
「おい。イルマ語だぞ。こっちの人間か?」ミヤシタが言ったが隊長が続けた「油断するな。接近する。ミヤシタ、エンドウ、ここからスコープで監視を続けろ。おかしな動きが有れば援護しろ。サヌキ、新入り、付いてこい」3人はゆっくりと接近していった。
 こちらの様子が見えないように無灯火で接近してゆく、スコープには2つの人影が見えていたがおかしな動きはない。1人は座り込みもう1人はそれに寄りかかっている。
 隊長は2人の様子を観察していたが「高校の制服か?」とつぶやいた。
「2人ともスコープを外せ!新入り、照明を点けろ」隊長の命令で点けられた照明の中に、2人の姿が浮かび上がった。
「女子高生じゃないか!」隊長が叫んで駆け寄ろうとしたと同時に、座り込んでいた方の悲鳴が上がった。
「いやだーーーーーー!!サエ!サエ!」サエと呼ばれた方は口から血を流しぐったりとしていた。
「お前らなんでこんなところに?サヌキ、身体検査だ、女のお前の方がいい、怪我もみてやれ」隊長は女性隊員であるサヌキに指示した。
 サヌキは「大丈夫よ」と声をかけ座り込んでいる方の体を手早く確認してから、ぐったりしている方の体を確認し傷の具合を確かめるためそっとコートの前を開けた。
「胸に当たって抜けているようですね。小口径なんで傷口も小さいから出血はましです。」とサヌキは報告し、「サエ!サエ!」と泣きながらガタガタ震えている方に向かって「生きているわ!」と声をかけてから向き直り「新入り!レスキューキットと担架を用意して」と付け加えた。
 新入りは動揺していたが、それでもキットを出し担架を組み立てにかかった。
 隊長は新入りに「考えすぎるな。これが我々の任務だ」と声をかけてから「ミヤシタ、エンドウ合流しろ、けが人を担架で搬送する、担いでくれ」と無線で呼びかけた。
 さらに新入りに「もう1人はお前がおんぶしてやれ。荷物は俺が持つ。それから疲れたら言え、交代する」と言ってから本部への報告を始めた。
 手当てを終えたサヌキが新入りに近づいて「胸に当たってるけど急所は外れているようだから助かると思うわ」とそっと声をかけた。
 新入りはホッとして、少女をおんぶしようとして近づいた、彼女はもう1人が手当てを受けているので落ち着き始めた様子だった。
 新入りはその容姿に少し驚きながら背中を差し出した。
 彼女は担架に乗せられて連れて行かれるもう1人を見ていたが、それで安心したのかあるいは置いて行かれると思ったのか背中に体を預けてきた。
 隊長は号令をかけた。「よし、出発だ。国道まで出れば迎えが来ているはずだ。急げ!」
 すでに隊員達はスコープをはずしていて、各自小さな照明で足元を照らしながら早足で歩いていた。
 新入りの彼はその照明を拡散にして、自分の肩の上にある少女の顔を斜め下から照らした。
 帽子の下から出ている髪の毛はこの照明の下では白く見える。目は右が黒で左は黒では無いようだ。前を行く担架をジッと見つめている。
 なんとも不思議な組み合わせだ。その整った顔立ちをそっと見ていると目が合った。おびえるように目を逸らす様子を見て鼓動が速くなるのを感じた。
 背負うのを交代しないまま国道に出ると、オリーブドラブの軍用車が1台と救急車が1台、赤色灯を点滅させながら待っていた。手当と検査のため2人は救急車に乗せられ中央病院に向かうようだ。
 新入りの彼は背負っていた少女を救急車の中に降ろしながら、明るい中でもう一度少女の顔をそっと見た。
 左の目は透き通るようなブルーだった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 12 ---

 *

 キリュウの目の前に顔があった。髪の毛はブロンドというより、ほとんど白髪に近いくらい色素が少ない。目は右が黒、そして左はなんと透き通るようなブルーだ。
 その顔がキリュウの目の前でじっと前方を見つめている。それを下からそっと見ている……。
 ふっと下を見て「気がつきました?」キリュウは急に話しかけられて混乱した。
「エエッ!何?」
「中央病院に到着しました。これから降ろすからそのままじっとしててください」
 そして前方に視線を移して「キタハラ!先生!気がついた。うん。降ろせます」と呼びかけた。何人かの人の気配がする。
「君は?」キリュウはやっと尋ねたが「船の上で倒れたんです。ヘリで中央病院まで運んできました。これから入院です」と彼女は端的に答えて向こうへ行ってしまった。
 すぐに何人かが現れて担架ごと運び出された。もう空は真っ暗だった。アイドリングするローターの下をくぐり病院の建物内に運び込まれると、ローターの音が大きくなりヘリコプターが飛び立ってゆく気配がした。
 どうして自分がここにいるのかどうにか理解できたころ診察室に到着し、それから検査漬けの日々が始まった。寒さと疲労にやられていたのと、頭をひどくぶつけていたこともあって、テレビや面会が許可されたのは年末祭前日の朝だった。
 それまで検査以外は何もすることが無いのでトロトロと眠ってばかりいたが、その日は朝食前になんとはなしにテレビを点けた。
「マザー2……」という言葉が聞こえたので画面に注目すると、テレビではニュース番組をやっていて、パーソナリティと解説者がマザー2の爆発事故の解説をしていた。
「……ということは浮遊機雷の可能性が高いということですか?」
「発見された破片の分析はまだ全部終わっていませんが、これまでの情報ではベクレラの浮遊機雷の部品である可能性が高いという専門家の意見です。形式まではわかっていませんが、位置を自分で制御できる型の可能性もあります」
「位置を自分で制御といいますと?」
「そうですね。浮遊機雷ですからあくまで海流に乗って動くもので、自分で積極的に動き回るという動きはできないんですが、GPSで自分の位置を把握し少しずつですが位置を修正する機能を持った物もあるのがわかっています。事案のあった海域では北から南に向かって海流が流れています」
「ということは北側の何者かが意思を持って、我が国の民間船舶であるマザー2号に浮遊機雷をぶつけてきたということでしょうか?」
「まだ調査の途中ですからそこまではっきりと・・・・」キリュウは朝食を食べ始めながらじっと画面を見つめていた。
「その推測が真実だとすると、なぜマザー2を攻撃したのでしょうか?」
「もし事実なら、それはマザー2が資源調査行っていた事に関連があると思います。ご存知のように、べクレラとわが国は海底ガス田の開発に関して係争中ですから。北側はもうすでに試験生産に入っているといわれています。我が国も資源調査を進め、遅ればせながらガス田を掘削しようとしています。これは同じ鉱床からの生産になると思われますので、ガスの取り合いになる北側としては、牽制のつもりで今回のような行為に及んだのではないかと推測する専門家もいるようです」
 慎重な言い回しの解説を聞きながらキリュウは黙って朝食を食べ終えた。

 キリュウはテレビをつけっぱなしにしていたがそのままウトウトとしたようだ。
 コンコンと病室のドアがノックされた音で目覚め、キリュウは「どうぞ」と声をかけテレビを消した。
 入ってきたのはアツコだった。「年末祭おめでとうございます。艇長」といいながらベッドの横に立った。
「もう年末祭か……」とキリュウは驚いたが「艇長、よかったです」とハグされたのにはもっと驚いた。
「私たちを船内に残してずっと寒いところにいたから、すみません」と耳の横で言われてしどろもどろになって「いや、意地をはって迷惑をかけたな。ひっくり返るなんてほんとにカッコ悪いよ。恥ずかしい」と答え「シマはもういいのか?」と尋ねた。
 アツコはパッとキリュウから離れて「私は1晩泊まりで検査を受けただけで、異常なしといわれました。石頭なんですかね。」とニコッと笑って頭を掻きながら言うと「これ、一緒に食べませんか?ケーキなんですよ」と持ってきた箱を差し出した。
 箱の中からケーキとポットに入った紅茶、カップ、皿、さらには砂糖とミルク、スプーンとフォークまで出てきた。まだあった、ろうそくとライターもだ。
 潜水艇のWR2やマザー2の状態やその後の様子など仕事上の連絡事項の後は、「北風に願いを!」アツコはケーキを皿の上に出し、立てたろうそくに火をつけてから景気よくお祝いの掛け声を唱えた。
「南風に祝いを!」キリュウも答えて唱える。
 取り留めのない明るい話題ばかりを、アツコは回転のいい頭からあふれるように話題を展開させながら、キリュウは速い展開に少し疲れながらケーキを食べた。
「エッと、そろそろお暇します。疲れるといけませんから」とアツコは箱の中身を片付け始めながら言った。
「そう。ごめんな。わざわざ・・・帰る前に、ちょっと聞きたいことがあるんだけど・・・」キリュウが少し言いにくそうに尋ねるとアツコは「何でしょう?」と顔を上げた。
「俺を病院まで運んでくれたヘリコプターのパイロット、ブロンドの女性だったんだけどシマは知らないか?」
「ブロンドの女性パイロット?キタハラのことですか?パイロットじゃなくて整備士なんですけど、女性のヘリコプター乗りは彼女しか知らないです。ブロンドだったら彼女でしょう。なんと私のルームメイトなんですよ。彼女とルームシェアしてるんです。艇長も何度か彼女のヘリに乗ったことがあるはずですけど」
「そう。いちいち顔を見てないもんなぁ。キタハラっていうのか・・・」
「結構美人でしょ。彼女のこと気になりました?」
「まあね。昔あったことがあると思うんだけど、向こうは覚えていないだろうな」
「そうなんですか?いつごろですか?覚えてるか聞いてみます。って言っても、事故からお互いすれ違いで出会ってないんですけどね」
「いや、いいよ。あまりいい出会いじゃないし……」キリュウは言葉を濁した。
 アツコは後片付けを終えると「また来きますね」と予約を入れて帰っていった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 13 ---

 アツコはライトレールの車内でぼんやりと窓の外を眺めて考え事をしていた。今日、シスカは帰っているだろうか。さっき病院で口にしたとおり爆発事故以来行き違いになってシスカには会っていない。
 マザー2でのシスカの異常な様子はずっと気になっていた。
(まるでシスカじゃないみたい)小さく口に出してからあわてて飲み込んで、過ぎてゆく景色を眺めていた。
 今にも雪が降りそうな灰色の空の下、そのどんよりとした暗さに対抗するように明るく飾り付けが施された商店街を、ライトレールは快適に進んで行った。
 ライトレールを降りたアツコは急ぎ足でアパートへ向かった。そして29と番号の振られた5階建ての建物を一気に3階まで駆け上がった。
 扉に鍵を差し込んで廻すと普段は気にしていない鍵の音が今日は大きく響くように感じられた。そっとドアを開けて中をのぞくと短い廊下の向こうにシスカの顔が見えた。
「シスカ!」ガターンとドアを閉めて靴を脱ぎ散らかしてアツコはシスカの胸ににハグした。
「よかった!シスカだ」抱きついた感触は確かにシスカだ。しかし、違和感を感じてアツコの動きが止まった。そしてサッとシスカから離れた。
「ごめんなさい。変……かな?」シスカが声を出した。
「ごめんなさ……?うん。すごく変。どうなったの?」アツコは警戒信号を隠そうともせずしげしげとシスカをみた。
「私……シスカなんだけど……こまったな」シスカは困惑した顔のまま突っ立っていた。
 アツコは少し離れたところからまじまじとシスカを見つめ「確かにシスカだけど、双子の姉妹とかクローンとか居ないよね?」と訊いた。
「居ないよ。私……は1人だよ。こんなふうにしかできないし……」シスカは言いにくそうに言葉を続けた。
「だよね。悪いけど印象が全然違う。でも危害はなさそうだよね?変身したりしないよね?」アツコはおっかなびっくり近づいた。
 そしてもう一度思いっきりハグした。長いハグになった。
「たしかにシスカそのままだ。でもなんでこんなに変なの。自分で説明できる?」
「あの……どう説明したらいいのかな。僕もよくわからない……」
「僕?フーン。わかったわ。本当にどうなっているのかもう少し様子を見る」アツコは感覚だけでそう決めることにした。
「とりあえず部屋に入れてくれる?着替えたいから」アツコは自分の部屋に入っていった。
 部屋に入るとアツコは携帯を開けてメール作成画面を選択し宛先にサエを選んだ。そしてシスカの様子がおかしいことを手短に記し、発信してから部屋着に着替え始めた。返信は少し時間がたってから来た。
『びっくりしたでしょ?あなたも何となくわかっていると思うけど、シスカの幼少時代の生活環境にはかなり問題があったみたいで、キタハラのところに来た時は精神的に破綻状態だったんだって。そこからシスカは立ち上がって今の状態まで持ってきたようなんだけど、まだ完全には安定していなかったみたい。何日か前からとっても不安定になってます。でもあなたが会っているのはちゃんとシスカだよ。安定に向けて試行錯誤している途中のようなので暖かく見守ってやって!よろしくね!』
「そういうこと……」アツコは呟いて携帯を閉じた。シスカとは専門学校時代に出会ってからの付き合いだが、時々不安定さを感じることがあった。そっと探りを入れようとした時もあったが頑なに拒絶され、というより封印されているようで本人もまったく触ることもできないようだった。
 無理やり触るわけにもいかずそのままにして置いたのだが、シスカは自分で封印を解こうとしているのだろうか?深呼吸を2つしてアツコは部屋を出た。
 まず洗面所に直行して手洗いとうがいをする。そしてダイニングキッチンへ入って行った。
 シスカはテーブルの横に立っていた。アツコはシスカに近づいて、シスカもアツコの方を向いて向かい合わせになった。
 アツコの身長はシスカの肩にようやく届くぐらいだったのでかなり見上げる形になった。
「あのさ……」
「あの……」
 2人同時にしゃべりだそうとして同時に止まる。
 アツコがどうぞという具合に手を差し出した。
「あの、私……何て言えばいいのか、ちゃんとシスカなんです。記憶も戻ってます。分ってもらえますか?」シスカが困ったように訴えた。
「無理!わからないわ。まるでイメージが違うもの。でも、今のあなたが今のシスカだということは理解するわ。あなたが自分で何とかしようとして、色々変わろうとしているらしいことも理解するわ。とりあえずそれでいい?」
 シスカはしばらく考えていたが「はい」と言った。
 アツコはシスカの肩を自分のほうに引っ張ってシスカを前かがみにし、自分は爪先立ちになると、ガバッとシスカに肩にハグをして耳元で「ただいま」と言った。
「おかえり」シスカはボロボロ涙を流しながらようやく答えた。
「シスカはそんなにボロボロ泣かないよ」アツコはハグを外しシスカの顔を見つめながら言った。
「はい」シスカは顔を袖でグイッとこすりながら言った。
「サエには言ったのよね」
「はい。最初に来てくれていろいろ助けてもらいました」
「キタハラは?」
「会いました。ママさんとはまだ会ってないんですけど。キタハラはシスカも僕も俺たちの子供だと言ってくれました」
「今シスカも僕もって言った?まあいいや。とにかくよかったね」アツコはまた短く胸にハグをし、そして「それから、その、です・ますと僕はやめた方がいいよ。変!」と言った。
「それ、サエにも言われました。でも難しいです」シスカは答えたが「ほら、また。努力して!ここら辺がこそばゆいから」とアツコは首の後ろを指差しながら頼んだ。
「うん」と言ってからシスカは決めたように顔を上げた。「あの、私これからキタハラの家へ行ってこようと思うんだ。いい……かな?」
「いいわ。行ってらっしゃい。場所とかわかってるよね?」アツコが尋ねると、シスカは何かしゃべろうとしてやめて、少し困ったような笑顔を浮かべ頷いた。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

