こんばんは~。暑い暑い夏が終わり、ようやく秋風が吹き始めましたね。
やれやれです~。
ということで、今夜はひさしぶりに掌編を発表します。
5月以来ですか?随分長いこと休眠していましたが復活です。
・・・といっても、このままスムーズに連続して物語の発表を続けていく自信はまったくなくて、今後は体力や創作力が許す限りのマペースでの継続という形になると思います。本当は毎週一回更新とかでやりたいんですが、ちょっと無理そうです。
さて、今回の更新ですが、ひさしぶりに会いたくなった既存のキャラクターを復活登場させてみました。
タイトルは「北紀行」というのですが、この作品の初編は「隣の天使」シリーズの1編「北鬼行」という単独の作品として発表し、それ以降はそこに登場した主人公にサキが惚れ込んで「物書きエス」のシリーズで、エスが書いた作中作「北紀行」として発表したために、書いた本人でさえどこに収録されているのかちゃんと把握していないうえ、(リターンズ)という番外編で2人の行く末まで先に発表してしまうというハチャメチャ作品でした。
今回、第3話の続編を新たに書き下ろすことができたので、初編から(リターンズ)までの作品と共に人称や矛盾点をできるだけ見直して修正し「北紀行」シリーズとしてひとつに纏めました。修正前の作品もそのままにしてありますが、こちらにまとめたものが一応の完成品ということになります。
今回書き下ろしたのは「北紀行 第3話 MAYOHIGA(2)」です。
よろしければ下のリンクからお進みください。
ストーリー自体に大きな変更はありませんので、これまで読んでくださった方は遡る必要はありませんが、初めての方は1話から読んでくださると嬉しいです。
北紀行 第1話 北鬼行
北紀行 第2話 北帰行
北紀行 第3話 MAYOHIGA(1)
北紀行 第3話 MAYOHIGA(2)
北紀行 (リターンズ)
やれやれです~。
ということで、今夜はひさしぶりに掌編を発表します。
5月以来ですか?随分長いこと休眠していましたが復活です。
・・・といっても、このままスムーズに連続して物語の発表を続けていく自信はまったくなくて、今後は体力や創作力が許す限りのマペースでの継続という形になると思います。本当は毎週一回更新とかでやりたいんですが、ちょっと無理そうです。
さて、今回の更新ですが、ひさしぶりに会いたくなった既存のキャラクターを復活登場させてみました。
タイトルは「北紀行」というのですが、この作品の初編は「隣の天使」シリーズの1編「北鬼行」という単独の作品として発表し、それ以降はそこに登場した主人公にサキが惚れ込んで「物書きエス」のシリーズで、エスが書いた作中作「北紀行」として発表したために、書いた本人でさえどこに収録されているのかちゃんと把握していないうえ、(リターンズ)という番外編で2人の行く末まで先に発表してしまうというハチャメチャ作品でした。
今回、第3話の続編を新たに書き下ろすことができたので、初編から(リターンズ)までの作品と共に人称や矛盾点をできるだけ見直して修正し「北紀行」シリーズとしてひとつに纏めました。修正前の作品もそのままにしてありますが、こちらにまとめたものが一応の完成品ということになります。
今回書き下ろしたのは「北紀行 第3話 MAYOHIGA(2)」です。
よろしければ下のリンクからお進みください。
ストーリー自体に大きな変更はありませんので、これまで読んでくださった方は遡る必要はありませんが、初めての方は1話から読んでくださると嬉しいです。
北紀行 第1話 北鬼行
北紀行 第2話 北帰行
北紀行 第3話 MAYOHIGA(1)
北紀行 第3話 MAYOHIGA(2)
北紀行 (リターンズ)
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電車を降りたウチは、いつものように上を見上げる。
この駅は11番ホームまであるメガステーションなのだが、プラットホーム全体を覆うように巨大な屋根が設置されている。ウチはその大きさに、ついつい目を奪われてしまうのだ。
大概の人は当然のように自分の歩く方向を向いて寡黙に、あるいは語らいながら、あるいはスマホを覗きながら通り過ぎていく。巨大な屋根の下にはクリスマスのイルミネーションも輝いているのだが、プラットホームから見上げる者は少数派だ。今宵はクリスマスイブ、上を見上げる余裕もなく急ぐ理由もいろいろとあるのだろうが、それを考えに入れても、ウチはこの巨大な構造物に無関心でいられることが信じられない。毎朝、毎晩、何度ここに降り立っても、やっぱりウチは上を見上げてしまうのだ。
ん?視線を屋根からホームに戻したウチは、見覚えのある顔を見たような気がしてその方向へ顔を向けた。
須藤君?須藤タカシ、彼はウチの勤める会社の同僚だ。少し早足でエスカレーターの方へ向かっている。
おかしいな。ウチは首を傾げた。一昨日、彼を独身連中が対象のイブの飲み会に誘ったとき、イブは遅くまで残業になるからと言って断られたからだ。
彼は時間を気にするように腕時計に目をやり、エスカレーターを下って行く。ウチは一瞬考えてから彼を追った。エスカレーターを降り改札を抜けるとコンコースだ。乗り換えのために隣接の私鉄駅へ向かうものと思っていたが、彼はコンコースにあるスーパーマーケットの前で立ち止まり、壁際に立った。どうやら誰かと待ち合わせをしている様子だ。
スーパーのガラスの仕切りにはクリスマスのデコレーションが施されている。店内からはちょっとベタだが、ホワイトクリスマスのBGMも聞こえてくる。
ウチの心にムラムラと悪戯心が、好奇心が、老婆心が、そしてたぶんこれは嫉妬心?が湧きあがってくる。ウチは彼がスマホを覗き込んでいるうちに、風のように左サイドから接近した。
「須藤くん!」朗らかに声をかける。同じ歳だけどウチの方が1年だけ先輩だから、それをいいことにくん付けだ。
思った通り顔を上げた須藤は固まってしまった。
「若槻・・・さん?」
ようやく反応した彼にウチは容赦なくたたみかける。「今日は遅くまで残業やなかったん?」
「あ、いや、ごめん。本当はちょっと用事があって・・・」彼の目は泳いでいる。
「誰かと待ち合わせ?」ウチがにこやかに尋ねると、須藤は観念した様子で「ちょっとね・・・」と言った。物凄く迷惑そうな表情が漏れ出ているが、かまうもんか。適当な嘘でウチの誘いを断った罰だ。心して受けるがいい。こいつのせいで男女比がくるってしまい、必然的に幹事であるウチが浮いてしまう事になったんだから。
たぶんウチは勝ち誇った悪魔のような表情をしていたに違いない。バックグラウンドで高笑いを入れてもらってもいいくらいだ。アハハハハハ・・・ざまを見ろ、ウチは小さな高揚感に酔った。
でもそれは一瞬の事だった。今度はウチに罰が下される番だった。
「タカシ」背後から澄み切った声が聞こえて、ウチは振り向いた。
たぶん2秒ぐらいの間は声を出すこともできず固まっていたと思う。
振り向いた先には女の子が立っていた。
ちょっと可愛めの女子・・・ぐらいだったらウチだってもう少しましな対応ができたと思う。でもそうではなかったのだ。
振り向いた先にはプラチナブロンドの髪をオカッパにした(オカッパという表現がピッタリだ)女の子が立っていた。
プラチナブロンドやで!プラチナ!!しかも輝く白い肌、小ぶりな薄紅色の唇と大きな灰色の瞳が少し居心地が悪そうに納まる顔、それに明るい色合いのアウターとミニスカートが良く似合っている。おまけに、その灰色の瞳でウチの方を見上げてくる。
どうしたらええと思う?どうしたら?
頬に散らしたソバカスのその幼げな印象の中に、どことなく妖艶な香りがするのは、彼女のこの容姿のせいかもしれないが、とにかくよく目立つ。周りを通り過ぎる人が、露骨に視線を向けるくらいだ。
「ハ、ハロー?」ああ、ウチはなんて間抜けなんやろ。思い切り動揺が・・・。
彼女はほんの少し頬を弛めて「こんばんは」と言った。流暢な日本語だ。そして須藤の方を向いて「こちらは?」と訊いた。
「ああ」須藤はこの一瞬で自分を立て直した。奴も伊達に何年も営業をやってるわけやないんや。
「紹介するわ。こちらは会社の同僚で、若槻ヤヨイさん。ユキを待っていたら偶然ここを通りかかったんや」須藤は彼女にウチを紹介した。そしてウチの方を向いて「彼女は林ユキ。なんて言ったらええんかな?まぁ俺の・・・交際相手って言うのかな」と言葉を濁した。
ユキと紹介された女の子は頬を赤くして視線を下げた。
「それから」須藤は続けた。「彼女、日本語で大丈夫やから」
今度はウチが赤くなって俯く番だった。しかも真っ赤になって・・・。
ユキがこちらを向いて自己紹介をした。「始めまして、林ユキといいます。よろしくお願いします」
「失礼しました。若槻ヤヨイです。こちらこそよろしくね。でもこんな可愛い子が須藤くんの傍におるやなんて、ちょっとびっくりしたわ。そんな気配は全然なかったもん。それでユキさんはどちらにお住まい?」ウチはなんとか立て直そうと必死だ。
「いまは学校の関係でT都のSに住んでいます」
「T都!それやったら、遠恋やん?」ウチは須藤の方を向いた。
「まあね。ユキは冬休みを利用してこっちに来てるんや」
「それで有給を取ってたんや。珍しい思た。で、ユキさんは須藤君のところに?」こうなったら意地悪な質問をしてやる。
「まさか、ちゃんとホテルを取ってるよ」ユキが答える前に須藤が慌てて答える様子が可笑しい。
「ふ~ん」ほぼ立ち直ったウチは上目づかいに須藤を見る。「まぁ信じてあげるわ。学校の関係って、ユキさんは大学生?」
「はい、1年生です」
「1年!やったら19?」
「3月生まれなんで、18歳です」ユキが遠慮がちに言った。ひょっとしてウチに気を使ってる?
「へえ!けっこうな歳の差カップルやん。意外!須藤君、そういう趣味やったんやね」
「失礼やなぁ!そういうのはハラスメントに・・・」
まずい、いらんこと言うてもた。ウチは慌てて話題を変えた。「で、これからクリスマスデート?」
「まあね」須藤は短く答えたが、やっぱり迷惑そうな様子が見てとれる。ユキまで心配顔だ。
「そこまで野暮はせぇへんから安心し。ユキさん、2人でクリスマスイブを楽しんで」ウチは時計を見ながら言った。こっちの飲み会の開催時刻が迫っている。会場まではちょっと歩くから、あまりグズグズしてもいられない。
須藤が声を落として言った。「若槻さん、この件は内密にたのみます」
「それはできない相談やね」ウチは2人を見て言った。「ユキさん、こう見えても須藤くんはもてるからね。この情報はマイルドに味付けして社内に流しておきます。その方が安心でしょ」
「まいったなぁ」須藤は困ったように言ったが、ユキは笑顔になって頷いた。
「じゃぁ、こっちも宴会があるから行くわ。ユキさん、また会いましょうね」
「はい、是非」ユキは小さくお辞儀をする。
ウチは仲良さそうに並ぶ2人を残してその場を離れた。
コンコースから外に出て横断歩道へ向かう。信号は赤だ。
立ち止まったウチの周りに白いものが舞う。
雪が降り始めたようだ。
「何がホワイトクリスマスや・・・」
信号が青に変わった。
道路を渡る人の群れに追い立てられるように、ウチは歩き始めた。
2017.12.20
2023.10.23 シリーズ化にあたって若干の修正
この駅は11番ホームまであるメガステーションなのだが、プラットホーム全体を覆うように巨大な屋根が設置されている。ウチはその大きさに、ついつい目を奪われてしまうのだ。
大概の人は当然のように自分の歩く方向を向いて寡黙に、あるいは語らいながら、あるいはスマホを覗きながら通り過ぎていく。巨大な屋根の下にはクリスマスのイルミネーションも輝いているのだが、プラットホームから見上げる者は少数派だ。今宵はクリスマスイブ、上を見上げる余裕もなく急ぐ理由もいろいろとあるのだろうが、それを考えに入れても、ウチはこの巨大な構造物に無関心でいられることが信じられない。毎朝、毎晩、何度ここに降り立っても、やっぱりウチは上を見上げてしまうのだ。
ん?視線を屋根からホームに戻したウチは、見覚えのある顔を見たような気がしてその方向へ顔を向けた。
須藤君?須藤タカシ、彼はウチの勤める会社の同僚だ。少し早足でエスカレーターの方へ向かっている。
おかしいな。ウチは首を傾げた。一昨日、彼を独身連中が対象のイブの飲み会に誘ったとき、イブは遅くまで残業になるからと言って断られたからだ。
彼は時間を気にするように腕時計に目をやり、エスカレーターを下って行く。ウチは一瞬考えてから彼を追った。エスカレーターを降り改札を抜けるとコンコースだ。乗り換えのために隣接の私鉄駅へ向かうものと思っていたが、彼はコンコースにあるスーパーマーケットの前で立ち止まり、壁際に立った。どうやら誰かと待ち合わせをしている様子だ。
スーパーのガラスの仕切りにはクリスマスのデコレーションが施されている。店内からはちょっとベタだが、ホワイトクリスマスのBGMも聞こえてくる。
ウチの心にムラムラと悪戯心が、好奇心が、老婆心が、そしてたぶんこれは嫉妬心?が湧きあがってくる。ウチは彼がスマホを覗き込んでいるうちに、風のように左サイドから接近した。
「須藤くん!」朗らかに声をかける。同じ歳だけどウチの方が1年だけ先輩だから、それをいいことにくん付けだ。
思った通り顔を上げた須藤は固まってしまった。
「若槻・・・さん?」
ようやく反応した彼にウチは容赦なくたたみかける。「今日は遅くまで残業やなかったん?」
「あ、いや、ごめん。本当はちょっと用事があって・・・」彼の目は泳いでいる。
「誰かと待ち合わせ?」ウチがにこやかに尋ねると、須藤は観念した様子で「ちょっとね・・・」と言った。物凄く迷惑そうな表情が漏れ出ているが、かまうもんか。適当な嘘でウチの誘いを断った罰だ。心して受けるがいい。こいつのせいで男女比がくるってしまい、必然的に幹事であるウチが浮いてしまう事になったんだから。
たぶんウチは勝ち誇った悪魔のような表情をしていたに違いない。バックグラウンドで高笑いを入れてもらってもいいくらいだ。アハハハハハ・・・ざまを見ろ、ウチは小さな高揚感に酔った。
でもそれは一瞬の事だった。今度はウチに罰が下される番だった。
「タカシ」背後から澄み切った声が聞こえて、ウチは振り向いた。
たぶん2秒ぐらいの間は声を出すこともできず固まっていたと思う。
振り向いた先には女の子が立っていた。
ちょっと可愛めの女子・・・ぐらいだったらウチだってもう少しましな対応ができたと思う。でもそうではなかったのだ。
振り向いた先にはプラチナブロンドの髪をオカッパにした(オカッパという表現がピッタリだ)女の子が立っていた。
プラチナブロンドやで!プラチナ!!しかも輝く白い肌、小ぶりな薄紅色の唇と大きな灰色の瞳が少し居心地が悪そうに納まる顔、それに明るい色合いのアウターとミニスカートが良く似合っている。おまけに、その灰色の瞳でウチの方を見上げてくる。
どうしたらええと思う?どうしたら?