---14---

 *

 シスカはいつものように防寒コートにきっちり被った帽子といういでたちでライトレールに乗っていた。例のごとく運転席のすぐ後ろで前方を見つめている。
 前方の空は濃い灰色で風も少し強い。
 このライトレールはシスカがこの町に引っ越してきた頃はまだ走っておらずバスが運行されていた。鮮明に思い出した子供の頃の記憶をたどると、ママさんと一緒に最初はバスで、高校生になってからは新しくできたライトレールで買い物に出かけたことを憶えている。
 一緒に並んで笑顔で出かけられるただそれだけの平凡なことが幼いころのシスカにとってどれだけ心安らいだかを、自分の記憶の中に見つけてシスカは胸がキュンと締まるのを感じていた。
 あわてて涙の出るのをこらえながら、今自分がショウなのかシスカなのか分からなくなり始めている事に気がついてうろたえた。
 どちらの記憶も持っている自分はいったい誰だろう。
 シスカの生き方はなんだかとってもわくわくする。
 外観はシスカだからシスカにならないといけないんだろう、だけどショウで無くなるのは嫌だ。
 ショウの意識は消したくない。
 消えたら僕はどうなるんだろう。
 上手く混ざるといいのに。
 自問自答を繰り返しながらシスカは考え続けていた。
 キタハラの家はサエの家とは反対方向に4つ目の停留所で降りてすぐだ。
 電車が停留所に滑り込むとシスカは待ちきれない様子でドアのところに歩いていき、ドアが開くと同時に寒気が吹き込む中、そのままポンとホームに飛び降りた。昨日と違ってシスカの記憶が戻っているので周りの風景はすっかり見慣れたものに変わっている。
 道路を渡ると目の前はすぐに団地で、キタハラ家はその中の17番の建物の2階だった。
 シスカは階段をゆっくりと上がっていって鉄の扉の横にあるインターホンのボタンを押した。応答はない。
 しばらく待ってシスカはポケットから鍵を取り出しシリンダーに差し込んで廻した。ドアを開けて中を伺ったが誰もいないようだ。
(休みだし。買い物にでも行ったかな)そう考えて玄関を入った。
 勝手知ったシスカの育ってきた家だ。あちこちに思い出が詰まっている。やっぱり自分はシスカになっているのかなと複雑な気持ちになった。
 シスカは靴を脱ぎ廊下を入って、ダイニングキッチンを覗いた。キッチンに立つママさんの声が聞こえるような気がして部屋を一周する。
 暖かい食事。
 何気ない家族の対話。
 これを素直に受け入れることができるようになるまでに長い時間がかかった。
(キタハラやママさんに苦労をかけたっけ)自分の記憶の中にそれを見つけてまた胸がキュンと締まるのを感じていた。
 ダイニングキッチンの横はパーテーションで区切られ居間になっている。シスカは居間の扉を開けると中を覗き込んだ。
 入って正面に女性の写真が額に入れて飾ってあってその額の両側には花かごが置いてある。
 写真にピントが合った瞬間(ママさん?)、意味を理解するのに数秒かかってシスカの視界は一挙に真っ暗になった。

 *

 キタハラは買い物を済ませるとスーパーを出た。
 凍てつくような寒さだったが公園のベンチが目にとまり、ふっと考え事をするようにそれに座った。出来合いの夕食が入った大きなバッグは横に置く。
 中で発泡酒の缶がゴトリと音を立ててひっくり返った。
 妻のナオミを失って2カ月ほどたつのだが、まだ1人の食事というものになじめない。
 勤務先や出先での食事ではそんなことはないが、家での食事ではどうしても大きな喪失感を抱えてしまう。
 自分たちには子供は授からなかった。
 ナオミの体を守るために子供は作らないという選択をしたのだ。
 苦渋の選択だったが、2人で相談してそういうめぐりあわせだということで納得しようとした。実際お互い納得していたつもりだった。
 でもナオミが彼女を始めてみたとき、ナオミの納得は大きく揺らいだ。しかしキタハラの納得は揺らいでいなかったため2人は大いに揉めた。
 2人は長い話し合いと葛藤の末、養子のような形で彼女を引き取ったのだ。
 彼女はシスカという名前しかわからず。出生だけでなく国籍すら不明なこと、その容姿、ベクル語しか話さない、など非常に問題点が多かった。
 これらのあり得ないような問題の多さゆえに引き取り手が見つからないうえ、戦後の混乱期であったこともあって公的施設も引き取ることができず。非常にまずい状態になっていたのだった。
 それから地獄が始まった。人間の精神はとても複雑怪奇であるということを思い知った。
 キタハラもずいぶん努力をしたがナオミの献身的な育児にはかなわなかった。
 戦後の混乱期、まだ不十分なサポート体制の中、ナオミは色々なセミナーに出席し知識を蓄えてシスカに接していった。
 もちろんセミナーの間はキタハラがシスカを見ていたがそれだけでも大変なことだった。
 キタハラはナオミの講義を受け、ナオミのまねをしながら根気よく接したのだ。
 ある程度の理解だったが、それが無ければ自分とシスカの関係はとっくに崩壊していたに違いないと思う。
 そのうちにナオミの知識はいっぱしの心理学者か精神科医のようになっていった。
 それぐらいの態勢で取り組んだ以上に、ナオミの持つ強い愛情が有ってはじめてシスカは育てることができたのではないかとキタハラは思う。ナオミはそれほど意思と愛情の強い女だったと、失ってみて今更ながら思う。
 ナオミの愛情を一身に受けたシスカは長い時間をかけて立ち上がり、ようやく普通の生活が送れるようになった。
 学校も卒業し仕事も覚え、一人前になったと思っていたが今また大きく不安定になっている。
 シスカお前はどうするつもりだ?
 サエの話だと俺達に出会う前の記憶も戻っているようだがどんな記憶だ?
 つらい記憶ではないのか?
 思い出さないほうが良かったのではないのか?
 キタハラはベンチに腰掛けたまま深いため息をついた。息は白い水蒸気になって広がってゆく。ナオミを失って空いた空間はぽっかりと大きかった。
 体の端から凍え始め、いつまでもここに座っているわけにも行かず、ジャケットの襟を立て帽子を深くかぶりなおして家に向かって歩きだした。濁った灰色に染まっていた天空から白いものが舞い始めていた。

 2階までゆっくり階段を上ってポケットから鍵を出し、鍵穴に差し込むと鍵は開いていた。キタハラは小さく首をひねり「シスカか?」と用心しながらドアを開けた。玄関にはシスカの靴が行儀よく並んでいる。
「シスカ!帰ってるのか?」奥に向かって呼びかけてみるが返事がない。キタハラは廊下を進んでダイニングキッチンに入っていった。
 そして開けっ放しになっている居間の扉の中を覗いて中にシスカが倒れているのを見つけた。
 肩にかけていた大きなバッグがボタリと床に落ちた。
「シスカ!」駆け寄るとシスカの体をそっと触って呼吸を確かめた。呼吸が確認できると帽子を脱がせ、そっと抱き起こしてもう一度「シスカ、シスカ」と声をかけた。
 シスカは薄く目を開けると「キタハラ」と小さくつぶやいた。
「どうしたんだ?何が起こった」キタハラが問いかけると少し間が空いて「ママさんが。ママさんが」シスカは大粒の涙をこぼし、子供のような声を出して泣きじゃくり始めた。
 うわあぁぁぁ……シスカの泣き声はどんどん歯止めがきかなくなり大きくなっていった。
「シスカ、お前」キタハラはナオミの写真を見ながらシスカを抱き寄せ「お前、まさか……ママさんのこと知らなかったのか」と言った。
 葬式の時でもまったく涙を出さず気丈に振舞っていたシスカが、今大泣きに泣いている。まるで心の中の安全弁がふっ飛んだようだとキタハラは思った。
 両腕はだらりと力なく下がり、体も支えていないと倒れてしまいそうなほどだ。全身のエネルギーを全部泣くことに使っているかのように延々と大声で泣き続ける。
 キタハラは戸惑いながら小さい子供にそうするようにシスカをきつく抱きしめていた。ジャケットの胸はシスカの涙と鼻水とよだれでビショビショになった。
 失われた記憶の輪がつながった瞬間だと思った。
 キタハラ家に来た時バラバラに壊れていた記憶の輪が今繋がったのかもしれない。
 シスカの精神が繋げても問題無いまでに回復したのか、それともさらに破綻していく前兆なのかそれは判断できなかった。
 長い長い時間の後、激しい感情の噴出はようやく弱まってきたようだった。
 様子が落ち着いてきたので1人にした方が良いような気がして、キタハラはそっと体を離して居間を出た。
 振り返って確認すると、シスカは膝を抱えたまま肩だけを震わせていた。
「今日は泊まっていけ。晩飯を仕入れてくる。すぐ戻るからここから動くなよ」と声をかけるとシスカはコクッとうなずいた。
 かなり心配だったがビショビショのジャケットを防寒コートに着替えて帽子を引っ掛けた。そして玄関を出て大急ぎでスーパーに向かった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 15 ---

 店ではとりあえずカレーを作ることに決めてルーや野菜・牛肉をかごに放り込んでゆく。うっかり昔の要領で大量に買い込みすぎているのはこの際忘れておく。
 あとオリジナルレシピで追加する香辛料と、必須の冷えた発泡酒の缶を何本か追加してかごに放り込む。蒸留酒はまだ棚に有ったはずだ。酒の肴はさっき買っていたが、いくつか適当に追加してレジに並ぶ。
 時間的に込み始めていてイライラしながら順番を待ち勘定を済ませると、中身を適当に大きなバッグに詰め込んで肩に掛けて店を出た。
 大急ぎで帰ろうと顔を上げると公園の向こうにシスカの姿が見えた。
 シスカは帽子も被らず冷たい風にプラチナの髪を揺らして立っていた。
 あわてて近づいて「動くなといったろう」と詰め寄った。
「ごめん、献立に注文を付けたくなったんだ。でも僕の希望通りだったな」シスカはバッグの中を覗きながらそう言った。
 まだ小言を続けようとしていたキタハラは、そのしゃべり様に驚いて硬直した。
 その隙にシスカはキタハラのバッグと帽子を取り上げ、髪をクシャッとかき回してから帽子を公園の真ん中に放り投げた。
「何するんだ。心配してやってるんだぞ」あっけにとられたキタハラがあわてて帽子を拾いに駆け出した隙に、シスカはダッシュした。
 振り返りながら「先に帰ってる!」と声をかけて、さらに速度を上げ家のほうへ向かって駆けていった。
(やれやれ……これはいったいどうしたことだ?こんな悪戯は学生時代のシスカが良くやっていたが……)キタハラは帽子を拾うとしばらく思案してから、ふっと顔をあげてスーパーの方に目をやった。
 店頭に施された年末祭の飾り付けと軽快な音楽は、さっきまでは目や耳に入ってもそうとは感じなかった。
 今初めてそうであることに気がついて、(そうか、今日は年末祭のイブだったな)キタハラは携帯電話を取り出してシスカを呼びだした。
「はい!」息を切らしながらシスカが出ると「ちょっと寄り道をする。先に用意を始めといてくれ」と言った。シスカなら要領はわかるはずだ。
「わかった。何の寄り道か知らないけど、あまり遅くならないでよ」
「了解。1時間ぐらいだ」よどみの無い受け答えに安心して携帯を閉じ、キタハラはライトレールの停留所を目指した。

 あらかじめ当ての有ったマニアックな買い物だったので短時間ですますことができ、予定通り1時間ぐらいでキタハラは団地の階段を上っていた。
 若干の不安を抱えながら鍵を開けてドアを開けるとキッチンに人の気配がして、ご飯の炊けるいい臭いが玄関に漂っていた。
 玄関にはシスカの靴がとりあえず揃えて脱いである。さっきのように”行儀よく”では無いところに妙に安心し、その横に靴を並べる。
 しばらくぶりに感じる帰宅した時の人の気配に安らぎを覚えて、キタハラは廊下を入って行った。
「ただいま」声をかける。
 シスカは髪が前に下がってこないように、耳を出してサイドの髪を後ろでくくっていた。エプロン姿で忙しく立ち働きながらチラッと玄関のほうを向いて「お帰り!」と作業に戻った。
 キタハラは寝室の隅に荷物を置き部屋着に着替えると、ダイニングキッチンに入っていきながら「どこまで進んだ?」と用意の進み具合を訊いた。
「カレーは下ごしらえができたところ。ご飯は10分ぐらいで炊き上がる」シスカは切りそろえた野菜や肉を顎で指した。
「よし。後は任せろ」腕まくりをして手を洗うと調理にかかった。
「じゃ。僕は風呂の用意をする。先に入ってしまおう」シスカはそう言うとダイニングキッチンを出て行った。食事の前に風呂を済ませてしまうのは昔からのキタハラ家の習慣だ。
「僕……か」肉を鍋に放り込むと勢い良く炒め始めた。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 16 ---

 2人はダイニングテーブルに向かい合わせに座っていた。二人の前には炊き上がったご飯を盛った皿が置かれ、テーブルの中央にはカレーの鍋、その周りには適当に肴を盛り付けた皿やボールが囲むように置かれていた。
 そしてナオミがいつも座っていた椅子の前のテーブルにはナオミの写真が置かれていた。
 支度が済んだ時、シスカが居間から持ってきてそっと置いたのだ。写真の前にはもちろん発泡酒の入ったグラスが置かれている。
「北風に願いを」キタハラが発泡酒の入ったグラスを掲げて唱えると「南風に祝いを!」シスカも高くグラスを掲げて景気良くお祝いの掛け声を唱えグラスを合わせ、ナオミともグラスを合わせると2人同時に一気に飲み干した。
 発泡酒をお互いのグラスになみなみと追加してから、キタハラは皿に盛られたご飯の上にカレーをたっぷりとかけてガッツくように口に運んだ。
 シスカはそれを横目に2杯目を開けてからカレーを食べ始めた。
 キタハラは少し腹が落ち着くと今度は肴をつまみながらまた発泡酒を飲み始めたが、シスカは棚から蒸留酒を出してきてロックでやり始めた。
「やっぱりそっちへ行くか」キタハラが言うと「発泡酒は腹がいっぱいになるからな」いつも通りの返事が返ってきた。
 職業柄2人とも酒量はそれなりにセーブしているが、アルコールに関してはシスカの方がかなり強い。(ベクル人の血が入っているからだろう)根拠はないがキタハラはそう考えていた。
 頃合を見て、キタハラは「ちょっと待ってろ」と席を立って寝室に入って行った。
 部屋の中でゴソゴソして帰ってきて「シスカ。年末祭のプレゼントだ」とリボンの付いた赤い箱を渡した。
 しばらくポカンとしていたシスカは「ありがとう。でも僕の方は何も用意をしてない」と受け取るのをためらった。
「いいから。開けてみろよ。俺はお前が帰って来て付き合ってくれてるだけで充分だ」と強引に箱を押しつけた。
「ありがとう。じゃあ」もう一度礼を言ってシスカはリボンを解きにかかった。包装をビリっと破ってふたを開けると「あぁっ」歓声が上がった。
「サイクロスX32だ」箱の中には最新型のヘリコプターのディスプレイモデルが入っていた。
「やったー!どこから手に入れたんだこれ?」満面の笑みを浮かべて訊いてくるシスカに「俺の特別な裏ルートさ」と得意げに胸を張る。キタハラは見たかった通りのシスカの反応を見ることができて胸をなでおろした。
「ヘリコプターのディスプレイモデル自体少ないのに、こんな試作機のような機体よく手に入ったな。X32ってたしか高速実証機だったろう?」シスカはまだ興奮気味だ。取り出してローターを回してみたりしている。
 少なくとも今日ここに来るまでのシスカならこんな風には反応しなかっただろうなと思いながら、キタハラは2杯目のご飯にカレーをたっぷりとかけた。
 そしてシスカの様子をそっと観察しながら2人の時間を過ごした。シスカもまた充分に楽しんでいるように見えた。
 失われた記憶の輪がつながった。
 そのことはどんな影響を及ぼすのか、まだ全部現れたわけではないだろう。
 久しぶりにシスカと過ごす年末祭のイブの夜は更けていった。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

--- 17 ---

 キタハラは激しい叫び声に飛び起きた。(シスカか?)シスカの部屋に飛び込むとやはり叫び声はシスカだ。
 今日は2回目だなと思いながら、わめいているシスカの両肩を「シスカ!シスカ!」と揺さぶる。
 と、シスカの手足かギュ~っと縮まった次の瞬間キタハラは壁に飛ばされた。今度は手足をバタつかせて暴れているのだ。
「痛ーっ」と頭をさすりながら、暴れるシスカを強く抱きかかえ「シスカ!シスカ!」と耳元に声をかけるとようやく動きが穏やかになってきた。
 シスカの身長が自分より高いことに今更ながら気づき「小さい頃のようにはいかないな」と呟きながら少しづつ力を抜いた。やがて穏やかな寝息が聞こえるようになり静かになった。
 そっと布団に降ろして離れようとすると「キタハラ、キタハラ」シスカが弱々しい声で呼んだ。
「どうなってた?」シスカが訊いてきたが「ちょっとうなされてた。落ち着いたら寝ろ」と顔を近づけた。
「うそだ!うそを言うな!ちょっとじゃなかっただろ?大きな声で暴れたんだろ?すごく嫌な夢を見た。小さい頃の。耐えられないけど、何もできないんだ。抑えつけられて殴られて怖くて動けないんだ」シスカはしゃべるのを止めるのが怖いように一挙にしゃべった。「ずっと続くんだ。嫌なのに……」
 ここでつっかえて震えているが、涙は必死にこらえているようだ。
「無理に話さなくていい」キタハラはそっと肩を抱いた。
「ごめん。こんなで」シスカは下を向いた。
 今度は大粒の涙がぽろぽろとキタハラのひざの上に零れ落ちた。
 激しい環境と精神的な変化で相当疲れがたまっているはずだ。キタハラは小さい子供にするようにシスカの頭を抱えてやさしく髪を撫でてやると、シスカは手をキタハラの背中に回し遠慮がちに彷徨わせた。やがて彷徨っていた手は目的ものを手に入れたのか動きを止め、小さな寝息が聞こえ始めた。
 キタハラは昔の生活が戻ってきたような気がして暗澹たる気持ちになった。
 不安定な状態が長引かなければいいが、と思いながらシスカの重さを感じていたキタハラだったが「勘弁してくれよ」と情けない調子で呟くと、シスカをそっと寝床に降ろした。背中に有った手はするりと離れた。キタハラは静かに自分の寝室へ戻っていった。

 寝付けないと思っていたが、いつのまにか眠ってしまったらしい。目が覚めるともう周りは明るかった。今日は珍しくいい天気のようで、カーテン越しに朝日が差し込んでいる。
 シスカはあのまま寝たはずだったが大丈夫だろうか?
 そう考えたとたんに飛び起きた。(シスカは?)
 急いで扉を開けて廊下に顔を出すと、ダイニングキッチンで人の気配がする。
 ダイニングキッチンに飛び込むとシスカの後姿が見えた。窓から差し込む朝日にプラチナの髪が眩しく輝いている。サイドの髪を後ろでくくっているのもいつものとおりだ。
「おはよう」振り向いて笑顔のシスカが言った。
 キタハラはこんな屈託の無い笑顔は始めて見るような気がしてシスカの口元を一瞬見つめて静止した。
「おはよう。ちゃんと寝れたか?」キタハラが様子を窺うと、「ちゃんと眠れたよ。朝ごはん作ったから食べよう。今日はまた第2勤務だからゆっくりできるだろ?」とカレンダーを指さした。
「そうだな」シスカの安定した受け答えにとりあえず安心しながら「ちょっとトイレだ」といったん廊下へ戻った。
 用を済ませるとキタハラは「先にママさんに挨拶だ」とシスカに声をかけた。
「朝一に済ませたよ」と言うシスカに「二人一緒がいいんだ」と一緒に並んで写真に手を合わせた。
 そっとキタハラはシスカの様子をうかがったが、目をつぶって唇をきつくかみしめて下を向いている様子に自分が泣いてしまいそうになりあわてて横を向いた。
 朝食はハムエッグとトースト。それに野菜サラダ、コーヒーと牛乳が付いていた。シスカが朝食当番の時の定番だ。
 向かい合わせに座り「いただきます」とそれぞれ言って食事を始めた。
「キタハラ、昨夜はありがとう」少し下を向いて、バターをパンにたっぷり塗りながらシスカが言った。
 バターを塗ったパンの上にハムエッグを乗せてかぶりつこうとしていたキタハラは一旦止めて「いや。なんでもないさ。俺はお前の親だぞ。こういう時に利用するために居るようなもんだ」と大盛りパンにかぶりついた。
「ありがとう。感謝してる」シスカはまた泣いてしまいそうになるのをこらえているのか、下を向いてパンに口を付けた。
「なんだか涙もろくなったな」となんとなく顔を覗くと「ショウが涙もろいんだよ。でもショウはもともとのシスカだから、僕はシスカだよ」と顔を上げた。
「すまん。余計なことを言ったな。あまり深く考えるな。お前はお前だ。無理をしなくてもいい。それで良いんじゃないか?」キタハラはコーヒーをゆっくりと口元に運んだ。


(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

---18---

 *

 地下鉄の車内アナウンスは次の停車駅がマエハマ駅であることを告げていた。
 シスカは等間隔に照明が通り過ぎる暗い車窓に映る自分の顔を見つめながら、電車がホームに入って外が明るくなるのを待っていた。
 シスカはショウの意思で帽子を被っていなかった。プラチナの髪を曝したその姿はやはり目立っていたが、人々の反応はマサゴ市で同じことをするよりはるかに穏やかで寛容だった。
 大都会はあらゆる人種が混在し共存する。
 国境に面していて争いの歴史を持つマサゴ市とはまったく違っていた。
 シスカは遅れて取った年始の特別休暇を利用して首都のシンキョウ市へ出てきていた。
 というのは年末にショウがシスカの記憶を得たことで、ショウが暮らしていた町の記憶がシスカが小さい頃住んでいたシンキョウ市カツネ区の記憶と重なることがわかったからだ。今回この町に出てきたのはそれを確かめるためだ。
 そしてその目的はほぼ達成された。シスカは小学校5年生までしかここに暮さなかったため、10年以上が経過し完全に一致はしなかったが、ショウの暮らしていた町のディテールはほぼこの街と一致した。
 ただショウの通っていた高校は、シスカが通っていたマサゴ第二高校がベースになっていた。シスカがマサゴ市へ引っ越してからはデータがないため、後を追うショウの環境はマサゴ市のデータを継ぎはぎして構成しているようだ。
 シキシマと上った坂道や手を挙げて別れた交差点もほぼそのまま存在した。
 住んでいた家はシスカが暮らしていた集合住宅だった。シスカの記憶の曖昧な部分は実際の風景が証明した。シスカの記憶には曖昧にしか残っていないものでも、ショウの世界でははっきりと正確に表現されていたのだ。
 ただショウの両親の記憶を始め、ショウの中でもぼやけてしまいはっきりとしないものも多かった。ショウがシスカに復活する際に、記憶が部分的に切り離されたようだ。
 だが、シスカの頭の中にあるパーツを使ってショウの世界は構成されている……という結論はほぼ的を得ていると思われた。シキシマの思いつきは戯言ではなかったのだ。
 精神的にも肉体的にも最悪の状況を向かえていた幼いシスカは、激しいダメージを受けた自分自身をショウとして切り離したのだ。そして最悪の記憶を封印し、シスカの頭の中に徐々に構成された穏やかな世界の中で、普通の日常生活を送らせていたのだ。
 それはシスカの根本を破壊しないための一種の自己防衛だったのかもしれない。シスカはそんな風に想像していた。
 シスカは一連の検証を済ませカツネ区にある最寄りの駅から地下鉄に乗り首都の中心であるシンキョウ駅へ向かっていた。
 家までの道のりは遠い。シンキョウ駅から高速鉄道で5時間、そこから小型の飛行機に乗り換えて2時間、マサゴ市の空港からはトロリーバスとライトレールで家まで、合わせると乗り継ぎ時間を含めて最短9時間弱の道のりだ。
 高速鉄道を利用すると全行程航空機を利用するより時間は相当かかるが25%ほど割安になる。給料の安い身にはこの差額は大きかった。
 次のマエハマ駅は副都心と呼ばれるカツネ区一の大きなジャンクションで、シンキョウ駅に向かうにはここで地下鉄を乗り換えなければならない。
 シスカはふと思い立ち、窓に映る自分の姿から目を離して携帯電話を忙しく操作し始めた。
 そしてこのまますぐ高速鉄道で出発しても空港での連絡が悪く、乗り継ぎに6時間以上の待ち時間が有ることを確認するとこの後の行動について考え始めた。
 まもなく電車はホームに滑り込み、窓の外は照明と華やかな人々で明るくなった。

 マエハマの駅は最近再開発されたようで記憶とはまったく異なっていた。
 地下鉄のホームは地下3階にあるが、そのホームからショッピングビルの10階までが吹き抜けとなっていて広大な空間を構成していた。
 電車を降りたシスカは驚いたようにゆっくりと上を見上げ、それから真っすぐエスカレーターに向かった。
 改札を出てインフォメーションボードを確認すると、吹き抜けに空中回廊のように設けられたエスカレーターを上って行き5階で降りた。
 そこはレディスのストリートモードを扱ったフロアで、こんな場所に来るのは初めてだった。
 シスカはオリーブドラブの作業着のような厚手のブルゾンとジーンズという格好をしていた。今まで自分でその格好に不満や疑問を持ったことはない。
 しかし今は我慢ならなかった。ショウの感性がそうさせているのだ。
 ショウにとってシスカのファッションはあまりにシンプルで実用的に過ぎるのだ。
 女性であることを拒絶し、実用的な作業服のような服ばかりを選択し、目立たないような物ばかり持っていた。
 目立ちすぎる必要は無いがもう少し見栄えを考えて選べばいいのにと思っていた。
 男であるショウはこれまで自分の格好に特に気を配ったことはない。はっきり言って無頓着だった。
 しかしシスカがこれに無頓着でいるのはもったいない気がしていた。
 おっかなびっくり通路を歩きながらショーウィンドウの中を覗いているとショーウィンドウの中と目が合った。
(うわっ!まずい)あわてて目をそらし立ち去ろうとしていると「シスカ……じゃない?」目が合った人物に声をかけられた。あわてて顔を見るが全く覚えがない。
(誰だろう?)と思っていると「シスカだよね。私のこと覚えてないよね?私アキヤマ・ヨウコ、小学5年の時同じクラスだった。」
 そう言えばマサゴ市への引っ越しが決まったときお別れ会を企画してくれた友達の中にアキヤマ・ヨウコという名前の子が居たのを憶えている。
「ああ。ヨウコ?憶えてるけどごめん、顔と名前が一致しない」シスカは少し曖昧に答えた。
 ヨウコと名乗ったその人物は美人とは少々言いにくいが整った顔立ちの、メガネの奥に利発そうな目がのぞく中肉中背の女だった。
「だよね。私もシスカじゃなかったらわからなかったよ。あ・ごめんね変な言い方だったよね」と申し訳なさそうに謝った。
「いいよ。僕みたいなのはそうはいないから」シスカが短く答えるとヨウコは「時間が有るならそこの喫茶室で話さない?」とシスカをお茶に誘った。
 フロアーの隅にあった喫茶室に2人で入ると、見晴らしの良い窓のそばの席を占拠した。飲み物を注文し終わるとヨウコは「ごめんね。ちょっと連絡を入れてくる」と携帯電話を取り出し一旦店の外へ出た。
 しばらくして飲み物が届く頃ヨウコは戻ってきた。「私、さっきの店の店長を任されてるの。連絡入れたからしばらく大丈夫だわ。でね……」ヨウコは懐かしそうに話を続けた。
「今もマサゴ市に住んでるの?サエはどうしてるの?」ひとしきり両方の現状確認と報告に時間を割いてから、「シスカは今日は何か用事で?」とここに来た目的を尋ねられた。
 シスカは一瞬固まってから照れくさそうに「この恰好を何とかしようと思って」と答えた。
「じゃあ……」とヨウコがシスカの服をコ―ディネートしてくれることになった。
 もちろん自分の店の商品を売るのが目的だと正直に言ってくれたが、気に入ったものがなければ勤務時間が終わってから他の店に付き合ってもいいと言ってくれた。アクセサリーや靴やメイクまできちんと見届けたいようだった。
「そのセンスだからね。今持ってる服は全部そんな感じ?」ややあきれた感じで聞いてきたヨウコに、そうだと答えると「予算は?何着か替えもいる?」話はどんどん大きくなった。
 シスカは男であるショウのセンスと、シスカの実用一点張りのセンスとだけでは選ぶ自信がなかったので、その話にありがたく乗ることにした。
 特別手当を含むボーナスが入ったばかりだったし、クレジットカードも持ってきていた。

 それから慌ただしい時間が始まった。服は着まわしの利く普段使いの物を2セット、それに若干フォーマルよりの物を2セットを揃えた。ヨウコの店は「お手頃価格」路線を取っているのでなんとか予算内に収まった。あとはヨウコの勤務が終わるのを待って他の店で不足した物を揃え、薄いメイクまですませた。
 最後にヨウコの店に戻り更衣室を使わせてもらい、せっかくなので若干フォーマルよりの1セットに着替えさせてもらった。
 プラチナの髪に合わせたシックなデザインの濃色のハーフコートに、膝上のスカート、下にはいたスキニーパンツは実は寒さ対策で、それにかかとが低めのショートブーツを合わせてある。マフラーと耳まで覆う帽子もセットだがこれはマサゴ市の空港に着くまではお預けだ。
 耳元にはイヤリングが揺れている。
 これは飛行機がデザインされた珍しいもので、恐る恐る付いて行ったアクセサリーの店でシスカがこれがいいと飛び付いたのだ。
 決して派手ではないが驚くぐらい映えるようになった自分に驚きながら更衣室を出ると、ヨウコが「ほーら。やっぱり映えるよ。今まで何してたんだろうね」とはやし立てた。
 荷物が増えた分は宅配便で送る手配をして荷物を減らした。
 ヨウコがシンキョウ駅まで付き合ってくれることになって、地下鉄に2人で乗り込んだ。
 長身ですらりと伸びた長い足を持ったシスカは、足のシルエットをそのまま出したことでその特性が引き出され、そのプラチナの髪とあいまって非常に人目を引いた。
 衆目を集めたシスカは、マサゴ市で同じように衆目を集めた時とは違う体験をすることになった。シスカにとってそれは苦手なことだったが、ショウにとっては快感だった。

 電車の中でヨウコは少し静かにしていたが意を決したように話し始めた。
「あのね、私これからシスカと一緒にマサゴ市へ行こうと思うの」
 シスカは言われている事の意味が分からず、しばらくじっとヨウコを見下ろしていた。
 ヨウコはしばらくだまってシスカの目を見ていたが、もう一度同じセリフを繰り返した。
「それ、どういうこと?」シスカは驚いて尋ねた。
「色々あってね。私さっきお店をやめたの」
「えっ。なぜ?」
「色々あるのよ。もう辞めることは決まっていたの。それを今日にしただけ……」
「だけど。なぜマサゴ市なんだ。それも今から……」
「思いっきり遠くへ行ってしまいたかったの。私、決めたらすぐの人だから。ううん。心配してもらわなくても大丈夫。退職金もちゃんと振り込まれるし、しばらくは困らないわ。むしろ困るのはお店の方かも」といたずらっぽく笑った。
「マサゴに着いたらとりあえずホテル暮らしから始めて安いアパートを探すわ。こっちの家は落ち着いたら処分する。貯えの有るうちに仕事も探して新生活をスタートするわ。これで結構たくましいのよ」そして肩からかけた鞄を指して「これ、いつでも出発できるように旅支度が全部入ってるのよ」とふっきれた表情だ。
 シスカに有無を言う暇を与えず、シンキョウ駅に着いて早速ヨウコはチケットの手配を始めた。
 旅行センターに駆け込んでまず飛行機のチケットをゲットした(最後の1席だったらしい)。高速鉄道は2人並んで手に入った。乗り継ぎは1時間で丁度良い。
 チケットの手配ができるととりあえず安心だ。2人は高速鉄道の出発間際まで土産物売り場の散策をすることにした。


(2014/06/11 最終部分を書き直し)
(2014/08/06 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

---19---

 シスカはシンキョウ駅のエントランスにある待ち合わせ場所、“銀の星”のベンチに腰掛けている。そして隣にはヨウコが座っている。
“銀の星”は列車の出発を待つ乗客でごった返していて、たくさん置かれているベンチもほぼ満席だ。2人は列車が入線するまでの少しの間、このベンチで時間をつぶしていた。
「我が国が再び戦争を始めるといった誤解がある。しかし、そんなことは断じてありえない」壁際に置かれているモニターでは国防大臣が声を張り上げている。シスカはそんな彼の言葉に信念や誠意、さらには責任感も感じることができず、ただ胸の奥が冷たく冷えていく感覚だけを感じていた。
 やがて胸の奥の冷たさを我慢することに慣れたシスカは、斜め前に座っている一人の男のことが気になり始めた。