頬に散らしたソバカスのその幼げな印象の中に、どことなく妖艶な香りがするのは、彼女のこの容姿のせいかもしれないが、とにかくよく目立つ。周りを通り過ぎる人が、露骨に視線を向けるくらいだ。
「ハ、ハロー?」ああ、ウチはなんて間抜けなんやろ。思い切り動揺が・・・。
彼女はほんの少し頬を弛めて「こんばんは」と言った。流暢な日本語だ。そして須藤の方を向いて「こちらは?」と訊いた。
「ああ」須藤はこの一瞬で自分を立て直した。奴も伊達に何年も営業をやってるわけやないんや。
「紹介するわ。こちらは会社の同僚で、若槻ヤヨイさん。ユキを待っていたら偶然ここを通りかかったんや」須藤は彼女にウチを紹介した。そしてウチの方を向いて「彼女は林ユキ。なんて言ったらええんかな?まぁ俺の・・・交際相手って言うのかな」と言葉を濁した。
ユキと紹介された女の子は頬を赤くして視線を下げた。
「それから」須藤は続けた。「彼女、日本語で大丈夫やから」
今度はウチが赤くなって俯く番だった。しかも真っ赤になって・・・。
ユキがこちらを向いて自己紹介をした。「始めまして、林ユキといいます。よろしくお願いします」
「失礼しました。若槻ヤヨイです。こちらこそよろしくね。でもこんな可愛い子が須藤くんの傍におるやなんて、ちょっとびっくりしたわ。そんな気配は全然なかったもん。それでユキさんはどちらにお住まい?」ウチはなんとか立て直そうと必死だ。
「いまは学校の関係でT都のSに住んでいます」
「T都!それやったら、遠恋やん?」ウチは須藤の方を向いた。
「まあね。ユキは冬休みを利用してこっちに来てるんや」
「それで有給を取ってたんや。珍しい思た。で、ユキさんは須藤君のところに?」こうなったら意地悪な質問をしてやる。
「まさか、ちゃんとホテルを取ってるよ」ユキが答える前に須藤が慌てて答える様子が可笑しい。
「ふ~ん」ほぼ立ち直ったウチは上目づかいに須藤を見る。「まぁ信じてあげるわ。学校の関係って、ユキさんは大学生?」
「はい、1年生です」
「1年!やったら19?」
「3月生まれなんで、18歳です」ユキが遠慮がちに言った。ひょっとしてウチに気を使ってる?
「へえ!けっこうな歳の差カップルやん。意外!須藤君、そういう趣味やったんやね」
「失礼やなぁ!そういうのはハラスメントに・・・」
まずい、いらんこと言うてもた。ウチは慌てて話題を変えた。「で、これからクリスマスデート?」
「まあね」須藤は短く答えたが、やっぱり迷惑そうな様子が見てとれる。ユキまで心配顔だ。
「そこまで野暮はせぇへんから安心し。ユキさん、2人でクリスマスイブを楽しんで」ウチは時計を見ながら言った。こっちの飲み会の開催時刻が迫っている。会場まではちょっと歩くから、あまりグズグズしてもいられない。
須藤が声を落として言った。「若槻さん、この件は内密にたのみます」
「それはできない相談やね」ウチは2人を見て言った。「ユキさん、こう見えても須藤くんはもてるからね。この情報はマイルドに味付けして社内に流しておきます。その方が安心でしょ」
「まいったなぁ」須藤は困ったように言ったが、ユキは笑顔になって頷いた。
「じゃぁ、こっちも宴会があるから行くわ。ユキさん、また会いましょうね」
「はい、是非」ユキは小さくお辞儀をする。
ウチは仲良さそうに並ぶ2人を残してその場を離れた。
コンコースから外に出て横断歩道へ向かう。信号は赤だ。
立ち止まったウチの周りに白いものが舞う。
雪が降り始めたようだ。
「何がホワイトクリスマスや・・・」
信号が青に変わった。
道路を渡る人の群れに追い立てられるように、ウチは歩き始めた。
2017.12.20
2023.10.23 シリーズ化にあたって若干の修正
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来客を告げる呼び鈴が鳴った。
いつもなら彼女が対応のために部屋を出て階段を下りていくのだが、今日は体が動かない。彼女は巣穴に隠れる小動物のようにベッドに腰かけたままじっとしている。
もう一度呼び鈴が鳴る。
「はい」誰も応答しないことに仕方なくという感じで父の声が聞こえた。
足音が廊下を進み玄関の扉が開く。「どちら様でしょうか?」たぶんあの風体に驚いたのだろう。一瞬間があってから父か言った。
「私共は・・・」昨日、外国人の男の質問に答えていた紺のスーツを着たリーダー格の男の声だ。
声がこもっていて内容が聞き取りづらい。彼女は音をたてないようにゆっくりと扉に近づき、それを5センチばかりそっと開けた。
今度はあの外国人の男の声だ。ここへやってきた事情を説明しているのだろう。2度3度と父の返事が聞こえるが会話の内容についてはやはりよく聞こえない。
彼女は我慢できなくなって扉をそっと開けると、足音を忍ばせて廊下を進み階段の上に出た。
「ヤドヴィガを・・・ですか・・・」父の声で母の本名が聞き取れた。その名前を口にするとき、父の声はかすれていた。「ひとまずおあがりください。散らかってますが・・・」暫く間を開けてから父が言った。
「ではお言葉に甘えて・・・山内、一緒に上がらせてもらおう。お前たちは邪魔にならないように車で待っていてくれ」外国人の男の声だ。山内というのはあのリーダー格の男のことだろう。
「わかりました」玄関先で待機していたであろう男たちの返事が聞こえた。
父は来客を応接間に通すつもりのようだ。
2人は玄関を上がると階段の下、彼女の視線の先を横切る。
『やはりあの人たちだ』彼女は階段の柵の隙間から2人の姿を確認した。
「おお!」部屋に入ろうとした外国人の男が感嘆の声を上げた。「これは彼女の、ヤドヴィガさんの作品ですね?」
「ええ」父か短く答えた。
応接間の正面の壁には母の描いた絵が掛けてある。縦横1m程の大きさで、この家から見た風景を描いたものだ。それ以外に“作品”と呼べるようなものはあの部屋には無い。彼は多分その絵を目にして声を上げたのだ。
「素晴らしい・・・」外国人の男は称賛の言葉を続けたが、静かに応接間のドアが閉まり、会話は聞こえなくなった。
彼らはいったい何者なんだろう?何をしにここへやってきたんだろう?母を探していたようだし、母の絵にも興味があるようだ。だがここまでの切れ切れのやり取りからは彼女の疑問は一つも解消されていない。
生前、母はよく絵を描いていた。彼女は単純に母の絵を素敵だと思っていたが、他人の評価は聞いたことがない。母がそれを家族以外には絶対知られないようにしていたからだ。部屋に引きこもるようにしてたくさんの作品が描かれたが、そのほとんどは母自身の手によって荼毘に付され、多くは残されていない。だが、それでも母の部屋には焼却を免れた十数点の小品が置かれ、壁には一枚の大作が飾られている。
幅4メートル、高さ2メートルにもなるその大きな絵は彼女の母親が亡くなる前、人生の最後に描いた作品だった。母はただそれを描いた。体はかなり弱っていたが、自分の人生よりも、命よりも、それを完成させることを優先した。ほんの少し間に合わなかったけれど。
いま残されている作品は、母がその作品に夢中になったことと、多分そのせいで急死してしまったことで、荼毘に付されるのを免れたものだ。
壁に掛けられた大きな絵には連なる山々、森、そして中央には白い髪を持つ、まるで妖精のような人物・・・そう、モデルは彼女なのだが・・・が描かれている。その人物はこの絵の穏やかな雰囲気に抗うように、前方に視線を向けている。その視線は歪んでいて、ここに描かれているのがもし妖精だとすれば、それにはまったくそぐわない・・・極端に言えば目つきが悪いとの誹りを受けても仕方がないような描かれかたをしている。それは、母がこの絵が描かれた時の彼女の心情をまっすぐに写し取ったからに違いない。彼女はそう思っている。
彼女は絵画に関しては全くの素人だったが、その絵は理屈を抜いて彼女の心臓を揺さぶった。
応接間の小さな作品を見ただけであれだけの声が出たのだ。もしあの大きな作品を見たとき、あの男はいったいどんな反応をするんだろう。彼女はそれを確かめてみたくなった。
タカシは驚いて立ち止まった。ホテルのフロントでチェックアウトを済ませたところだった。ロビーの片隅に濃紺のスーツ姿の3人の男たちを見つけたのだ。昨日あの白い髪の彼女を追いかけていた男たちだ。タカシは彼らの座るソファーと背中合わせに置かれたソファーに目立たないように座った。男たちは静かにソファーに座っていたが、そのうちの1人がぼそりと言った。
「ずいぶん手間取ってしまったな」
「だからっていきなりかよ。まいったなぁ・・・」隣に座る男のため息混じりの弱音が聞こえる。
「あの方の性格だからな。待つってことはなさらないんだ」3人目の男が冷静に意見を述べた。
「おっと」弱音を吐いていた男が胸元から携帯電話を取り出した。
短く会話を交わし通話を終えると「今部屋を出られる。降りてこられるぞ」とほかの二人に告げた。
エレベーターの到着する音と同時に3人は一斉に立ち上がった。エレベーターからは濃紺のスーツの男、そして同じ濃紺でもずっと仕立ての良いスーツを身に付けた紳士が降りてきた。淡いブラウンの髪と彫りの深い顔、明るいブルーの瞳をこちらに向けている。どうやらこの男が彼らのボスのようだ。タカシは観察を終えると目を合わさないように視線を下に向けた。
ロビーで合流して5人になった男たちは玄関に向かう。タカシは慌てて荷物をつかむと彼らの後を追って玄関を出た。
男たちは白い車とシルバーの大きな車に乗り込もうとしていた。白いほうには3人、そしてシルバーの大きな車の運転席に1人、後ろの席に紳士が乗り込んだ。すぐに発進する。
タカシは目に付かないように自分のレンタカーに近づくと急いで乗り込み、後を追った。
車は44号を西に向かって走り、N半島の根元にある大きな入り江に架かる橋を渡った。道は大きなラグーンを右手に見ながら右に左に穏やかにカーブを描き、徐々に内陸へと入って行く。
昨日と同じコースだが、この道の先にはKの町、そしてK空港がある。彼らは仕事を終えてNの町を後にしているのだろうか?