 彼は明らかにシスカのことを気にしている。自分の容姿のせいだろうとシスカは考えていたが、チラチラと視線を向けてくる。
 オリーブドラブの軍服に身を包み、制帽を目深に被っていて、歳は30ぐらいだろうか。肩には2曹の階級章が付いていて、そのすぐ上には3つの矢が交差した徽章が縫い付けられている。この徽章が国境軍の物だということは一般市民の間でも周知の事実だ。
 国境軍、それは本来島国であるイルマが、拠所無い事情で抱え込むことになった陸上の国境線を防衛するため、陸海空軍の枠を超えた精鋭で組織されたスタンドアローンの軍事組織だ。隣国ベクレラとの国境紛争を抱えたキタカタ州北部に展開し、不測の事態に備えている。
 シスカはその徽章を意識した瞬間、心の中に何かが流れ込んでくるのを感じた。それはどす黒い粘着性のもので、心臓の鼓動や神経の昂り方から怒りという感情と恐怖という感情の入り混じった物のように思われた。
 シスカは恐ろしくなってそれを押し止めようとした。しかし、この感情はもう1人の自分、ショウの記憶から来ているように思われ、コントロールは不可能だった。今回の旅の目的はショウの記憶を確かめるためだったが、シスカは改めてショウというもう1人の自分を意識せざるを得なくなった。

「シスカ!斜め前の軍服の彼、わかる?」ヨウコが耳元で囁いた。色恋ごとに縁のなさそうなシスカに対する軽いからかいの気持ちが感じられたが、今のシスカにそれを受け流す余裕は無かった。
 シスカはちらりと顔を上げてまた下を向くと「ああ……マグロだ」と冷たい声で言った。“マグロ”は国境軍の別称だが、“ヤマカガシ”というコードネームと違って蔑称の意味合いが強い。時には死体を表す隠語である上に、陸上では全く役に立たないからだ。うっかりこれを口にすると、軍に対する侮辱罪で罰せられる事もあるため、シスカも普段この別称を使うことはない。どうしてこの言葉を使ったのか、ショウの記憶が関係しているのか、シスカ自身にもわからなかった。
 ヨウコはこの別称が使われたことに驚いたのか、この話題に触れることを止めた。そしてしばらくシスカの横顔を見つめていたが、やがて手持無沙汰気にショルダーバッグから携帯端末を取り出した。

 5分ほどの間ヨウコは携帯端末の画面を操作していたが、発車の時間が迫るとそれをポケットにしまった。
「何の連絡?」少し感情が落ち着いていたシスカは訊いた。
「ううん、ちょっとお別れの連絡をね。急だったから」ヨウコは首を左右に振りながら答えた。
「だったら思いつきで行動しなければいいのに。あとから来てもちゃんと迎えに行くよ」シスカは固くなっていた表情を崩した。
「私は思い立ったら……の人だから。しょうがないのよ」ヨウコはシスカの表情を確認するように覗きながら答えた。
「じゃぁ、行こうか。もう入線してるだろう」シスカは立ち上がった。

 シンキョウ駅の高速鉄道ホームは頭端式になっていて、行き止まりの6本の線路が7本の櫛状のホームに囲まれている。さらにホーム全体は巨大なドームに覆われ、心地よく響く出発のアナウンスが旅情をかき立てる。
 このレトロな雰囲気のホームは、イルマに高速鉄道が初めて作られたとき、以前から運用が面倒で取り壊しがささやかれていた古い駅を文化遺産に指定して転用した物だ。
 シスカは車両番号を確認しながら、自分が乗車する列車が停車している6番ホームを急いでいた。
 この駅の作りは古いのでホームが低く、車両のドアまでは高さがある。そのままではドアまで上がれないので、それぞれのドアの前には移動式のタラップが置いてある。シスカは立ち止まるとエントランスの方に目をやり、軍服の彼がこちらに向かって急いでいるのを確認してからすぐにヨウコの方を向いて「ここだ」とタラップを上がった。
 横に立っていたパーサーがスーツケースをデッキまで上げてくれる。ヨウコは、鞄を肩から提げたままタラップを上がった。
「本当に身軽だな」シスカはあきれて言った。
「思い立ったら……の人だから、って何回言わせるのよ」ヨウコが明るく答えると、シスカもつられて笑った。

 デッキから客室に入るとすぐに荷物置き場がある。ワンコインでロックをかけ、外すとコインが戻る方式だ。シスカはそこにスーツケースを置くとロックをかけ座席に向かった。座席は通路を挟んで2列ずつ並んでいて、家族連れや商用の乗客でほとんど満員だ。リザーブしたシートは進行方向左側で右側の2席はまだ空席だった。シスカはさっさと窓側に腰掛け、ヨウコは通路側に席を取った。
 シスカは座るとすぐに首を後ろにまげてホームを見下ろした。軍服の彼の様子が気になったのだ。なるべく見ないようにしているつもりなのだが、どうしても視線を向けてしまう。そしてそのたびに得体のしれないどす黒い感情に慄くのだ。ヨウコもシスカの上から同じ方向を覗き込んだ。
 ホームの上には軍服の彼がエントランスの方向を見つめたままじっと立っている。
「気になる?」ヨウコはシスカの白い髪の上に顎をトンッと置いて尋ねた。
「何が?」シスカの声は冷たい声を出した。
「彼、誰かを待ってるのかな?」
「さあ……」シスカはどうでもいいような口調で答えたが、目つきは睨みつけるように厳しくなった。
 彼は苛ただしげにエントランスとホームの時計を交互に見ていたが、やがて諦めたように動きだし、タラップを駆け上がって列車に乗り込んだ。
 シスカはそれを確認すると外を見るのをやめ、顔をまっすぐ前に向けた。プラグドアが閉まる気配がして列車は静かに動き始めた。
 プラットホームが流れ去り、古風な作りのドームを出た列車が少し速度を上げる頃、例の彼が客室に入ってきた。
 彼は二人の通路を挟んだ反対側のシートの窓際に座った。通路側は彼の待ち人のためのリザーブなのだろう、空席のままだった。彼は気落ちした様子で流れ去る窓の向こうの景色を眺めている。シスカはそこまでを横目で確認すると、彼を見つめるのを止め、厳しい視線をまっすぐ前方に向けた。得体の知れないどす黒い感情が再び流れ込み始めていたからだ。

 車内放送が次の停車駅がシンキョウセントラルであることを告げた。ビジネス街やショッピング街の中心にあるシンキョウ駅と違って、セントラル駅は官庁街の中心に有る。時間にして10分もかからない。列車は速度を上げきらないままシンキョウの堀端を進んでいく。
「何かあるの?」ヨウコはシスカの様子が気になる様子で訊いた。
「なんでもない」前を見つめたままシスカは答える。
「とてもなんでもないという顔じゃないよ」ヨウコはシスカの顔を見つめる。
「あいつら国境軍は国境線の利害だけで動く。そこに住んでいる住民なんかどうでもいいんだ。だからマサゴでは鼻つまみ者だ。国境警備隊の方がずっとましだ。それだけだ」そう言った後、シスカは自分が別人のような声で喋るのを聞いた。「蜘蛛みたいな長い手足の大男なんだ。吐き気がするほど汚らわしい。ぞっとするほど悍ましい。思い出した……あのマーク……国境軍のだったんだ」
「長い手足の大男?誰のこと?あのマークって、国境軍のマークがどうしたの?」ヨウコはシスカの耳元に口を近づけて、シスカにだけ聞こえるような声で繰り返した。
 シスカはヨウコの言葉に反応しようとしてできなかった。そして苛立ちにまかせて前の座席の背をドスンと叩いた。
 前席の客が驚いてふり返ったので、ヨウコが慌てて愛想笑いを返し「すみません」と謝った。
「ごめん。もう訊かないから。ね!」ヨウコの手がそっと肩に触れる。シスカは目をヨウコの方に向けて、ヨウコを確認しようと必死で眼球を動かす。そしてようやくヨウコに焦点を合わせると唇の端を微かに上げた。それは笑顔と呼ぶにはほど遠いものだった。

 列車は徐々に速度を落とし、セントラル駅のホームに滑り込む。
 セントラルは高速鉄道のために新しく建設された駅で、ホームはタラップを使わなくても乗車できるように高く作られている。列車は停車位置に向かって緩やかに減速を続けている。シスカはドンドンと叩かれる窓ガラスの音に顔を上げた。窓の外にはグレイの大きな帽子とコートの女がいて窓を覗き込んでいる。ヨウコも窓の外を見ていたので2人して窓の外の女を見ることになった。。列車は停止しプラグドアの開く気配がした。
 彼女はなおも窓を叩いている。何か言っているがよく聞き取れない。周囲の乗客も何事が起ったのかとざわつき始めた。シスカも彼女の行動に驚いてはいたが、さらにシスカを驚かせたのは彼女の瞳がシスカと同じライトブルーだったことだ。ヨウコも同じように思っているのか、驚いたように彼女の顔を見つめている。だが、彼女の視線はシスカ達2人には向いていない。シスカは振り返って例の軍服の彼の方を向いた。彼はまだぼんやりと向こう側の窓から外を眺めている。「そこの軍人さん!」ヨウコが彼に呼びかけた。
 彼は窓の外から顔を戻した。そしてシスカとヨウコを見たが、すぐに2人の後ろ、窓の外にいる女に視線を合わせて立ち上がった。
「ヒムカ!」彼は確かにそう言った。女の名前だろうか。
 彼は突如行動した。頭上の収納ラックを開けて鞄を取り出すと、通路を前方に向かってダッシュしたのだ。
 すぐにプラグドアの閉じる気配がして、列車はそろりと動き出す。シスカは窓の外を見つめ、ヨウコもシスカの頭越しに顔を窓の外に向ける。
 列車は徐々にスピードを上げながら1つになった2人の前を通過した。
 彼は彼女をしっかりと抱きしめていた。
 大きなグレーの帽子がポトリと落ちる。
 金色の豊かな髪がふわりと広がった。
「はぁ……綺麗!彼女ベクル人?」ヨウコがポツリと言った。
 ホームの2人はどんどん遠ざかる。
「国境軍の男とベクル人の女?ありえない組み合わせだね。でも彼女の作戦勝ちね」ヨウコの言葉にシスカが顔を上げる。
 ヨウコはシスカの疑問に答えた。「この恋を成就させるには、彼は国境軍を辞める必要があるもの」軽い感じで口に出してからヨウコは言葉を止めてシスカの顔を見つめていたが、やがて笑顔で言った。「2人に祝福を……」
 シスカは諦めたように笑顔を作った。流れ込んでいたどす黒い感情は薄まり始めていた。
 満員の列車は2つの空席を残したまま、最高速度に向けて加速していく。
 ヨウコは北の大地へと旅立ち、シスカは北の大地へと帰っていった。


(2014/06/08 完成し本文に追加)

 *

 小さな空港の到着ロビーは20人ほどの出迎えでいつもより賑やかだった。
 本土最北の特別市ホマレシティからの便は15分ほど前に到着していた。
 キタハラは到着口が見渡せるベンチに座っていた。
 シスカがシンキョウへの1人旅を相談してきたときは精神状態を考えて非常に心配した。
 ナオミのことを思い出して泣きに泣いた日から、夜の発作を恐れてシスカはキタハラの家で寝泊まりしていたのだ。発作はあれ以来起こらなかったが起こした時が心配だった。
 しかし訳を話すその様子に、ずっと寄り添ってきたものとしてこれまでにない安定感を感じ、渋々ではあったが了承したのだ。もっとも了承しなくても結果は同じだろうという思いも少しあった。
『大丈夫だ。迎えはいらない』という愛想の無いメールを受けてはいたが、丁度年始の特別休暇だったこともあって、居ても立ってもいられなくなってここに来てしまったのだ。
 パラパラと到着口から人が出てき始めた。到着した飛行機は70人乗りで、もうその人数ぐらいは通り過ぎていっただろうか。しばらく待っていたがシスカは見当たらない。
(おかしいな)と思ったところに後ろから声をかけられた。
「キタハラ!迎えに来てくれてたのか」シスカの声にあわてて振り向いたキタハラは目を疑った。
 濃色のハーフコートにブーツ、マフラーを巻き、耳まで覆う帽子を被った女がそこに立っていた。
 暫く固まってから「どうしたんだ?」尋ねる声もつい大きくなる。
「似合うか?イメージチェンジしてみた。迎えに来てると思わなかったから行き過ぎるところだったよ」シスカはニッと笑った。
「こっちも気がつかなかった。イメージチェンジってなんでまた。びっくりだな」
 決して派手ではないが驚くぐらい映えるようになったシスカに、キタハラの目はうかつにも釘づけになって少しの間見つめていた。
 シスカもキタハラをじっと見つめていたので暫くお見合い状態になっていたが、パッと目を離すと後ろに控えていた女をキタハラの前に押し出した。
「こちらは?」キタハラは目の前に押し出された女性に驚いて尋ねた。
「ヨウコ、アキヤマ・ヨウコ、小学校5年の時の同級生。今度こっちで暮らすことに決めて一緒に来たんだ」シスカが紹介した。
「ヨウコ?そう言えば引越し前にそんな名前の子がいたな」親として、特殊なシスカの友人関係には神経質にならざるを得なかったので、キタハラには覚えがあった。
「アキヤマ・ヨウコです。お久しぶりですって言ったらいいんでしょうか?」
「そうだな。たしかに名前は覚えてる。久しぶりなんだろうな。でも顔は覚えてないな。ずいぶん大きくなったからな」
「こんなに大きくなりました」ヨウコは少しおどけて言ってから「こちらの町で厄介になることにしましたので、またよろしくお願いします」と愛想よく社交辞令を述べた。
「こちらこそよろしく。で、これからどうする予定だ?」キタハラはシスカとヨウコを交互に見ながら尋ねた。
 シスカが「これからサエのところにヨウコを連れていく。電話で打合せしたんだけど、とりあえず二階に泊めてくれそうなんだ」と言いながらトロリーバスの乗り場に向かって歩き出した。
「私はとりあえずホテルで良かったんだけど」ヨウコが言ったが「節約しないと」とシスカに一喝された。
 2人のかけあいの様子にホッとしながらキタハラは2人を追った。


(2014/08/06 更新)
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---20---

 *

 ラサ・タカジュナは試掘井のライザーの中を泥水から海水に置き換える作業が終わろうとするのを、コントロールルームの隣の部屋から窓越しに見ていた。
 反対側の窓の外には厳寒のやや荒れた鉛色の海原が広がっていた。
 この部屋は作業現場もコントロールルームも窓越しに観察することができ、担当でない者が邪魔にならないように進行具合を見るのには都合が良いのだ。作業は順調に進んでいるようで、このまま支障がなければBOPの上部を開放する次の作業に進むはずだ。
 ラサの居るリグと呼ばれる天然ガス掘削用のプラットフォームは、一番近い陸地から50キロほど離れた東北海の真っただ中に孤島のように存在していた。
 その上には掘削やガスの生産用の施設がいくつも置かれ、そのうちの一番大きい建物の屋上はヘリポート、そのすぐ下は居住区域、その下は管理区域で、そこにある1室でラサは緊張する時間を過ごしていた。
 ラサは早世した父親の後を継いでサルベージ会社の社長をしている。まだ31歳でしかも女だ。そんなラサが荒くれ男がほとんどのこの業界でまがりなりにもやっていけているのは、先代の血を引いていることがまず一番の要素で、次に先代から仕えてくれていた優秀なスタッフが彼女を支えてくれていることと、彼女自身の持って生まれた人を引き付けるような魅力ある性格と、人より少し強めの好奇心による所が大きかった。
 ラサは母親からは西域系の顔とブラウンの髪を受け継ぎ、父親からはブルーの瞳を受け継いでいて、そのボーイッシュで端正な顔つきにはショートカットがよく似合っていた。
 ラサはまだこの職ついて3年だがすっかりこの環境に馴染み、まったく門外漢のここの業界での知識も、持ち前の好奇心で貪欲に吸収していた。もちろんラサの立場としてはその努力は必須であった。
 このリグの下には大量の天然ガスが埋蔵されており、商業的に生産が可能なことは、試掘井の掘削ではっきりと証明された。そして数日前からこの試掘井を生産井にするための作業が始まっていた。
 ラサはこのリグの下請け会社の社長としてだけでなく他にも理由があって、もう少しここで作業の成り行きを見ていたかった。しかし、そうはできない大きな理由があったし、さらに夕方に役員会議もある。会議に顔を出さないと役員達に大目玉を食らってしまう。ヘリコプターを待たせてはいるがその出発時間はもう過ぎている。
 ラサはコントロールルームのドアを少し開け、一番後ろに居た管理官に声をかけると部屋を出た。そして廊下を歩き屋上のヘリポートに繋がる階段を駆け上ろうとした。