だがこの先には彼女の家もある。昨日の行動からみても彼らが彼女を追っているのは明らかだ。彼らがあれから彼女の家を探し出し、そしてそこへ向かっている可能性もかなり高い。タカシはそう思っていた。
彼らはいったい何者だ。そろいのスーツに身を包んだ4人はそれぞれが清潔で礼儀正しい印象を受ける。彼らのボスと思われる外国人も育ちの良さを感じさせる穏やかな身のこなしで悪い印象はない。揃いの濃紺スーツで威圧感はあるが、少なくとも犯罪組織ではなさそうだ。
まもなく彼女を降ろしたあのT字路だ。
先を行く白い車が左の方向指示器を点滅させながら減速した。続けてシルバーの車もスピードを落とし、やがて2台は路肩に停車した。
やはり彼らは彼女の家へ向かっている。タカシは目立たないように2台の車を追い越し、一旦T字路をやり過ごした。そのまま2台の車が視界から消えてすぐの十字路で方向転換して引き返す。T字路に車の姿はない。すれ違わなかったから枝道へ入ったはずだ。
スピードをあげてT字路を右折。南へ伸びる枝道へ侵入する。
森を抜けると牧草地になり、前方に2台の車が見えた。右折して狭い農道に入るところだ。
タカシは減速し、2台の車が森に消えるのを待ってから後を追う。
昨日ホテルに入ってからNETで調べたところでは、この先には一軒の農場があるだけだ。そしてそこがあの白い髪の少女の家ではないかと当たりをつけたところだ。行き止まりだったからもう見失うことはない。タカシは注意深く車を進めた。道は舗装されておらず灰色の砂利道だ。牧草地を抜け再び森の中を続いている。
タカシは森を抜けたところで車を止めた。
道はまっすぐに続いていて、その先には一軒の家と厩舎が見えている。森とその家の間を牧柵が横切っていて、先行の2台の車はその手前で止まっている。
タカシは道を外れ草の上に車を駐車した。
暫く様子を見ていると先頭の車の3人が後ろの車の1人を加えて何やら相談をしている。やがて後ろの車からあの外国人が降り、全員で家の方へ向かって歩き始めた。
玄関先から3人の男が車に引き上げ、外国人の男ともう1人が家に招き入れられてからもう1時間が経とうとしている。タカシはジッと家の様子を観察していたが変わった様子はない。静かに時間だけが経過していく。
と、玄関の扉が開いて2人が出てきた。何やら会話を交わしながら車の方へ引き上げ、そのまま乗り込むとすぐに発進させた。もう1台の白い車が慌てて後を追う。2台の車はタカシのレンタカーを気にする様子もなく脇を通り過ぎ、森の中へ消えた。
タカシはゆっくりとドアを開けると車を降り、家の方へと道を進んだ。
道は牧柵に遮られ、そこに設けられた大きなゲートには鍵が掛けられていた。すぐ隣にある小さな扉があって、そこは手で押すと軽く開いた。ドアの幅は狭く、人ひとりが通れるぐらいだ。要するに車の類は素通りさせたくないという意思表示のようだ。タカシはその小さなドアをすり抜けて牧柵の内側に入った。
タカシは牧場へ右折する角にあった牧場の看板に「林牧場」の文字があったのを覚えていた。風雨に晒された文字は薄くなっていたから、この名前が今でも有効だとは限らない。だが彼女の名字が林である可能性はある。林さんか、名前は何て・・・そこまで考えて彼は頭の中に生まれた雑念を振り払った。いや、そんなことはどうでもいい。今はとにかくあの子の無事を確かめよう。
タカシは近づきながら家の様子を確認した。
二階建ての切り妻の大きな建物だった。屋根は経年劣化で少し色あせているが緑色で、そこから小さな煙突が飛び出している。壁は板張りで同じように経年劣化で色あせているがペンキで白く塗られている。
緑の切妻屋根やな。タカシは赤毛の少女を主人公にした小説を思い浮かべながら、玄関、その横の窓と、順番に確認していった。
タカシの足が止まった。2階の窓に見覚えのある顔を見つけたのだ。ジッとタカシの方を見つめている。彼女の指がタカシの足元を指さし『そこにいて』彼女の口がそう動いた。
すぐに2階の窓から彼女の顔が消えた。まもなく玄関のドアが開き、中から彼女の姿が現れた。、大きめの白いTシャツにストレートのブルージーンズ姿だ。部屋でくつろいでいたのだろう。白い髪を揺らしてこちらに駆けてくる。タカシは他の人影を探したが見当たらない。そのことに少しほっとして彼女が駆けてくる方向へ足を向けた。
「やあ」どう声をかけていいか迷いながらタカシは声をかける。
駆けてきた彼女も迷っているのか無言で彼の前に立つ。少し息を切らしていて、呼吸音だけが聞こえてくる。
「今朝・・・」無言が続くのに耐えきれずタカシが声を出した。「僕が泊まっていたホテルのロビーで昨日の男たちを見かけたものだから、あわてて後を追ってきたんだ」
「そう・・・ですか」彼女はそれだけを答えた。
「大丈夫だった?」
「ええ、そうみたいです。それに、私に用があったわけじゃなかったみたい・・・」
「そう・・・」会話が続かない。
「「あの・・・」」2人は同時に声を出し、そして見つめあった。灰色の瞳が眩しい。
「観光で来られてるんですよね?」慌てて間を埋めるように彼女が質問する。
「ああ、そうだけど」
「今日はなにか予定があったんじゃないんですか?」
「ああ、昨日は岬の方へ行ってたから今日は内陸の方へ行ってみようかなと・・・」
「内陸の?どんな?」
「見渡す限り平原、みたいな風景を久しぶりに見ようと思ってたんやけど・・・」
「だったらいいところがあります。案内しましょうか?」間髪を入れずに彼女が答えた。
「え?家の方は大丈夫?」タカシは玄関の方を気にした。
「大丈夫です。おとうさん・・・父がいますから」
「いや、その、お家の方に断らなくても大丈夫?っていう意味なんやけど・・・」
「父のことはいいんです。行きましょう」彼女は突き放すようにそう言うと車の方へ歩き始めた。
タカシは慌てて後を追う。
牧柵の門を出て車のところにたどり着くと彼女は後部座席のドアに手をかけた。
「ちょっとまって」タカシが追い付いて声をかける。彼女は疑問気に顔を上げる。
「今度は前に乗ってほしいんやけど・・・」
彼女は小さく微笑むと前のドアに手をかけた。
その微笑はこれまでの彼女のイメージを大きく変える素敵な頬笑みだった。
2023.10.18
いつもなら彼女が対応のために部屋を出て階段を下りていくのだが、今日は体が動かない。彼女は巣穴に隠れる小動物のようにベッドに腰かけたままじっとしている。
もう一度呼び鈴が鳴る。
「はい」誰も応答しないことに仕方なくという感じで父の声が聞こえた。
足音が廊下を進み玄関の扉が開く。「どちら様でしょうか?」たぶんあの風体に驚いたのだろう。一瞬間があってから父か言った。
「私共は・・・」昨日、外国人の男の質問に答えていた紺のスーツを着たリーダー格の男の声だ。
声がこもっていて内容が聞き取りづらい。彼女は音をたてないようにゆっくりと扉に近づき、それを5センチばかりそっと開けた。
今度はあの外国人の男の声だ。ここへやってきた事情を説明しているのだろう。2度3度と父の返事が聞こえるが会話の内容についてはやはりよく聞こえない。
彼女は我慢できなくなって扉をそっと開けると、足音を忍ばせて廊下を進み階段の上に出た。
「ヤドヴィガを・・・ですか・・・」父の声で母の本名が聞き取れた。その名前を口にするとき、父の声はかすれていた。「ひとまずおあがりください。散らかってますが・・・」暫く間を開けてから父が言った。
「ではお言葉に甘えて・・・山内、一緒に上がらせてもらおう。お前たちは邪魔にならないように車で待っていてくれ」外国人の男の声だ。山内というのはあのリーダー格の男のことだろう。
「わかりました」玄関先で待機していたであろう男たちの返事が聞こえた。
父は来客を応接間に通すつもりのようだ。
2人は玄関を上がると階段の下、彼女の視線の先を横切る。
『やはりあの人たちだ』彼女は階段の柵の隙間から2人の姿を確認した。
「おお!」部屋に入ろうとした外国人の男が感嘆の声を上げた。「これは彼女の、ヤドヴィガさんの作品ですね?」
「ええ」父か短く答えた。
応接間の正面の壁には母の描いた絵が掛けてある。縦横1m程の大きさで、この家から見た風景を描いたものだ。それ以外に“作品”と呼べるようなものはあの部屋には無い。彼は多分その絵を目にして声を上げたのだ。
「素晴らしい・・・」外国人の男は称賛の言葉を続けたが、静かに応接間のドアが閉まり、会話は聞こえなくなった。
彼らはいったい何者なんだろう?何をしにここへやってきたんだろう?母を探していたようだし、母の絵にも興味があるようだ。だがここまでの切れ切れのやり取りからは彼女の疑問は一つも解消されていない。
生前、母はよく絵を描いていた。彼女は単純に母の絵を素敵だと思っていたが、他人の評価は聞いたことがない。母がそれを家族以外には絶対知られないようにしていたからだ。部屋に引きこもるようにしてたくさんの作品が描かれたが、そのほとんどは母自身の手によって荼毘に付され、多くは残されていない。だが、それでも母の部屋には焼却を免れた十数点の小品が置かれ、壁には一枚の大作が飾られている。
幅4メートル、高さ2メートルにもなるその大きな絵は彼女の母親が亡くなる前、人生の最後に描いた作品だった。母はただそれを描いた。体はかなり弱っていたが、自分の人生よりも、命よりも、それを完成させることを優先した。ほんの少し間に合わなかったけれど。
いま残されている作品は、母がその作品に夢中になったことと、多分そのせいで急死してしまったことで、荼毘に付されるのを免れたものだ。
壁に掛けられた大きな絵には連なる山々、森、そして中央には白い髪を持つ、まるで妖精のような人物・・・そう、モデルは彼女なのだが・・・が描かれている。その人物はこの絵の穏やかな雰囲気に抗うように、前方に視線を向けている。その視線は歪んでいて、ここに描かれているのがもし妖精だとすれば、それにはまったくそぐわない・・・極端に言えば目つきが悪いとの誹りを受けても仕方がないような描かれかたをしている。それは、母がこの絵が描かれた時の彼女の心情をまっすぐに写し取ったからに違いない。彼女はそう思っている。
彼女は絵画に関しては全くの素人だったが、その絵は理屈を抜いて彼女の心臓を揺さぶった。
応接間の小さな作品を見ただけであれだけの声が出たのだ。もしあの大きな作品を見たとき、あの男はいったいどんな反応をするんだろう。彼女はそれを確かめてみたくなった。
タカシは驚いて立ち止まった。ホテルのフロントでチェックアウトを済ませたところだった。ロビーの片隅に濃紺のスーツ姿の3人の男たちを見つけたのだ。昨日あの白い髪の彼女を追いかけていた男たちだ。タカシは彼らの座るソファーと背中合わせに置かれたソファーに目立たないように座った。男たちは静かにソファーに座っていたが、そのうちの1人がぼそりと言った。
「ずいぶん手間取ってしまったな」
「だからっていきなりかよ。まいったなぁ・・・」隣に座る男のため息混じりの弱音が聞こえる。
「あの方の性格だからな。待つってことはなさらないんだ」3人目の男が冷静に意見を述べた。
「おっと」弱音を吐いていた男が胸元から携帯電話を取り出した。
短く会話を交わし通話を終えると「今部屋を出られる。降りてこられるぞ」とほかの二人に告げた。
エレベーターの到着する音と同時に3人は一斉に立ち上がった。エレベーターからは濃紺のスーツの男、そして同じ濃紺でもずっと仕立ての良いスーツを身に付けた紳士が降りてきた。淡いブラウンの髪と彫りの深い顔、明るいブルーの瞳をこちらに向けている。どうやらこの男が彼らのボスのようだ。タカシは観察を終えると目を合わさないように視線を下に向けた。
ロビーで合流して5人になった男たちは玄関に向かう。タカシは慌てて荷物をつかむと彼らの後を追って玄関を出た。
男たちは白い車とシルバーの大きな車に乗り込もうとしていた。白いほうには3人、そしてシルバーの大きな車の運転席に1人、後ろの席に紳士が乗り込んだ。すぐに発進する。
タカシは目に付かないように自分のレンタカーに近づくと急いで乗り込み、後を追った。
車は44号を西に向かって走り、N半島の根元にある大きな入り江に架かる橋を渡った。道は大きなラグーンを右手に見ながら右に左に穏やかにカーブを描き、徐々に内陸へと入って行く。
昨日と同じコースだが、この道の先にはKの町、そしてK空港がある。彼らは仕事を終えてNの町を後にしているのだろうか?