 そのとき不気味な音と振動がリグ全体を包み込んだ。
 試掘井から泥水が噴出し始めたのではないかと思い始めた時、不快な警報音がリグ全体に響き渡った。
「試掘井で異常事態が発生しています。全員非常事態に備えてください!」スピーカーから警告指示が流れた。ラサは階段を大急ぎで駆け上るとヘリポートに通ずる扉を勢い良く開けヘリコプターに駆け寄った。
「すぐに出せ!」ラサはパイロットに叫んだ。
「だめです社長!テールローターをやられました。噴出で何か飛んできて……」あわてているパイロットに「飛べないんならすぐに船に向かえ!」とパイロットにわめいた。
 ラサはパイロットと一緒に階段を駆け降りるとパイロットを先に船に向かわせた。
 ラサはどうしても起こっていることを確かめたくなって階段室から廊下へ抜け、スピーカーからの「当直員以外はただちに係留船に避難を開始してください」という指示を聞きながらコントロールルームの隣の部屋に飛び込んだ。
 窓の向こうは泥色だった。窓全面が井戸のライザーかドリルパイプから噴出した泥水で視界が無くなっていた。
 あわてて対応しようとしている作業員が泥水の中に数名見えるがどうしようもないのは明らかだった。何人かは吹き飛ばされたのかもしれない。コントロールルームは混乱状態だ。
 管理官がドアを開けてラサに向かって何か喚いているが耳に入ってこない。
 ラサはガラス越しに見える地獄にただ呆然と立ち尽くしていることしかできなかった。
 今噴出しているのは海水のようで、先に噴出した泥を洗い流す勢いで天高く吹き上げている。 どれぐらいの時間が経過したのだろう、突然気体の噴出す音と振動が不気味に響き渡り海水と気体が交互に噴出す状態になった。対応していた作業員の姿も消えていた。コントロールルームのスタッフもドアを開け脱出しようとしている。
(ガスだ!)ラサは部屋を飛び出して一目散に係留船を目指して走った。他人にかまっている余裕は無かった。
 ラダーを飛び降り係留船に繋がるデッキに飛び出したとき大爆発が起こった。
 鼓膜を引き裂くような大音響と爆風を受けて空中へ巻き上げられ、そのまま海面に叩きつけられた。
 海中で長い間もがいた末ようやく海面に顔を出すと、炎を吹き上げて沈んでいこうとしているリグが見えた。周りを見回して係留船を探すが近くには見当たらない。リグはまもなく完全に海中に没した。
 ラサはこの水温だと長くはもたないなと思いながら海面を漂っていたが、浮かんでいた大きめの何かの破片に泳ぎ寄り、何回か失敗してからようやくその上に登った。
 海面には大量の油が広がり始めていた。


(2014/08/06 更新)
 
 

---21---

 *

「おっと」クラモチは頭をぶつけそうになりながら19番のくぐり戸をくぐった。
 丁度夕食の時間だったので店内は客でにぎやかだった。
「いらっしゃいませー」愛想の良い声が響くが聞いたことの無い声だ。首を傾げながら奥を覗くと1人の女性が出てきた。
「見たことの無い顔だな」クラモチが訝しげに尋ねると、「常連さんですか?私、新人です。よろしくお願いします」と愛想よく笑った。
「ごめんなさい」奥の戸が開いてサエが顔を出した。「うちのニューフェース、アキヤマ・ヨウコさん。今日から手伝ってもらうことになったの。小学校時代の同級生なのよ。かわいがってあげてね」
「新しい就職先が決まるまで、ここでお手伝いしながら2階に居候させてもらうことになりました。みなさんよろしくお願いします」ヨウコが客に声をかけると歓声が上がった。
「そうなのか。俺はクラモチだ、こちらこそよろしく」クラモチの顔はかなり緩んだ。
「クラモチ!顔がゆるんでるぞー」とまわりの客が声をかける。
「うるさいぞ」クラモチはまわりを威嚇してから「で、今日シスカは?」と少し顔を戻して訊いた。
「今日は8時から歌うことになってるからもうすぐやってくると思うわ。歌の時間には間に合うようにって決めてるけど、やってくる時間はシスカの自由だから」サエが答えた。
「そうか。じゃあ晩飯食ってこうかな」と近くのテーブルに座り「ヨウコ、今日のお勧めは?」ともうなれなれしくヨウコを呼んだ。

 クラモチが夕食を済ませるころ19番のくぐり戸が開きハーフコートの女が入ってきた。
 食器を重ねながら何の気なしにクラモチは女のほうを見ていたが、女が帽子を取ると目を剥いた。取った帽子の下からプラチナの髪が出てきたのだ。
「シスカか?」クラモチは唸ったが、他の客の反応もおおむね同様だった。
「シスカ!今日はやけにおめかしだな」みんなから声がかかるが、クラモチは驚きが勝って声をかけ損ねた。
「今日は金曜日だからな。サービスだ」ハーフコートを脱ぐと帽子と一緒に抱えてシスカは奥の部屋へ入っていった。
「びっくりした?シスカ変わったでしょ。私もシンキョウから帰って来た時びっくりしたもの」サエが後ろから声をかけてきた。
「そうだな。女になった。俺がずっと目を付けていただけのことはある。だが、どういう風の吹きまわしだ。この前は妙におしとやかだったしな」クラモチはマザー2でのことを思い出しながら奥の部屋の方を見やった。
「色々あったみたいよ。ここのところ不安定だったでしょ。でもシンキョウへ行って落ち着いたみたい。おしとやかから元に戻てしまったもの。ヨウコまで連れて帰って来たし」
「それは関係ないでしょ。私は私の都合で付いて来たんだから。服はね、私のコーディネートなの。頼まれたのよ」会話の端を聞き付けてヨウコが話に入ってきた。
「シスカが頼んだのか?これは驚きだな」クラモチは驚きの表情になった。
「恰好だけでなく歌がどう変わったのか、俺が評論家の耳で確かめてやる」
「私も今日が初めてなんでとっても楽しみにしてるの。シスカと歌って私にとって繋がらないもの」ヨウコは時計をチラッと見ながらはしゃいだ。いつもの時間はそろそろ過ぎようとしていた。
 シスカの歌が良くなった、といううわさは船内でも話題だった。
 マザー2に乗っている限り、ヘリコプターはよく利用することになるので、別会社であるヘリコプター運行会社の社員であってもシスカを知っている者は結構多い(レアな女性整備士であるからよけいにだが)。
 シスカを知っている者の中には食事がてら歌を目当てに19番に行く者も何人か居て、歌が良くなったと評判になっていた。クラモチも常連として歌を聴きに来ていたくちだったが、この噂を聞きつけて今日やってきたと言うわけだ。ここのところ海洋調査で忙しかったのだが、事故でドック入りしたマザー2の修理対応がひと段落して時間ができてきたことや、事故のときのシスカの様子が気になっていたということもある。

 そのとき、またくぐり戸が開いて見慣れた女が入ってきた。「アッちゃん」クラモチは両手を広げてお約束どおりアツコに近づいたが、これもお約束どおりアツコは厨房から出てきていたシユの後ろにスッと逃げ込んだ。そしてシユの後ろから首だけ出して「こんばんは、リーダー」と愛想笑いを返した。
「いやだよ。この子は、私は壁かい?」シユは笑った。
「あなたがシスカのルームメイトのアツコさん?はじめまして私ヨウコ、アキヤマ・ヨウコです」ヨウコが手を差し出しながら声をかけた。
「私こそ始めまして、話は聞いてます。シマ・アツコです」と差し出された手を無視してアツコはいきなりハグをした。そして驚いているヨウコに「今日はどうしてもシスカの歌声が聞きたかったんで来ちゃいました。良くなったってすごい噂なんで」と言った。
「仕事忙しかったんじゃなかったの?」サエが横から口を出したが「最終の調整は艇長に任せちゃいました。行ってこいって、言い出したら聞かないんですよ」アツコは困った顔になった。
(キリュウだったら言いそうなことだ)クラモチは頑なになっているキリュウの顔を思い出していた。
「仕事って確か潜水艇の?」ヨウコが興味深そうに尋ねた。
「ええ。事故で故障したから今修復の最終段階で、これが終わったら現場に復帰するんです。今回のステージを逃したらまた海に出ちゃうだろうからって」
「すごいなぁ。潜水艇のパイロットなんて」ヨウコは夢見るような目をしている。
「いえ。コ・パイロットですよ。しかも新米の」アツコは笑った。
サエは「なかなか頑張り屋さんなんだよ」と言ってアツコの肩をポンと叩くと、打ち合わせのために奥の部屋へ入っていった。
 ヨウコはスタッフなのでシユと一緒に厨房の中に入った。アツコは席がもういっぱいだったので、立ち上がって空けてくれたクラモチの席に遠慮がちに座った。もちろんクラモチはすぐ後ろに立ってアツコの肩に手を置いた。(一応遠慮がちに)

 しばらくすると奥の部屋からサエが出てきて、マイクを持って「シスカ!歌って」と軽い調子で言った。そして出口に一番近いテーブルにいつものトマトピューレの空き缶を置いた。
 奥の戸が開いてシスカが出てきた。シスカは黒いノースリーブのワンピースにブーツという格好で、小さなステージというか段差に上がった。
 そしてプラチナの髪を揺らして深々とお辞儀をする。イヤリングがキラリと輝いた。
 ドオッと歓声が上がり、拍手が起こった。
 プラチナの髪と白い肌は黒い衣装によく映えた。胸元のアクセサリーもキラキラと照明を反射し、シンプルなデザインの衣装にアクセントを加えている。アクセサリーが良く見ると飛行機のデザインなのはご愛敬だ。(どこでこんなデザインのものを探してきたんだ)
 セーターにジーンズというやぼったい恰好でやや素人っぽく歌う以前のシスカは影をひそめ、控え目ながらもステージに立つその姿は一人前の歌い手に見えた。
(何があったか知らんが見かけはずいぶん良くなったな)と思いながらクラモチはニヤついてくる顔を抑えることができなかった。
 いつの間にこんなに集まったのだろう、テーブル席は合席でいっぱいの上、立っている客も20人以上いる。そんな熱気の中シスカのステージは始まった。

 トマトピューレの空き缶の中身を勘定しながらサエはホクホク顔だった。
「すごいね!こんなの初めてだよ。シスカ」
 シスカはそれを興味のなさそうな顔で見ている。
「すごかったわ。私感動した。涙が止まらなかったわ。いい声だね」ヨウコはまだ興奮気味だ。
「びっくりした!信じられない!こう、鳥肌が立つ感じだよね」アツコもまた両手を握り締めている。頬も少し赤いままだ。
 クラモチは4人の女に囲まれてグラスを片手にチビチビやっていた。客はもう引き揚げてクラモチだけが残っていた。
 不覚ながら感動で胸がいっぱいになっていた。湧き上がる涙をこらえるのに苦労したが今はようやく治まっていた。
 シスカの歌がそれだけの力を持っているということを認めざるを得なかった。
「締めて63240イキューだからシスカの取り分は31620イキューね。いつものように後で税金引いて振り込むから、明細は明日以降取りに来て」サエが発表した。
「サエが半分も取るのか?ぼったくりだな!」クラモチが後ろから声をかけた。
「ぼった……。人聞きの悪い!ステージを貸してるんだからこんなものよ。伴奏私だし。ちゃんとシスカとも合意の上よ」サエが抗議の声を上げた。
「シスカはいいのか?そんなんで」クラモチがシスカの方を向いて訊いた。
「いいよ。僕は歌えるだけでもいいんだ。あまり金儲けとして考えたくない。そんなに上手いとも思ってないし」シスカは興味なさそうに厨房の方を見ている。
「上手くないことなんかない。俺は一流だと思うぞ。これだけ俺を感動させるんだ。もっと金も取れる」クラモチは力説したが、シスカは笑って顔を左右に振って流してしまった。
「私ベクル語を喋るんだけど、シスカのベクル語の歌詞もすごく良かったわ。ネィティブだし」ヨウコも言った。
「喋れるわけじゃない。言葉はもう忘れてしまってるけど歌詞だけは覚えてた。なぜだかわからないけど」
「幼い頃歌い聞かせてもらったんだよ。きっと……」サエは言葉を途中で気遣わしげに切った。
 クラモチは微妙な空気を感じ、シスカは少し遠い目をしているように見えた。
「こんなとこじゃなくてもう少し大きなホールを使うことを考えた方がいいかもしれないわね」サエはトマトピューレの空き缶を眺めながら誰とはなしに呟いた。
 聞こえていたのかシスカが「いや。今のままでいい。この小さな段差のステージで、ここのお客さんでいい。今の仕事が好きだし。歌で食っていくつもりはない」頑なに言った。
「もったいない。絶対たくさんの人が聞きたがると思うわ。私初めてでもう虜になったもの」ヨウコは残念そうな顔をした。
「私ももったいないと思うけど、シスカの気持ちもわかるかな」アツコがクラモチを見た。
「今の仕事を大事にしてくれるのはうれしいがな。そうだ、マザー2は来週ドックを出る。WR2も復帰する。また仕事を頼むことになるからよろしく頼むぞ。シスカ」とクラモチは帰り支度を始めた。
 するとヨウコが「えー、いいなあ船のお仕事、雇ってもらえないかなぁ」と冗談っぽく言った。
「何か特技でもあるか?」クラモチがきまじめに訊くと「えー特技?看護師だって事ぐらいかな」とヨウコが答えた。
「看護師なのか?」
「なに?その目は。これでも私、大卒だよ。しかもかなり優秀!」と顔を上げた。
「見かけによらんな」クラモチは驚いたが「憶えておく」と答えた。
「よろしくお願いします」ヨウコは営業スマイルに切り替えてにこやかにお辞儀した。
「じゃあもう遅いし俺は引き揚げるぞ」クラモチはくぐり戸をくぐって外に出た。
 女連中は4人そろって店の前の出てきて並んで「ありがとうございましたー」と頭を下げた。
(悪い気持はしないな)と思いながら手を上げて歩き出すと「よろしくお願いしまーす」とヨウコの作った声が追いかけてきた。
(何をよろしくだ?)と思いながらもう一度手を軽く上げてアーケードをライトレールの方に向かって歩き出した。


(2014/08/09 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

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 その音が携帯電話の呼び出し音だと認識するまでずいぶんかかった。
 クラモチは寝床から手だけ出すと携帯電話をわし掴みにし通話ボタンを押した。
「はい?」声はまだガラガラだ。
「コバヤシです。すぐテレビを点けてください。BS3です」
「コバヤシか?」うめきながらチラッと時計を見ると午前7時を少し回ったところだ。
「とにかく早く点けてください」冷静にせかされてリモコンのBS3を押した。
 テレビではアナウンサーがニュースを読み上げていた。
『今朝早くキタカタ州マサゴ市の東海岸に、大量の油が流れ着いているのが発見されました。この大量の油は海流から見てベクレラ連邦から国境を越えて流れ着いたものと思われます』
 クラモチの頭は急速に覚醒した。
「なんだこれは。事故か?テロか?どこから漏れている?」テレビに向かってわめいたつもりだったが、携帯電話の向こうからさらに冷静な答えが返ってきた。
「現在調査中です。テレビ局でも今放送してる以上には状況はわかっていません。マサゴ市や州政府も調査中を繰り返すばかりです。ただ……」
「ただ、なんだ」
「ベクレラのオルガ市にあるサルベージ会社に友人が居るんですが、それに連絡を取って訊いてみるとどうもリグで事故をやらかしたみたいですね」
「ガス田か。ベクレラ政府はどうしてる?向こうのマスコミは?」
「だんまりを決め込んでますね。向こうの衛星放送は朝のバラエティー番組でのんきに芸能スキャンダルをやってます。シンキョウの官邸にいる友人にも問い合わせていますので追って何か言ってくると思います。中央政府としても何らかのアクションを起こさなければなりませんから」
「そんなところにも友達がいるのか」クラモチはあきれたように言った。
「何か分かったらまた電話します。私はオフィスにおりますので、こちらに出勤されますか?」
「そうだなここでは情報が限られるからオフィスに出よう。2時間後だ。連絡は携帯でくれ」
「了解です。イシダにも連絡を入れて呼び出します」
「頼む」クラモチは短く答えると携帯電話を切ってテレビを見ながら身支度にかかったが、ふと気がついてつぶやいた「コバヤシ、なぜオフィスにいるんだ?」

 クラモチはライトレールを待ちながら、小さなホームに設けられた待合室の中で足踏みしていた。濁った灰色の空はここのところ毎日で、雪も波状攻撃のように降っていた。軽くお尻を乗せられるだけの簡易ベンチを囲む小さな待合室は風よけにはなったが、寒さは防ぎきれなかった。
 この島は大陸とは狭い海峡を挟んで対峙しているだけなので雪はあまり多く降らない。その代わり寒気をたっぷり持った季節風が吹き抜けることが多い。
 クラモチはやっと来た電車に乗り込むと暖房のきいた車内で大きく体をゆすり防寒着の中の空気を入れ替えた。そのまま暖かい車内でウトウトしていると電車は港の突堤のすぐそばにある終点の一つ手前の停留所に到着した。
 オフィスはすぐ前だ。ビルに飛び込んでエレベーターで6階まで上がると勢いよくオフィスのドアを開けた。中ではコバヤシとイシダが机に向かって腰掛け、電話をかけていた。
 コバヤシが電話を終えてこっちを向いたのでクラモチは「どうなってる?」と声をかけた。
「少しづつ状況がわかってきました。やはりリグでやらかしたみたいですね。」コバヤシがまじめに結論だけを述べた。
「で、途中経過は?」クラモチが促すと、報告が始まった。
「事故が発生したのはガス試掘井のオルガⅢです。位置はここです」と正面の大型モニターに地図を表示した。
「この試掘井で試掘が終了して、ライザーの中を泥水から海水に置き換える作業を終えてBOPの上部の解放作業中にガスキックが起こって、井戸からライザーあるいはドリルパイプを通って海水が吹き上げたようです。それを止めるべく対応をしていたようですが、その作業中に吹き上げたガスに引火、爆発、炎上、リグに乗り込んでいた126名のうち、11名が行方不明になったとのことです」
「引火原因は現在のところ不明ですが、リグはそのまま破壊されて沈没、ちぎれたライザー、あるいはドリルパイプを通って油が流出中というところです」コバヤシは続けて被害状況の説明を加えてから報告を終えた。
「情報の出所はどこだ」クラモチは確認した。
「ベクレラのオルガ市にあるサルベージ会社の友人です。何人かいるんですが、この詳しいバージョンはその会社の社長からです。何より事故現場から命からがら脱出してきた本人ですので、かなり信憑性は高いと思います」
「だったら間違いないだろう?」
「何事も100%はありませんので」コバヤシは冷静に答えた。
「お前もベクル語をしゃべるのか?」クラモチはヨウコの件を思い出していた。
「いえ挨拶程度しか。彼らとはグロー語で会話しますので」コバヤシは不本意そうに答えた。
「イルマ政府のアクションは?」
「官邸の得ている情報も我々と大差ありません。すでに大使館を通じて問い合わせを行っていて、正確な情報の即時開示を求めています。正式な抗議の準備も始めているようです。それから油の処理作業は準備が整い次第開始されるようです。軍と民間企業が数社、依頼を受けて動き始めています。珍しく今回は対応が早いですね」
「軍が動いているのか?」
「事件が事件ですからベクレラに文句は言わせないつもりのようです」
「官邸の友人からの情報だな?」
「そうです。首相の側近とはいきませんが、かなり…近しい人物ですのであまり間違った情報はまわってこないはずです」コバヤシは”かなり近しい”の部分で一瞬微妙な表情をした。
「そうか。こちらにお鉢が回ってこなければいいがな」クラモチは眉間にしわを寄せて大型モニターを見つめた。クラモチの長い一日が始まった。


(2014/08/09 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

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 アツコは化粧を終えると洗面所から出てダイニングキッチンへ入って行った。
 テレビでは今朝早くから海岸に油が漂着したというニュースを流していて、緊迫したレポーターの声が聞こえてくる。アツコは支度をしながら聴き耳だけは立てていた。
 まだ朝早いのでシスカは起きてきていない。
(昨夜の歌は良かったな)アツコは昨夜のシスカのステージを思い出しながら、まだ感想を全部伝えきれていないような気がして、シスカの部屋の気配を窺った。
 部屋からは起きているような気配は伝わってこない。アツコはあきらめて、まだ原因について推測以外言及しないテレビを消して、大きなバッグを肩にかけた。
 そして自分のカレンダーの今日の日付の部分に”WR2・帰宅未定・連絡入れます”と書き込むと、「行ってきまーす」と小さく声をかけてから玄関を出て、そっとドアを閉めて鍵をかけた。

 潜水艇WR2は、耐圧試験を終えた耐圧球の取り付け作業が今日終わる予定だ。ずっと作業を見ている必要はないのだが、艇長のキリュウは多分徹夜で見守っているはずだ。アツコが出勤して替われるわけでもないが、やはり気になっていた。
 アツコはやって来たライトレールに乗り込むと、まだ夜が明けきらない濁った灰色の空の下同じように灰色に沈む町の風景を眺めながら、ドックの有る終点の停留所に向かった。
 停留所の手前まで複線で続いてきた線路はここで一本に収束し、終点のホームに達していた。車両の折り返しのためにそういう構造になっているのだろうが、やっと…という体で端までたどり着いた線路は何の標も無しに唐突にアスファルトの下に消えていた。
 その様子を見るたびに、以前一緒にこの終点のホームに立ったキリュウが「この先が気になるな……」とぼそりと呟いたのを思い出す。その時は「なんですか。それ」と返事はしたが、なぜそんなことが気になるのか理解できなかった。今でもよく解らないが、その先に何メートルかレールが埋まっていることぐらいは理解できている。
 ライトレールを降りるとアツコはその終端部分に目をやってから、目の前に有る大きな建物に入って行った。ガードマンに軽く頭を下げ、IDカードを読み取り機にかざし入口をくぐると、慌ただしく作業服に着替えて現場に入った。
 その建物の内部は大きな空間になっていてその端の方にフレームが組まれ、そこに潜水艇が乗っているのが見えた。
 近づいていくとキリュウがハッチの中を覗き込んでいるのが見えた。顔はハッチの中にあるので見えないが、あの細めの背中はキリュウに違いなかった。
 こういうシチュエーションで以前のシスカなら絶対あのお尻を軽く蹴る悪戯をやらかすだろう。今のシスカならずいぶん繊細で人当たりが良くなっているので、やや愛想悪く声を掛けるくらいかな?と思いながらすぐ後ろに立ってやや愛想悪く声をかけた。
「艇長!」ガンッと頭をぶつける音がして、「アッ」思わず声が出たがキリュウはヘルメットをかぶっていた。「なんだ。シマか。今日は休んでも良かったのに」
(ああ、良かった)と思いながらアツコは「おはようございます。こんな大事な時に休んでなんかいられませんよ。頭大丈夫ですか?」と声をかける。
「ああ、大丈夫だよ。おはようございます。で、なにかな?今日は」
「そんなあ。私にも関わらせてくださいよ」アツコは懇願するような目をした。
「ごめんごめん。でももうセッティングは終わってるんだ。スタッフも今引き上げたところだ。徹夜だったからね。あと確認を手伝ってくれるかな?」
「了解です」アツコは船内に入りインターカムのヘッドホンを付けた。
キリュウは船外からチェックリストに沿って、操作とそれに対応する動作を確認していった。
 多くの項目のチェックを一つ一つ済ませ。最後はスラスターのチェックに入った。
「4・2のスラスターを入れてくれ」
「4・2スラスター入れました」
 続いてスロットルの確認をおこなう。
「作動確認!4・2スラスター・チェック!」
「4・2スラスター・チェック」
「よーし。チェックリスト終了だ」キリュウはチェックリストの終了を宣言した。
「なあシマ。昨日のステージはどうだった?」インターカム越しにキリュウが訊いてきた。
「すごく良かったですよ。感動しちゃいました。学生時代からずっと聞いてるんですけど、こんな気持ちになったのは始めてです。ここ最近ものすごく成長してます」
「そうか、俺も一度聞いてみたいもんだね、そのキタハラだっけ?」
「機会があったらご案内します。それから普通はファーストネームでシスカって呼んだ方が通じます。キタハラって言ったらシスカの親父さんのことになっちゃいますから。同じ職場なんで……」
「シスカか……」
「で、そのあまり良くなかった出会いってどんなだったんですか?」アツコはずっと気になっていたことを訊いた。
 一瞬キリュウは答えに詰まったようだったが、その時携帯電話が鳴りだした。
「ちょっと待ってくれ。クラモチからだ」キリュウはアツコに呼びかけて、インターカムを繋いだまま通話ボタンを押した。
「はい、キリュウです」キリュウはしばらく会話を続けていたが「了解」と電話を切った。
「シマ、クラモチから呼び出しだ。ここはこのままにしてオフィスに行く。シマも呼ばれてるから一緒に来てくれないか」
「私もですか?」2人は作業服のままオフィスに向かった。

 キリュウに続いてアツコはオフィスへ入っていった。アツコはクラモチの動きを警戒していたが、いつもの仕掛けは無くその代わり真面目な顔のクラモチとコバヤシ・イシダが三人並んで立っていた。
 その隣にはアツコ達の勤める海洋調査会社のCEOが立っていたので、それが仕掛けの無かった理由だということが分かった。
「2人とも忙しいところすまないな。今朝からの油の漂着のニュースは知っているな?」クラモチが口火を切った。
「はい」アツコは答えたがキリュウは「俺は聞いてない。ずっとドックにいたからね」と答えた。
「そうか。コバヤシ、事故の経緯を簡単に説明してやってくれ」クラモチは指示しコバヤシの簡潔な説明が始まった。
「ま、そういうことだ」クラモチはコバヤシの説明をそうまとめてから続けた。「そこからの話だが、ガス田からはいまだ大量の油が漏れ続けている。BOPのフェイルセーフ構造は機能していない。ベクレラのサルベージ会社の無人潜水艇が直接BOPを作動させようとしたが失敗したようだ」
 なぜそんな説明が自分たちにされるのか、嫌な予感を感じてアツコはそっとキリュウを見た。キリュウも難しい顔をしてクラモチのほうを見つめていた。
「こちらのネットワークを駆使して集めた情報によるとだ。非公式にだがオルガノ州政府筋から潜水艇の派遣を打診してきている。無人艇では出来ることに限度がある。有人艇は近海に配備が無く派遣に非常に時間がかかるらしい」
「キリュウさん、シマさん」CEOが口を開いた。「もしこの派遣要請が正式にイルマ政府に対して出されたら、政府は大きな国益があると判断してこれを受けるでしょう。そしてこの近海で唯一有人潜水艇を持っている我々にその依頼が来るでしょう。我々はそれを受けようと思っています。会社としても非常に大きなメリットが有ると判断しています。しかしこのプロジェクトは必ず成功する必要がある。取締役会で協議した結果、経験の豊富なマザー2とWR2を使うということが決定しました。潜水艇による作業は非常に困難になると思われますが、お2人にお尋ねします。受けていただけますか?」
 しばらく間が空いてから「条件があります」キリュウが切り出した。「まだ経験が不足するコ・パイロットをWR1のミヤザキと入れ替えてください。それが入れられればお受けします」
 アツコは全身の血液が無くなったような気がした。何か言おうとしたが言葉を発することすらできなかった。
 胸のあたりを締め付けられるような感覚に耐えていると「それは俺が許さん」クラモチの声が強く響いた。
 そして決断を伝えるためか、言葉を短く区切りながらクラモチは続けた。「マザー2チームにひびを入れるような条件は飲めん。チームワークを乱すような行為は俺が許さん。シマは優秀なコ・パイロットだ。俺の責任で参加させる。お前達2人の組み合わせがベストだと俺が判断した。これは業務命令だと思ってくれ。もっともシマが辞退したいというなら話はまた別だが……」
 しばらくの沈黙の後アツコは「私は辞退しません。参加させてください」と訴えた。
 キリュウはアツコの方を見ていたが何も言わなかった。
「それではプロジェクトチーム結成ということでよろしいですね。欠員補充やチームの運営一切はクラモチリーダーに一任されます。政府やベクレラとの折衝はこちらが万事上手くやりますから、実務の方よろしくお願いしますよ」CEOはそう言うと部屋を出て行った。
 アツコはずっと下を向いていたがキッと顔を上げるとクラモチの方に駆けよってハグをした。
 クラモチは驚いた顔になったが「よろしく頼むぞ。ずいぶん迷ったんだが、お前達二人の組み合わせがベストだと判断した。間違ってはいないはずだ」コバヤシとイシダは向こうを向いてしまった。
 アツコはハグを外すと今度はキリュウに近づいて少し遠慮気味にハグをした。キリュウはまた棒の様に突っ立っていたが、アツコの口から微かに嗚咽が漏れるとアツコの頭にそっと手を置いた。


(2014/08/09 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

---24---


 *

 携帯電話から呼び出し音が流れ始めた。発信人はクラモチだ。時間を見ると午後12時20分(こんな時間にいったい何?)と思いながらサエは電話に出た。
『クラモチだ。今いいか?』
「大丈夫よ。何か用?」
『そばにヨウコはいるか?いたら替わってくれないか』
「ちょっと待ってよ」と電話を保留にし、「ヨウコ。クラモチから、替わってくれって」
「私に?」ヨウコは驚いた様子だったが電話に出た。
 気を利かせてホールを出て厨房に入る。
 シユが「何の電話?」と訊いてきたが「さあ」と手を横に広げサエは仕込みを手伝い始めた。
 電話を終えてヨウコが厨房に入ってきた。「サエ、ありがとう」携帯電話を返すと「今から出かけてもいいかしら?」と訊いた。
「かまわないけど。なんの用だったの?」サエはいきなりの電話を不安に思っていた。
「就職の話。看護師が必要なんだって。とりあえず契約社員として採用の可能性があるから、面接を受けないかって」
「へえ。あの時の話を憶えてたんだ。でもなぜ看護師が要るのかしら?」サエが首を傾げる。
「看護師に欠員が出たらしくて、それになんだかベクレラへ派遣されることが決まりそうになったから、通訳を探してるらしいんだけど適当なのが居ないって言ってたわ。私あの時少し喋れるような話をしたから本当に喋れるのかって、両方兼ねられるなら安く付くって……」ヨウコは少し不安げに見えた。
「さすがクラモチ、細かいところまでよく覚えてるわね。ベクレラに派遣って今朝の油の漂着に関係があるのかしら」サエはテレビを見やった。
「詳しくはオフィスで話すって言ってたわ。サエとかあさんにははっきりするまで口止めしとけって」
「わかった」サエはシユと顔を見合わせて頷いた。
「新天地で職を探すつもりだったから、卒業証明書や成績証明書や書類一式持ってるんだよね。ラッキー!」ヨウコは気合を入れるようにそう言うと支度をしに2階へ上がって行った。