だがこの先には彼女の家もある。昨日の行動からみても彼らが彼女を追っているのは明らかだ。彼らがあれから彼女の家を探し出し、そしてそこへ向かっている可能性もかなり高い。タカシはそう思っていた。
彼らはいったい何者だ。そろいのスーツに身を包んだ4人はそれぞれが清潔で礼儀正しい印象を受ける。彼らのボスと思われる外国人も育ちの良さを感じさせる穏やかな身のこなしで悪い印象はない。揃いの濃紺スーツで威圧感はあるが、少なくとも犯罪組織ではなさそうだ。
まもなく彼女を降ろしたあのT字路だ。
先を行く白い車が左の方向指示器を点滅させながら減速した。続けてシルバーの車もスピードを落とし、やがて2台は路肩に停車した。
やはり彼らは彼女の家へ向かっている。タカシは目立たないように2台の車を追い越し、一旦T字路をやり過ごした。そのまま2台の車が視界から消えてすぐの十字路で方向転換して引き返す。T字路に車の姿はない。すれ違わなかったから枝道へ入ったはずだ。
スピードをあげてT字路を右折。南へ伸びる枝道へ侵入する。
森を抜けると牧草地になり、前方に2台の車が見えた。右折して狭い農道に入るところだ。
タカシは減速し、2台の車が森に消えるのを待ってから後を追う。
昨日ホテルに入ってからNETで調べたところでは、この先には一軒の農場があるだけだ。そしてそこがあの白い髪の少女の家ではないかと当たりをつけたところだ。行き止まりだったからもう見失うことはない。タカシは注意深く車を進めた。道は舗装されておらず灰色の砂利道だ。牧草地を抜け再び森の中を続いている。
タカシは森を抜けたところで車を止めた。
道はまっすぐに続いていて、その先には一軒の家と厩舎が見えている。森とその家の間を牧柵が横切っていて、先行の2台の車はその手前で止まっている。
タカシは道を外れ草の上に車を駐車した。
暫く様子を見ていると先頭の車の3人が後ろの車の1人を加えて何やら相談をしている。やがて後ろの車からあの外国人が降り、全員で家の方へ向かって歩き始めた。
玄関先から3人の男が車に引き上げ、外国人の男ともう1人が家に招き入れられてからもう1時間が経とうとしている。タカシはジッと家の様子を観察していたが変わった様子はない。静かに時間だけが経過していく。
と、玄関の扉が開いて2人が出てきた。何やら会話を交わしながら車の方へ引き上げ、そのまま乗り込むとすぐに発進させた。もう1台の白い車が慌てて後を追う。2台の車はタカシのレンタカーを気にする様子もなく脇を通り過ぎ、森の中へ消えた。
タカシはゆっくりとドアを開けると車を降り、家の方へと道を進んだ。
道は牧柵に遮られ、そこに設けられた大きなゲートには鍵が掛けられていた。すぐ隣にある小さな扉があって、そこは手で押すと軽く開いた。ドアの幅は狭く、人ひとりが通れるぐらいだ。要するに車の類は素通りさせたくないという意思表示のようだ。タカシはその小さなドアをすり抜けて牧柵の内側に入った。
タカシは牧場へ右折する角にあった牧場の看板に「林牧場」の文字があったのを覚えていた。風雨に晒された文字は薄くなっていたから、この名前が今でも有効だとは限らない。だが彼女の名字が林である可能性はある。林さんか、名前は何て・・・そこまで考えて彼は頭の中に生まれた雑念を振り払った。いや、そんなことはどうでもいい。今はとにかくあの子の無事を確かめよう。
タカシは近づきながら家の様子を確認した。
二階建ての切り妻の大きな建物だった。屋根は経年劣化で少し色あせているが緑色で、そこから小さな煙突が飛び出している。壁は板張りで同じように経年劣化で色あせているがペンキで白く塗られている。
緑の切妻屋根やな。タカシは赤毛の少女を主人公にした小説を思い浮かべながら、玄関、その横の窓と、順番に確認していった。
タカシの足が止まった。2階の窓に見覚えのある顔を見つけたのだ。ジッとタカシの方を見つめている。彼女の指がタカシの足元を指さし『そこにいて』彼女の口がそう動いた。
すぐに2階の窓から彼女の顔が消えた。まもなく玄関のドアが開き、中から彼女の姿が現れた。、大きめの白いTシャツにストレートのブルージーンズ姿だ。部屋でくつろいでいたのだろう。白い髪を揺らしてこちらに駆けてくる。タカシは他の人影を探したが見当たらない。そのことに少しほっとして彼女が駆けてくる方向へ足を向けた。
「やあ」どう声をかけていいか迷いながらタカシは声をかける。
駆けてきた彼女も迷っているのか無言で彼の前に立つ。少し息を切らしていて、呼吸音だけが聞こえてくる。
「今朝・・・」無言が続くのに耐えきれずタカシが声を出した。「僕が泊まっていたホテルのロビーで昨日の男たちを見かけたものだから、あわてて後を追ってきたんだ」
「そう・・・ですか」彼女はそれだけを答えた。
「大丈夫だった?」
「ええ、そうみたいです。それに、私に用があったわけじゃなかったみたい・・・」
「そう・・・」会話が続かない。
「「あの・・・」」2人は同時に声を出し、そして見つめあった。灰色の瞳が眩しい。
「観光で来られてるんですよね?」慌てて間を埋めるように彼女が質問する。
「ああ、そうだけど」
「今日はなにか予定があったんじゃないんですか?」
「ああ、昨日は岬の方へ行ってたから今日は内陸の方へ行ってみようかなと・・・」
「内陸の?どんな?」
「見渡す限り平原、みたいな風景を久しぶりに見ようと思ってたんやけど・・・」
「だったらいいところがあります。案内しましょうか?」間髪を入れずに彼女が答えた。
「え?家の方は大丈夫?」タカシは玄関の方を気にした。
「大丈夫です。おとうさん・・・父がいますから」
「いや、その、お家の方に断らなくても大丈夫?っていう意味なんやけど・・・」
「父のことはいいんです。行きましょう」彼女は突き放すようにそう言うと車の方へ歩き始めた。
タカシは慌てて後を追う。
牧柵の門を出て車のところにたどり着くと彼女は後部座席のドアに手をかけた。
「ちょっとまって」タカシが追い付いて声をかける。彼女は疑問気に顔を上げる。
「今度は前に乗ってほしいんやけど・・・」
彼女は小さく微笑むと前のドアに手をかけた。
その微笑はこれまでの彼女のイメージを大きく変える素敵な頬笑みだった。
2023.10.18
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「ヤドヴィガに関しては進展はありません」男の声がした。
彼女は覚えのある名前に顔を上げた。
Nの町、市立図書館、閲覧室。
ちょうど柱の陰になって閲覧室のどこからも気配を消せる一番端っこの一席。
そこは彼女のくつろぎの場所だった。
学校で嫌なことがあると、時々授業をボイコットするのだが、そんな時の行き先は大概ここだ。
平日のまだ学校の授業の終わっていない時間帯、図書館を訪れる人は少なく、彼女が入室したときは閲覧室は無人だった。
「ラッキー」落ち込んでいた彼女は小さな幸運にかすかに顔をほころばせ、いつもの席に腰を下ろした。
そしていつものようにショルダーバッグの中から文庫本を取り出すと、いつものようにゆっくりとその世界に入り込んでいった。ジャケットも帯も無いむき出しの表紙には、3文字の片仮名の表題と作者名だけが印刷されている。プラチナブロンドのヒロインが登場する物語で、その髪色は彼女と同じだった。
彼女は一旦本の世界を出て耳を澄ませた。
「ここまで絞り込んでいるのに、なぜこんなに手間取るんだ」別の男の声が言った。日本語だが少し外国風の訛りがある。
男たちは閲覧室は無人だと思ってしゃべっている。彼女はそういう雰囲気を感じて、意識的に音を立てる動作をした。
「人目は惹くはずだ。なにしろプラチナブロンドの・・・」彼女の気配に気づいたのだろうか、男はそこで言葉を止めた。
彼女は立ち上がったところだったが“プラチナブロンド”に反応して男達の方へ顔を向けた。“プラチナブロンド”はまさに彼女の髪色だったからだ。
柱の向こうには5人の男が立っている。そのうちの1人はやや年配の外国人だった。仕立ての良い濃紺のスーツを身に付け、淡いブラウンの髪と彫りの深い顔、明るいブルーの瞳をこちらに向けている。後の4人は日本人のようだ。彼らも紺色のスーツをキッチリと着こなしているが、明らかにグレードが下だ。
彼らの視線が彼女の髪に注がれ、時間が静止する。
次の瞬間、視線を切った彼女は大急ぎで文庫本を閉じてショルダーバッグに突っ込み、彼らとは反対側の出口から早足で飛び出した。
「あ、君!」男達のうちの1人が呼び止めたが、彼女は振り返ることもなく階段を駆け下りた。
***
少し霞がかかった大気の向こう、海峡を挟んで平坦な小さな島が見える。
小型のボートでもあればすぐにでも辿りつけそうな島だが、実際には行くことはできない。
目の前に横たわる海峡の真ん中には事実上の国境線が引かれているのだ。現状ではあの島は外国ということになる。
彼は大きくため息をついた。
Nの町にやって来たのはもう何回目になるだろう。
始めて訪れたのは厳しい寒気の中だった。自分の仕事に行き詰まりを感じ、そういうときの決まり事のように孤独に北を目指したのが最初だった。
最果ての国境の町、そんな雰囲気に自分の心境をなぞらえて酔い、そして癒されよう、そんな気持ちが確かにあった。そして実際に彼は踏ん切りをつけ、元の世界に復帰したのだ。
彼はそれ以来、まとまった休暇が取れる度にこの町を訪れるようになった。だがそんなに何度も仕事に行き詰っていたわけではない。この町での思いもかけない出会いが彼にそうさせたのだ。
出会いはミステリアスだった。その少女は突然彼の前に現れ、そして消えた。言葉は交わさなかったが、彼女は彼の印象に強く残った。彼女はこの国では珍しいプラチナブロンドの髪を持ち、厳寒の中、ミニスカートから形の良い生足を晒していた。そんな特異な容姿は彼女をこの世のものではないように思わせ、その記憶は彼の頭から離れなくなった。
それ以来、彼は何度もこの町を訪れ、当てもなく町をうろついた。自分では町の雰囲気を楽しんでいるつもりだったし、確かにこの最果ての地が気に入っていたのだが、心の奥底には少女との再会を望んでいる自分がいた。探偵のように資料の調査をしたり、町で聞き込みをしたり、精力的に探し出すつもりはなかったが、偶然にでも見かけたら・・・無意識にそういう出会いを望んでいた。
だがそんな偶然は起こらなかった。いつの間にか少女との再会は彼の中で比重を薄め、近隣の観光地にも足を延ばすようになった。
前回まではNの町の中は徒歩で巡り、バスで近場の観光地へ行くというパターンを繰り返していたが、今回はレンタカーを借りている。せっかくここまで来たんだ。他の観光地も巡らなければもったいない。そんなふうに考えは変わっていた。
彼は車に戻るとエンジンをかけ、Nの町に向けてスタートさせた。
最果ての町という別称が示すようにNの街は寂しい町だ。道路は広くとってあるが信号も少なく車も多くは無い。
彼は片手でハンドルを操作しながら気楽な様子で車を進めていたが、やがて信号につかまってゆっくりと停止した。
交差点の周りには比較的大きな建物――といってもせいぜい3階建だ――が余裕をもたせ過ぎな位の間隔を開けて並んでいる。この地方独特の閑散とした風景だが、このあたりが一応町の中心部ということになる。彼は信号が変わるのを待ちながら、何処ということも無く前方を見つめていた。
突然、前方の建物の間から人影が飛び出してきた。
こちらへ向かって走ってくる。
白いブラウスに胸元のリボン、紺のスカート。
時々見かける地元の高校の制服だ。
だが彼女が1歩踏み出す度に揺れる白い髪が目に入ると彼は大きく目を見開いた。
『彼女だ!』忘れもしない。厳寒の駅の待合室でストーブの向こうに見た顔だ。
あの時は妖精か、はたまた物の怪か、彼女の纏ったなんとも不思議な空気に圧倒されたのだが、今回は一般的な高校の制服を着ているせいか、妖しさは感じられない。ただ白い髪だけが違和感と共にその場から浮き上がって見える。
彼女は立ち止まった。
振り返って飛び出してきた建物の方を確認する。
その方向には誰もいない。
確認を終えると彼女はこちらを向いた。
目が合った。
一瞬の間があってから、彼女は彼の車に駆け寄り、後部座席のドアを開けて車内に身を滑り込ませた。素早くドアを閉める。
ドアの閉まる音と同時に建物の影から濃紺のスーツ姿の男達が飛び出してきた。
辺りを見回して探しているのは恐らく後部座席の彼女だ。
「出して」押し殺してはいるが澄んだ声が後部座席から聞こえた。
信号は青に変わっている。
「車を出して」もう一度彼女は命令した。
彼はゆっくりと車をスタートさせた。
バックミラーを確認すると、彼女はシートの間で姿勢を低くしている。
彼は男達の視線を避けるように出来るだけ道路の中央に寄って傍をすり抜けた。
サイドミラーには辺りを見渡す男達の姿があった。
車は加速を続け、やがて男達は視界から消えた。
暫く走るだけで街並みはどんどんまばらになり、右手に海が見え始める。もうとっくに泊まっているホテルは通り過ぎてしまった。どういう事情でこんなことになったのかさっぱり分からなかったが、彼は黙って車を進めた。
姿勢を低くしていた彼女が起き上がり背もたれに体を預けた。
彼女と目が合った。
バックミラーの端に写る顔はやはり彼女のものだ。白い髪は普通の白髪とは違って艶々と太陽光線を反射して美しい。色素の少ない灰色の虹彩もあの時と同じだったが、あの時のように息苦しさに襲われることはない。
「どちらまで?お客さん」冗談っぽく聞こえるように言ってみる。
「このまま、44号を真っ直ぐ」澄んだ声は方向だけを告げる。
彼女は彼が想像していた範囲からは外れない声を持っていた。
「道なりですね?」嬉しくなった彼は明るく答えたが、こちらからは質問しないことに決めた。質問を投げかけたとたん、消えてしまいそうな気がしたからだ。
暫く無言の時間が流れ、車の走行音だけが空間を埋めていく。
車は海から大きく入り込んだ入り江に架かる橋を渡り始めた。
「すみません」彼女は突然謝罪の言葉を口にした。
「いいよ。ちょっとびっくりしたけど」なんでもない・・・そういう調子が声に出るように彼は言った。
「・・・」ミラーの中で彼女は俯いている。
「駅の待合室で・・・」消え入るような声だったが彼にはそう聞こえた。
「え?」彼は思わず聞き返す。
「・・・」それっきり彼女は沈黙した。彼はまた物の怪でも取り憑いたのかとバックミラーを覗くが、ミラーに彼女の姿は無い。
慌てて振り向くと、彼女はミラー越しの視線を避けるようにシートの端に座っていた。
「消えてしまったのかと思った」彼がそう言うと彼女は顔を少しだけ緩ませた。
そしてそのまま会話は途絶えた。
やはり彼女だ。彼は確信した。
橋を渡るとN半島は終わる。国道44号線は大きなラグーンを右手に見ながら右に左に穏やかにカーブを描き、車は徐々に内陸に入って行く。
周りは見渡す限りの牧草地帯になった。ほとんど平坦で遮るものが何もないこの土地は、やはり相当な強風が吹くのだろう。風除けの柵が道路沿いに続いている。所々に残された森は防風林も兼ねるのだろう。人は大自然の真っただ中に放り出されたら、その計り知れない自然の力にねじ伏せられ純粋に感動するだろう。だがここの風景は違っている。一見自然に見える風景は全て人間が作り出したものだ。広大なこの風景に感動はしても、その中に一抹の寂しさのような物を感じるのは、時たま現れる捨てられたサイロや廃屋のせいだろうか?