 *

「これは拾いものかもしれませんね」面接を終えてオフィスに戻ってきたコバヤシはクラモチの前に座ると開口一番そう言った。
「というと?」クラモチは身を乗り出した。
「ちょっと調べてみたんですがこの二つの証明書は本物です。そしてこの証明書の通り、彼女は優秀な成績でシンキョウ大を卒業しています」と卒業証明書と成績証明書をデスクの上に広げた。
「ちょっと調べてみたってお前、個人情報保護とかはどうなってるんだ?それにヨウコはシンキョウ大卒なのか?」シンキョウ大とはエリート官僚を最も多く輩出している国立大の最高府だ。
「まあホストコンピュータに侵入するとか色々手はありますから。念の為です」コバヤシは得意げな薄笑いを浮かべながら続けた。
「それから、なおすごいのはこれです」ともう一つの書類を置いた。
「なんだこれは”特定看護師”?」クラモチは首を傾げた。
「医師にしか認められていない医療行為の一部を行うことのできる看護師です。医師から大まかな指示さえあれば、患者の状態を判断しながら、薬を出したり、簡単な検査や処置を行ったりできるんです。もちろんこれも調べてみましたが本物です」コバヤシは次々と書類を広げる。
「それからこの検定試験成績証明書も問題ありません。本人の物です。この点数だと通訳としても十分通用します」
「全部調べたのか……」クラモチはあきれ顔だ。
「面接してみましたが彼女は優秀で、経歴にも問題はありません。一緒に面接したドクターのOKも出ていますし採用は有りと思います。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「そうですね。スタッフにベクル語を操る者がいないですから、彼女のベクル語の本当の実力がわかりません。検定の点数を信じるしかないのが問題です。私が見たころでは非常に流暢にしゃべっているんですが」
「ま、国際交渉をするんじゃないんだ。いいんじゃないか。それにそのなんだ特定看護師か?そいつは拾いもんだろう?じゃ、採用ということでいいな?」クラモチは確認を取ったが、コバヤシからもイシダからも異論は出なかった。
「なんでそんなのが”19番”で店員やってるんだ?」イシダは至極真っ当な疑問を口にした。


(2014/08/09 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

---25---

 *

 キタハラはシスカと2人ダイニングでくつろいでいた。
 キタハラはコップの発泡酒を空にして夕食を終えていた。
 シスカは食べ終わってはいたがまだ蒸留酒をチビチビやっていた。シスカにとってここでは気を使わない時間が過ごせるのだ。
もちろんナオミがいつも座っていた椅子の前のテーブルにはナオミの写真が置かれていた。
「そこでだ……」キタハラはシスカが落ち着いたのを見計らって話し始めた。食事中は仕事の話は中断して、たあいない話に切り替えるのはキタハラのやり方だ。
「今日正式な要請が有ったというわけだ」
「ベクレラ政府からの正式な要請か?」
「いや、直接支援の要請という形はとっていない。オルガノ州政府とベクレラ中央政府との間で揉めに揉めたようだが、オルガ市のサルベージ会社からイルマのサルベージ会社への仕事の依頼に、国としてビザ無しの入国許可を出したという形を取っている」
「そんな依頼で自由に動けるのか?」
「わからんな。不自由な思いをする可能性は高いな。しかしイルマ政府も正式な要請を待って手をこまねいているわけにもいかんだろう。油がジャンジャン漏れてるんだ」
「でマザー2とWR2のチームが派遣されるのか?」
「そうだ。船の性能からいっても実績からいっても順当な線だろう」
「アツコは?」シスカは思いきった様子で質問を投げかけてきた。
「ひと悶着あったらしいが、クラモチの判断でチームに含めることになったらしい」
「ひと悶着?」シスカは有る程度答えを予測している様子で疑問符を付けた。
「パイロットのキリュウがコ・パイロットの入れ替えを進言したらしい」
 シスカは「どうして?」と訊いた。
「経験が不足する……と言ったらしいが」
「フフッ」シスカはグラス越しに笑いを漏らすと「経験を言われるとその通りかもしれないけど、良いセンスしてると思うけどな。アツコはパイロットの臭いがするよ」とキリュウの目を覗いた。
「俺もそう思うしクラモチもそう判断したんだろう。キリュウも本心で入れ替えたいと思ってるわけじゃないだろうしな。」
「キリュウってこの前病院へ搬送した人だな?」
「そうだ。やつもアツコは使えるという報告をクラモチに上げているらしい。やつがこんな短期間でそんな判定をするなんていうのはよっぽどのことだとクラモチも言っていた」
「そんなに評価してるのになぜだ?」シスカの質問は続く。
「今度の潜航はこれまでのと違って格段に危険だからな。アツコの身を案じたんじゃないのか?」
 シスカは頷きながらまた「どうして?」と訊いた。
「察しろよ……。だがそこに居たマザー2の仲間はキリュウを含めてみんな、アツコがパイロットの臭いがするのをちゃんとわかってる。だからその場で参加は決まったらしい」
 キタハラはシスカの目を見て続けた。「お前も相当良い臭いがするぞ」
「ありがとう。でも僕は整備士だから……」シスカは若干不本意そうに礼を言った。
「それはパイロット資格条項のせいで受験できないからだ。今後の診断でOKがでる可能性だって有る」キタハラは一縷の望みをかけて大学病院の診察を予約していた。
「僕は筋金入りだからな。無理だと思ってるよ。で、事故の修理は間に合うのか?ここのところアツコはマザー2で泊まり込みだし。忙しそうだけど」シスカは話題を変えてキタハラの空のコップに発泡酒を注いだ。
「修理はもう終わっている。WR2と一緒に明日ドックを出るそうだ」
「そのまま現場に向かうのか?」
「明日出港してすぐ潜航テストを行うらしい。それからオルガ港へ向かう。そのあと港で先方スタッフの乗船や政府の正式許可を待って現場での作業に入る段取りらしい」
「悠長なことだな」
「政治が絡むとどうしてもな。被害は2の次だ。それでだ……」キタハラは会話を一旦切った。
そしてクウっと発泡酒で喉を潤すと「クラモチがチームのすべてを一任されているわけなんだが、そのクラモチリーダーから俺たちに要請が下った」
「僕らに?どんな?」シスカもグビリとやって、今度も答えは予想している様子だが一応訊き返してくる。
「もちろん俺たちの会社になんだが、マザー2に俺たちのAW289を是非とも乗せていきたいそうだ。俺とお前もご指名だ」
 シスカは(やっぱり)という顔を見られないようにしているのか、下を向いてグラスを舐めながら「僕らもマザー2チームの一員と言うわけか?これは高く評価されたと思っていいのか?」とやる。(さすがのシスカもすこしまわってきたかな)
「シスカ。お前はクラモチにも結構高く評価されているぞ」キタハラは喋りすぎる自分にもすこし酒がまわっていると判断した。
「それで急に出張要請が入って、明日が特休になって、キタハラが僕を夕食に誘ったというわけか?」
「そういうことだ。合流は出港当日。明後日だな。夜が明けしだい着船しろと言ってる。で、明日は特別休暇ということで長期泊まり込みの準備をしてくれ」
「じゃ今夜は泊らせてもらって、明日の朝用意しに一旦部屋に帰るよ。二人とも出てしまうから部屋もきちんとしておきたいし」
「ここはお前の家だ。遠慮することは無い。明後日28日は午前3時に格納庫集合で予定しておいてくれ。変更があったら携帯で連絡する。仕事上の連絡は以上だ。復唱しろ」
「以後の予定。明後日28日は午前3時に長期泊まり込みの準備をして格納庫集合。変更があったら携帯で連絡。これでいいか?」
「よし!じゃ飲もうか」
「飲もう飲もう」
 2人はまたそれぞれの酒をなみなみと注ぐと乾杯した。

 キタハラは何かの気配に目を覚ました。カーテン越しに弱い街灯の光が入る寝室、その寝床のすぐ横に誰かが膝を抱えて座っている。
 急速に覚醒したキタハラはじっとその影を見つめていた。スラリとしたその影のてっぺんには、闇の中でもほんのり白っぽくプラチナの髪が光っていた。
「シスカか?」影は動かない。
「どうした?」そっと尋ねた。
 影はそのままキタハラの布団にもぐり込んで背中にくっついた。キタハラは一瞬固まったが「いったい何年ぶりなんだ俺の布団に入ってくるなんて」と言った。黙ったままじっとしてくっついているシスカを背中に感じながらキタハラは「ショウなのか?」と訊いた。
「キタハラ、僕は消えてしまうの?」影は小さく体を縮めながら弱々しく言った。
「さあな。俺にはわからん。だが何となく最近のお前を見ていると、どちらが消えるなんていう問題じゃなくて、まったく新しいお前が生まれようとしているような気がしている」
「消えたり死んだりするんじゃなくて?」小さな声で影が訊く。
「そうだな。そんな気がする」
「僕はね。シンキョウで育った記憶。学校のことや友達のことや近所の出来事なんかを憶えてる。でも消えてしまいそうになっている記憶やもう思い出せない記憶もある。僕のお父さんやお母さんがどんな顔をしていたかもう覚えていないんだよ。こういう風にみんな消えて無くなってしまうのがたまらなく怖い。自分の記憶がシスカにとって邪魔なのかと思ったりしてとっても怖い」
「俺はお前が恐がっているような結末にはならないと思ってる。でも怖いんだったら何かにしがみつけ。そうやって耐えるしかないと思う」
 影はキタハラのパジャマにしがみつき、キタハラのパジャマの背中はクシャクシャになった。
「おいおい。そこじゃないだろ」キタハラは言ったがそのまま長い時間じっとしていた。やがて背中から規則正しい寝息が聞こえ始めた。キタハラがそっと寝返りをうったので、パジャマをつかんでいた手はゆるりと離れた。キタハラは影のほうを向いてそのプラチナの髪をそっと撫でて寝付いたことを確認すると、起き上って布団を掛けなおした。そして「勘弁してくれよ」と部屋着を持ってそっと寝室を出て行った。


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 闇の中、坂の最上部の路面から白いLEDの灯りが左右に揺れながら上昇してくる。
 上昇を止めると今度は速度を上げてこっちへ近づいてくる。
 そしていっぱいに速度を上げた状態で格納庫に入ってくると、今度は後輪をロックさせて激しく滑らせながらキタハラのすぐ前に横付けになった。
 足を着くとシスカは自転車にまたがったままキタハラを見てニヤッと笑った。激しく吐く息が白い蒸気になって流れて行く。髪が帽子からはみ出している。
 ショウがシスカに収まってから髪を曝すことに躊躇しなくなった。
 背中に大きなリュックを背負っているのは長期出張の時のいつもの荷物だ。
「もっと早い方が良かったか?」息を切らしながらシスカが訊いてきた。
「いや。まだだいぶ時間があるぞ。ずいぶん張り切ったもんだな。まあいいさ。とりあえずブリーフィングルームに来てくれ」キタハラはシスカを誘った。
 シスカが先にブリーフィングルームに入ると「こんばんは」ヨウコとサエが立っていた。シスカは驚いて立ち止まると「どうした?2人でお見送りか?」と2人に尋ねた。
 ヨウコが「私はマザー2まで同乗させてもらうの」と言った。
「説明しよう」運行部長が話に割り込んできた。「アキヤマさんは看護師兼ベクル語の通訳としてマザー2に採用された。君らのヘリコプターに同乗してマザー2に赴任してもらう事になった」
「へえ。そうなのか?」シスカは驚きの声を上げた。
「ということだから。よろしくお願いします」ヨウコはシスカに向かって軽く頭を下げた。
「そりゃよかった。さすがだな。改めてこちらもよろしく」とシスカは同じようにあたまを下げてからサエの方を見やった。「サエは何で採用されたんだ?」
「もう。意地悪!私は本当に見送り!ちょっと今回は大変そうだからね」サエは唇を尖らせた。
「じゃあ俺達はブリーフィングを始めるからそこで待っていてくれ」キタハラは隅のソファーを指差してから、運行部長とシスカと一緒にブリーフィングを始めた。
 例のごとく3分でブリーフィングを済ませると、ヨウコと見送りのサエを加えて4人でAW289に向かった。すでに機体はヘリポートに引き出されていたので、シスカは機体のチェックを始めた。
 くるくると動き回って機体をチェックしていくシスカの動きは、まるでプログラミングされているかのように淀みなくスムーズだ。キタハラはその後を追いかけるように確認して行く。
 シスカを信用していない訳ではない。機長としてのダブルチェックをルーチンで行っているのだ。終わると操縦席に2人で並んですわり、例のごとくシスカがチェックリストを読み上げ、キタハラがチェックを入れていく。
 手際よく進んでゆく作業を見つめながらヨウコは驚いた様子だった。
 サエと何か話し込んでいたがチェックリストが終了すると「ヨウコ、そんな所に立ってないで乗って。出発する」シスカが声をかけた。
「それじゃ行ってくるわね」ヨウコはサエに挨拶してシスカの後ろのシートに乗り込んだ。
「うん。じゃ気をつけて」サエはヨウコに声をかけてから操縦席に近づき、シスカとキタハラにも「気をつけて!」と親指を上に突き出した。
「ありがとう。じゃ行ってくる」シスカとキタハラも親指を上に突き出して答えた。ローターのスピードがどんどん速くなって声も聞こえなくなった。
 サエは機体から安全な距離を取って整備士達と一緒に手を振った。エンジン音はさらに大きくなり機体は上昇を始め、サエの体はどんどん小さくなっていった。
 空はまだ暗いままだったが東側の地平線はほんのりと紫に染まり始めていた。

 キタハラはコ・パイロット席のシスカをそっと見た。シスカはGPSによる位置確認と前方監視に忙しい様子だった。キタハラは、その一端の顔に安心感を感じると同時に一種の喪失感を憶えていた。そしてシスカが出勤する前、ブリーフィングルームでサエと交わした会話を思い出していた。
「シスカはオルガの街に入れるのかな?」横に並んできたサエがぼそりと訊いてきた。
「さあな、今の計画だとそういう機会はないんだが、今回の仕事は何が起こるかわからんからな」
「行きたいんだろうね」
「だろうがシスカのことだ。仕事を優先するだろう」
 ヨウコは少し離れて立っているがそれとなく聞いている様子だ。だが遠慮しているのか会話には入ってこない。
「私はこの件には触れないようにしている」
「俺もそうだ。観光や調査でいけるような状態ではないからな。シスカも分かってるんだろう。そこに触れることはなかった。機会や出会いがあれば何か分かることもあるかもしれん。そこに期待するぐらいしかないな。シスカには悪いが、こちらから積極的には動けん」
「分かってる。一番安心できる人がそばについてるから、その点では心配していないけど……」
「ナオミのようなわけにはいかんがな……」
 ナオミの顔を思い出しながら、明け始めた空からシスカに目を向ける。
 そっと目を向けたつもりだったがシスカと目が合った。
(どうした?)シスカが目で訊いてくる。
(いや、なんでもない)キタハラも目だけで返事をして前方に目を戻した。
 AW289は巡航速度で一直線にマザー2を目指し飛行していた。