ずっと無言で運転に専念していた彼が何か気の利いたことを言おうと口を開きかけた時「ここでいいです」彼女が口を開いた。
「え?ここ?」彼は唐突な指示に問い返した。
「あのバス停の所で」
少し先がT字路になっていてその角にバス停の標識が見えている。
彼はバス停の所で車を停めた。
「ありがとうございました」車を降りた彼女は改めて礼を言った。
慌てて彼も車を降りる。
「こんな所でいいの?」辺りに建物が無いことを気にしながら彼は尋ねる。
「家はすぐそこです」
「もう大丈夫なんだね?」彼は彼女が追われていたことに関連してそう尋ねた。
「はい、たぶん」
「家まで送って行こうか?」
彼女は無言で顔を左右に振ったが、ここでこのまま別れてしまう手は無い。「ちょっと待って」彼はドアを開け、助手席に放り込んであったデイバッグから名刺を取り出した。自分の連絡先をスマートに伝える方法を他に思いつかなかったのだ。少なくともここには会社携帯の番号や、仕事用だがメールアドレスも記載されている。
「何かあったら、ここへ連絡をください」グイと彼女の前に名刺を突き出すと、彼女もさすがに断れないと思ったのだろう「はい」とそれを受け取り、胸のポケットに仕舞った。
「ありがとうございました」もう一度深く頭を下げて礼を言うと、彼女はそのままクルリと背中を向け国道から南へ伸びる道を歩き始めた。
道は右にカーブしながら森の中に消えている。彼女の姿もやがて森の向こうに見えなくなった。そよ風に白い髪を揺らせて歩く様子はまるで妖精のようで、少なくとも物の怪のようには見えなかった。
とりあえず連絡先は伝えた。それにここまでわかれば彼女の家もすぐに探し出せる――彼女が妖精や物の怪の類でなければの話だが――ここでこれ以上踏み込むのはよそう。彼は後を追いたい衝動を抑えた。
それにしても、なぜ彼女は追われていたんだろう?
疑問は少しも解消されなかったが、彼はそれを振り払うように首を振ると、さっき通り過ぎた宿に向けて車をUターンさせた。
***
「ママ・・・」自分の声に驚いて彼女は目を開けた。
怖い夢を見た。
久しぶりに母の夢だった。昨日あんなことがあったからだろうか?彼女はベッドの上で起き上がった。
ヤドヴィガ、あの男は確かにそう言った。
母の名前だ。
母は普段その名前を名乗ることは無かった。だが、私の本当の名前はね・・・無くなる1年ほど前――まだ正常にコミニケーションが取れていた頃――に教えてくれた。聞き違えるはずはない。そしてこの国でしばしば耳にする名前ではない。彼女はその時はっきりと自分の母親の事だと感じたのだ。
プラチナブロンド、そうも口にしていた。プラチナブロンドは彼女の髪の色だが母もそうだったはずだ。普段は茶色に染めていたが、長く伸びてくると根元から白い部分が現れた。そして時々髪を茶色に染めながら、若い頃は彼女の髪と同じだったんだよ、と教えてくれた。
なぜ茶色にするの?至極当然な質問には答えが返ってくることはなかったけれど。
確かに人目は曳く、彼女は自分の経験にも反応して顔を向けてしまったのだ。
「あ、君!」彼等は彼女を追いかけてきた。どうするつもりだったのだろう。きっと重要な手がかりを見つけたと思ったのだ。母を探してこの町にやって来て、同じ髪色をした彼女を目にしたのだ。そう思わないはずがない。
ママ、あなたは何者なの?いったい何をしたの?小学4年生の時に心の病気で亡くなった母は、彼女にとって最後の数か月を除いて普通の母親だった。いったい何が起こったんだろう?彼女はベッドの向こうにある窓へ顔を向けた。
窓の向こうには朝の光を受けて牧草地が文字通り草色に輝き、草色と真っ青な空の境界線は森になっている。そこから彼女の家に向かって一本の灰色の道がまっすぐに続いていて、その灰色の道はやがて牧柵に遮られる。
この風景は、母と一緒に飽きるほど眺め続けてきた風景だ。母はよく家事をしながら牧柵の方をぼんやりと眺めていた。彼女は小さい頃は母の胸で、大きくなってからは寄り添って、ずっとそれに付き合ってきた。
それは母との楽しい思い出だったが、母に対する疑問が沸き上がった今、その風景はこれまでとは少し違って見える。
父は事情を知っているのだろうか?ここのところずっとすれ違いが続いている父に思いが及んだ時、彼女の思考は中断された。
それにしても昨日の彼の登場には驚いた。まさかあんなところで再会するとは夢にも思っていなかった。とっさに取った行動だったが、おかげで男達からは逃れられた。だがなぜあんなことを思いついたのか、なぜ躊躇なくあんなふうに行動できたのか、彼女には全くわからなかった。まるで何かに憑かれたようだった。
そうだ、彼女は立ち上がると鴨居にぶら下げた制服に歩み寄った。胸ポケットを探ると小さな紙片が触れる。指でつまんでそれを取り出す。
会社の名前、所属する部署、役職に続いて”須藤タカシ“そこにはそう記されている。
「タカシ・・・」ホッとした表情が浮かんだが、それは一瞬だった。
彼女は何かの気配を感じたのか、再び窓の方へ顔を向ける。
砂埃を立てながら、一本道を2台の車がやって来る。白い車とその後ろのシルバーの大きな車だ。
白い車は牧柵の前で止まり、続けて大きな車もその後ろで止まった。
白い車の助手席から1人の男が降りてきた。
彼女の目が大きく見開かれた。見覚えのある紺のスーツの男だ。
牧柵を開けるつもりのようだ。
男はゲートを開けにかかったが鍵が掛けられていて開かない。すぐ隣にある小さな扉が開くだけだ。
その仕組みは母が、亡くなる1年ほど前に父に頼んで作ってもらったものだ。
車がいきなり玄関先まで入ってくるのが怖い、あそこで車を降りて、そこからは歩いて来るようにしてほしい。夕食の席で父にそう頼んだのだ。
精神的に弱っていた母の頼みを父は断らなかった。日曜大工で牧柵に小さな扉を取り付け、ゲートには鍵を掛けた。
彼女はずっと柵を跨いで越えていたから――スカートを穿いている時でもだ――ゲートがどうなろうと関係なかったが。それ以降、郵便配達や宅配便はおろか来客すらもあそこからは歩いてやって来るようになった。文句を言われることもあったが、父は頑として聞き入れなかった。母が亡くなった後もそれは続いている。
彼女は男の様子を注意深く見守った。やがて白い車からもう2人、大きな車の運転席から1人同じ紺のスーツの男が降りてきてゲートのところで相談し、後方の大きな車に近寄った。窓が開き、暫くして1人の男が車を降りた。あの外国人だ。
彼女の心臓は早鐘のように鼓動を打ち始めた。
母はこの時間が稼ぎたかったのだ。これならきっと裏口から裏手の森に逃げ込む事ができる。
父は朝の作業を終えて家に居るはずだ。彼女はそんな事を考えながら身を硬くした。
5人の男達は並んで家の方へ向かって歩き始めた。
2018.08.29
2023.08.08 シリーズ化にあたって若干の修正
彼女は覚えのある名前に顔を上げた。
Nの町、市立図書館、閲覧室。
ちょうど柱の陰になって閲覧室のどこからも気配を消せる一番端っこの一席。
そこは彼女のくつろぎの場所だった。
学校で嫌なことがあると、時々授業をボイコットするのだが、そんな時の行き先は大概ここだ。
平日のまだ学校の授業の終わっていない時間帯、図書館を訪れる人は少なく、彼女が入室したときは閲覧室は無人だった。
「ラッキー」落ち込んでいた彼女は小さな幸運にかすかに顔をほころばせ、いつもの席に腰を下ろした。
そしていつものようにショルダーバッグの中から文庫本を取り出すと、いつものようにゆっくりとその世界に入り込んでいった。ジャケットも帯も無いむき出しの表紙には、3文字の片仮名の表題と作者名だけが印刷されている。プラチナブロンドのヒロインが登場する物語で、その髪色は彼女と同じだった。
彼女は一旦本の世界を出て耳を澄ませた。
「ここまで絞り込んでいるのに、なぜこんなに手間取るんだ」別の男の声が言った。日本語だが少し外国風の訛りがある。
男たちは閲覧室は無人だと思ってしゃべっている。彼女はそういう雰囲気を感じて、意識的に音を立てる動作をした。
「人目は惹くはずだ。なにしろプラチナブロンドの・・・」彼女の気配に気づいたのだろうか、男はそこで言葉を止めた。
彼女は立ち上がったところだったが“プラチナブロンド”に反応して男達の方へ顔を向けた。“プラチナブロンド”はまさに彼女の髪色だったからだ。
柱の向こうには5人の男が立っている。そのうちの1人はやや年配の外国人だった。仕立ての良い濃紺のスーツを身に付け、淡いブラウンの髪と彫りの深い顔、明るいブルーの瞳をこちらに向けている。後の4人は日本人のようだ。彼らも紺色のスーツをキッチリと着こなしているが、明らかにグレードが下だ。
彼らの視線が彼女の髪に注がれ、時間が静止する。
次の瞬間、視線を切った彼女は大急ぎで文庫本を閉じてショルダーバッグに突っ込み、彼らとは反対側の出口から早足で飛び出した。
「あ、君!」男達のうちの1人が呼び止めたが、彼女は振り返ることもなく階段を駆け下りた。
***
少し霞がかかった大気の向こう、海峡を挟んで平坦な小さな島が見える。
小型のボートでもあればすぐにでも辿りつけそうな島だが、実際には行くことはできない。
目の前に横たわる海峡の真ん中には事実上の国境線が引かれているのだ。現状ではあの島は外国ということになる。
彼は大きくため息をついた。
Nの町にやって来たのはもう何回目になるだろう。
始めて訪れたのは厳しい寒気の中だった。自分の仕事に行き詰まりを感じ、そういうときの決まり事のように孤独に北を目指したのが最初だった。
最果ての国境の町、そんな雰囲気に自分の心境をなぞらえて酔い、そして癒されよう、そんな気持ちが確かにあった。そして実際に彼は踏ん切りをつけ、元の世界に復帰したのだ。
彼はそれ以来、まとまった休暇が取れる度にこの町を訪れるようになった。だがそんなに何度も仕事に行き詰っていたわけではない。この町での思いもかけない出会いが彼にそうさせたのだ。
出会いはミステリアスだった。その少女は突然彼の前に現れ、そして消えた。言葉は交わさなかったが、彼女は彼の印象に強く残った。彼女はこの国では珍しいプラチナブロンドの髪を持ち、厳寒の中、ミニスカートから形の良い生足を晒していた。そんな特異な容姿は彼女をこの世のものではないように思わせ、その記憶は彼の頭から離れなくなった。
それ以来、彼は何度もこの町を訪れ、当てもなく町をうろついた。自分では町の雰囲気を楽しんでいるつもりだったし、確かにこの最果ての地が気に入っていたのだが、心の奥底には少女との再会を望んでいる自分がいた。探偵のように資料の調査をしたり、町で聞き込みをしたり、精力的に探し出すつもりはなかったが、偶然にでも見かけたら・・・無意識にそういう出会いを望んでいた。
だがそんな偶然は起こらなかった。いつの間にか少女との再会は彼の中で比重を薄め、近隣の観光地にも足を延ばすようになった。
前回まではNの町の中は徒歩で巡り、バスで近場の観光地へ行くというパターンを繰り返していたが、今回はレンタカーを借りている。せっかくここまで来たんだ。他の観光地も巡らなければもったいない。そんなふうに考えは変わっていた。
彼は車に戻るとエンジンをかけ、Nの町に向けてスタートさせた。
最果ての町という別称が示すようにNの街は寂しい町だ。道路は広くとってあるが信号も少なく車も多くは無い。
彼は片手でハンドルを操作しながら気楽な様子で車を進めていたが、やがて信号につかまってゆっくりと停止した。
交差点の周りには比較的大きな建物――といってもせいぜい3階建だ――が余裕をもたせ過ぎな位の間隔を開けて並んでいる。この地方独特の閑散とした風景だが、このあたりが一応町の中心部ということになる。彼は信号が変わるのを待ちながら、何処ということも無く前方を見つめていた。
突然、前方の建物の間から人影が飛び出してきた。
こちらへ向かって走ってくる。
白いブラウスに胸元のリボン、紺のスカート。
時々見かける地元の高校の制服だ。
だが彼女が1歩踏み出す度に揺れる白い髪が目に入ると彼は大きく目を見開いた。
『彼女だ!』忘れもしない。厳寒の駅の待合室でストーブの向こうに見た顔だ。
あの時は妖精か、はたまた物の怪か、彼女の纏ったなんとも不思議な空気に圧倒されたのだが、今回は一般的な高校の制服を着ているせいか、妖しさは感じられない。ただ白い髪だけが違和感と共にその場から浮き上がって見える。
彼女は立ち止まった。
振り返って飛び出してきた建物の方を確認する。
その方向には誰もいない。
確認を終えると彼女はこちらを向いた。
目が合った。
一瞬の間があってから、彼女は彼の車に駆け寄り、後部座席のドアを開けて車内に身を滑り込ませた。素早くドアを閉める。
ドアの閉まる音と同時に建物の影から濃紺のスーツ姿の男達が飛び出してきた。
辺りを見回して探しているのは恐らく後部座席の彼女だ。
「出して」押し殺してはいるが澄んだ声が後部座席から聞こえた。
信号は青に変わっている。
「車を出して」もう一度彼女は命令した。
彼はゆっくりと車をスタートさせた。
バックミラーを確認すると、彼女はシートの間で姿勢を低くしている。
彼は男達の視線を避けるように出来るだけ道路の中央に寄って傍をすり抜けた。
サイドミラーには辺りを見渡す男達の姿があった。
車は加速を続け、やがて男達は視界から消えた。
暫く走るだけで街並みはどんどんまばらになり、右手に海が見え始める。もうとっくに泊まっているホテルは通り過ぎてしまった。どういう事情でこんなことになったのかさっぱり分からなかったが、彼は黙って車を進めた。
姿勢を低くしていた彼女が起き上がり背もたれに体を預けた。
彼女と目が合った。
バックミラーの端に写る顔はやはり彼女のものだ。白い髪は普通の白髪とは違って艶々と太陽光線を反射して美しい。色素の少ない灰色の虹彩もあの時と同じだったが、あの時のように息苦しさに襲われることはない。
「どちらまで?お客さん」冗談っぽく聞こえるように言ってみる。
「このまま、44号を真っ直ぐ」澄んだ声は方向だけを告げる。
彼女は彼が想像していた範囲からは外れない声を持っていた。
「道なりですね?」嬉しくなった彼は明るく答えたが、こちらからは質問しないことに決めた。質問を投げかけたとたん、消えてしまいそうな気がしたからだ。
暫く無言の時間が流れ、車の走行音だけが空間を埋めていく。
車は海から大きく入り込んだ入り江に架かる橋を渡り始めた。
「すみません」彼女は突然謝罪の言葉を口にした。
「いいよ。ちょっとびっくりしたけど」なんでもない・・・そういう調子が声に出るように彼は言った。
「・・・」ミラーの中で彼女は俯いている。
「駅の待合室で・・・」消え入るような声だったが彼にはそう聞こえた。
「え?」彼は思わず聞き返す。
「・・・」それっきり彼女は沈黙した。彼はまた物の怪でも取り憑いたのかとバックミラーを覗くが、ミラーに彼女の姿は無い。
慌てて振り向くと、彼女はミラー越しの視線を避けるようにシートの端に座っていた。
「消えてしまったのかと思った」彼がそう言うと彼女は顔を少しだけ緩ませた。
そしてそのまま会話は途絶えた。
やはり彼女だ。彼は確信した。
橋を渡るとN半島は終わる。国道44号線は大きなラグーンを右手に見ながら右に左に穏やかにカーブを描き、車は徐々に内陸に入って行く。
周りは見渡す限りの牧草地帯になった。ほとんど平坦で遮るものが何もないこの土地は、やはり相当な強風が吹くのだろう。風除けの柵が道路沿いに続いている。所々に残された森は防風林も兼ねるのだろう。人は大自然の真っただ中に放り出されたら、その計り知れない自然の力にねじ伏せられ純粋に感動するだろう。だがここの風景は違っている。一見自然に見える風景は全て人間が作り出したものだ。広大なこの風景に感動はしても、その中に一抹の寂しさのような物を感じるのは、時たま現れる捨てられたサイロや廃屋のせいだろうか?
ずっと無言で運転に専念していた彼が何か気の利いたことを言おうと口を開きかけた時「ここでいいです」彼女が口を開いた。
「え?ここ?」彼は唐突な指示に問い返した。
「あのバス停の所で」
少し先がT字路になっていてその角にバス停の標識が見えている。
彼はバス停の所で車を停めた。
「ありがとうございました」車を降りた彼女は改めて礼を言った。
慌てて彼も車を降りる。
「こんな所でいいの?」辺りに建物が無いことを気にしながら彼は尋ねる。
「家はすぐそこです」
「もう大丈夫なんだね?」彼は彼女が追われていたことに関連してそう尋ねた。
「はい、たぶん」
「家まで送って行こうか?」
彼女は無言で顔を左右に振ったが、ここでこのまま別れてしまう手は無い。「ちょっと待って」彼はドアを開け、助手席に放り込んであったデイバッグから名刺を取り出した。自分の連絡先をスマートに伝える方法を他に思いつかなかったのだ。少なくともここには会社携帯の番号や、仕事用だがメールアドレスも記載されている。
「何かあったら、ここへ連絡をください」グイと彼女の前に名刺を突き出すと、彼女もさすがに断れないと思ったのだろう「はい」とそれを受け取り、胸のポケットに仕舞った。
「ありがとうございました」もう一度深く頭を下げて礼を言うと、彼女はそのままクルリと背中を向け国道から南へ伸びる道を歩き始めた。
道は右にカーブしながら森の中に消えている。彼女の姿もやがて森の向こうに見えなくなった。そよ風に白い髪を揺らせて歩く様子はまるで妖精のようで、少なくとも物の怪のようには見えなかった。
とりあえず連絡先は伝えた。それにここまでわかれば彼女の家もすぐに探し出せる――彼女が妖精や物の怪の類でなければの話だが――ここでこれ以上踏み込むのはよそう。彼は後を追いたい衝動を抑えた。
それにしても、なぜ彼女は追われていたんだろう?