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 *

 アツコはマザー2のコントロールルームに詰めていた。シスカのヘリコプターは夜が明けるとすぐ到着する予定になっていたので、早起きしてここにやってきていたのだ。
 コントロールルームには当直のスタッフとリーダーのクラモチ、サブの2人コバヤシ、イシダの顔が見えていた。イシダは当直だったが、クラモチとコバヤシはさっき起きだしてここに顔を出したのだ。
 寒暖計は氷点よりかなり下を指したまま動かない。寒気をため込んだ大気は少しずつ明るさを増し、灰色の雲に覆われた空が徐々に姿を現し始めた。東の空は海から朱色が滲みだし日の出が近いことを示していた。念のため着陸用の照明も点灯している。
 ドアが開いてキリュウも顔を出した。「おはよう!シマ。冷えるな」
「おはようございます。艇長。そろそろシスカのヘリが来ますからね」アツコは窓越しに暗い海上に広がる灰色の空を見つめていた。
 キリュウが横に並ぶと「で、そのあまり良くなかった出会いってどんなだったんですか?」アツコはずっと気になっていたことを訊いた。
 キリュウは一瞬話が繋がらなくてポカンとしていたが「シスカの事か?」と尋ねた。
 その時かすかにローターの音が聞こえ始めた。
 キリュウは話すのを止めて耳を済ませた。
「マザー2こちらOS1036ご機嫌いかが?」
「シスカだな、マイクを貸せ」クラモチがマイクを取り上げた。
「おはようシスカ。待っていたぞ。だいぶ明るいからもう見えるだろう。すぐに降りてくれ」
「了解。お待たせ。すぐに降りるからビビって揺らさないでくれよ」
「ばかやろう。じっとしててやるからさっさと降てこい!」
「ところで、隣にプログレスか?が居るんだけど、これは何だ?」シスカがマザー2の隣に並んでいる輸送船プログレスのことを訊いてきた。
「プログレスはマザー2の補給船だ。ベクレラに一緒に連れて行く。プログレスはヘリポートも持っているから、何かと理由をつけてお前らのヘリを使えるだろう?ドサクサ紛れになるべくたくさんの前例と実績を作っておきたいからな。後で詳しく説明するから早く降りろ、置いて行くぞ」
「かまわないよ。プログレスに降ろしてもらうから。プログレスの船長はキタハラに頭が上がらないからな」シスカが返してきた。
 クラモチはマイクを返すと「こうでなきゃいかん」とアツコに笑顔を送った。
 ヘリコプターは右舷から回り込むと一旦ホバリングしてからゆっくりと着船した。
 ローター音が小さくなると周りからみんなが集まってきた。
 クラモチはヘリポートに降りて行き、アツコはコントロールルームの窓からその様子を眺めていた。
 サイドのドアが開きシスカが顔を出した。まもなくローターが停止し、周りから作業員が近づきヘリコプターを固定した。
 キタハラ、シスカ、ヨウコの三人がクラモチに連れられて、コントロールルームに上がって来た。
「そのままでいいから顔だけこっちに向けてくれ」クラモチが全員に声をかけた。
「みんなにはすでに話しているが、今回の任務ではヘリコプターを乗っけていくことにした。そのパイロットのキタハラと整備士のシスカだ。もうみんな馴染だと思うが一応紹介しておく。それからこちらの女性はアキヤマさん、看護師として勤務してもらうが、ベクル語の通訳も兼ねてもらっている。よろしく頼むぞ」盛大な拍手を受けて紹介は終了した。(女性が居ると特に盛大だ)
 今、アツコ達はシフトから外れているので部屋の隅に邪魔にならないように立っていた。シスカはアツコを見つけると近づいてきた。
「よろしく。アツコ」
「こちらこそよろしくね。良かった。これで何とか元に戻った」
「何がだ?」シスカは怪訝な顔をした。
「ううん。なんでもない。こっちの話。でさ、こちらが……」とキリュウを引っ張ってきて紹介する「キリュウさん、うちの艇長」
「キタハラ・シスカです」シスカは軽く頭を下げた。
「キリュウです。始めまして。じゃないか。病院まで運んでもらった時はお世話になったね」キリュウがはにかみながら挨拶した。
「いえ。仕事ですから」シスカは取りつく島もない。
 キリュウは少し逡巡してから話し始めた。「実は君と会うのはその時が初めてじゃないんだ」
 シスカは少し首を傾げた。そしてアツコは訊き耳を立てながら、シスカが首を傾げる仕草を始めて見るような気がした。
「俺が君に出合ったのは君がまだ高校生の時だ。俺は国境警備軍に所属していたんだ」
「艇長、国境警備軍に居たんですか?」アツコの目が少し大きくなった。
 シスカは心当たりがあるのか、じっとキリュウを見ている。
「就職難だった時期でね。他に行くところがなかったんだ。そこに居た時、緩衝地帯を夜間に歩く2人連れを狙撃したことがあって……」
「艇長サエを撃ったんですか!!!」アツコはサエの撃たれた話は聞いていたので驚いてキリュウに向き直った。
「いや俺は撃ってない。まだ新人だったんだ。でもこの事件の後、いやになって警備軍を辞めたんだ」
 シスカはまだ押し黙ったままだ。
「そうだったんですか」アツコは少しホッとして「で、そこで出会ったんですか?」と話を促した。
「そうだな。怪我をした子は担架で仲間が運んだんだが、君はショック状態だったんで俺がおぶって連れて行ったんだ」
「覚えてます」シスカは短く答えた。
「おぶったんですか?」アツコは小さく言葉を被せた。
「怪我をした子はサエって言うのか?ずっと罪悪感を持ってるよ。すまないことをした」キリュウは深々と頭を下げた。
「いえ。あなたが謝ることはないです。あんな時間にそこに居た僕が悪いだけのことです。サエが怪我をしたのもすべて僕のせいです。第一自分が撃ったわけじゃないんでしょ?」
「ああ、でも銃口を向けていたのは事実だ。もし君が不審な動きをしていたら俺が発砲していた」
「それにしても悪いのは僕です」
「ずっと引っかかっていたんだが、なかなか探す気になれなくてね。申し訳ない。サエさんにもこの仕事が終わったら謝罪させてもらうよ」
「好きにしたらいいですけど、僕に対しては気にする必要はないです」シスカは笑顔になった。
「いや……その」笑顔を向けられてキリュウはしどろもどろになった。
「おぶった時肩越しに見た顔が奇麗だなと思って、ずっと記憶に残っていたんだ。最後に見た眼の色も印象的だったしね。この前病院で気がついた時、すぐ目の前にその顔があったんで本当にびっくりした」
 シスカは下を向いてしまった。その仕草が赤くなった顔を隠すためだということが、下から見上げる形になるアツコには分かった。
 笑顔を”使う”シスカも、顔を赤くするシスカもアツコの記憶には無かった。


(2014/08/09 更新)
テーマ : 自作小説    ジャンル : 小説・文学
 
 

---28---


 *

 マザー2とプログレスは一路事故現場のオルガⅢを目指していた。ここはもうベクレラの領海内で、付かず離れずベクレラの巡視船が並走している。両船のヘリポートと格納庫にAW289の姿は無い。すでにオルガへ向かって飛び立ったのだ。
 当初の予定ではオルガ港に一旦入港することになっていたが、クラモチの発案でイルマ政府とオルガノ州政府が折衝し、直接現場に入ることになったのだ。
 港で行われる予定だった先方スタッフの乗船や政府の正式許可は、シスカのヘリコプターを使用してこちらからマザー2スタッフを送り込み、そのまま先方スタッフと一緒に回収するという形で上手く決着した。事故を抱え早期の対応を求められているオルガノ州政府は、ベクレラ中央政府の意向を入れられないままイルマ政府に振り回される形になった。
 両舷全速で航行する2隻のまわりの海面には被害の大きさを物語るように油の帯が広がっていた。

 *

 ヨウコはキタハラの操縦するヘリコプターAW289の客席で広がる海原を見つめていた。コ・パイロットの席にはシスカ、その後ろにクラモチとコバヤシ、そしてその後ろの席にヨウコが座っていて、その後ろには1列開けて外交省の役人が4人何やら打合せをしながら座っていた。反対側の窓に目をやると大きな都市の街並みが見えている。
 見えているのはオルガ市のはずだ。あまり高層の建築物は無く、せいぜい10階建てぐらいの建物が最高で、後は5階建て以下の低層の建物が広い面積に余裕を持って配置されている。ベクレラ側の緩衝地帯にあるのでマサゴ市と同様周りは柵で囲まれており、その中に立ち並ぶ建物のデザインは一様にシンプルで実用的だ。本来この島は北にあるためあまり農産物も育たず、狩猟や漁業で生計を立てる人々が住む村がポツリポツリとあるだけの土地だった。この土地に石油とガスが発見されて、それに群がる蟻達の巣のように形成された町がこのオルガ市やマサゴ市だった。この2つの町はたくさんの人間がただちに生活でき、働けることを最優先に大急ぎで建設され、伝統やデザイン性を全く持たない。国境線を挟んで対立しているかのような2つの町だがそういう意味で良く似ている。ヨウコはそんな感想を持った。
 ヨウコ達は今ベクレラ側のスタッフとの打ち合わせのためオルガ市に向かっている。
 シスカがグロー語でベクレラの管制官に呼びかけ、指定のヘリポートに接近していく。始めてのヘリポートなので計器飛行と有視界飛行を組み合わせ、管制官の誘導で慎重に進入していく。キタハラとシスカの腕は確からしく、前席の2人は雑談をしながらくつろいで座っている。
「すごいですね。本当に流れるようだわ」ヨウコはクラモチに言った。
「そうだろ。何度見ても見事なもんだと思うぞ。シスカも優秀だろ。本当ならパイロットでもおかしくない」クラモチも手放しで賞賛した。
「整備士だって聞いてますけど。パイロットにはならないんですか?」
「シスカはな、事情があってパイロットにはなれないんだ」とクラモチが答え、それに対してヨウコは尋ねようとしたが、シスカが振り返って「そろそろ到着する」と言ったのでその場はそのままになった。
 AW289はいつものように右側から回り込み、少しの間ホバリングするとスムーズに着陸した。

 その人物はタカジュナと名乗った。今回のプロジェクトを建前上依頼してきたサルベージ会社の社長だ。この業界では非常に稀な女性の社長で、西域系の顔にブラウンのショートカットの髪、ブルーの瞳を持ったそのボーイッシュで端正な顔つきは、何か人を引き付ける魅力があった。
『ジュナと呼んでください』彼女はそう言ってほほ笑むと、後ろに控えていた仲間を1人づつ紹介した。ヨウコは正確さを心がけながらイルマ語に翻訳していった。
 最初に紹介されたのはボースンと呼ばれる190cmは有ろうかという50を少し超えた位のガッチリとした大きな男で、ジュナの会社の専務にあたる役職を務めていた。体格的にもクラモチと同等で2人はガッチリと握手を交わした。後の3人も負けず劣らずの体格の持ち主で、50位のダイクと20代のオラクとキナラグが紹介された。
『ボースンとダイクは私の父、先代の社長の時代からこの会社を支えてくれているベテランです。オラクとキナラグはサルベージ作業の実務責任者です』ジュナはそう言って紹介を終えると、コバヤシの方を向いて『久しぶりだね。レン』とグロー語で言った。
『やあ。ラサ、久しぶり』コバヤシもグロー語で答え2人はハグした。横ではボースンが穏やかな笑顔でそれを見ている。
 クラモチは成り行きに付いて行けず。「オイ。コバヤシ、どうなってんだ」と声を上げた。
「私たちは同じ大学での同期です。学部は違うんですが……」コバヤシが答えると「恋人だったこともあったかな?」ラサが少したどたどしいイルマ語で言ってコバヤシがフリーズしてしまった。
 リセットに数秒を要してコバヤシは「彼女が留学生として来ていて、私が面倒を見ただけですよ。卒業してからも持ちつ持たれつで情報をやり取りしてきました。今回の事故の情報源もここですから」と彼には珍しく少し早口で言った。


(2014/08/09 更新)
 
 

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 中央政府の了承を取りつけて、オルガノ州政府との交渉は何とか決着し、流出停止作戦はようやく動き出すことになるはずだった。
 ところがここで横槍が入った。了承を取り付けたはずの中央政府から待ったがかかったのだ。エネルギー相がオルガ市に向かっているのでそのまま待機せよと言うのだ。大臣の到着は午後8時頃になるということでそれまで待機することになった。大臣はイルマ国総理大臣との会見のためシンキョウへ向かう途中でここに立ち寄ることになったらしい。領土の係争地に首脳が入ることにイルマから抗議があったが、ガス田の事故に対する担当大臣の訪問ということもあって抗議はうやむやになった。直後に対抗措置としてイルマの防災担当大臣がマサゴ市を急遽訪問している。これについてはベクレラ側は織り込み済みであったようで、大きな反応は見せていない。しかしこの訪問合戦はのちのベクレラ大統領のオルガ市訪問の布石となった。

 ヨウコは慣れない通訳の仕事を無難にこなしたが、少し疲労感を感じながら部屋を出た。
「ご苦労さん。上出来だ」クラモチが労いの言葉を掛けてくれた。
 すぐ後ろからベクレラのサルベージ会社のスタッフ5人が付いてくる。この5人とヨウコ達はこの交渉が行われているホテルの客室で待機することになっていた。キタハラとシスカもヘリコプターで待機していたが、ホテルに呼ばれることになっていた。
 ヨウコ達がロビーに入って行くとシスカが1人立っていた。ヨウコが「キタハラはどうしたの?」と訊くと「こんな訳分からんところでヘリを離れられるかってさ。僕だけでも休んでこいって。はっきり言って追い出された」シスカは不服そうにそう言うとソファーにドカッと座り込んだ。
「まあ、キタハラならそう言うだろうな」後ろでクラモチがボソッと言った。
 コバヤシが「せっかくだからシスカを紹介して各自部屋へ入ったらどうだ」と提案した。
 ヨウコはシスカを連れてサルベージ会社のスタッフ5人のところに近づいて行った。ヨウコは5人にシスカを紹介し、ジュナが握手をしようと近づいた時彼女の動きが止まった。それは一瞬のことだったがヨウコの目はごまかされなかった。
(何?)と思った次の瞬間彼女の見開いていた目は元に戻り、にこやかな顔に変化した。
 そしてそのまま握手をした。
 残りの4人も彼女と同じような反応をしていたが、これも同様に一瞬でにこやかな笑顔あるいはまじめな顔に変わりシスカと握手をした。
(イルマ人でプラチナはやはり珍しいのかな?それともシスカを知っているのか……?でも髪を見てからというよりも顔を見てからの反応だったし)と考えながらヨウコは自分にあてがわれた部屋に向かおうと歩き出した。シスカと一緒に行こうとエレベーターの前でシスカを待っていると『アキヤマさん。ちょっとよろしいですか?』とベクル語で声をかけられた。ジュナだ。ヨウコはシスカに先に行っているように手で合図すると『何でしょうか?』と答えた。シスカ達の乗ったエレベーターのドアが閉じた。
『キタハラさんはベクル人の血が入っているんですか?』ジュナは単刀直入に訊いてきた。
『さっきキタハラを見たとき少し驚かれていたようですけど、そう思われたんですか?』
『失礼しました。キタハラさんの髪がプラチナだったのでベクル人かと思って驚いてしまったんですよ。イルマの方は黒い髪の方がほとんどだって思ってましたから』
 ヨウコは『これはキタハラのプライベートに関することなのでお答えしにくいんですけど』と渋い顔をするとジュナは『立ち入ったことを聞いてしまって。ごめんなさい』と立ち去ろうとした。
 ヨウコは一瞬考えてから『ジュナさん。本人に直接聞いたことでは無いのではっきりしたことは分からないんですけど』と声をかけてから『キタハラにはベクル人の血が入っているみたいですよ。彼女歌手でもあるんですけど、ベクル語でとっても上手く歌いますから』と続けて、振り返ったジュナの表情をそっと観察した。
 ジュナは『そうなんですか?ベクル語の歌を……じゃあ私と遠い親戚ということもあるかも知れませんね』と冗談っぽく言って『彼女は歌手なんですね。ベクル語でどんな歌を歌うんですか?』と興味を示した。
『幼い頃覚えたベクレラの歌みたいなんですけど、子守唄と家族がテーマの歌を歌ってました』
『そうですか……』ジュナは一瞬間を置いてから『お手間を取らせました。あんまり綺麗なプラチナだったんで気になって訊いてみただけなんです。すみませんでした』とニッコリと微笑んだ。その微笑みはここで会話を終わりにしたいというニュアンスを含んでいるように感じたので、ヨウコは『いいえ。御心配には及びません。では、また後ほど』と言って話を終わりにした。


(2013.11.04 見直し)
(2014/08/09 更新)
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プロフィール
こんにちは!サーカスへようこそ! 二人の左紀、サキと先が共同でブログを作っています。

山西 左紀

Author:山西 左紀
「山西 左紀について知りたい方はこちら」
プロフィール画像について(“みまさか”さんに特別にお願いして使用許可をいただいた「ミクダヨーさん」です。)

ようこそ!


頂き物のイラスト

アスタリスクのパイロット、アルマク。キルケさんに書いていただいたイラストです。
ラグランジア
左からシスカ、サヤカ(コトリ)、サエ。ユズキさんにイラストを描いていただきました~。掌編「1006(ラグランジア)」の1シーンです。
天使のささやき_limeさん2
limeさんのイラストをイメージにSSを書いてみました。「ダイヤモンド・ダスト」
イラストをクリックすると記事に飛びます。よろしければご覧くださいネ!
スカイさんシスカイメージ
スカイさんのシスカイメージ
シスカ・イメージ高橋月子さん作
シスカ・イメージ 高橋月子さん作
シスカ・イメージlimeさん作
シスカ・イメージ limeさん作 コトリ・イメージユズキさん作
コトリ(コンステレーションにて)ユズキさん作
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