疑問は少しも解消されなかったが、彼はそれを振り払うように首を振ると、さっき通り過ぎた宿に向けて車をUターンさせた。
***
「ママ・・・」自分の声に驚いて彼女は目を開けた。
怖い夢を見た。
久しぶりに母の夢だった。昨日あんなことがあったからだろうか?彼女はベッドの上で起き上がった。
ヤドヴィガ、あの男は確かにそう言った。
母の名前だ。
母は普段その名前を名乗ることは無かった。だが、私の本当の名前はね・・・無くなる1年ほど前――まだ正常にコミニケーションが取れていた頃――に教えてくれた。聞き違えるはずはない。そしてこの国でしばしば耳にする名前ではない。彼女はその時はっきりと自分の母親の事だと感じたのだ。
プラチナブロンド、そうも口にしていた。プラチナブロンドは彼女の髪の色だが母もそうだったはずだ。普段は茶色に染めていたが、長く伸びてくると根元から白い部分が現れた。そして時々髪を茶色に染めながら、若い頃は彼女の髪と同じだったんだよ、と教えてくれた。
なぜ茶色にするの?至極当然な質問には答えが返ってくることはなかったけれど。
確かに人目は曳く、彼女は自分の経験にも反応して顔を向けてしまったのだ。
「あ、君!」彼等は彼女を追いかけてきた。どうするつもりだったのだろう。きっと重要な手がかりを見つけたと思ったのだ。母を探してこの町にやって来て、同じ髪色をした彼女を目にしたのだ。そう思わないはずがない。
ママ、あなたは何者なの?いったい何をしたの?小学4年生の時に心の病気で亡くなった母は、彼女にとって最後の数か月を除いて普通の母親だった。いったい何が起こったんだろう?彼女はベッドの向こうにある窓へ顔を向けた。
窓の向こうには朝の光を受けて牧草地が文字通り草色に輝き、草色と真っ青な空の境界線は森になっている。そこから彼女の家に向かって一本の灰色の道がまっすぐに続いていて、その灰色の道はやがて牧柵に遮られる。
この風景は、母と一緒に飽きるほど眺め続けてきた風景だ。母はよく家事をしながら牧柵の方をぼんやりと眺めていた。彼女は小さい頃は母の胸で、大きくなってからは寄り添って、ずっとそれに付き合ってきた。
それは母との楽しい思い出だったが、母に対する疑問が沸き上がった今、その風景はこれまでとは少し違って見える。
父は事情を知っているのだろうか?ここのところずっとすれ違いが続いている父に思いが及んだ時、彼女の思考は中断された。
それにしても昨日の彼の登場には驚いた。まさかあんなところで再会するとは夢にも思っていなかった。とっさに取った行動だったが、おかげで男達からは逃れられた。だがなぜあんなことを思いついたのか、なぜ躊躇なくあんなふうに行動できたのか、彼女には全くわからなかった。まるで何かに憑かれたようだった。
そうだ、彼女は立ち上がると鴨居にぶら下げた制服に歩み寄った。胸ポケットを探ると小さな紙片が触れる。指でつまんでそれを取り出す。
会社の名前、所属する部署、役職に続いて”須藤タカシ“そこにはそう記されている。
「タカシ・・・」ホッとした表情が浮かんだが、それは一瞬だった。
彼女は何かの気配を感じたのか、再び窓の方へ顔を向ける。
砂埃を立てながら、一本道を2台の車がやって来る。白い車とその後ろのシルバーの大きな車だ。
白い車は牧柵の前で止まり、続けて大きな車もその後ろで止まった。
白い車の助手席から1人の男が降りてきた。
彼女の目が大きく見開かれた。見覚えのある紺のスーツの男だ。
牧柵を開けるつもりのようだ。
男はゲートを開けにかかったが鍵が掛けられていて開かない。すぐ隣にある小さな扉が開くだけだ。
その仕組みは母が、亡くなる1年ほど前に父に頼んで作ってもらったものだ。
車がいきなり玄関先まで入ってくるのが怖い、あそこで車を降りて、そこからは歩いて来るようにしてほしい。夕食の席で父にそう頼んだのだ。
精神的に弱っていた母の頼みを父は断らなかった。日曜大工で牧柵に小さな扉を取り付け、ゲートには鍵を掛けた。
彼女はずっと柵を跨いで越えていたから――スカートを穿いている時でもだ――ゲートがどうなろうと関係なかったが。それ以降、郵便配達や宅配便はおろか来客すらもあそこからは歩いてやって来るようになった。文句を言われることもあったが、父は頑として聞き入れなかった。母が亡くなった後もそれは続いている。
彼女は男の様子を注意深く見守った。やがて白い車からもう2人、大きな車の運転席から1人同じ紺のスーツの男が降りてきてゲートのところで相談し、後方の大きな車に近寄った。窓が開き、暫くして1人の男が車を降りた。あの外国人だ。
彼女の心臓は早鐘のように鼓動を打ち始めた。
母はこの時間が稼ぎたかったのだ。これならきっと裏口から裏手の森に逃げ込む事ができる。
父は朝の作業を終えて家に居るはずだ。彼女はそんな事を考えながら身を硬くした。
5人の男達は並んで家の方へ向かって歩き始めた。
2018.08.29
2023.08.08 シリーズ化にあたって若干の修正
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彼女は足早に歩き続けたが、体は冷え切ったままだ。何も食べていないから、お腹の虫も鳴きっぱなしだ。
無性に腹が立って積った雪を蹴り上げる。
舞い上がった雪は風に流されて自分の顔にふりかかり、口の中にまで入り込んだ。可愛い顔も台無しだ。
彼女は服の袖でそれをグイと拭うと再び歩きだす。
正面に駅の建物が見え始めた。
思ったとおり駅には明かりが灯っていた。
彼女はプラチナの髪と白い肌を持っていた。この土地の住民は民族的に黒っぽい髪の者がほとんどだから、それはとてもよく目立った。たまに同じような髪色の者を見かけることはあっても、それは国境の海を越えてやって来る漁師や船員たちで、彼女のような少女はやはりとても珍しかった。
彼女はまだ中学2年生だったが、年相応の少女っぽさの中に、どこか魔物めいた妖艶な雰囲気を持っている。だがそれはその風貌ゆえだし、本人の本質とはまた別の次元の話だった。彼女は大人たちが勝手にそんな印象を持ち、それを自分の本質に上書きするのを酷く嫌っていた。
彼女の母親は海の向こうから国境を越えてやって来た。彼女と同じように白い肌を持っていたが、髪は赤茶色だった。父親はこの土地の出身で、髪は黒く肌の色も浅黒かったから、彼女が生まれた時にはとても驚いたと聞いたことがある(驚いたというよりも困惑したのではないかと彼女は思っている)。父親と母親がどのようにして結ばれたのかについては長い物語がある様子だったが、彼女はまだ聞いたことが無い。
その母は彼女が小学4年生の時に亡くなった。こちらの土地に馴染めず、心の病気になったのが原因だった。それ以来彼女は男手一つで育てられたが、よくあるように思春期を迎えた娘と、妻を亡くした男親の関係は上手くはいっていなかった。
昨日の夜の事だった。それはほんの些細ないさかいだったが、内容についてはもう忘れてしまった。それぐらいつまらない事だった。そのいさかいが引き金となって彼女の進路へと話が進み。そして決定的にこじれたのだ。
彼女の父親は典型的な農民であり保守的だったが、彼女はそうではなかった。2人はお互いに引っ込みがつかなくなり言い争った。
やがて彼女はふてくされて自分の部屋に籠り、父親はヤケ酒をあおり、仕事の疲れもあってグッスリと眠ってしまった。こっそりと部屋を出た彼女に気がつかないほどに。自分の背中にそっと毛布を掛けられても気がつかないほどに。
彼女の行きたかったKの町へ向かうバスはもう運行を終えていた。あと残っているのはNの町方面へ向かう最終便だけだ。毎日通学に使っているし、本数も極端に少ないので時刻表は頭に入っている。
自暴自棄になって飛び出してきてしまったが、この格好は寒すぎた。上半身はオフホワイトのダウンジャケット、頭はフード、足元はショートブーツにハイソックスだから一応は大丈夫だ。ただお気に入りのミニスカートの下の生足が失敗だった。そこから体温が奪われ、凍えてしまいそうだ。彼女はバス停でバスが来るのを今か今かと待ち構えた。
2つの大きなヘッドライトが近づいてくる。バスだ。誰も乗っていない。ウィンカーを点滅させ路肩に寄ってくる。ドアが開いた。運転士の顔が驚いているように見える。彼女は生き返るような気持ちで、暖房の効いた車内へのステップを上がった。
Nの町は本当に最果てだ。正直に言って何も無い。バスのターミナルの待合室で粘ったが、暫くして鍵を閉める様子だったので目立つ前に外に出た。
街中でも凍える寒さだ。暗い町には粉雪が舞っていて、誰も歩いてはいない。商店も閉まっているから何かを食べることはおろか、温まることもできない。開いている店も中学生が入れるような店は一軒も見当たらない。貯めていたお小遣いを全部持ち出したからお金には不自由はないが、中学生が1人ではホテルに泊まることもできない。交番に駆け込めばなんとかなるだろうが、それでは何のために飛び出してきたのかわからなくなる。彼女にも意地があった。
彼女は空腹を抱えたまま町を彷徨ったあげく、風を避けるために電話ボックスに避難した。辺りを歩く人もいないので、かまうことは無い。しゃがみこんで太ももをダウンジャケットの中に抱え込む。それでも寒さと空腹は容赦なく襲ってくる。
彼女は自分が何をしたのか、何をしようとしているのかわからなくなった。
このまま眠ったら死んでしまうのだろうか。そんなことを考えながらウトウトしていると、内ポケットの携帯がコール音を鳴らし始めた。
父親の名前が表示されている。時間を見ると午前3時過ぎだ。父親は仕事を始めるために午前3時には起床する。たぶん目が覚めて彼女が居なくなっていることに気がついたのだろう。携帯はコールを止めない。彼女はあわてて電源を切った。
自分が心配されていることがわかって彼女は嬉しかったが、頑なな心はまだ開かない。心拍数が上がって寒さが遠のいたように思えたのは一時的なものだった。彼女は奥歯を鳴らしながら時の過ぎるのを待った。
どれぐらい経ったのだろう、彼女は列車の音が聞こえたような気がして目を開けた。一瞬自分の部屋のベッドに居る錯覚に陥ったが、ここはやはり電話ボックスの中だ。
『幻聴?』それは早朝寝床で時折聞く列車の音だった。彼女の家から線路までは相当に離れているが、辺りが静かなこともあって、気象条件によっては聞こえてくることがあるのだ。
『列車?そう言えば・・・』彼女は考えを巡らせる。聞こえるのはいつも6時ごろだから、5時過ぎにNの町を出る列車があるはずだ。
彼女は時計を見た。時間は午前5時になろうとしている。
『駅へ行こう。始発列車があるんだから、駅の待合はもう開いているだろう。その列車でKの町まで行けばなんとかなるかも・・・』彼女は微かな希望を得たような気になって立ち上がった。
思ったとおり駅には明かりが灯っていた。
二重になった入口の引き戸を開けて待合室に入ると、ストーブがゴウゴウと音を立てている。
先客がいた。旅行者風の青年だ。彼女は彼とストーブを挟んで反対側に腰掛けると、覗き窓の中で吹き上がるオレンジ色の炎に凍える手をかざした。
指先にしびれるような感覚が戻ってから、頭を被っていたフードを下ろす。
一瞬彼が目を見開いたように見えたがいつものことだ。彼女は受け流すとストーブに体を寄せ、青年を観察した。
無精ひげに覆われていて表情は読みにくいが、細面で精悍な印象だ。
カーキ色のブルゾンを着て、ジーンズにトレッキングシューズを履いている。横に置いたリュックサックはそれほど重装備でない上に、身につけている物があか抜けているから、どこか南の方の大都会に住んでいるに違いない。
彼はそこでどんな生活を送っているんだろう?想像は膨らみ、そこで生活している自分の姿が浮かんでくる。
青年と目が合った。
彼女の鼓動が早くなる。
彼女は慌てて目を逸らし、観察を中断した。
青年も何気ないそぶりで改札口の方へ顔を向けた。
彼女も観察されていたようだ。どのような印象を持たれたのか彼女には想像がついたが、こんなことをいちいち気にしていてはやっていられない。
「5時30分発の改札を始めま~す」駅員が改札口に立って声をあげた。
青年が立ち上がって改札口へ向かう。
彼女は敢えて青年には目を向けず、ストーブにかざした自分の手をじっと見つめていた。
ホームに入ると青年はカメラをかまえ列車の撮影をしている。
彼女は彼が後ろを向いているうちに列車に乗り込み、一番後ろの席に腰掛けた。
間もなく地元民と思われるの乗客達が10人程乗り込んできて、車内は少し賑やかになった。
駅員が待合室を確認してから改札を閉じると、青年も慌てた様子で乗り込んで、一番前の席に座った。
ブザーが鳴りドアが閉じられる。
重々しいエンジン音が響き、列車は動き始めた。
車内は暖房が効いていて暖かい。人心地がついた彼女は激しい眠気に襲われた。だが、それに対抗するかのように空腹感も大きくなり、そのまま眠りに落ちることができない。
このまま2時間と少しこの列車に乗っていれば、大きな町へ辿り着く。
さっきまでは辿り着けさえすればなんとかなると考えていた。
だがとりあえず人心地がついた今、空腹と同時に彼女が感じ始めたのは絶望?『いや、違う』彼女は即座にそれを否定した。そんな悲壮感はなかったからだ。
そう、それは絶望というよりも諦めだった。
力不足だということは頭の中では理解していたつもりだったのに、昨夜はどうしてもやらなくちゃいけないと思ったのだ。
だが、突発的であったにせよ行動したことによって、彼女は現実というものを赤裸々に見せつけられた。
今の自分ではどこへも行けないし、どうにもならない。このまま無理やり進んでも破綻が待っているのは明らかだった。悔しかったが今はそれを認めざるを得ない。
地平線のあたりが、ほんのりと明るくなり始めていた。夜明けが近づいている。
列車は薄明かりの中を疾走し、やがて駅に停車した。
何も無い、誰も乗らない、そして誰も降りない、うす闇に包まれた荒野の中に、小さな街灯と箱のような待合室だけがポツンとある小さな駅だ。
決断を下すのにもう時間的余裕は無い。
この鉄道は最果ての港町Nの町と、この地域の中核都市Kの町とを結んでいる。道路が未発達の時代は物資を輸送する唯一の手段として、町や集落が近くにあれば駅が作られ、多くの人が利用した。また厳寒期には、入植者達の生命線にもなった。
だが、やがて産業構造が変化して人口が減少すると集落は捨てられ、道路網が発達して鉄道を利用する人がいなくなると駅の周辺には何も無くなった。
廃止案も何度か浮上したが、国境の町への唯一の鉄路であることから辛うじて存続しているというのが現状だ。
『よし!』彼女は覚悟を決めると、席から立ち上がって通路を進んだ。一番前の席に座っている青年と一瞬だけ目が合ったが、彼は戸惑うように視線を外した。
『うん、大丈夫』彼女は自分の気持ちに整理がついている事を確認した。
運転席の後ろに置かれている運賃箱に切符を入れ、ドアボタンを押してドアを開ける。そして粉雪の舞うホームへ降りた。プラチナの髪が風に巻かれ、スカートから突き出した白い太ももが凍えそうだ。
車内の青年は首を伸ばすようにして辺りの様子を見渡している。
ぼんやりと明るくなり始めているホームの向こうはずっと原野が続いていて、その遙か先は森だ。
反対側もずっと原野で、その向こうは海だ。
辺りには人工物は何もない。雪に埋もれていて道すらはっきりとしない。
青年は今にも降りてきそうな勢いで腰を浮かせる。
彼女は一瞬ドキリとしたが、ドアが閉じられると小さく安堵した。
列車が動き始める。
青年が腰を浮かせたままこちらを見ている。
彼女は青年から目をそらし、あらぬ方向に視線を向けた。
風が舞い、それにつれて雪が舞い、彼女の髪が舞う。
列車はスピードを上げ、どんどんと遠ざかる。
赤いテールライトが点のように小さくなってから、彼女は携帯を取り出した。
電源を入れると何通ものメールが受信される。すべて父親からの安否確認のメールだ。着信も何度も記録されている。
彼女は暫くの間それを眺めてから、かじかむ指で『今、U駅に着いた』とメールを入力し、父親宛に発信する。
すぐにメール受信のコールが鳴る。父親からだ。
『すぐ迎えに行くそこにいろ』慌てて打ち込んだ様子が思い浮かぶ。彼女は安心感を覚えたが、それには悔しさも混じっている。
彼女は待合室には入らず、そのままホームで待つことにした。
15分ほど経っただろうか?意地を張ったことを後悔するほど凍えたころ、薄明の中に2つのヘッドライトが現れた。
本来は牧草地である荒野の中の一本道を速度を上げて走ってくる。デコボコの路面に激しく揺さぶられているがお構いなした。
やがて十字路に差し掛かり、駅の方へ方向を変えた。
聞き覚えのあるエンジン音と、壊れそうなサスペンションの軋み音が聞こえ始めた。
2017.12.02
2023.08.07 シリーズ化にあたって若干の修正
無性に腹が立って積った雪を蹴り上げる。
舞い上がった雪は風に流されて自分の顔にふりかかり、口の中にまで入り込んだ。可愛い顔も台無しだ。
彼女は服の袖でそれをグイと拭うと再び歩きだす。
正面に駅の建物が見え始めた。
思ったとおり駅には明かりが灯っていた。
彼女はプラチナの髪と白い肌を持っていた。この土地の住民は民族的に黒っぽい髪の者がほとんどだから、それはとてもよく目立った。たまに同じような髪色の者を見かけることはあっても、それは国境の海を越えてやって来る漁師や船員たちで、彼女のような少女はやはりとても珍しかった。
彼女はまだ中学2年生だったが、年相応の少女っぽさの中に、どこか魔物めいた妖艶な雰囲気を持っている。だがそれはその風貌ゆえだし、本人の本質とはまた別の次元の話だった。彼女は大人たちが勝手にそんな印象を持ち、それを自分の本質に上書きするのを酷く嫌っていた。
彼女の母親は海の向こうから国境を越えてやって来た。彼女と同じように白い肌を持っていたが、髪は赤茶色だった。父親はこの土地の出身で、髪は黒く肌の色も浅黒かったから、彼女が生まれた時にはとても驚いたと聞いたことがある(驚いたというよりも困惑したのではないかと彼女は思っている)。父親と母親がどのようにして結ばれたのかについては長い物語がある様子だったが、彼女はまだ聞いたことが無い。
その母は彼女が小学4年生の時に亡くなった。こちらの土地に馴染めず、心の病気になったのが原因だった。それ以来彼女は男手一つで育てられたが、よくあるように思春期を迎えた娘と、妻を亡くした男親の関係は上手くはいっていなかった。
昨日の夜の事だった。それはほんの些細ないさかいだったが、内容についてはもう忘れてしまった。それぐらいつまらない事だった。そのいさかいが引き金となって彼女の進路へと話が進み。そして決定的にこじれたのだ。
彼女の父親は典型的な農民であり保守的だったが、彼女はそうではなかった。2人はお互いに引っ込みがつかなくなり言い争った。
やがて彼女はふてくされて自分の部屋に籠り、父親はヤケ酒をあおり、仕事の疲れもあってグッスリと眠ってしまった。こっそりと部屋を出た彼女に気がつかないほどに。自分の背中にそっと毛布を掛けられても気がつかないほどに。
彼女の行きたかったKの町へ向かうバスはもう運行を終えていた。あと残っているのはNの町方面へ向かう最終便だけだ。毎日通学に使っているし、本数も極端に少ないので時刻表は頭に入っている。
自暴自棄になって飛び出してきてしまったが、この格好は寒すぎた。上半身はオフホワイトのダウンジャケット、頭はフード、足元はショートブーツにハイソックスだから一応は大丈夫だ。ただお気に入りのミニスカートの下の生足が失敗だった。そこから体温が奪われ、凍えてしまいそうだ。彼女はバス停でバスが来るのを今か今かと待ち構えた。
2つの大きなヘッドライトが近づいてくる。バスだ。誰も乗っていない。ウィンカーを点滅させ路肩に寄ってくる。ドアが開いた。運転士の顔が驚いているように見える。彼女は生き返るような気持ちで、暖房の効いた車内へのステップを上がった。
Nの町は本当に最果てだ。正直に言って何も無い。バスのターミナルの待合室で粘ったが、暫くして鍵を閉める様子だったので目立つ前に外に出た。
街中でも凍える寒さだ。暗い町には粉雪が舞っていて、誰も歩いてはいない。商店も閉まっているから何かを食べることはおろか、温まることもできない。開いている店も中学生が入れるような店は一軒も見当たらない。貯めていたお小遣いを全部持ち出したからお金には不自由はないが、中学生が1人ではホテルに泊まることもできない。交番に駆け込めばなんとかなるだろうが、それでは何のために飛び出してきたのかわからなくなる。彼女にも意地があった。
彼女は空腹を抱えたまま町を彷徨ったあげく、風を避けるために電話ボックスに避難した。辺りを歩く人もいないので、かまうことは無い。しゃがみこんで太ももをダウンジャケットの中に抱え込む。それでも寒さと空腹は容赦なく襲ってくる。
彼女は自分が何をしたのか、何をしようとしているのかわからなくなった。
このまま眠ったら死んでしまうのだろうか。そんなことを考えながらウトウトしていると、内ポケットの携帯がコール音を鳴らし始めた。
父親の名前が表示されている。時間を見ると午前3時過ぎだ。父親は仕事を始めるために午前3時には起床する。たぶん目が覚めて彼女が居なくなっていることに気がついたのだろう。携帯はコールを止めない。彼女はあわてて電源を切った。
自分が心配されていることがわかって彼女は嬉しかったが、頑なな心はまだ開かない。心拍数が上がって寒さが遠のいたように思えたのは一時的なものだった。彼女は奥歯を鳴らしながら時の過ぎるのを待った。
どれぐらい経ったのだろう、彼女は列車の音が聞こえたような気がして目を開けた。一瞬自分の部屋のベッドに居る錯覚に陥ったが、ここはやはり電話ボックスの中だ。
『幻聴?』それは早朝寝床で時折聞く列車の音だった。彼女の家から線路までは相当に離れているが、辺りが静かなこともあって、気象条件によっては聞こえてくることがあるのだ。
『列車?そう言えば・・・』彼女は考えを巡らせる。聞こえるのはいつも6時ごろだから、5時過ぎにNの町を出る列車があるはずだ。
彼女は時計を見た。時間は午前5時になろうとしている。
『駅へ行こう。始発列車があるんだから、駅の待合はもう開いているだろう。その列車でKの町まで行けばなんとかなるかも・・・』彼女は微かな希望を得たような気になって立ち上がった。
思ったとおり駅には明かりが灯っていた。
二重になった入口の引き戸を開けて待合室に入ると、ストーブがゴウゴウと音を立てている。
先客がいた。旅行者風の青年だ。彼女は彼とストーブを挟んで反対側に腰掛けると、覗き窓の中で吹き上がるオレンジ色の炎に凍える手をかざした。
指先にしびれるような感覚が戻ってから、頭を被っていたフードを下ろす。
一瞬彼が目を見開いたように見えたがいつものことだ。彼女は受け流すとストーブに体を寄せ、青年を観察した。
無精ひげに覆われていて表情は読みにくいが、細面で精悍な印象だ。
カーキ色のブルゾンを着て、ジーンズにトレッキングシューズを履いている。横に置いたリュックサックはそれほど重装備でない上に、身につけている物があか抜けているから、どこか南の方の大都会に住んでいるに違いない。
彼はそこでどんな生活を送っているんだろう?想像は膨らみ、そこで生活している自分の姿が浮かんでくる。
青年と目が合った。
彼女の鼓動が早くなる。
彼女は慌てて目を逸らし、観察を中断した。
青年も何気ないそぶりで改札口の方へ顔を向けた。
彼女も観察されていたようだ。どのような印象を持たれたのか彼女には想像がついたが、こんなことをいちいち気にしていてはやっていられない。
「5時30分発の改札を始めま~す」駅員が改札口に立って声をあげた。
青年が立ち上がって改札口へ向かう。
彼女は敢えて青年には目を向けず、ストーブにかざした自分の手をじっと見つめていた。
ホームに入ると青年はカメラをかまえ列車の撮影をしている。
彼女は彼が後ろを向いているうちに列車に乗り込み、一番後ろの席に腰掛けた。
間もなく地元民と思われるの乗客達が10人程乗り込んできて、車内は少し賑やかになった。
駅員が待合室を確認してから改札を閉じると、青年も慌てた様子で乗り込んで、一番前の席に座った。
ブザーが鳴りドアが閉じられる。
重々しいエンジン音が響き、列車は動き始めた。
車内は暖房が効いていて暖かい。人心地がついた彼女は激しい眠気に襲われた。だが、それに対抗するかのように空腹感も大きくなり、そのまま眠りに落ちることができない。
このまま2時間と少しこの列車に乗っていれば、大きな町へ辿り着く。
さっきまでは辿り着けさえすればなんとかなると考えていた。
だがとりあえず人心地がついた今、空腹と同時に彼女が感じ始めたのは絶望?『いや、違う』彼女は即座にそれを否定した。そんな悲壮感はなかったからだ。
そう、それは絶望というよりも諦めだった。
力不足だということは頭の中では理解していたつもりだったのに、昨夜はどうしてもやらなくちゃいけないと思ったのだ。
だが、突発的であったにせよ行動したことによって、彼女は現実というものを赤裸々に見せつけられた。
今の自分ではどこへも行けないし、どうにもならない。このまま無理やり進んでも破綻が待っているのは明らかだった。悔しかったが今はそれを認めざるを得ない。
地平線のあたりが、ほんのりと明るくなり始めていた。夜明けが近づいている。
列車は薄明かりの中を疾走し、やがて駅に停車した。
何も無い、誰も乗らない、そして誰も降りない、うす闇に包まれた荒野の中に、小さな街灯と箱のような待合室だけがポツンとある小さな駅だ。
決断を下すのにもう時間的余裕は無い。
この鉄道は最果ての港町Nの町と、この地域の中核都市Kの町とを結んでいる。道路が未発達の時代は物資を輸送する唯一の手段として、町や集落が近くにあれば駅が作られ、多くの人が利用した。また厳寒期には、入植者達の生命線にもなった。
だが、やがて産業構造が変化して人口が減少すると集落は捨てられ、道路網が発達して鉄道を利用する人がいなくなると駅の周辺には何も無くなった。
廃止案も何度か浮上したが、国境の町への唯一の鉄路であることから辛うじて存続しているというのが現状だ。
『よし!』彼女は覚悟を決めると、席から立ち上がって通路を進んだ。一番前の席に座っている青年と一瞬だけ目が合ったが、彼は戸惑うように視線を外した。
『うん、大丈夫』彼女は自分の気持ちに整理がついている事を確認した。
運転席の後ろに置かれている運賃箱に切符を入れ、ドアボタンを押してドアを開ける。そして粉雪の舞うホームへ降りた。プラチナの髪が風に巻かれ、スカートから突き出した白い太ももが凍えそうだ。
車内の青年は首を伸ばすようにして辺りの様子を見渡している。
ぼんやりと明るくなり始めているホームの向こうはずっと原野が続いていて、その遙か先は森だ。
反対側もずっと原野で、その向こうは海だ。
辺りには人工物は何もない。雪に埋もれていて道すらはっきりとしない。
青年は今にも降りてきそうな勢いで腰を浮かせる。
彼女は一瞬ドキリとしたが、ドアが閉じられると小さく安堵した。
列車が動き始める。
青年が腰を浮かせたままこちらを見ている。
彼女は青年から目をそらし、あらぬ方向に視線を向けた。
風が舞い、それにつれて雪が舞い、彼女の髪が舞う。
列車はスピードを上げ、どんどんと遠ざかる。
赤いテールライトが点のように小さくなってから、彼女は携帯を取り出した。
電源を入れると何通ものメールが受信される。すべて父親からの安否確認のメールだ。着信も何度も記録されている。
彼女は暫くの間それを眺めてから、かじかむ指で『今、U駅に着いた』とメールを入力し、父親宛に発信する。
すぐにメール受信のコールが鳴る。父親からだ。
『すぐ迎えに行くそこにいろ』慌てて打ち込んだ様子が思い浮かぶ。彼女は安心感を覚えたが、それには悔しさも混じっている。
彼女は待合室には入らず、そのままホームで待つことにした。
15分ほど経っただろうか?意地を張ったことを後悔するほど凍えたころ、薄明の中に2つのヘッドライトが現れた。
本来は牧草地である荒野の中の一本道を速度を上げて走ってくる。デコボコの路面に激しく揺さぶられているがお構いなした。
やがて十字路に差し掛かり、駅の方へ方向を変えた。
聞き覚えのあるエンジン音と、壊れそうなサスペンションの軋み音が聞こえ始めた。
2017.12.02
2023.08.07 シリーズ化にあたって若干の修正
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